Hole 1~穀雨の午後、ドラフトの指名を受ける(その1)
『連絡します。本日一時より七号棟多目的ホールにて『分配ドラフト』を実施いたします。全部活動の代表者と、人文科一年の中邨雄一さん、獲得希望の部の代表の方および観覧希望の方は、必ず開始時刻までにお集まりください』
連休谷間の五月二日(土曜日)十二時四十五分。おれは五号棟三階の講義室近くの廊下で、聞き慣れない学校行事のためにおれを呼び出す校内放送を耳にする。だが、おれはそんな怪しげな行事に参加するつもりなど毛頭無い。さっさと家に帰って、独り二時間ドラマの再放送でも観ながら昼食を食べるのだ。
まずは鞄を取りに自分が所属する三号棟のラウンジに戻るとするか……と思った刹那、いきなり両腕を掴まれ、十センチ程上に持ち上げられる。
「いっ、五百旗頭っ……それに一尺八寸さん……」
おれは左右にかぶりを振り、おれの両腕を掴んだ人物を確かめる。
「『五百旗頭』じゃ無いでしょ。生徒会からあれだけ名字禁止って言われてるのに」
「そーそー。ゆーいち君が奈穂美って呼んでくれないからてっきり嫌われちゃったのかと思ったよ。それとも、名前で呼んだら告白とか、プロポーズとか、赤ちゃんができるとか思ってるの? そもそも赤ちゃんと言うのは男と女がセック――」
「奈穂美、ここは廊下だから……」
入学式からもうすぐ一ヶ月が経過しようとしているのに、おれは未だに女子生徒を名前で呼ぶことさえままならない状態が続いている。これは、女子生徒と仲良くなるための一環として、入学早々生徒会がおれに、先輩を含めた全員を下の名前で呼ぶように義務付けたことに由来する。しかし、この三月まで男だらけの環境にいたおれが、いきなり女子生徒たちを下の名前で呼ぶようなフランクな付き合いなど出来る筈も無く、つい名字で呼んでしまい、そのたびに先輩や同級生たちから怒られるか、からかわれるのがここ最近のお約束となっている。
「それよりさっさと降ろしてくれよ。いお…いや、ま、舞……、奈穂美ちゃん……」
しかし奈穂美はおれの言葉にかぶりを振る。
「ごめんねぇ。みとさんと亜佐美さんから、ゆーいち君をホールまで連れて来るように頼まれちゃってるから、放すわけにはいかないんだよね。舞、いっくよー」
「うんっ!」
「おい、一体何を始める気だ!」
怖い怖い怖い怖い怖いっ!
おれは両足をぶらぶらさせながら、背中に一筋の汗をかく。
軽々とおれの身体を持ち上げた二人は、各々の胸がおれの両腕に当たっていることなど気にする様子を見せること無く、そのまま七号棟の多目的ホールに向かって小走りを始める。
三階から二階に降り、二つの渡り廊下を経由し、学校関係者専用の自動改札を抜けると、学校の敷地の西側に建ち、市の公民館・市立兼学校図書館・そして多目的ホールとして一般市民にも開放されている七号棟の中に入る。
吹き抜けに設置されているエスカレーターを駈け上がり、二重扉を通って多目的ホールの中に入ると、おれたちの到着に気付いた観客たちが大きな拍手で迎え入れる。
ステージ手前で舞と奈穂美に降ろされたおれは、生徒会役員を意味する琥珀色をした麒麟のバッジをブレザーの襟に付けた女子生徒たちに促されるままステージ上まで誘導される。
三百五十席はある観客席のほとんどが女子生徒で埋まっており、いつの間にか拍手の手を止めた女子生徒たちが黙ったまま、おれの方をじっと見つめている。
「ご本人がいらっしゃいましたので、これより『分配ドラフト会議』を開始いたします」
舞台上手でマイク片手に立っている生徒会書記であり、おれの担当トレーナーである人文科二年の十亀亜佐美が、おれの意思など無視するかのように進行を始めると、再び観客席より割れんばかりの拍手が沸き起こる。
トレーナー制度とは、新入生が学校にいち早く慣れるため、トレーナーである二年生と三年生一名ずつがトレーニーである新入生一名に付いて学校生活をサポートする制度である。おれの担当トレーナーは人文科二年の生徒会書記・十亀亜佐美と、同じく人文科三年の生徒会長代理・兎川みとの二人だ。担当トレーナーに生徒会役員をあてがったのは、おそらく初の男子生徒であるおれに対する配慮なのだろう。
「この『分配ドラフト会議』は、本校の『部活動に関する規則』に基づき、部活動が必修単位の一つとして参加が義務付けられているにもかかわらず、人文科一年の中邨雄一さんは入部届の提出に応じなかったため、中邨雄一さんの所属先を決定することを目的として実施されます。なお、『分配ドラフト会議』の開催は今回が初めてとなりますので、いくつかの不手際もあるかと存じますが、何卒ご了承のほどお願いいたします。ではさっそくですが、最前列にお座りになられている部活動の代表者の皆様の中で、中邨雄一さんを獲得希望の方はご起立願います」
亜佐美に促され、部活動の代表者全員が立ち上がる。代表者の中には舞の姿も見える。
おそらく今のおれの頭上にはたくさんの疑問符が浮いているだろうが、おれはただ、舞を含む部活動の代表者をステージの上から眺めることしか出来ない。
「複数の部活動からの指名がありましたので、これより抽選に入りたいと思います。部活動の代表者の方はステージへお上がりください。中邨雄一さんは一旦下手にお下がりください」
おれはどちらが上手なのか下手なのかが分からず、数回首を左右にかぶりを振ると、司会を務めている生徒会役員が手招きしているのが目に入り、逃げるように下手の袖に隠れる。
一方、ステージ上では代表者たちが抽選箱に手を突っ込み、三角くじを一枚ずつ引いている。
「全員三角くじを引き終わりましたでしょうか。あたりには『交渉権獲得』のスタンプが押されております。それでは皆様一斉にくじを開いていただき、ギャラリーにお見せください。それではどうぞ!」
十亀亜佐美の掛け声とともに、代表者たちが三角くじの耳の部分をちぎり始める。
「あった! よっしゃあああ!」
上手のほうから聞き覚えのある声が聞こえてくる。おれの目に映ったのは、溜息と驚きの声が入り混じる中、満面の笑みを浮かべ、朱色で『交渉権獲得』のスタンプが押されたくじを右手で高々と上げながらピョンピョン飛び跳ねる舞の姿だった。
「おめでとうございます。交渉権を獲得しましたのはフットゴルフ部です!」
会場が、割れんばかりの拍手の音に包まれる。
一方のおれは、人目を憚ること無く全身で喜びを表現している舞の姿に段々腹が立ってくる。何だそのフットゴルフとやらは? あまりに急過ぎる展開に付いて行くことが出来ていない。まるで弁護人のいない一方的な裁判ではないか。おれは意を決し、司会役である亜佐美から無理矢理ワイヤレスマイクを奪い取る。身体を観客の方向に向けると同時に拍手の音が鳴り止む。
「あの、おれは部活動には一切興味がありません。細かい規則については良く分かりませんが、生徒全員に部活動参加の義務があるなら、形だけは『フットゴルフ部』とやらに所属はしますが、活動そのものには一切参加するつもりはありません」
おれの言葉に会場が一気にざわつき始めるが、おれはマイクの電源を切って床に置くとステージから飛び降りると、観客席中央の通路を通ってホールの出口に向かう。飛び降りた衝撃で両足が少し痛いが、痛みで顔をゆがませないよう平静を装う。
「まぁまぁ、たかが学校の部活なんだから、細かいことは気にせず気楽にやればいいじゃないか」
聞き覚えのある声に歩みを止めて後ろを振り返ると、生徒会長代理でおれのトレーナーである兎川みとが別のワイヤレスマイクを使っておれを呼び止めている。
『細かいことは気にせず気楽にやればいい』だと?
兎川みとの言葉にカチンときたおれは、彼女の言葉を無視して出口に向かう。中学時代、おれは部活に自分の全てを注ぎ込んで来たのだ。それをレジャー感覚で楽しめとは、先輩とは言えあのバカ女、ふざけているのか。
「君には悪いが我が校では幽霊の存在を認めることは出来ない」
兎川みとは先ほどとは打って変わり、語気を強めておれを呼び止める。おれはステージ近くまで戻り、床に置いたワイヤレスマイクを再び手に取り、スイッチを入れる。
「どうしてです? 名目上フットゴルフ部に属してさえいれば、問題無いんじゃないですか?」
「それは違うな」
「違うって、どういうことですか?」
「君はいわゆる『七〇%ルール』が分かっていないようだね」
『七〇%ルール』。それは『部活動に関する規則』で規定されている、部活動の全活動日のうち、七割以上の出席が無いと単位が付与されないという条文の通称である。
「分かっていますよ。そんなもの、フットゴルフ部とやらの部長である五百旗頭舞が出欠表におれが出席した記録を書いて学校側に提出すればいいことです。これは言わないでおこうと思っていましたけど、『細かいことは気にせず気楽にやればいい』なんて、何ふざけたことを言っているんですか? 部活をやる意味って、勝負に勝つこと以外何があるんです? 部活は遊びじゃないんだ。今の発言は大会で勝つことを考えている他の部活にも失礼な話じゃないですか」
「君は本気でそう思っているのか?」
一気にまくし立てるように言葉を並べたおれの姿に兎川みとは驚いたような顔をしながらおれを見つめている。
屁理屈な上に、詭弁であることは分かっている。だがおれは、兎川みとの『気楽にやればいい』という発言だけはどうしても看過することが出来なかったし、三年間全力で取り組んできたゴルフを遊び程度のものだと言われたような気がしたからだ。
観客の女子生徒たちの、呆気にとられたような、そして憐れみにも似た表情をしながらおれを見つめる視線が痛い。
「もしフットゴルフ部部長である五百旗頭舞君が出席簿を改竄し、それが発覚したら、彼女のみならずフットゴルフ部に対し、高校を卒業するのに必要な単位を不正に取得した重い責任が問われることとなる。それだけでは無い。君はこの学校の伝統と名誉に泥を塗ることになるのだぞ。君にはその自覚があるのか?」
昭和五十九年に開校したこの学校に、伝統もへったくれもあるものか。おれは自分の立場しか考えていないであろう兎川みとの言葉に内心腹が立っていたが、同時に過去の経験から、玩具を買って貰えない子供のようにこの場で寝っ転がって両手両足をバタバタさせても何の解決にもならないことも理解していた。しかしながら今のところおれの脳裏には、全員が納得できるような解決策を持ち合わせてはいないし、全校生徒に睨まれているこの状況においてわずか数秒で一発逆転の秘策を思いつくのは至難の業だ。となればこう答えるしか無いだろう。おれはワイヤレスマイクを再び口元に近づける。
「この件は一旦持ち帰り、後日改めて回答させていただきます」
おれのビジネスライクな言葉に再び会場がざわつき始める中、ワイヤレスマイクのスイッチを切ってステージの上に置くと、観客席後方の出口から、静まり返った会場を後にした。
公団住宅である駅前コート一号棟三階の自宅に戻ると、キッチンの棚からインスタントの天ぷらそばを手に取り、保温状態の電気ポットの湯を注ぐ。家にはおれ以外誰もおらず両親は仕事、地元の並木中学校に通う妹の七海はおそらく部活だろう。おれは右手に天ぷらそば、左手に麦茶が入ったグラスを持った状態でソファに腰掛け、グラスを一旦ガラステーブルの上に置き、ブラウン管に映る二時間ドラマの再放送を見ながら天ぷらそばを食べ始める。
食べ終わったところで、いつの間にかテレビがゴルフの中継に切り替わっているのに気付く。おれは何の躊躇をすること無くチャンネルを変え、横浜スタジアムで行われている横浜大洋対中日の試合に切り替える。去年の自分だったら絶対にチャンネルを回すことは無かっただろう。
目が覚めると、テレビの画面は数日前にロサンゼルスで発生した暴動を空撮した映像に変わっており、画面左上の時計は六時三十五分を指している。どうやらおれはうたた寝をしていたようだ。そしてすぐさま、インターホンが何度も鳴り続けていることに気付く。
「うるせぇなぁ……今開けますからぁ!」
おれは寝ぼけた状態のまま玄関に向かい、少し乱暴にドアを開ける。目の前に立っていたのは生徒会長代理の兎川みとだった。
「雄一、ちょっと顔貸せ」
おれはドアを開ける前にドアスコープを覗かなかったことを少し後悔しながら、緩めたネクタイを締め直し、ワイシャツをスラックスの中にしまい込む。
「まぁそんな嫌そうな顔をするな。私は君を殴りに来たのでは無い」
兎川みとは無意識だったおれの表情で何かを察したのか、おれの不安を打ち消さんとする言葉を掛けながら笑みを浮かべるも、その目は決して笑ってはいない。
「分かりました。ジャケットを羽織って来ますんでちょっと待っていただけますか?」