エピローグ~そして、今週のおれは……
目が覚めると、おれは腕や胴体を包帯で巻かれた状態でベッドに横たわっていた。若干痛みは走るものの、身体は辛うじて動かすことができる。
窓の外のケヤキ並木の向こうにおれが住む駅前コート一号棟上層階の一部が見える。窓から見える他の建物と方角から、ここが所沢総合病院の病室であると言う結論を導き出す。
ああ、おれは入院しているのか……。
壁に掛けられた時計の針は四時過ぎを指しているが、何月何日の何曜日かまでは分からない。つい先程まで、武州カントリークラブ北コース九番ホールのグリーン上にいたような感覚なのだが、あの時から今までの記憶が一切無いのが何とも気持ちが悪い。
おれはゆっくり上体を起こし、改めて周囲を見渡す。病室にはおれ一人しかいない。自分のベッドの横には、更衣室のロッカーに預けてあったミズノのスポーツバッグがちょこんと置かれている。それにしても喉が乾いた。水でもスポーツドリンクでもいいから何か飲み物が欲しい。おれはスポーツバッグの中に財布があったことを思い出し、スポーツバッグに手を掛けた瞬間、スライド式のドアが開く音が聞こえてくる。
ドアの方に視線を移すと、驚いた表情の珠子先生が立っている。
「ゆう君……」
「珠子先生……どうしてここに……」
珠子先生は無言のままおれの目の前まで近付くと、いきなりおれの頬を引っ叩く。おれは何が起きたのか分からないまま呆然としていると、珠子先生はおれを強く抱き締める。
「先生に黙って勝手なことして! どれだけ心配したと思うの? ゆう君にもしものことがあったら、先生は、先生は……」
珠子先生は涙を流しながら腕の力を強め、おれの顔を自分の胸に埋める。女の人特有のいいにおいが鼻腔を刺激するとともに、涙と思しき水滴がおれの頭上に落ちていくのが分かる。九番ホールでの百合と言い、珠子先生と言い、自分の為に涙を流してくれる人がいるなんて、これほど嬉しいことは無い。
「ごめんなさい珠子先生。ご心配をおかけしました」
おれは一旦珠子先生から離れると、まだ痛みが残る両腕を珠子先生の背中に回し、そのままぎゅっと抱き締め返す。
本来であれば教師と生徒の間で誤解を招くような行為は慎むべきなのだろうが、今回くらいはいいだろう。珠子先生からしてみれば、自分の与り知らぬところで教え子を失うかも知れない状況だったのだ。中学の時、当時の担任や顧問とはかなりドライな関係だったこともあり、義務教育では無い高校の教師との関係はもっとドライなものになるだろうと思っていたが、珠子先生はいち教師として心の底からおれと、フットゴルフ部のみんなを心配してくれている。本当にありがたい話だ。おれは本当に小手指総合に入学して良かった。
おれは落ち着きを取り戻した珠子先生と話をして、意識が無かった間の情報を埋めていく。今日は六月九日の火曜日で、飯能から所沢総合病院に運び込まれてから四十八時間意識を失い、ずっと眠り続けていたこと。肋骨が数本折れていたが、幸い臓器には傷は付いていなかったこと。特に問題が無ければあと二、三日で退院できること。チンピラに金を握らせていた市川亮太は処分保留で逮捕は免れ、学校や協会からもお咎めが無かったこと。もっともこれは、大手都市銀行・東京昭和銀行の幹部である父親が息子の為に日本でも指折りの法律事務所の弁護士を付けたことが効いたらしい。ただ、一番心配だったのは百合と舞の関係だ。百合のことだから、自分の過去がバレることは無いと思うが、普段の彼女からはとても想像しがたい行為が原因となり、校内や部内で孤立していないかが何よりも心配だった。だが珠子先生はにこにこしながら、そんなに気になるなら直接二人と話をしたらと言うだけで、何も教えてくれなかった。
六月十二日(金曜日)の一時半過ぎ。独りで退院手続きと入院費用の精算を済ませたおれは、調剤薬局で処方箋を受け取ると、病院の向かいに建つ駅前コート一号棟三階の誰もいない自宅に戻り、自分の部屋で背広に袖を通し、電車に乗って学校に向かう。六日間入院したため、学校へは七日ぶりの登校になる。正門の自動改札を抜けると、おれの姿に気付いた守衛のおねえさんがガラス越しに手を振ってくれる。おねえさんに軽く会釈しつつ一瞥した守衛室の時計の針は三時二十分を指している。授業には間に合わないが、そろそろ部活動が始まる時間だ。おれは直接六号棟に足を踏み入れると、おれの姿に気付いた他の女子生徒たちへの挨拶もそこそこに、三階の最奥の部屋を目指す。
おれはフットゴルフ部の部室の前で息を整える。今でも深く呼吸をするたび、胸に圧迫感を伴った軽い痛みが走るが、時間が経つにつれ、徐々に収まってくるだろう。
ドアノブを右に回し、手前に引く。まだ制服姿の舞、百合、温香、奈穂美の四人が一斉におれに視線を送るとともに、数秒間の静寂が走る。色々訊きたいことはあるが、まずはこの言葉を言うべきだろう。
「た、ただいま……」
「「「「おかえりなさい!」」」」
四人が破顔したことに胸をなで下ろしながら、おれは部室の中へと足を踏み入れた。
了




