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Hole 6~芒種に打つ終止符(その1)

 六月七日(日曜日)午前四時。身体のあちこちが痛む中、おれはベッドを抜け、床に敷いた布団に、すうすう寝息を立てながら、まるで互いを求めているかのように向かい合って眠っている百合とあおいを踏まないよう慎重に動きながら部屋を出て、薄暗いダイニングキッチンに足を踏み入れると、冷蔵庫からスポーツドリンクの一.五リットルペットボトルを取り出してグラスに三分の一ほど注ぐ。そしておれはおそるおそる、スポーツドリンクを喉に流し込む。

 冷蔵庫の中で良く冷えたスポーツドリンクはおれの喉を冷やすが、食道に差し掛かった途端、胸の部分に強い痛みが走る。

 緊張していたからなのか、全身に痛みが走っているからなのか、それとも、一歳年上の同級生の女の子二人がすぐ隣で寝ていたからなのか、結局一睡も出来ないまま朝を迎えてしまった。

 あおいがおれの上半身に巻いてくれたサポーターのおかげで多少楽にはなってはいるものの、身体のあちこちが痛いことには変わりは無い。それでも喉は渇くしお腹も空く。おれはテーブルの上にある籐籠の中にあるあんぱんを手に取り、一口かじって飲み込んでみたものの、胸にスポーツドリンクを飲んだ時以上の強い痛みが走る。どうやら戦いを終えて病院に行くまで固形物を口にすることは出来なさそうだ。気配を感じ、後ろを振り返ると、目の前にはいつものハーフリムの眼鏡に制服姿の百合と、エプロンドレスを着たあおいが立っている。

「雄一さん、おはようございます」

「おはようございます雄一様。お身体の加減は如何でしょうか」

 百合とあおいが、これから女性アイドルに寝起きドッキリを仕掛けるテレビタレントのような小声でおれに声を掛ける。

「おはようユリさん。あおいさん。決して万全じゃないけど、動けるよ」

 この期に及んで二人に心配をかけさせる訳にはいかない。いや、この二人だけではない。幼馴染を傷付けてしまったと今でも悔やんでいる温香然り、普段は能天気な舞や、小学生のような下ネタを並べる奈穂美にも、おれには知らない過去があるのかも知れない。百合とあおいはおれを全力で守ってくれた。他の三人もおれを仲間として受け入れ、共に汗を流してくれた。今度はおれが彼女たちを守る番だ。

「では雄一さん、あおいさん、参りましょうか」

「「はい」」

 おれたち三人は、まだ寝ている家族を起こさぬよう玄関から外に出ると、航空公園駅東口ロータリーのタクシー乗り場に向かう。

 駅前では既に制服姿の舞、奈穂美、温香がおれたちの到着を待っている。箒で移動するあおいと、タンデムを希望した奈穂美を除いたおれを含む四人は、タクシー乗り場で待機していたタクシーに乗り込むと、百合が運転手に飯能市の武州カントリークラブに向かうよう告げる。

 タクシーは、目の前を飛ぶ箒を追うように行政道路を入間方面へ北上している。あおいと奈穂美を乗せた箒は、昨晩の暴れっぷりが嘘のように静かに低空飛行を続ける。

 やがて箒とタクシーは入間川を越え、飯能市内に入ると、秩父方面に繋がる国道の山道に入るか入らないかの位置にあるクラブの入口から敷地に乗り込み、クラブハウス前に停車する。

 彼女たちに無理を言って早めに乗り込みたかったのには、身体をアップするために十分時間をかけるためだけではなく、もう一つ理由がある。ロッカールームで市川亮太と鉢合わせしたくなかったのだ。

 おれは誰もいないロッカールームで早々と着替えを済ませ、クラブ一式を片手にクラブハウスのすぐ横にあるケージで痛みに耐えながら入念にストレッチをすると、数個のボールを人工芝のマットの上に置き、右のスパイクに七番アイアンを取り付け、立て続けにボールを蹴り上げる。

 甘かった。

 骨折しているのが肋骨だけだったので、影響があるのはティースローの時だけだと思っていたが、ショットを打つたびに右足に与えられた衝撃が、折れた肋骨に伝導し、電気ショックのような強い痛みが体内を走る。それだけではない。ショットの時、同時に身体を捻ることになるので、必然的に折れた肋骨が己の肉体を刺激するのだ。だが、今日だけでも持ちこたえてくれれば、あとはどうなっても構わない。

 午前七時半。北コースの一番ホールのティーグランドで五人がおれの到着を待ってくれている。

「どう? 身体は温まった?」

 この中では最も長い経験を持つ温香が尋ねる。

「ああ。さっきまであそこのケージでアップしてたからな。むしろ熱いくらいだよ」

 おれは五人に余計な心配をさせまいと、努めて笑みを浮かべようとする。

「トンちゃん、笑顔がぎこちないよ」

「そ、そうかな……ハハハハハ……」

 舞の指摘におれは愛想笑いを浮かべながら右手で後頭部を掻くが、身体のどこかを動かすたび、歩くたびに動かした関節や筋肉に痛みが走るものの、まだ我慢できるレベルだ。

「ねぇユーイチくん、あれがそうじゃない?」

 温香が指差す方向から、市川亮太とその取り巻き達がゆっくりこちらに近付いてくる。一瞬にして、あたりが緊張した空気に包まれる。

「よォ、尻尾巻いて逃げ出すと思ったら、疫病神が時間よりも早く来ていてびっくりしたぜ。それだけはお前を褒めてやるよ」

 開口一番、市川亮太はおれを貶し始める。

「おれは今まで、途中で追い出されたことはあっても、途中で逃げたことは無いけどな。それより、さっさと勝負を始めようぜ」

「そうだな。この勝負五ホールで終わらせてやる」

 おれは下唇を軽く噛み、グッと堪えながら市川を睨みつける。

「ちょっとアンタねぇ! 全部のホールで勝つつもりだなんてそんなうぐぐぐぐ……」

 後ろを振り返ると、市川に噛みつこうとする舞の口を奈穂美が抑えている。おれは五人に向かって大きく頷く。

「なぁ中邨。そろそろ八時だから、オナーを決めようじゃないか」

「ああ。コイントスでどうだ?」

「いいだろう。おい、コインを出せ」

「はいっ。ただいま」

 市川の指示に、取り巻きの一人がコインを差し出す。

「ちょっと待って。アンタたちがコインを出すなら、トスはこっちにやらせてちょうだい。アンタたちが用意したコインが、両面とも表か裏かも知れないし」

 温香が市川たち主導によるコイントスに異議を唱える。

「まったく用心深い女だな。ほらよ。何の変哲もない十ペンス硬貨だ」

 取り巻きが温香に硬貨を投げてよこす。わざわざ英国のコインを用意したのは市川独特のアイロニーだろうかと邪推してしまうが、そんなことをいちいち気にしても仕方が無い。

「確かに普通の十ペンス硬貨ね。コインはそっちでトスはうち。これで文句ないわね」

「好きにしろ」

「それじゃ、行くわね」

「表だ」

「裏っ!」

 市川は表を、おれは裏を指定する。温香は小さく頷くと、おもむろに右腕を伸ばし、人差し指の上に載せた十ペンス硬貨を親指で強く弾き空へ投げ上げる。十ペンス硬貨はキラキラ廻りながらスローモーションで舞い降り、ティーグランドの上に落ちると、バウンドすることなく女王の肖像を上にした状態で動きが止まった。

「表か。ということは、オナーはアンタね」

「そうだな。それじゃ、早速ティーショットを打たせてもらうぜ」

 一番ホール三六六ヤード・パー4。市川はゴルフバッグからドライバーを取り出し、ティーをセットする。アドレスの状態に入るとすぐさまテイクバックを始め、ボールを叩きつける。ボールは大きな弾道を描くと、目測で二四〇ヤード付近のフェアウェイ上に停まる。さすがゴルフ雑誌で注目されているだけあって、ドライバーショットの飛距離はプロにも劣らない。

 市川はボールの行方を目で追うと、視線をおれのほうに移し、ニヤリとふてぶてしい含み笑いをする。

「お前のようにパワーが無い奴は、どうしても刻んでいくしかないよな」

 市川の言葉に、取り巻き達が笑い声をあげる。

「なぁ市川。ある昆虫学者がミツバチの羽を調べた時、ミツバチの羽の面積では空を飛ぶのに十分では無いことが分かったんだ。だけどな、どうしてミツバチは空を飛べると思う?」

「はぁ? 訳分かんねぇこと言ってないでさっさと投げろよ」

 おれは右手でボールを握りしめる。イメージしろ。小鳥遊陽から教わった、山なりではなく、真っ直ぐかつ鋭い、レーザービームのようなy=axの軌道を。取り込め。ホール全体の風の流れを。おれは大きく振りかぶると、オーバースローでフェアウェイに向かって投げつける。

 ボールは少しずつ上昇しながら真っ直ぐな軌道を描く。一〇〇ヤードを超えても勢いは一切衰えず、二〇〇ヤード付近で失速すると数回バウンドし、市川のボールの一ヤード後方で止まる。驚愕の表情を見せる市川におれは「ミツバチは、自分の限界を知らないから飛べるんだよ」とつぶやく。温香ははにっこり微笑みながらおれに向かって親指を立てる。おれも軽く頷きながら、温香に向かって右腕を突き出し、親指を立てた。

 おれと市川はフェアウェイの上を、ギャラリーたちはコンクリートが打たれた電動カート用の道路の上を歩き始める。しかし、後ろを振り返ると、百合だけはティーグランドから少し離れた場所で携帯電話を使って誰かと通話しているような仕草をしている。

 第二打。おれは五番アイアンを選択し、スパイクの右先端に取り付けるとボールの後ろにまわり、勢いを付けてボールを蹴り上げる。

 スイートスポットより気持ち下にヒットしたため、強い衝撃がおれの身体を走り抜けたものの、ボールはグリーン上にオンし、ピンそば三フィートの位置でピタリと止まる。一方、市川は苦々しい表情をしながら六番アイアンを取り出し、第二打に入る。市川の打球はエッジの部分でバウンドし、グリーン上に乗ったものの、ピンからの距離は二十フィート弱とかなり離れている。引き続き市川はパッティングに入るが、ロングパットを沈めることは出来ず、気持ち左方向に二フィートほどオーバーする。

 おれは市川のボールが止まったのを見届けると、右スパイクのヘッドをパターに交換し、パッティングの姿勢に入る。おれは心の中で絶対に入れると念じながらソフトタッチでボールに当てると、ボールはゆっくり転がり、カップの中へと消えていく。

 よしっ。先手を取ったぞ。

 おれは右手で小さなガッツポーズを取る。グリーンから少し離れたところでは、舞と奈穂美が手を叩いて喜んでいるが、百合と温香とあおいの三人は真剣な眼差しでおれを見つめている。

 引き続き、二番のショートホール。おれは二打でバーディー、市川は三打でパーと、おれの2アップ、市川の2ダウンと、スタートダッシュに成功する。この勝負に最短で勝つには、五番ホールまで連続して勝たなければならない。もし五番ホールで終わらせなければ、体力的にも勝つのは非常に難しくなるからだ。

 おれは身体の節々から来る痛みに耐えながら、先に三番ホールのティーグランドに入る。

 三番ホール・三五四ヤードパー4。左側からグリーン手前にかけて大きな池が広がっている一方、右側は数多のバンカーが連続しているため、プレーヤーには巧みなショット・コントロールが求められる。おれは大きく振りかぶり、スローイングに入る。ところが、ボールをリリースしようとした刹那、右胸から脇の下あたりにかけ、強烈な痛みが走り、バランスを崩してしまうと同時に、ボールがすっぽ抜けてしまう。

 ボールは大きな弧を描き、数回バウンドすると、無情にもそのまま池の中に入ってしまった。

「どけ。オレ様の番だ」

 市川は含み笑いを浮かべながら、尻餅をついたおれの目の前に立ちはだかる。

「まあいい。折角だから余興とまでは言わないまでも、オレ様を本気にさせてくれたお礼として、ちょっと面白いものを見せてやろうか」

 市川はそう言うとゴルフバッグからドライバーを取り出し、アドレスの状態に入る。こんな場面でリスクの高いじかドラとは、一体何を始めるつもりか。おれはティーグランドの外に出て、ドライバーを取り出した市川のショットに注目する。

 市川によって放たれたショットは、通常のドライバーショットより高速かつ若干低めの弾道を描いている。おそらくトップ気味のスピンがかかっているのだろう。ボールは池に向かって一直線に向かっているが、まさか市川の奴、アレをやったのか……。

 市川のボールは水切りの要領で水面でボールが跳ね上がり、五段ほど跳ねたあと小島に上陸し、真ん中あたりで停止すと、取り巻きたちからおおーっというわざとらしい歓声が上がる。

 おそらくこれは、市川から仕掛けてきた心理的な揺さぶりのつもりなのだろう。何をしようと、お前はオレ様の足元にも及ばないと。だが、惑わされてはいけない。どんなにトリッキーなプレーができたとしても、勝つのはストローク数が少ない方だ。飛ばし屋だからと言って、必ずしも勝てるとは限らないのと同じ論理である。

 おれは黙って池まで歩み寄り、ボールの状態を確認する。幸いここ数日の暑さのせいで水位が下がったのか、水深は浅く、直接打つことができそうだ。おれは左スパイクと靴下を脱ぎ、右スパイクの先端にサンドウェッジのヘッドを取り付けると、そのまま池の中に入っていく。

「おいっ! ヘッドが水の中に入ってるぞ!」

「そうだそうだ。ペナルティだろコラァ!」

 市川とその取り巻きたちが一斉に指摘を始める。

「フットゴルフ規則第三章・プレーに関する規則によれば、フットゴルフにおいて、ハザード上でもヘッドを地面あるいは水中に付けてのアドレスは無罰とあります。よってこのプレーには何ら問題はありません」

 フットゴルフ歴が長い温香が毅然とした態度でおれのプレーの正当性を主張すると、市川は舌を打ち、取り巻きたちは一斉に静まり返る。おれは五人に向かって大きく頷き、水底に沈んだボールをサンドウェッジで叩きつけ、おれの身長の倍を超える水柱とともにフェアウェイ上にボールが乗っかる。

 しかしストローク数ではパープレーの市川に負け、2アップから1アップとなり、五番ホールでの決着は泡と消える。方針を変え、九番ホールまで体力を温存してそのまま逃げ切るか、一気に勝負を賭け、六番ホールで決着を着けるか、悩ましいところではある。いや、違う。九番ホールまで身体が持つかどうかも分からないし、六番ホールで決着する条件である四、五、六番と三ホール連続で市川に勝てるかどうかも分からない。

 ダメだダメだ。おれは弱気になりかけている。

 今に限らず、困難に陥った――例えば、ゴルフ部時代にストローク数が伸び悩んでいた時や自分の進路が白紙状態になった去年の夏、そしてフットゴルフ部に所属することになった時、部員たちに受け入れてもらえるかどうか心配していたおれは何をしていた?

 おれは学習した筈だ。深いラフに入り込もうが、蟻地獄のようなバンカーにはまろうが、水底に沈もうが、与えられた選択肢の中から一番マシなものを選び、少しでも前へ進むことでしか状況は打破出来ない。やれることをやってダメだったなら、その時改めて考えればいい。

 気合いを入れ直したおれは残り三ホールで決着をつけるべく、四番ホールに向かう。だが市川も簡単に勝たせてくれるような相手ではない。四番ホールと五番ホールはおれも市川も同じパープレーであがり、引き離しには失敗するものの、辛うじて虎の子の1アップは死守出来た。

 六番ホール・四七六ヤードパー5。勝負の対象となる全九ホールのうち、最長の距離を持つこのホールは、一般的に長い飛距離のショットを打てるゴルフのほうが有利である。

 それでもおれのボールは、先にドライバーで打った市川のボールより一ヤード後方にぴったりとくっつく。おれと市川は第二打を打つべくフェアウェイ上を、おれ以外のフットゴルフ部員と市川の取り巻きたちは、左側にある電動カート用の道路を歩いている。

「おーい、ゆーいちくーん!」

 奈穂美の呼びかけに、おれは右を向く。

「もし最後までラウンドできたら、舞が服の上からおっぱい揉んでいいって!」

「奈穂美! いきなり何を……」

 奈穂美の言葉に舞が慌てる様子を見せる。

「あとねぇ、もし勝ったら生でおっぱい揉ませてあげるって!」

「そんなこと言ってないよっ! それにどっちにしろ揉まれるんだ」

 おれは一瞬、この女はこの期に及んでいきなり何を言い始めるんだ。と思いつつも、ふと市川の取り巻きに視線を移すと、彼奴等は色めき立った様子を見せ始める。おそらく頭のなかはピンクな妄想でいっぱいになっているのだろう。と言うことは、表向き平静を装っている市川の脳内もピンクに侵食されているはずだ。石神井大学付属中学校・高校は男子校だ。男臭い環境の中、生徒たちはただでさえ女の子とのコミュニケーションをあまり得意としていないばかりか、女の子の口から発せられる少しエッチな言葉は、童貞どもにはボディーブローのようにじわじわ効いてくるはずだ。もっとも、我慢出来ずに小学校の卒業アルバムの舞で事に及んだおれもある意味同族だが、時は流れ、高校生活を通じて多少耐性を持った今となっては、あれはあくまで市川に揺さぶりをかけるための言葉であり、最初からおれにおっぱいを揉ませるつもりなど無いことは良く分かる。奈穂美の意図を理解したおれは、四人に向かって「揉むだけじゃダメだ。勝ったら乳首を舐めさせろ!」と、下手したらセクハラになりかねない言葉を叫ぶ。舞は全身を真っ赤にしているが、奈穂美は満面の笑みを浮かべながら親指を立てる。

 市川は六番アイアンを取り出し、アドレス状態に入るが、なかなかショットに入ることが出来ない。十数秒の静寂の後、辛うじてショットを打ち放つが、ボールはグリーンをオーバーし、罠のように待ち構えている深いバンカーに吸い込まれる。どうやら先ほどのやりとりは狙い通り市川のメンタルに影響を与えているようだ。少々汚い手かもしれないが、なりふり構っている場合ではないのだ。

 しかし、市川は両手で自分の顔を強く叩いて気合いを入れ直し、邪念を追い払うような仕草を見せると、一発でバンカーからボールを出し、グリーンのエッジ上に乗せる。流石はプロゴルファー一歩手前の男だ。そう簡単に崩れる筈も無いか。

 このホールもおれと市川、いずれも五打であがり、依然としておれが1アップリードしたまま次の七番ホールに移動する。そして次取ることが出来れば、少なくともおれの負けは無くなる。そして、あと三ホールですべてが終わる。

 七番ホール・三四三ヤードパー4。ここは右ドッグレッグと呼ばれる『く』の字状のコースで、犬の膝あたりまでは緩やかな上りのため、グリーンの様子を窺い知ることはできない。

 バフィーを手にした市川が若干スライス気味のティーショットを打ち終えると、おれは入れ替わるようにティーグランドの中に入り、ティースローの構えに入る。既に、何もしなくても身体中を締め付けるような痛みに襲われているが、弱音を吐いている場合ではない。しかし、当初と比べて勢いを失いつつあるおれの投球は、無情にも膝の近くにあるバンカーに吸い込まれていく。しかもバンカー上のボールを確かめると、ボールが半分近く埋まっている、いわゆる『目玉バンカー』の状態になっている。こうなっては、ボールをフェアウェイに出すのがやっとだろう。結局このバンカーが祟り、七番ホールは一打差で市川に取られてしまい、イーブンになってしまった。おれがこの勝負に勝つには、残り二ホールで最低でも一勝一分けしなければならない。いずれにしろ、この時点で九番ホールまで勝負することは確定してしまった。おれの身体はそれまでもつのか。いや、おれはおれの意思でみんなを守ると誓ったのだ。這ってでも最後までやり遂げるのが筋だろう。

 八番ホール・三三二ヤードパー4。先ほどの七番ホールよりも鋭いドッグレッグで、犬の膝近くに数多のバンカーが集中しているが、先ほどのミスは繰り返さない。

 市川と入れ替わるように、ティーグランドに足を踏み入れたおれは、右手にボールを握り、ルーチン通りシャドウピッチをしようとして肘を肩から上に挙げた瞬間、今まで以上の激痛が腕を含む右上半身すべてを走り抜け、おれは思わず左手で右肩を押さえながらその場にうずくまってしまう。おれの動きで、もはや投げることが出来ないことを悟ったのだろう。温香は今にも泣き出しそうな表情をしている。百合も何かを感じ取ったのか温香の肩を優しく抱きしめている。

 おれは右上半身の痛みが落ち着くまで待つとおもむろに立ち上がり、真っ直ぐに伸ばした右腕をゆっくりと上に挙げていく。腕の高さが肩を上回った瞬間、再び右上半身に痛みが走る。どうやらもうオーバースローで投げることは出来ないようだ。

 おれはコースを見渡し、今まで以上に己の神経を研ぎ澄ませ、コースの構造、芝生、風の動きそしてフェアウェイ右側のコンクリートで打たれた電動カート用の道路といったあらゆる情報を自分自身に取り込もうとする。

 おれは脳裏で小鳥遊陽のフォームを思い出しながら、急激に身体の重心を下降させると、右腕を地面ギリギリまで下げ、腕をしならせながらボールをリリースする。

 右方向に低い弾道を描いた、明らかにミスショットに見えるボールの行方に、市川を含めた石神井大学付属学園高等部ゴルフ部の連中は顔をにやつかせ、県立小手指総合フットゴルフ部の部員たちは嘆息を漏らしているが、ボールが電動カート用の道路に乗った瞬間、ボールはコンクリートの上を勢いよく転がり始め、それどころか若干下りと言うこともあり、そのスピードをどんどん上げていく。そしてコース中盤の右カーブに差し掛かったあたりで浅いラフに乗り上げ、程良くスピードが殺され、フェアウェイ上でピタリと止まる。おれはわざと顔をにやつかせながら市川を一瞥する。

 結局八番ホールもともにパーであがり、勝負は九番ホールに持ち越される。だが、時間の経過とともにおれの身体の痛みは強くなっていく。だが今度こそ、この男に勝って、己の限界を超えるのだ。

 九番ホール・三三三ヤードパー4。市川はドライバーで一気に二百二十ヤード付近まで距離を稼ぐが、あとに続くおれの上半身は痛みの限界に達し、もはや投げることはできない。おれはヘッドが入っているケースからユーティリティアイアンのヘッドとティーを取り出すと、右スパイクにヘッドを取り付け、ボールをティーアップする。普段とは異なるおれの行動に、ギャラリーの五人が驚いたような表情を見せる。

 フットゴルフの場合、飛距離とコントロールのしやすさから、プレーヤーはほぼ一〇〇パーセントの割合でスローイングを選ぶが、ルール上、第一打から足を使うことも認められている。

 おれは数歩後ろに下がり、心を落ち着かせると、助走をつけてティーアップさせたボールを蹴り上げる。飛距離は百五十ヤードちょっとしか飛ばなかったが、2オンできれば十分バーディーを狙える。あと二打だ。あと二打ですべてが終わる。おれは引き続き、三番アイアンで第二打を打ち放ち、市川よりも一足早く、ボールをグリーンに乗せ、ピンそば約五フィートまで寄せる。市川も負けじと、ピッチング・ウェッジを取り出し、同じくグリーン上ピンそば約五フィートまで寄せて来た。

 遠くから見ると、両者のボールはともにピンからほぼ同じ距離に位置しているように見えたが、グリーンまで近づくと、市川のボールの方がわずか二インチ弱、カップから離れているのが分かる。つまり、先にパッティングをするのは市川だ。

 市川は、ボールから少し離れた場所で数回パターを振ると、ボールのそばに近付き、アドレス状態に入る。市川がパターをボールに当てると、ボールはカップに向かって一直線に転がり、難無くボールを沈めてバーディーを奪う。

 これでおれの勝ちは無くなってしまったが、まだ負けが決まった訳では無い。ここでおれもボールをカップに沈めることが出来れば、引き分けに持ち込むことが出来る。しかしおれにはプレーオフを行なう体力はもう残されていない。ならどうすれば……いや、悩んでいる場合では無い。今は目の前のボールをカップに沈めることだけ考えればいい。その後どのような展開になったとしても、その時考えれば良い話だ。

 気を取り直したおれは、スパイクのヘッドをパターに交換すると、慎重に芝目と傾斜を読み込み、脳内でラインを描く。慎重にボールの後ろに回り込むと、息を整えてアドレス状態に入る。

 去年の夏の大会のあと、顧問から戦力外通告を受けたあの日のことが頭をよぎる。だが、今のおれはあの時とは違う。舞、奈穂美、温香、百合、あおい、そして小鳥遊陽が応援してくれている。今ここでプレーしているのは、おれだけじゃない。みんなと一緒に戦っているのだ。

 おれはラインをイメージしながら、パターをボールに当てる。ボールはイメージ通りの軌跡を描く。頼む。入ってくれ。

 ボールが転がる間、舞と奈穂美は両手を強く握りしめながらボールの行方を見守り、温香はおれと幼馴染を重ねているのか、既に涙をぽろぽろと流している。そんな温香の肩を百合は優しく抱きしめながら青いパイル地のタオルで涙を拭っており、箒を右手に持ったあおいは表情を変えること無く目だけでボールの行方を追っている。この間、僅か数秒のはずだが、通常であればその数秒では収まる筈がない情報がおれの視界に入って来る。これこそが『一瞬が永遠に感じる』という状況なのだろうか。

 やがてボールはカップに差し掛かる。しかし、ボールはカップのエッジをくるくる回り始めている。

 入れ! このまま入れ!

 おれを含む小手指総合の生徒は全員同じことを考えていただろう。だが、おれたちの想いを嘲笑うかのようにカップはボールを右方向に蹴飛ばすと、無情にもボールはそのままグリーン上で静止する。


 負けた。


 負けが確定した瞬間、おれの身体を支えていた膝の力がするすると抜け、グリーンの上にへたり込んでしまう。市川亮太とその取り巻き達は互いにガッツポーズをしたり、両手でハイタッチをしたりしている。

 おれたちはこれからどうなってしまうのだろう。やはり約束通り、フットゴルフ部は解散する方向に行ってしまうのだろうか。

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