第8章「非日常・路地裏・2」
僕は暗い路地裏をとぼとぼと歩く。
足に力が入らず、壁に身体を何度かぶつけた。
見ず知らずの人が死んだだけでこれ程のショックだ。
自分の知り合いがあんな風に死んだら僕はどうなるんだろうか。
きっと耐えられないと思う。
前を見ないでなんとなく路地裏を奥へ奥へと進んでいく。
進む。
曲がる。
進む。
曲がる。
それをひたすら繰り返す。
さっきまであった抵抗はいつの間にか消えていた。
なんだか独りになって落ち付きたかった。
僕はただ迷路を歩き続ける。
ゴールはわからない。
見えないし、あるのかすら知らない。
それでも僕は何かを欲するように歩き続ける。
それがなんなのかはわからないけど。
何かを探している。
もしかしたら『探し物』をする事で忘れようとしているのかもしれない。
あの悪夢のような光景を。
殆ど手探りで僕は闇に続く道を歩いていく。
どこを見ても光は見えない。
強いて言うなれば空くらい。
だけどそこはあまりにも高い。
そしてそこに向かおうにも高い壁がそれを阻む。
まるで奈落の底に突き落されたような、そんな絶望感だ。
30分近くそうしていただろうか。
しばらくの間あてもなく歩き続けていると行き止まりにあたった。
僕は俯けた顔を上げる。
それは廃墟の建物だった。
看板の類は一切撤去され、以前はどんなものだったのかわからなくなっている。
どうやら買い手がいないらしい。
窓ガラスは尽く割られ、壁面に落書きされている。
この辺りは治安が悪いようだ。
何となく中が気になった僕は鍵を破壊された玄関の扉を開く。
大した力を入れなくてもあっさりと扉は開いた。
照明となるものがなく、真っ暗で殆ど何も見えないが目が慣れてきたのかだんだんと物の輪郭がわかるようになる。
荒れ放題だった。
煙草の吸殻やビールの空き缶が散乱している。
不良の溜まり場になっているらしいが中に人の気配は無い。
そうして中に一歩を踏み出した。
黴臭い上に埃っぽい。
僕は闇の奥に目を凝らす。
何も見えない。
だが、何かが居る。
僕は息を呑む。
靴がガラスの破片を踏み、パキッと音が出た。
シルエットからすると恐らく男性。
彼もこちらに気付いているようだ。
いや、最初から気付いていた、というべきか。
身体は細身で結構背が高い。
雰囲気から不良の類ではないと判断する。
男はこちらを見詰めていた。
対する僕は身動きできない。
これなら寧ろわかりやすい不良の方がマシだと思う。
そうして男は突然立ち上がった。
一瞬で空気が変わる。
僕は後退った。
男の眼。
それが不気味に光ったかのように――見えた。
刹那、室内の空気が荒れ狂う。
空間が歪曲したかのような錯覚さえ抱く。
そしてその中心に立つ男の背後にあの黒い巨人が見えた。
闇に溶けている様にゆらゆら揺れるそれはこちらに圧倒的な存在感を与えてくる。
そしてその巨人はゆっくりと一歩を踏み出す。
実体無きそれは男をすり抜けて僕の目前にまでやってきた。
まるであの時と同じ光景。
僕は我に返ると慌ててそこから逃げ出す。
直後、空気を裂く音が響き、床にクレーターを生み出した。
あのままそこに居たら僕もあの肉塊のようになっていた事だろう。
背中を何か冷たいモノが流れる。
どうする、このままでは絶対にやられる。
だけど僕の能力は『扱いきれない』。
こんなところでは被害がどこまで及ぶかわからない。
つまり反撃はほぼ不可能。
僕は玄関に向かって走り出す。
しかし僕の横を烈風が通り過ぎた。
そして重い鈍器が真横から僕に向けて叩きつけられる。
回避できるわけがない。
僕は物理法則に従って壁に衝突した。
目の前に火花が散ったかのような錯覚。
命はおろか意識がある時点で奇跡的だ。
脳内麻薬が分泌されているのか痛みは感じない。
ただ熱があるのとバランス感覚がおかしくなっている事に気付いた。
骨は折れていないようだったが動けそうにない。
そうして遂に僕の視界がぼやけてきた。
指一本動かせない。
どうやら僕の人生はここで終わるようだ。
ゆっくりと巨人が拳を握る。
それでも僕は何もできない。
叫び声を上げる事もできない。
しかしその時。
格子しか残っていない窓から月の光が差した。
僕は最初に唖然とし、次の瞬間まともに動かない口をニヒルに曲げる。
血の味しか感じないが僕に余裕が出てきた。
奇跡はあると確信する。
逆転は不可能だが。
危機からは脱する事ができる。
雲から月が露わになり、僕の身体を月光が照らした。
そうして僕の身体が軽くなっていく。
動ける。
そうして巨人が弾丸の如き速さで拳を打ち出した。
僕は避けようともしない。
その必要はない。
僕は抵抗せずその攻撃を受け入れる。
普通なら僕の身体がひしゃげている筈だろう。
実際後ろの壁には大穴が開き、外の風景がまるわかりになっている。
だが僕は生きている。
傷一つない。
顔は見えないものの男は不可解な現象に眉を顰めているようだった。
僕はその光景を見てにやりと笑うと立ちあがり、床に投げられた鞄を掴んでダッシュで逃げた。
男と巨人は追ってこない。
僕はそれでも逃げ足を止めず、たまに後ろを振り返ってひたすら走り続けた。
息切れも起こさずいつもよりも遥かに早いスピードで僕は路地裏を疾走して大通りに出た。
そこでやっと僕は停止した。
通行人がこちらに変なものを見る目を向けているが僕は何食わぬ顔をする。
そうして自分の全身を見回す。
身体はおろか着ていた制服も元通りだった。
汚れ一つ見当たらない。
僕は安堵に胸を撫で下ろした。
そうして僕はできるだけ普通な感じに務めつつ神社に向かう。
桜に囲まれた参道に入り、何段もある階段を昇り、鳥居を潜って、何も乗っていない狛犬の台座と灯篭を横目に神社の住居スペースに入った。
「ただいま」
扉を開けるとそこに巫女装束を着た祀が居た。
その顔は若干不機嫌。
「おかえりなさい。そして私に何か言う事は?」
お母さんか。
だが寧ろその言葉が僕を安心させてくれた。
僕は苦笑いしつつ頭を下げる。
「ごめん、遅くなった」
「まぁ詳しい事情は聞きませんが……大体の事は察していますよ」
やっぱりか。
僕は観念しようと両手を上げた。
「成人向けコミックについてですが……」
「そっち!?」
そうすると祀は若干目を見開き、ほんのり頬を赤くした。
「まさか本当に買ったんですか?」
冗談だったのか。
その後、阿吽と吽形を巻き込んだ審判が行われたがなんとか証拠を出す事を回避して僕はそれを乗り越えた。
今日の事が結構ショッキングだった事もあり、僕は寧ろそれがありがたく感じた。
多分あの男とはまだ悶着ありそうだが、今はこの時間を大切にしようと思う。
阿形と吽形に憑いていた黒い巨人と軍人、そして死体と黒幕らしい男。
僕は早く解決してくれないだろうかと説に願った。