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Hole 1~穀雨の午後、ドラフトの指名を受ける(その2)

 おれと兎川みとは航空公園駅東口ロータリーからタクシーに乗り込むと、兎川みとは「武蔵学園の近くまでお願いします」と運転手に行き先を告げる。武蔵学園とは国立の障害者施設だ。

「どこに行くんですか?」

 片側二車線の並木通りの左車線を東向きに走っている車中でおれはみとに話しかける。

「ああ、君に見せたいものがあってね」

「何です?」

「行ってみれば分かるよ」

 兎川みとは意味ありげな笑みを浮かべながら答えると、前を見つめたまま黙りこくる。

 タクシーが航空管制部前の変則十字路を左折し、すぐさま右折して学園通りに入り、少し走ると、左手に武蔵学園が見えてくる。

「そのまま敷地内に入りますか?」

「いや、そこの『若松ゴルフセンター』の前で止まってもらえますか?」

 運転手と兎川みとの会話で、おれは彼女の本当の目的地が何かに気付く。畑の真ん中でひときわ高くそびえるグリーンのネット。おれが小学生の頃、よく父親に連れられていたゴルフ練習場・若松ゴルフセンター。ここを訪れるのは小学校六年生の三学期以来、三年以上ぶりだ。まさかゴルフの練習に付き合って欲しい訳ではあるまい。

「みとさーん、ゆうくーん! こっちこっち!」

 タクシーを降り少し歩くと、若松ゴルフセンターの入口の前で十亀亜佐美がおれたちに向かって手を振っているのが見える。

「亜佐美、無理に付き合わせちゃって悪いな」

「いいっスよ。みとさんの頼みなら」

「それより、いるか?」

「ええ。バッチリ」

「それじゃ、雄一。行こうか」

「えっ? 行くってちょっと……」

 手ぶらのまま建物の中に入ろうとする二人を追って、おれも慌てて建物の中に入る。

 土曜日の夕方。おおよそ八割の打席が男性客で占められている中、一階左奥の打席を占有してキャッキャと騒いでいる四人の女性客を見つけるのにそんなに時間はかからなかった。

 四人のうち二人は舞と奈穂美で、あとの二人は履修する授業によって顔を合わせるが、名前は知らない女子生徒だ。

 漆黒の長い髪の女子生徒がゴルフボールを人工芝の上に置き、数歩打席の後方に下がる。数秒の静止ののち、いきなり走り始めたかと思うと、サッカーのペナルティーキックの要領でボールを右足で蹴り上げる。

 ボールは山のような弾道を描き、百ヤードの看板を少し超えたところで数回バウンドする。

 蹴り上げた右足のつま先をよく見ると、先端に何か部品が取り付けられているのが認識出来る。あれは七番アイアンのヘッドのようにも見える。いや、七番アイアンのヘッドそのものだ。

 何だこりゃ……。

 いつの間にか打席には五百旗頭舞が立ち、今まさにボールを蹴らんとする姿勢を取っている。しかしボールを目がけて振り下ろした右足は空を切り、バランスを失った舞はそのまま後ろに転び、尻餅をつく。

 舞以外の三人が大声で笑うと、それにつられて舞が右手で後頭部を掻きながら苦笑いを浮かべている。

「あれを見せて、おれを説得しようとする寸法ですか?」

「うーん、半分正解、半分不正解かな」

 兎川みとは意外な答えを返して来る。

「半分?」

「ああ。確かに雄一、君が思っている通り、君がフットゴルフ部に入部して、真剣あるいはそこそこ真面目に競技に取り組んでくれれば生徒会としても、君のトレーナーの私としても万々歳だ。すべてが丸く収まるだろう。でもな……」

 兎川みとは一瞬何かを躊躇うような表情をするが、すぐさま話を続ける。

「高校のゴルフにおける、甲子園的な場所がどこか知らないが、部活動、特に強豪校の運動部は、そういった場所を目指して練習したり、勝利を重ねたりするだろう? それはそれで素晴らしいことだけど、部活の目的はそれだけで良いのだろうか」

 この人は何を言い出すのだろう。だが兎川みとはおれの戸惑いなどお構いなしに話を続ける。

「君は分配ドラフト会議の時、『部活をやる意味って、勝負に勝つこと以外何があるんです?』って言ったな」

「ええ」

「確かに君の言う通り勝負に勝つことはとても大事だ。君が以前居た所では、おそらくそれが全てだったのだろう。だから私が『細かいことは気にせず気楽にやればいい』と言ったことに腹を立ててしまったのは当然だと思っている。君の過去を知っておきながら、全校生徒の前で軽々しくあんなことを言うべきでは無かった。非礼を詫びよう。済まなかった」

 兎川みとはおれに向かって深々と頭を垂れる。

「み、みとさん、こんなところでやめて下さいよ。みんな見てますから」

 おれは周囲を見渡し、慌てて兎川みとを止めに入る。

「でもさぁ、勝ち負け関係無く部活を楽しむのも決して悪いとは思わないけどなぁ……」

 十亀亜佐美がおれと兎川みととの会話に参加する。

「だって、大会に勝つことだけが目的って、何か寂しくない? ほら、部活で出来た友達とワイワイやるとかさぁ、勝負関係無く純粋に競技を楽しむとかさぁ……」

「はぁ……」

 おれの脳裏に、中学時代の三年間がフラッシュバックする。打球の飛距離が上がらず、パットが決まらず、ストローク数が変わらぬ自分自身を恨み続けた日々。どんなに練習を重ねても結果の出ないおれを『気合が足りない』と嘲笑う市川亮太とその取り巻き達そしておれに見切りをつけた顧問と担任――そんな部活動に、競技を楽しむ要素などあっただろうか。

 フットゴルフの練習をしている四人の姿を遠目で見ながら、初めてクラブを握った頃のことを思い出す。この若松ゴルフセンターの打席で夢中になって七番アイアンを振り続け日々。ボールがスイートスポットにヒットした時の快感、コースデビューで興奮し、初めてバーディーを決めた瞬間、少し手が震えていたことなどが次々と脳裏に浮かんだものの、それはいずれも石神井大学付属学園中等部に入学する前の出来事ばかりだ。

 一方、先程ショットを打ち放っていた漆黒の長い髪の女子生徒が三人に対し、身振り手振りでコーチをしている様子が見える。四人は皆楽しそうに笑いながら、各々の打席に戻り、再びショットの準備に入っている。あれは、小学生時代のおれの姿そのものだ。ゴルフという競技の本当の怖さや恐れを知らず、ただ純粋にゴルフを楽しんでいたあの頃のおれだ。

「なぁ雄一。かつての君のように頑張った奴のうち、プロとか実業団に入って職業としてスポーツやってるのってどれくらいいるか知ってるか?」

「……」

「野球の場合、確かドラフトにかかるのは高校野球の一学年あたりの競技人口約五万人、東京六大学みたいな大学野球の一学年あたりが約五千五百人、都市対抗野球に出るような社会人野球の選手が約一万人の合計六万五千五百人として、毎年プロから指名されるのは六人×十二球団でたったの七十二人。単純計算でここまで辿り着ける確率はたった〇.一%。つまり残りの九十九.九%はどこかで挫折しているんだよ」

 おれは生唾を飲み込み、次の言葉を待つ。

「だからそういう現実がある以上私は、大会に勝つよりも、部活を通じて何かを学ぶことの方がもっと大事なような気がすると思うんだ。今の君に、今すぐ理解しろとは言わないが、部活は勝利だけが全てだなんて、その発想はあまりにも貧困で、悲しいとは思わないか?」

「はぁ……」

 兎川みとは後ろから自分の両手をおれの両肩に乗せてくる。野球で例えた話はゴルフの世界でも同じことが言える。プロテストに合格すれば誰でもプロゴルファーになれるが、テレビで中継されるような大会に出場するには度重なる予選会を勝ち抜かなければならないし、勝ち抜くことが出来たとしても、スターダムにのし上がれるのは年に一人いるかいないかだろう。そう考えると、プロゴルファーとして最前線で活躍出来る確率はプロ野球選手になれる確率よりも低い。

「君が出ていった後、皆をなだめるのは結構大変だったんだぞ。下手したら君は、危うく全校生徒を敵に回すところだったんだからな」

「すみません……」

 確かにおれは全校生徒に随分酷いことを言ってしまった。今思えばあの時、悪びれること無く、出席簿の改竄を強要しますと言ってしまったようなものだ。もしかしたら兎川みとは本当におれのことをブン殴りたかったのかも知れないが、過去のおれの事情と自己の立場を考慮して思い留まったのだろう。だからこそ彼女は『私は君を殴りに来たのでは無い』などと言ったのだ。それに、本来であれば部活動が必修単位で含まれていることを、入学試験の前に学校説明会等で確認するべきだったのだろうが、その事実を確認しないままこの学校に入学したおれにも落ち度はある。大人の世界において、契約書の中身を読んだかどうかの如何にかかわらず、それにサインをしてしまった以上、中身について知らぬ存ぜぬでは通用しないのと同じことだ。

「だが君には、否、君にもうちのルールは順守してもらう。もし他に気になる部活動があるならば、他の部への移籍を取り計らおう。何か興味がある部活はあるかい?」

「急にそんなこと言われても困りますよ」

「そりゃそうか。だったら来週いっぱいまで待ってやるから、連休のうちによく考えて、遅くとも金曜日の夕方までにどうするかを教えてくれ」

「はぁ……」

「おっと、そろそろバスが来る時間だ。という訳で亜佐美、帰るぞ」

「ほーい。じゃあねゆう君。ちゅっ!」

 兎川みとと、おれに投げキッスを送った十亀亜佐美はおれを置き去りにすると、バス停に向かって学園通りを小走りしている。おれも次のバスで帰るべく、上着の内ポケットに手を突っ込んで財布を取り出そうとしたものの、本来そこにある筈の財布は無く、ここで初めておれは、自宅に財布を忘れていたことに気付く。おれは軽く溜息をつくと、フットゴルフ部の四人に気付かれないよう、そっと若松ゴルフセンターの敷地から抜け出し、歩いて駅前コート一号棟の自宅に戻ったのだった。


 連休明けの五月六日(水曜日)。おれは少し遠回りして七台の自動改札が並ぶ正門ではなく、学校西側に建つ七号棟から学校の敷地内に入る。

 おれはテナントとして入居しているファミリーレストランに入るとそのまま四人用の座席に腰を下ろし、モーニングセットをオーダーし、家から持ち出したペーパーバックを読みながらブリーフィングの時間ぎりぎりである八時二十分まで時間を潰しにかかる。

 隣の椅子には教科書等が入っている革の鞄と、憲法記念日に上野御徒町の中古クラブ店で購入したミズノのフットゴルフの道具一式が入ったケースが並んでいる。中古とはいえ、高校生にとって決して安くはない代物を買ってしまったが、翌国民の休日の昼間、ベッドの上でゴロゴロしていた時、あれだけフットゴルフ部に毒づいておきながら、連休明けには一転して部に入れて下さいと頭を下げるのはあまりにも虫が良すぎやしないかという考えがよぎり、最悪舞の態度が硬化し、フットゴルフ部への入部が拒否される可能性があることに気付き、心の準備ができないまま五百旗頭舞や一尺八寸奈穂美と鉢合わせをするのを避けたかったからだ。

 そしてもし拒否された場合、今後の身の振り方を、おれのトレーナーであり、生徒会役員でもある兎川みとと十亀亜佐美に相談しなければなるまい。

 情け無い情け無い情け無い。おれは何を弱気になって逃げているのだろう。

 どんなにダメな状況でも、その中で最善な選択肢を、最善な選択肢が無ければ一番マシな選択肢を選ぶしか無いのは分かっているはずなのに。少しでも前へ進むことでしか状況は打破出来ないのだ。どんなに調子が悪くても、おれは十八番ホールに自分のボールをカップインさせるまで絶対ギブアップすることは無かった。やれるだけのことはやって、もしダメだったなら、その時改めて考えればいい。つい半年前、高等部への進学の道が絶たれ、自分の将来に不安を抱いていたが、今ではちゃんと高校生になれているではないか。

 おれは邪念を振り払うかのように強くかぶりを振ると、勢いよく立ち上がり、荷物と伝票を手にレジに向かい、学割で二割引になった代金を支払う。吹き抜けのエスカレーターで二階に上がり、学校関係者専用の自動改札を抜け、渡り廊下を二つ経由し、おれが所属する三号棟のラウンジに辿り着く。

 おれがラウンジに足を踏み入れた瞬間、三々五々になっておしゃべりをしていた女子生徒たちが急に静かになり、視線を一斉におれの方に向けてくる。

 一瞬にして張り詰めた空気の中、おれは思わず逃げ出したくなるが、その気持ちを寸でのところで押し殺し、二人掛けのダイニングテーブルの椅子に腰かけている五百旗頭舞と一尺八寸奈穂美の前まで歩みを進める。

「五百旗……いや、舞……そして奈穂美ちゃん……」

 おれは顔を上げる二人の姿を確かめると、大きく息を吸い込む。そして――

「土曜日は済まなかったっ!」

 おれは二人に向かって深々と頭を下げる。しかし数秒間の沈黙の後、舞の口から発せられたのは意外な言葉だった。

「へっ? 何のこと?」

「いや、あのっ、お前の部活のことを侮辱するようなことを言っちゃって……それで……」

 おれは前屈した状態のまま顔だけを上げる。

「ああ、そのことかぁ……」

 舞と奈穂美は互いの顔を見合わせると、合点がいったと言わんばかりの表情をしながら大きく頷く。

「でも、あの状況だったらゆーいち君はああ言わざるを得なかったんじゃない? 別に謝る必要無いよ。あんな話聞いちゃったら、とてもゆーいち君を責める気にはなれないし」

「はぁ?」

 奈穂美が言う『あんな話』とは一体何だ? おれが必死に記憶を辿っていると、いつの間にかラウンジの中にいる全員がおれたち三人を取り囲み、口々に声を掛けてくる。

「私、知らなかった。雄一君があんな酷い目に遭っていたなんて……」

「私たちの方こそ、ゆう君のこと誤解してた。ごめんなさい」

「ここではゆうちゃんを悪く言う子なんて誰もいないよ。だから安心して」

 これは一体どういうことだろうか。全員がおれを責めるどころか、次々と発せられる、気持ちが悪くなる程の優しい言葉の数々に戸惑いを覚えていると、人だかりの向こうで長いソファに腰掛けて見物を決め込んでいる兎川みとと十亀亜佐美の姿が目に入る。二人と視線が合った瞬間、二人はほぼ同時に口元で笑みを浮かべながらおれに向かってウインクをして見せた。これはあくまでおれの推測だが、あの二人は舞にすら秘密にしていたおれの中学時代の出来事を、多少の誇張を織り込みつつ、多目的ホールにいた生徒に全てを喋ってしまったのだろう。

 正直言って、おれは自分の過去をばらして同情を買うような真似をしたくは無かったが、生徒会役員として、そしておれの担当トレーナーとして、事態を収拾するにはこうするしか無いと判断したのだろう。おれは兎川みとの行為を責めることは出来ないし、その資格も無い。おれは兎川みとと十亀亜佐美に軽く頭を下げていると、「さぁ、今日のブリーフィングを始めるから全員どこかに座れぇ」という声とともに、人文科の担当教師がラウンジに入って来た。


 十五時三十分。本日のすべての授業を終えたおれと舞と奈穂美の三人は、部室に向かうべく教務棟である九号棟と運動部の部室が集まる六号棟を結ぶ渡り廊下を歩いている。道すがら、体育科や他の部活の女子生徒たちが、六号棟二階の廊下でおれとすれ違うたびに「部活がんばってね」などと声を掛けてくる。

 今年度から新規に設立され、何ら実績を持たないフットゴルフ部の部室は、三階の最奥という最も不便な場所に割り当てられており、三階に部室を構えるのは唯一フットゴルフ部だけで、残りの部屋は空室と物置、主に長期休業中に使われる合宿用宿泊施設で構成されている。

「さっ、着いたよ……あれっ? 鍵が開いてる」

 舞がドアノブに手を掛けてドアを押し開けると、奈穂美が後に続く。

「ゆーいち君、入らないの? ここまで来て入らないのはナシナシっ」

「奈穂美ちゃん、いきなり引っ張ることは無……ってうわっ!」

 奈穂美は躊躇うおれの腕を引っ張り、一気に部室の中に引き込む。いきなり引き込まれたおれは身体のバランスを崩してしまい、前方につんのめり、部室中央に置かれたソファに頭から突っ込んでしまう。

「雑誌に書いてあったけど、こういうマジメっぽい子って案外エロい下着付けてたりしてんだよね。それにユリさんって実は脱いだらスゴい系だったり?」

「ダメですよ。それだけは絶対やめて下さいぃ!」

 ソファの上でうつ伏せの状態で顔を上げた瞬間、おれは目の前で脱ぐ脱がないを言い争っている二人の先客の姿を見て顔を熱くする。

 おれの目に映ったのは、下着姿になった漆黒の長い髪の女の子が、ハーフリムの眼鏡をかけた三つ編みの女の子のブレザーを無理矢理脱がそうとしている姿だった。

「うわっ! 見てないっ! 見てないっ! でもちょっと見ましたっ!」

 おれはソファに顔を埋め、強く目を瞑り、自分でも意味不明な言葉を発しながら大きくかぶりを振る。これは事故だ。奈穂美に引き摺り込まれただけで、能動的に入った訳では無い。

「ええっと、中邨……雄一さんですよね」

「あっ、はい」

 何故か安堵の表情を浮かべ、着崩れたブレザーを直しながら、三つ編み眼鏡の子が前かがみになっておれの顔を覗き込んでくる。

 ブレザーの左襟に亀と蛇をモチーフとしたバッジが付いていると言うことは情報経営科か。おれは彼女の首にぶら下がっているネックストラップの先に付いているカードケースの中に入っている学生証に視線を移す。

『情報経営科一年/Information & Management Studies Freshman 百目鬼百合 Yuri Domeki』

「ど、どぉめき、ゆりさん?」

 おれは名前のローマ字表記に視線を動かしながら、百目鬼を『どうめき』と読むのか、それとも『どめき』と読むべきなのかが分からず、少し濁しながら尋ねる。

「はい。『どうめき』です。よろしくお願いしますね。あっでも、生徒会の皆様の指示通り、わたくしのことは『ユリ』って呼んで下さいね」

「そう言えばさぁ、あのミズノのバッグの中に一式入ってるんでしょ。中身見ていーい?」

「う、うん……」

 スポーツブラにショーツ姿のまま漆黒の長い髪の子がおれに許可を求めると、興味ありげにおれのバッグから複数のヘッドを取り出しては矯めつ眇めつ眺めている。それにしても、まるでシャンプーのCMに出てくる女性タレントのような綺麗な髪の毛だ。

「うん。初心者にしては悪くないチョイスね」

「あの……怒らないの?」

「何が?」

「ほら、下着姿のままだから」

「ああ、そのことか。別にいいよ。ほら、何て言うか、ユーイチくん、『名誉女子』みたいなところがあるから。ねぇ、ユリさん……って、あれ? いない。どこ行っちゃったんだ?」

「たぶんウンコじゃね?」

 あたりを見回している温香に対し、奈穂美は何の躊躇いも無くウから始まる三文字の言葉を発している。って言うか、女の子の口から初めて両手の人差し指を口の中に入れながら『学級文庫』と発音した時以外でウから始まる三文字の言葉を聞いたぞ……って、どうしておれの方が自主規制しているんだ。ダメだダメだ。話題を変えよう。そう言えばまだこの子の名前を聞いていない。

「ところで、君は……まだ名前聞いて無いんだけど……って言うか何か着ようよ」

「ええーっ、覚えて無いなんて寂しいっ!」

 漆黒の長い髪の女の子が口を尖らせる。

「ほら、色々な意味でおれのことはみんな知っているんだろうけど、おれは全校生徒の名前を憶えている訳じゃ無いから……」

「だって、もう二回も音楽の授業で顔を合わせてるのに覚えて無いなんて」

 たった二回しか授業が行なわれておらず、会話すら交わしたことも無いのに無茶苦茶だ。

「それじゃ、私は芸術科一年・加添温香。高校からこっちに引っ越して来たんだ。よろしくね」

「う、うん。かぞ……じゃ無かった、温香ちゃんは元々どこの人なの?」

 おれは入学式当日に生徒会から言い渡された『名字禁止令』と、若松ゴルフセンターで見た彼女の美しいフォームを同時に思い出し、慌てて呼び方を変えて質問する。

「もともと長野の……軽井沢と小諸の中間あたりから来たんだけど、中学時代もフットゴルフをやっててね。舞ちゃんと奈穂美ちゃんが『フットゴルフ部を作ろう』って声を掛けてきて、それからユリさんも加わって四人で発起人になって、フットゴルフ部を立ち上げたんだ」

 やはり彼女は経験者だったのか。しかもかなりの手練れに違い無い。ショットまでの一連の動きは、素人にも分かる迫力のようなものを感じた。

「ただいま戻りました」

 ドアの開閉音とともに、百合が部室の中に入って来る。百合はいつの間にか制服からブリヂストンのウェアに着替えている。こんな僅かな時間に彼女はどうやって着替えたのだろう。それに百合は同じ一年生であるにもかかわらず、どうしておれを含めた全員に敬語で話しかけているのだろうか。

「あのぅ、自己紹介してくれるのはいいんだけど、そろそろ温香ちゃんもウェアを着てもらえないだろうか」

「あっ、そうだったね。さっさとウェアに着替えて準備しよう。ほら、三人とも早く早く!」

 温香がおれと舞と奈穂美に着替えを促す。

「いや、おれは一階の更衣室で着替えてくるよ」

 おれは、ゴルフウェアが入っているミズノのバッグを手に取り部室の外に出ようとすると、いきなり温香がおれの左肩を掴む。

「いいじゃん。ここで着替えちゃえば」

「ええっと、それは流石に……」

「別にいいじゃん。下着姿になるのはお互い様でしょ。それとも友達に下着姿を見せるのがそんなに恥ずかしいの?」

 姿を見かけたのが二、三回、言葉を交わしたのが初めてだと言うのに『友達』呼ばわりとは、この女は何を考えているのだろう。

「いや、それは……」

 おれは我が意を得るべく、舞と奈穂美の方に視線を移すと、二人は既に制服を脱ぎ、下着姿の状態で各々のウェアを手に取っている。

「待て待て、どうしてお前らも脱いでるんだよ!」

 おれは下着姿の二人に突っ込みを入れる。

「だって、着替えなきゃ部活出来ないじゃん」と奈穂美。

「体育の授業の時と一緒だよ。先輩たちだってやってるじゃん。ほら、小学校の時も一緒に着替えてたし」と舞は平然と答える。小学校の時に男女同室で着替えていたのは、未だ羞恥心が無かったからで――。

 小手指総合高校の体育は一年生全員参加が義務付けられている必修体育と、二年時以降に履修する選択科目である各競技に分かれており、必修体育の時、おれは三号棟人文科のラウンジから六号棟スポーツ科学科一階にある、実質的におれ専用の男子更衣室まで赴いてウェアに着替えているのだが、女子生徒たちは六号棟まで行くのが面倒臭いという理由からラウンジで着替えるため、おれは必修体育の時間の前後のみならず、二・三年の履修表もチェックし、その時間帯はラウンジには足を踏み入れないようにしている。

 やがて、制汗スプレーの独特のにおいがラウンジから漏れて来る時は要注意であることを学習し、ラウンジの入口付近でにおいをくんくんかぐのが半ば習慣と化していたのだが、そんなおれの挙動を面白がった先輩たちは、こともあろうか廊下でおれを捕まえ、無理やりラウンジの中に引き摺り込み、あられもない下着姿をわざとらしく見せつけるようになってしまった。

 ただ、この状態が繰り返されるに従い、いつの間にかこの状態がおれにとっての『普通』となり、その価値観のままこの学校を卒業し、社会に出た時、うっかり女子更衣室に入ってしまうのでは無いかと考えると、少し怖くなってしまう。

「トンちゃんの夢が叶ったじゃない。カワイイ女の子囲ってハーレム作って、ちゅっちゅしたりここでは言えないようなエロいことをするんじゃ無かったの?」

 舞が小声でおれに耳打ちする。

「分かった。おれの負けだ。さっさと着替えるぞ」

 おれは小さな溜息をつくと、ネクタイのプレーン・ノットを緩め、ジャケットを脱ぎ始めた。

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