Hole 4~後ろ向きな前進、前向きな後退(その5)
水曜日の早朝。目が覚めてしまったおれは、準備運動を兼ねて学校の周囲を散歩すると、ブラックの缶コーヒーとチョコバーを買うべく、おれは七号棟の通用口としても機能しているコンビニの中に入る。一般客用の駐車場には五十台程度の車を停めることが出来る広さを誇っているが、車高を低くし、エアロパーツを取り付けた一世代前のトヨタ・チェイサー一台だけがアイドリング状態で停まっている。おれ以外の客は三つ編みの女の子……制服姿の百合が窓際の雑誌売り場で雑誌を物色している。
「お、おはよう……ユリさん……どうしたの? こんなところで」
「ええ。今日はいつも買っている雑誌の発売日でしたので買っておこうと思っていたのですが、まだ入荷していないようですね」
「そっか」
「では、そろそろ皆様が起きられる時間かと思いますので、会計を済ませて戻りましょうか」
おれと百合はレジに向かう。ガラス越しに先ほどまで停まっていたトヨタ・チェイサーの姿はもういなくなっていた。
「ちょっとぉ、トンちゃんどこ行ってたの? 部屋まで迎えに行ったらいないんだもん」
部屋に戻ると、アディダスのウェアを着た舞が畳の上で仁王立ちしている。
「ああ、七号棟のコンビニで目覚ましにブラックの缶コーヒーとチョコバーを買ってたんだ」
おれはコンビニのビニール袋を軽く上に掲げる。
「あっ、いーなーっ……チョコバー一口もーらいっ!」
舞はおれの手からビニール袋を奪うと、中からチョコバーを取り出し、一口で三分の一あたりまで食べてしまう。
「うーん、ナッツぎっしり確かな満足っ!」
舞は口をもぐもぐさせながら満面の笑みを浮かべている。
「ああっ、楽しみにしてたのに……」
「もうっ、男がいちいちケチ臭いこと言わないの。さ、着替えたらさっさと朝練始めるよ」
舞は食べかけのチョコバーをおれの口に押し込むと、そのまま部屋の外に出る。そして一人残されたおれは、チョコバーの残りの三分の二を食べながら、これが間接キスであることにようやく気付くと、一気に顔の表面温度が急上昇した。
それからと言うもののおれたちは金曜日までの毎日、朝練を終えるとそのまま授業を受け、放課後は夕方まではストレッチやランニングそしてキリンゴルフでの打ちっ放しをこなし、夕食を挟み、夜は九時近くまでピッチでティースローの練習に励んだ。そして最終日である土曜日の午後は新所沢駅からバスに乗って、赤坂ゴルフコースを訪れ、全九ホールを二回ラウンドし、最終調整を行ってこの合宿を打ち上げたのだった。
夕方六時過ぎ。百合が新所沢駅構内の階段を降りようとするおれを呼び止める。他の三人は既にホームで本川越方面から来る上り電車を待っている。
「どうしたの?」
「今日、この後何か予定はありますか? 誰かに呼び出されているとか、お会いする約束をされているとか……」
「いや、何も無いけど」
おれはかぶりを振りながら答える。百合はどうしてそんなことを訊いて来るのだろう。もしかしたら、時間があればこれから二人でどこかに――みたいなお誘いがあるのだろうか。
「そうですか。では今日は絶対寄り道をせず、真っ直ぐお家に戻られましたら、わたくしの携帯電話にお電話をいただけませんか?」
「うん。いいけど、おれが家に着く頃、ユリさんはたぶん秋津駅と新秋津駅を結ぶ商店街を歩いてるところじゃない?」
「そうですね。でも兎に角、必ずわたくしに電話をお願いしますね。あと明日の朝、出かける時間まで絶対に外に出ないでくださいね。約束ですよ」
「うん。明日は大事な日だし、今日はぬるめの風呂にゆっくり浸かって、早めに寝ようかと思ってたから」
「ええ。それが一番ですね。あっ、電車が来たみたいですね。雄一さん、行きましょうか」
「あっ、うん」
おれは階段を駆け降りる百合を追いかけ、急行西武新宿行に乗り込む。
やはり、大事な勝負の前日であるにもかかわらず、一緒にどこかに行きましょうなんて、百合のようなしっかりした女の子が言う筈無いか。おそらく百合はおれのことを気遣ってくれたのだろう。本当にありがたいことだ。おれは次の航空公園駅に到着する直前、百合と温香に合宿に付き合ってくれた礼を言うと、舞、奈穂美とともに電車から降りた。
おかしい。何かがおかしい。どうしてこんなことになってしまったのだろう。駅前コート一号棟入口で舞と別れ、独りエレベーターに乗ろうとした刹那、背後からいきなり何者かに麻袋のようなものを被らされ、両手両足をロープのようなもので縛られたかと思ったら、身体を掴まれた手の数から少なくとも二人の人間に担がれそして、狭く、暗い場所に閉じ込められる。開閉音からおそらく閉じ込められたのは車のトランクの中だろうか。すぐさま、エンジン音が聞こえて来たかと思うと、急発進でバックし始め、後頭部がトランク内部のどこかにヒットする。そして一旦右方向にハンドルを切ったかと思うと急停止し、前方へ再度急発進する。すぐさま右折したかと思うと、ほんの少し走り、今度は左折をする。車はどんどんスピードを上げるも、すぐさまスピードを落とし、数分間停止したかと思うと、再び急発進し、二分後、再び数分間、それもさっきよりも少し長い時間の停止の後、ゆっくりと左折し、今度は先程とは遅いスピードで道なりを走っている。
最後の左折から十数分経っただろうか。視覚と両手両足の自由を奪われたおれをトランクに乗せた車はゆっくりと右折をする。下の方から聞こえてくる、ジャラジャラという音から、砂利の上を走っていることが分かる。どこかの私有地か駐車場に入ったのだろうか。車が停止するや否や、エンジン音が途絶えたかと思うと、トランクが開く音と、複数のドアが開閉する音が同時に聞こえてくる。すぐさまおれの身体は複数と思しき人物の手で運ばれていく。
おれは全神経を集中し、奪われた視覚以外から得られる情報をもとに、あれこれ考えを巡らせる。トランクから運び出された直後、おれは生暖かい風を手の甲で感じ、鼻で家畜のものと思しき糞のにおいを感じていたが、すぐさま風と糞のにおいは感じなくなり、代わりにじめじめして少しひんやりとした空気を肌で感じるようになると同時に、コツコツと言う足音が聞こえるようになり、その足音はこだまするように周囲で反響しあっている。おそらくここはコンクリートが打たれた屋内。しかもかなり天井の高い建物の中だと推測できる。そして鼻腔を刺激する機械油のにおい。ここはどこかの工場か廃工場である可能性が高い。では、具体的にどこの工場だろう。駅前コートで拉致され、車で二十分程度で行ける場所はかなり限られて来る。おそらくここは所沢市内か、隣接する市や町だろう。おれはトランクに閉じ込められた時のことを反芻する。右折と左折の回数、停止した時間、道なりに走り続けた時間そしてスピード。これをおれの脳内に記録された所沢とその周辺の地図を照らし合わせた結果、おれはひとつの結論に辿り着く。
推測なのでかなりの誤差はあるが、おそらく元禄年間に農地として開発された、所沢市と入間郡三芳町との境に近い三富新田のどこかだろう。おれは農地の中に点在する県道沿いの工場や倉庫の外観を思い浮かべる。だが、ある程度現在地を絞り込むことが出来たとしても、それを誰かに伝え、助けを求める術が無ければ何の意味も無い。そう思った刹那、みぞおちに重たい衝撃が走る。おそらく誰かが鉄パイプか何かで殴りつけたのだろう。あまりの痛みにうめき声を上げながら、身体を海老のように丸くする。すると今度は別の誰かがおれの背中を細い棒のようなもので数回殴りつける。おれは、ぎにゃあと叫びながら今度は身体を真逆に反らせる。棒の先端に金属片のようなものが付いていたことから、おそらくアイアンか何かだろう。今度は別の誰かと思しき誰かが土嚢袋の上からおれの頭を踏みにじり、複数の誰かがおれの身体を交互に蹴飛ばしたり、棒状のもので殴りつけたりする。おれは訳が分からないまま、必死にその痛みに耐える。
「やべー。超おもしれー」
「すげーっ、オレ超テンションアガってきたわ」
「そろそろこいつの泣き面でも見てみねぇ?」
「おもしれー。女に泣いて助けを乞うツラなんてゾクゾクすんな」
「おいっ、顔は隠したままにしろって指示があったろ」
「まぁ固いこと言うなって。それともおめー、ビビッてんの」
「別にビビッてねーよ。取りゃいいんだろ、取りゃ」
寄って集っておれをボコボコにすることで一種の高揚感に飲み込まれたのか、男たちはおれの頭に被せられた麻袋を取ると、その中の一人が五番アイアンでおれのあごをしゃくる。目の前にいるのは四人。身元がバレるのを恐れているのか、全員がニットの目出し帽を被っているが、体格と声からしておそらく男だろう。
おれは、骨を咥えた狂犬のジャージを着た五番アイアンの男を強く睨み付ける。他の男たちもどこで売っているのか分からない、黒とショッキングピンクのツートンカラーのジャージや、背中に千手観音が刺繍されたジャージ、そして、打ち上げられるロケットの絵とともに『MY DICKS ARE SO HUGE』という意味不明な筆記体が刺繍されたジャージを身に纏っている。
「ったく、ガキみてえなツラしてメンチ切りやがってマジムカつくなこいつ」
「こんなツラして種馬みてぇに毎日メスガキ抱いてるなんて、マジズリぃだろ」
おれは彼奴等の会話で、計画的に狙われてここに拉致されたことを確信する。
おれは身体を前後に動かしながら、両手を縛るロープを解こうとするが、結び目は固く、なかなか解くことは出来ない。正直言って、拉致されて手足の自由を奪われると言う、安っぽい二時間ドラマで見たことがあるような状況も、いざそれが現実になるとマジで怖い。だが、もしここで彼奴等に少しでも怯んだ様子を見せる訳にはいかない。あっという間に彼奴等におれの心の隙間に付け込まれ、取り返しの付かないところまでいってしまいそうな気がしたからだ。
「おめーマジでロープ解こうとしてんの? マジウケるんだけど」
狂犬ジャージを着た男がおれを鼻で笑う。おれは彼奴等を許さない。大切な人たちを、まるで性欲の捌け口のような目で見やがって。おれは黙って彼奴等を睨み付ける。
ピンクジャージの男がおれのみぞおちを蹴り上げる。それと同時におれは口から血塊を吐き出す。そして口の中に錆びた鉄のようなにおいが充満する。
「ガキのくせしてイキってんじゃねぇぞゴラァ!」
「うへぇ、コイツ血ィ吐きやがった!」
「マジキモいわー」
まずい。おそらく彼奴等は当初、おれを適当にボコるだけで終わらせるつもりだったようだが、高揚感からか、何かに取り憑かれたようにおれに対し、殴る蹴るの暴行を加え続けている。おれのことはいい。本当に厭なのは、これが原因で今後のフットゴルフ部の活動に影響が及ぶことだ。ごくたまに、高校野球で顧問が部員に、先輩が後輩に暴力を振るったり、バスケットボール部員が小学生の女の子に手を出したりするなどして、競技団体がその学校の部活に対外試合の禁止や活動休止といった処分を下すという報道を見聞きするが、それが現実となることだけは御免だ。
考えろ。答えは今おれが置かれているこの状況の中か、過去の経験から導き出すことが出来る筈だ。
『兎に角、必ずわたくしに電話をお願いしますね。あと明日の朝、出かける時間まで絶対に外に出ないでくださいね。約束ですよ』
おれの脳裏に、百合の言葉が再生される。ごめん。どうやらおれは、君との約束を守れそうに無い。もしこのまま約束を破ったら、百合はどうするだろうか。舞のように口を尖らせるだろうか。それとも、奈穂美のように説教を始めるだろうか。そう言えば、少なくともおれは、いつも優しい笑みを浮かべている百合が怒るところを一切見たことが無い。おそらく他の部員たちも同じ筈だ。もしこのまま、おれが百合の携帯電話に電話を掛けなかったら一体どうなるのだろう。いや、そもそも百合はどうしておれとあんな約束をしたのだろうか。おれは身体中を走る痛みと、低下しつつある自分の思考回路に気合で抗いながら、脳をフル回転させる。
百合の立場になって考えてみよう。もしおれが約束を果たさなかったとして、百合が困るとしたら、一体何だろう。本来であれば、西武池袋線秋津駅からJR武蔵野線秋津駅を結ぶ商店街を歩く頃に来るであろう電話が来ない。トンネルが多く、電波が入りづらい武蔵野線に乗る訳にもいかず、電話が来るのを待つべく、百合は新秋津駅の改札口の前にたたずんでいる筈だ。
だが、いくら待っても電話はかかって来ない。しびれを切らした百合は、自分の携帯電話からおれの自宅の電話に電話を掛ける。おそらく電話に出るのは妹の七海。おれに代わって欲しい旨を七海に伝えるだろうが、当然七海は『兄はまだ戻ってない』と言うだろう。それから確認のため舞と奈穂美の自宅に電話を掛け、一緒に行動していないことを知った百合は、おれの身に何かあったことを察知する筈だ。だが問題はここからだ。どうすれば彼女は、おれの居場所を割り出すことが出来るのだろう。当の本人であるおれですら、『三富新田の県道沿いの廃工場』であることしか分からないのに。だが、彼奴等にハッタリをかますいいヒントにはなったし、試す価値はある。
「おい。今更おれを殺したって遅いぞ」
「あん? んだとコラァ」
狂犬ジャージの男が中腰でおれにメンチを切って来る。
「おれは家に帰ったら、ダチに電話することになってるんだ。もしその電話が無かったら、おれの身に何かあったものと判断し、ダチが総出でおれを探すことになっている。もしそうなったらお前ら、おれのダチに半殺しにされんぞ」
おれは狂犬ジャージの男を睨み付けながら、背後に好戦的な人物がいるようなニュアンスを織り込んで話をする。
「ほぉーっ、面白え。だったら教えてもらおうじゃねぇか」
ロケットジャージの男はそう言いながら、右手の親指と人差し指でおれの顎を掴み、上へ引き上げる。
「なぁ、そのダチがホントにいるんだったら、今からそのダチとやらに電話してみやがれ」
ピンクのジャージの男が、ポケットから携帯電話を取り出す。
よし。引っ掛かった。
「さあ、番号を言え。ダチの番号ならソラで言えんだろ」
ピンクジャージがおれの目の前まで迫って来る。息臭えんだよ。気付けよバカが。
「030‐101‐xxxx」
おれは顔を少し横に逸らしながら、百合の番号をそらんじる。携帯電話を持ったピンクジャージがその番号にダイヤルすると、おれの右頬に携帯電話をあてる。
呼び出し音が数回鳴り出した後、聴き慣れた「はい」という百合の声が聞こえてくる。
「もしもし。ユリさん?」
「雄一さん! 一体どうされたんですか? 全然お電話は来ないし、ご自宅にお電話差し上げたら、まだお戻りになられてらっしゃらないと七海さんが……」
やはりおれが睨んだ通りだ。なら、やることは一つだ。
ジャージの男たちが口ぐちと「ダチってやっぱメスガキじゃんか」「おいおい、やっぱハッタリじゃねぇか」「だっせー」などいった言葉を口々に言って来る。
「雄一さん、何かあったんですか? 今どちらにいらっしゃるんですか?」
「ユリさん、今から言うことを落ち着いて聞いてほしいんだけど……」
おれは大きく息を吸い込む。一か八かだ。どうにでもなれ。
「おれは今、三富新田、県道上福岡所沢線の廃工場だ!」
「しまった!」
おれの挑発に乗って致命的なミスを犯したことに気付いたピンクジャージが慌てて携帯電話をおれから引き離し、通話を切る。
「てめぇ、ふざけた真似しやがって!」
「この野郎、ブッ殺してやる!」
ピンクジャージの尋常じゃ無い態度に、他の男たちが寄って集って再びおれに殴る蹴るの暴行を加え始める。おそらく警察が来るのは時間の問題だろう。だが、その後に行なわれるであろう警察からの事情聴取、そして学校やフットゴルフ協会に知ることとなり、最悪何かしらの処分が下されるかも知れない。だが、明日の市川との対決だけはどうしてもやりたい。
どれくらい時間が経ったのだろう。彼奴等の殴る蹴ると言った一挙手一投足がとても長く思える。そして何発殴られたのか、何回蹴られたのか、最早数えることすら出来ない。
「おい、こいつなかなかしぶといぞ」
「もうマジ手ェとか痛えし」
「だったら一気にケリつけちまおうぜ。おい、車入れて来いよ」
「おう」
狂犬ジャージの男は入口のシャッターを開けて外に出ると、停めてある車に乗り込み、工場の中へと動かし始める。車高を低くし、エアロパーツを取り付けたチェイサーが入って来る。この車、どこかで見たことが……って、七号棟のコンビニの前の駐車場に停まっていた車だ。
「なぁ、もし車でこいつの足轢いたらどーなるだろーな」
「おいおい、マジヤバくねぇ。キャハハハ……」
「そーだよな。一生フットゴルフが出来なくなるだろうな」
「ああ、下手に殺しちまうより全然いいや。殺人罪にもならねーだろーし、せいぜい一生フットゴルフが出来ない絶望を味わいながら残りの人生を送ればいい」
待て。彼奴等はどうしておれがフットゴルフをやっていることを知っているのだろう。
「なぁ、準備出来たぞ」
「おぅ、さっさと轢いちまおうぜ」
運転席の狂犬ジャージはエンジンを大きくふかしている。
「覚悟しろこのクソチビがぁ!」
「クーッ、超面白ぇ!」
彼奴等はおれの訝しみなど気にするどころか、エンジンをふかす音と、変速機が切り替わる音に呼応するかのように気分が盛り上がっている様子を見せている。ああ、おれはこれから足を轢かれるのか。おれは無理矢理覚悟を決め、目を強く瞑った。




