Hole 4~後ろ向きな前進、前向きな後退(その4)
火曜日。合宿二日目の放課後。
ピッチはあおいたちの練習が終わる夕方以降でないと使えないため、おれたちは関東大会前の練習メニューと同様にキリンゴルフまで走り、おれたちの指定席となりつつある四階の打席で、少しでも遠く、正確なショットを打つべく、温香の指導の下、フォームを調整しながら六時半くらいまで何発もショットを打ち続ける。学校に戻ると、ファミレスでの夕食を挟み、七時半にピッチの中に入り、十時過ぎまで天然芝を利用したティースローとパッティング、そしてアプローチの練習に入るというのが特訓の大まかな流れだ。
「それにしても……なかなかユーイチくんのティースローの精度が上がらないなぁ。ティースローが勝負を左右するから、何とかしたいんだけど」
温香はピッチの芝生の上を行ったり来たりしながら右手を両目に宛て、何かを考えるような仕草をしている。
「ごめん。おれが不甲斐無いばっかりに……」
「ううん。ユーイチくんのせいじゃ無いよ」
温香は両手を振っておれの言葉を否定する。
「ゆうちゃん、距離さえ稼げたら、それで問題は無いんじゃない?」
出入口の方からの、どこかで聞いたことがある声におれと温香は反射的に振り返る。するとそこには、高校入学案内で見たことがある陵桜の制服に身を纏った小鳥遊陽が立っており、その両脇にはル・コック・スポルティフのウェア姿で右手に箒を持った根路銘あおいと、小手指総合の制服姿の百合を従えている。
「小鳥遊陽……どうしてこんなところに……」
思わぬライバルの登場に、温香は目を丸くしながら小鳥遊陽を見つめている。
「温香さん、勝手なことしてごめんなさい。わたくしたちも、雄一さんのために出来る全てのことをやりたかったのです。小鳥遊さんのアドバイスを頂ければ、雄一さんだけではなく、わたくしたちにとってもプラスだと思いましたので」
百合は温香に小鳥遊陽を呼んだ経緯を説明する。
「加添。先日見かけた時はホントにびっくりした。甲信越ブロックから移って来たのね」
「ええ。予選であなたを叩きのめすことが出来るなんて、すごくラッキーだわ」
温香は強がりとも取れる好戦的な言葉を並べながら、おれたちが今まで見たことが無い鋭い眼光で小鳥遊陽を射すくめている。これが温香のかつての姿なのか。一方の小鳥遊陽はそれに一切怯むこと無く、ゆっくりと温香に歩み寄っている。もしおれがその眼で睨みつけられたら、百二十パーセント泣ける自信がある。そして僅か五十センチ足らずの距離で両者が対峙する。
「ところで今、千原くんは何してるの?」
「軽井沢の千ヶ滝高校でDPをやってるわ。で?」
「そう。千原くんはちゃんと前を向いているのね。安心したわ」
小鳥遊陽はそう言うや否や、温香を強く抱きしめる。
「おまっ……何でこ……やめ……」
温香は何かを言いかけながら抵抗するも、小鳥遊陽の胸の中でなす術も無く、やがて温香の身体から余計な力がするすると抜けていくのが分かる。
「ねぇトンちゃん、あの二人、知り合いなの? って言うか、どうやってうちの学校のセキュリティを突破して来たの?」
おれと一緒に遠巻きで二人の様子を窺っている舞は、おれのウェアの袖をくいくい引っ張りながら小声で耳打ちしてくる。
「中学ん時あの二人、全国大会で対決したことがあるって話なら聞いたことがある。二番目の質問については知らん。たぶんユリさんが何かやったんだろ」
小鳥遊陽は温香をホールドしたまま話を続ける。
「ねぇ加添。これだけは分かって。私たちはライバルだけど、それは試合中だけの話。それ以外はノーサイドよ。正直言って沖縄での戦いは私たちにとっても後味のいいものじゃなかったし、あれからずっと心配してたんだよ。辛かったよね。しんどかったよね。だけど加添はもう大丈夫だよね。だって、またフットゴルフ始めたんだもん。でもどうして?」
温香は小鳥遊陽の問いに対し、無言で視線を舞のほうに動かす。小鳥遊陽もそれにつられて舞の方を見る。すると彼女はゆっくり舞に近付くと、今度は舞をぎゅっと抱きしめる。確か彼女は舞を知らない筈だ。
「今気付いたけど、君は学校見学会に来てた子だよね。うちの部で体験入部もしてたでしょ?」
「どうしてそれを……?」
舞はいきなり彼女に抱き締められたせいなのか、それとも彼女が自分を覚えていたことを知ったせいなのか、驚きの表情を隠そうとしない。
「だってこんなカワイイ子、忘れる訳無いじゃない。単願でうちを受けるって言ってたけど、小手指総合に進学したんだね。残念」
「すっ、すみません。あの時はホントに第一志望だったんですけど、考えが変わって……」
おれは舞が二月の二次募集試験の時に言っていた言葉を思い出す。あの時ナーバスだったおれは筆記試験前で深く考える余裕は無かったが、強豪校に行くのではなく、自分で部活を一から作る道を選んだからなのか。
「ま、結果的にこれで良かったのかもね。埼玉県で二番目のフットゴルフ部を作って加添を復帰させてくれた上に、面白い子も見つけてくれたし、あなたには感謝すべきなのかもね」
小鳥遊陽はそう言うと、舞を抱きしめたままおれに向かってウインクする。『面白い子』って、珍獣扱いなのか、おれは。
「それじゃ、本題に入りましょうか」
一瞬にして小鳥遊陽の目つきが変わる。
「ボールを思い通りにコントロールするにはどうすればいいか。 結論から言えば、目標地点まで最短最速でたどり着ければ滞空時間も短くなるし、影響も受けにくくなるんだよね」
「あの、それは温香ちゃんから既に……」
小鳥遊陽はおれを一瞥して軽く笑みを浮かべると、バスケットの中からボールを一つ手にすると、約百五十ヤード先にあるゴールを支える二本の鉄柱の左側を指差す。
「じゃ、あれに当ててみようか」
小鳥遊陽はそう言うと、ワインドアップから急激に重心を下降させると、右腕を地面ギリギリまで下げ、腕をしならせながらボールをリリースする。
アンダースロー? 大会の時、小鳥遊陽は一度もこんな投げ方をしていなかった筈だ。
ボールはその威力とスピードを落とすこと無く、高さを維持したまま地面すれすれを飛び続け、百五十ヤード先にある左の鉄柱にヒットし、ボールがあさっての方にはじかれる。
すごい。一発で当ててきた。しかしそれ以上におれが驚いたのは、こんなすごいテクニックを手の内に隠したまま大会に出場していたことだ。
「あのっ、もしかしてアンダースローで投げることで高さをキープしていたとか……」
「ううん。それはちょっと違うかなぁ……。それじゃ、今度は右側ね」
小鳥遊陽は再びバスケットからボールを手に取り、今度は右ポール目がけてオーバースローで投げると、ボールは先程同様初速と終速を変えること無く右の鉄柱にヒットし、右上方へ跳ね飛ばされる。
「まだまだいけるよ。もう一回左っ」
小鳥遊陽の予告通り、三球目も一直線に左鉄柱にヒットする。
「でもみなみさん、関東大会ではどうしてアンダースローで投げなかったんです?」
「ああ、それはたまたまかなぁ……そして今、オーバースローで投げたのも、たまたまかな」
「たまたま?」
「うん。あの時は今の投げ方をする必要が無かったからね。ただ、アンダースローだとオーバースローよりパワーが要るし、スタミナの消耗も激しいからね。そう言えばあおいちゃんだっけ? 箒の子。あの子が言ってたけど、ゆうちゃんって中学の時ゴルフやってたんだって?」
「ええ」
「だったら分かるんじゃない? ゴルフもフットゴルフも自然を相手にするスポーツでしょ。おっ、今投げるとしたら、アンダースローじゃうまくいかないかな。それじゃ、今度はゴールの真ん中いっちゃおうかな」
小鳥遊陽はボールを手に取ると、真ん中より少し左を向いた状態でワインドアップの態勢に入り、オーバースローで投げる。ボールは先程とは異なり、まるで一次関数、y=axのグラフのようにまっすぐ斜め上に上昇するが、ポールまで残り二十ヤードのあたりで急に右カーブを描くと、そのままゴール真ん中を通過する。
すごい。百発百中だ。もしかしたら魔球? いや待て。終盤での変化は投げ方よりも外的要因の方が強いだろう。と言うことは……。
おれは向かって左側の防護ネットに並行して建っている掲揚旗用のポールに注目する。掲げてあるのは日章旗、十六個の勾玉をかたどった埼玉県旗そして校旗。それぞれは左から右へゆらゆらと……って、おれはバカか。どうしてこんな簡単なことに気付かなかったと言うのだ。
おれはバスケットからボールを取り出すと、「真ん中、行きます」とつぶやき、真ん中よりも少し左方向に向かって大きく振りかぶる。
ボールはさっきの小鳥遊陽の投球とほぼ同じ、一次関数のグラフのような弾道を描き、ポールまで残り二十ヤードのあたりで右に曲がると、ゴール真ん中より若干右斜め上を通過する。
初速時はまるでレーザービームの如く、そして外的要因を受けやすい終速時は風の流れを利用し、目標となる地点にボールを持っていく。如何にして刻々と、そして地上と上空で異なる風の流れを読むのか、そして、風の力が利用出来ない時はどんな力をボールに与えるかが、正確なティースローのカギと言うことか。
「どうやらきっかけを掴んだみたいね。そうと分かれば私は用無しだね。それに疲れたからもう帰るね。ばいばーい」
「あのっ、小鳥遊様、お送りします」
箒片手に無言でおれたちのやりとりを見守っていた根路銘あおいが小鳥遊陽に声を掛ける。
「いや、電車で帰るから大丈夫だよ。あおいちゃんも春日部まで往復するの大変でしょ。それじゃあね」
小鳥遊陽はおれたちに背を向けると出入口の敷居を跨ぎ、右腕を上げながらその姿を消す。
「何か、『風のように現れて、風のように去って行った』みたいな感じだよね」
奈穂美がぼそりとつぶやく。
「うん。急に静かになったね」
奈穂美のつぶやきに舞も同意する。
「おれは練習の続きをしようかな。はるちゃん、マックス五十球だから、あと四十九球だよね」
おれは温香に確認を求める。
「そうだね。奈穂美ちゃん、カウントお願い。舞ちゃんはユーイチくんにボールを渡して」
「おーけいっ」
「それでは、わたくしはあおいさんと一緒に七号棟のコンビニエンスストアに行ってお飲み物を買って来ますね。あおいさん、参りましょうか」
百合とあおいの二人はピッチの外に出て行く。
折角小鳥遊陽からヒントを貰ったのだ。金曜日までに確実にモノにする。
おれは舞からボールを受け取ると、目で、腕で、髪で、そして頬で時々刻々と変わる空気の流れを読み込み、ワインドアップからオーバースローでゴールの真ん中目がけて二十五球ほど投げ込む。
ボールは弧のような弾道を描き、八割の確率で、ゴールを九分割したうちの真ん中の部分を通過する。しかし何かが違うような気がする……そうか、原因はあれか。
「舞」
「ん?」
「悪いんだけど、左側のポールの旗を降ろしてくれないかな」
「えーっ、面倒臭い……」
舞は口を尖らせる。
「ゴルフコースの真ん中に、あんな大きな旗が掲げられていると思うか?」
「分かったわよ。降ろせばいいんでしょ。降ろせば」
舞は奈穂美とともにブツブツ文句を言いながら歩いてポールに近付く。おれは舞が作業を終えるまでしばしの休憩に入る。
「はるちゃん、ユリさんは純粋に現状を何とかしたいという想いでみなみさんを呼んだんだと思うよ」
「うん。分かってる。でも、何だか私、不甲斐無いなぁって。ユーイチくんになかなかうまく教えることが出来ないし……」
温香は少し悲しそうな笑みを浮かべながら答える。
「そんなこと無い。それに先日の関東大会の時だって、おれたちが深いラフとか木の根っこに打ち込んじゃった時も、リカバリーショットでフェアウェイに戻したり、グリーンにオンさせたりしてたじゃないか。中学の時、陵桜中等部をギリギリまで追い詰めたのも良く分かるし、二人が過去に壮絶な戦いを繰り広げていたことも良く分かったよ。だからおれは、今はホント技術的にも精神的にもダメダメだけど、一日でも早く温香ちゃんやみなみさんのレベルに近付きたいと思ってる。そしていつか、おれたちに手を差し伸べてくれたみなみさんと陵桜の人たちに敬意を表して……徹底的に叩き潰すつもりだ。いや、潰そう」
「フフフッ……『敬意を表して徹底的に潰そう』なんてユーイチくんってなかなか面白い事言うんだね。そっか。そうだよね。今日あの女が来たのも、『また昔のように私と勝負しよう』というメッセージだと解釈しておくよ。ありがとう……」
温香の目が一瞬少しだけ光ったような気がしたが、ここは敢えて何も言わないことにしよう。
おれは中学時代、特待生だったプライドが邪魔して、他の部員から教えを乞うことが出来なかった。同じ学校の、同じ部活に属していたというのに、彼等は大会にエントリーできる代表を争うライバル、いや、他校の生徒以上の敵だったからだ。おそらく温香もあの頃のおれと同じような気持ちだったと思うが、彼女はおれと違って現実から逃げず、小鳥遊陽の善意を受け入れた。それが中学時代に堕ちるところまで堕ちたおれと、三年連続甲信越チャンピオンで、最後の大会で全国三位まで上り詰めた彼女とのマインドの違いなのだろう。
「みなさん、スポーツドリンクを買って来ましたよ。少し休みましょうか」
白いビニール袋を両手にぶら下げた百合とあおいがコンビニから戻って来る。
「ユリさん、何かいっぱい買い過ぎじゃない?」
舞が数多の菓子を目の前に目を輝かせている。
「そうでしょうか。でも、みなさんの好みが良く分かりませんでしたので、取り敢えず色々なものを買ってみたのですが……」
「おおっスゲーっ。奈穂美、はるちゃん、一緒に食べよ。旗降ろしてたら息が切れまくりだよ」
「嘘付けっ!」
おれは疲れたアピールを強調する舞の頭に軽くチョップを入れる。
舞と奈穂美と温香が一斉に笑い出す。おそらくおれも口元が緩んでいたはずだ。今度の日曜日の対決も大事だが、それ以上に大事なのは、おれが、おれたちが一日でも早く使える戦力になることだ。そういう意味では今回の対決も、一種の強い動機付けだ。屈折した考え方だろうけど、ある意味においては市川に感謝すべきなのかも知れない。ただ一つ気になったのは、合宿が始まってからと言うものの、昼夜を問わず、いつもにこやかな表情を浮かべている百合の顔から時折表情が消え、まるで何かを探すかのようにあたりを見回すようになったことだった。




