Hole 2~立夏の夜雨、女は黒い年貢を納める(その3)
翌日、九日の土曜日。第二ピリオドの授業が終わった十二時十五分。昨日とは打って変わり、外は関東地方上空で急激に発達した低気圧の影響により、弱い雨がしとしと降っている。おそらく今日のナイトゲームは中止だろう。
「珠子先生は? 今日も説得するんだろ」
「うん。そう思ったんだけどさぁ、はらみーは県の教育センターで研修があるとかで夕方まで浦和にいるんだってさ」
舞の思わぬ言葉におれは言葉を失なう。
「どういうことだよ?」
「うん。実は一昨日から今日まで午後まるまる浦和で研修なんだって……」
一昨日から今日まで、電車では無くルノー5で学校に来ていたのはそのためだったのか。
「だったらトンちゃん。やることは一つだよね」
「はぁ?」
十五時三十分。おれと舞は電車とバスを乗り継ぎ、浦和市三室の埼玉県立総合教育センターの正門前に傘を差した状態で立っている。
「とまぁ、お前の勢いに引っ張られてここまで来たわけだが、次の手は考えているのか?」
「ううん。でも、今から中に乗り込んではらみーを探し出す」
「いや、それはダメだろ」
おれは舞の無茶な提案を却下する。
「どうして?」
「おれたちは部外者だ。お前は制服姿だし、おれは小手指総合始まって以来の『レアケース』で、お偉方にも面が割れている筈だ。そんなおれたちが敷地内に闖入して研修中の部屋に乗り込んだらちょっとした騒ぎになるぞ」
「だったら何かアイディアでもあるの?」
「無い」
「ほらやっぱり。人の提案を却下するなら対案を用意してよね」
「もし説得するなら、珠子先生の乗った車が正門を出た瞬間を狙うしか無いだろ。ほら見てみろよ。あそこに珠子先生の車が駐車しているから、車が動き出したらおれたちも動き出そう」
おれは右手の駐車場に停まっている数多の国産車の中でひときわ異彩を放っている小さなフランス車を指差すと、舞は仕方が無いと言わんばかりに黙ってこくこくと頷く。
教育センターは外から見た限り、どこにでもある中学や高校の校舎のような建物であることから、おそらく廃校を転用したのだろう。周囲は一戸建てやアパートが建ち並んでいる住宅街で、時折傘を差した地域住民と思しき人がおれたちを怪訝そうな目で一瞥しては、目の前を通り過ぎていく。
「ねぇトンちゃん……」
雨音しかしない中、舞が沈黙を破る。
「うん」
「今好きな子とか、気になる子っている?」
この女はいきなり何を言い出すのだ。
「何だよいきなり」
「ほら、女の子だらけの環境に一ヶ月いるたんだから、そろそろ誰かいるのかなぁって……」
「ああ、そのことなんだけどな。入試の時、『カワイイ女囲ってハーレム作って、ちゅっちゅしたりここでは言えないようなエロいことをする』って言ったの、あれ取り消すわ」
「どうして?」
「これは舞、お前にしか言えないことだけどさ、おれも入学前は中高生向けのマンガや小説のような甘酸っぱい学校生活が待っているかも知れないみたいな淡い期待を抱いていたんだけど、いざ女子に囲まれると圧倒されちゃって、意外と何も出来なかったりするんだよ。それに、おれは一度全校生徒を敵に回しかけたからな。今思えば、もしトレーナーの二人のフォローが無かったらと思うと怖くてしょうがない」
「トンちゃん、それって答えになってないよ」
「そうかな。学校生活のすべてがおれの想像を超えていて、彼女作る余裕は無いよ。って言うか、おれたちも高校生になったことだし、ちょうどいい機会だから聞いてみたいんだけど……」
おれは軽く深呼吸して息を整える。
「これは他の女の子には怖くて聞けないんだけどさ……あの……その……もし仮に、仮にの話だけど、おれと誰かが付き合うことになったとして、相手の女の子はその……女の子も付き合っている男に対して能動的にエロいことをしたいと思うものなのか? いや、ごめん。答えたくなかったら答えなくてもいい。本当に女の子が普段何を考えているのか、素朴な疑問で訊いただけだから」
舞は何かを考えているかのような素振りを見せつつ、教育センターの敷地をじっと見つめている。今の質問は、舞を怒らせてしまっただろうか。
「トンちゃん……ワタシはまだ男の子と付き合ったことも、エロいことをしたことも無いから分からないけど……」
舞は一旦口を閉ざすと、おれの正面に向き合い、生唾を飲み込むような仕草を見せ、こう答える。
「もしワタシが男の子と付き合うことになったら、遅かれ早かれその男の子とエロいことをしたいと思うよ。あのっ、まだそうなったことが無いからいざそうなったらどうなるか分からないし、心の準備が出来てない状態でそんなことになりかけたら張り倒すかも……」
「そっか。これで男子校時代の疑問がクリアになったよ……って、見てみろよ。珠子先生が出てきたぜ」
おれはルノー5に乗り込まんとする珠子先生を指差す。
「えっ、ウソ! どれどれ……って、ホントだ。どうする? どうする?」
「兎に角、敷地から出てきたところを狙って車を止める」
「できるの?」
「ここは住宅地で道も狭い。スピードだって出せないはずだから、たぶん大丈夫。それより、お前は車が停まったら珠子先生を説得な」
「う、うんっ」
おれは道路の真ん中に立つと、両手両足を大の字に広げ、敷地から出て左折したばかりのルノー5の前に立ちはだかる。フロントガラス越しに、急ブレーキをかけた珠子先生の驚く顔が見える。舞はすかさず運転席の窓をノックし、窓を開けさせることに成功する。
「はらみーお願い。はらみーが顧問になってくれなきゃ予算も承認してもらえないし、大会にも出られない。お願い。ワタシたちは試合がしたいの」
舞は前かがみになって珠子先生への最後の説得を始める。しかし、同じく教育センターから出て来た後続の車数台からクラクションが聞こえてくる。
運転席の窓が閉まると、ルノー5はゆっくりと人が歩くほどの速さで動き出し、おれの方に近付いて来る。おそらく『後続の車もいるから道を開けろ』と言う珠子先生からの無言のメッセージだろう。後続の車の運転手はおそらく珠子先生と同様、研修を受けに来た他の高校の教師だろうか。交渉決裂。ここで変なトラブルを起こして学校に連絡が行くのはまずい。やむなくおれは道路の端に寄り、ルノー5を含む数台の車をやり過ごす。
「トンちゃん、走るよ」
「へっ?」
「いいから。道なりを走った先の県道との交差点のところまでダッシュね。行くよっ」
「お、おい、待てって」
おれは慌てて舞の背中を追う。舞はルノー5が右折したのを確かめると、交差点で信号待ちしているタクシーの窓ガラスをノックし、ドアが開くと同時に車内に滑り込む。おれも舞の後に続いてタクシーに乗り込む。
「運転手さん、今教育センターの方から出て来たあの白いフランス車を追って!」
「は、はぁ……」
刑事ドラマのワンシーンのような舞の指示に運転手は戸惑いを隠さないまま自動ドアを閉め、タクシーを発車させる。
「説得が失敗したのにまだ追い掛けるのか?」
呼吸が落ち着いたおれは、タオルで濡れた頭を拭きながら右隣に座る舞に話し掛ける。
「おかしいと思わない?」
「どういうことだ?」
「どう考えてもおかしいじゃない。名義だけ貸してくれれば何もしなくてもいいのに、あそこまで嫌がるということは絶対裏に何かあるとは思わない?」
言われてみたら確かにそうだ。どうして珠子先生はそこまでして部活の顧問になることを拒み続けているのだろう。
「確かに何か事情はあるのかも知れないけど、それでも珠子先生は拒んだんだろ。たぶんこれから所沢に戻るんだろうから、おれたちを乗せてくれてもいい筈なのに、それすらしなかったんだから、絶対無理だろ」
「そこだよトンちゃん。ワタシたちを乗せなかったのはその逆だよ。もしワタシたちが車に乗ったら、ワタシとトンちゃんからの強い説得で心が揺らいじゃうって思ったから車に乗せなかったんだよ。だからあともうひと押しだよ」
「お前なぁ、どんだけポジティブシンキングなんだよ」
おれは少し呆れつつ、軽く溜息をつく。
「あのぅ……お客さん。追いかけて欲しいって言ってた前のルノーなんですけど、お客さんたちは所沢に向かいそうだとおっしゃってましたけど、新大宮バイパスに入ろうとしてますよ」
「えっ?」
おれはフロントガラスの向こうでブレーキランプと左ウインカーを点灯させて信号待ちしているルノー5を見つめる。同じ視界の中に、既に千円を超えたメーターの存在を認識する。ここを左折すると言うことは、このまま東京都内に向かう可能性がかなり高いことを意味する。ここは財布の中身も考え、追跡を諦めて最寄りの北浦和駅に行先を変更すべきだと言おうとし、舞の方を見た刹那、舞は何を誤解したのか、口元に軽い笑みを浮かべながら大きく頷くと「運転手さん、大丈夫ですからそのまま追跡を続けて下さい」と声を掛ける。
ルノー5は新大宮バイパスに入ると右車線を走り、戸田南入口から首都高速に入る。首都高速に入ると少しずつスピードを上げ、すぐさま県境である荒川を超え、都心方面へと向かっている。追跡している相手はフランス製の小型車、おれたちが乗っているタクシーは国産3ナンバーのLPG車なので、車の性能差で引き離されることは無い筈だ。タクシーの運転手は空気を察知したのか、それともこの状況を楽しんでいるのかは分からないが、ルノー5とはつかず離れずの車間距離を保ったまま竹橋ジャンクションから都心環状線内回りの千代田トンネルの中に入ると、トンネルの中にある三宅坂ジャンクションから四号新宿線に入り、地上に出るとすぐさま左車線に移動し、そのまま外苑出口で一般道に降りる。
「なぁ舞……ここって……」
おれは舞と水曜日に交わした、ヤクルト‐中日戦を観戦する約束を思い出す。
「神宮球場の近くだね。まぁ、この雨じゃどうせ試合は中止だろうけど。それに、埼玉県の高校教師が都内にいったい何の用事があるんだろう」
舞は右側に見える神宮球場の照明を一瞥する。
「いや、ちょっと待って。はらみーの車、神宮球場の駐車場に入っていくよ。運転手さん、ここでいいです。止めて下さい」
神宮球場の東側の入口に到達した時点で、タクシーのメーターは一万二千円を超えているが、舞は鞄から財布とペンケースを取り出し、財布から現金ではなくメモ帳のようなものを出すと、ボールペンでそこに何かを書き込み、紙を一枚引き剥がして運転手に手渡す。どういう仕組かは良く分からないが、どうやらあの紙がタクシー料金の代わりらしい。
「じゃ、降りるよ。トンちゃん、さっさと降りて」
「あ、ああ……」
おれがタクシーから降りると、引き続き舞がタクシーから降りる。神宮球場付近の雨脚は所沢や浦和と変わりなく、弱い雨がしとしと降り続けていた。