第7章「非日常・路地裏」
放課後。
幸い居残りは筆記テストのみだったので早く帰る事ができた。
僕は玄関で待っていた3人に頭を下げる。
「来ましたか」
「ごめん、待たせて」
「そんな待ってないから気にするなわん」
「こっちはゲームで暇つぶししてたしにゃ」
空の色は若干朱色に染まっている。
上が青、それから下にかけて黄金に変化していた。
カメラで残したいと思う位には綺麗だ。
歩道に咲く桜は未だ満開ではなく、どこか寂しく感じた。
しかし幾つかの場所では既に満開して、更に早い所では散り始めているという。
ここは遅い部類だろう。
いつも通り4人で(クラスの友人達にはハーレムだとか一級フラグ建築士だとか言われている)帰っている僕達。
普通なら他愛の無い会話でもしながら帰るのだが、僕は途中で欲しい本があったのを思い出した。
しかしその本は彼女達が居ると非常に買いにくい。
というか買えない。
社会的に抹殺される。
ならばすべき事は簡単だ。
僕はわざとらしく「あー」と言う。
3人がこちらの顔を見た。
「ごめん、本屋行ってきて良い?」
「本屋ですか? 付いていきますけど」
「いや、先に帰っていて良いよ」
「エロ本かにゃ?」
「違う」
「成人向けコミックかわん?」
「それもエロ本でしょ」
僕は皆に突っ込みつつ街の中心部に向かう。
僕が最初にやってきたところからそう離れていない。
ここから徒歩で向かっても20分は掛からないだろう。
ちらりと後ろを見ても3人は手を振るばかりで付いてこなかった。
僕は安堵に胸を撫で下ろす。
買うものは勿論成人向けコミックだ。
何度か通っているので店員のシフトも記憶している。
この曜日のこの時間帯なら女性店員ではなく男性店員がレジを担当している筈。
更に僕が行くのは皆が利用するような大型書店ではなくあまり普通の人が寄り付かない『特殊な業界向け』の本が集まっている店だ。
まぁ特殊な業界と言っても単にオタ向けなのだが。
同人誌まで扱っているあたりそこらへんの層の勢力を更に強めている。
臭いは途轍もないが僕の欲しい本がそこにある。
そこまで時間は掛からず僕は中心部に着く。
西洋風の建物が幾つも並んでいる。
道を歩く人もそんな出で立ち。
ここで目立つのはやはり朧想街の名物でもある大きな時計塔だろう。
でかい煉瓦造りの駅の上にそれは聳え立っている。
1時間ごとに金を鳴らして人々に現在の時間を伝える。
今は午後5時を差していた。
するとごぉーん、という金属の甲高い音が響いた。
大きな音だが不思議と五月蝿くはなく、寧ろ心地よく感じる。
他の通行人も喋るのをやめて目を細めてその音を聴いていた。
僕は祀の舞を思いだす。
この音は彼女の声や演奏と似ていた。
聴き入っていた僕は我に返る。
早く行かなければ。
という訳で目的の本屋に到着した。
結構でかい。
中はアニメ調のイラストが多様され、そこらの本屋とは違う雰囲気を醸し出している。
自販機で売っているジュースもアニメに登場した飲み物やコラボが殆ど。
そしてガチャガチャが異常に多い。
しかも全て300円から500円の高いやつ。
スーパーデフォルメされた機動戦士のガチャが無い。
あったらやろうと思ったのだが。
ポイントカードと所持金を確認しつつ中に入る。
3万円あった。
衣食住を確保したとはいえそうそう使える訳ではない。
バイトとか見付けないといかない。
千鶴の働いている洋食店は……多分駄目か。
普通にやっていけてるだろうし。
一番簡単なのは天光神社の運営の手伝いだろうが殆ど知識の無い僕にできる事はないだろう。
しかも大体の仕事を阿形と吽形がやってしまうし。
後で求人情報誌を漁るか、と思いつつ狭い棚の間を歩く。
人もいるせいでかなり窮屈だ。
できるだけ呼吸をしないように努める。
風呂ぐらい入った方が良いと思う。
そして僕は競歩で売り場に向う。
目的の本を手に取る。
フィルムで完全に包まれているので特に荒らされた形跡はない。
すぐにレジに直行する。
特に並んでいる人は居なかったのですぐに会計。
そして代金をぴったり払う。
850円。
「ポイントカードはお持ちでしょうか?」
あ、出すの忘れてた。
こういうのは結局溜めるだけで使わないのだがやはり忘れると気分は良くない。
「お願いします」
僕は手早く財布からポイントカードを抜き、手渡す。
男性店員はこちらにポイントを使うか訊いてきたが、それを丁重に断る。
割引の場合は5000円くらいの高い本を購入する時に使用するのが単純ながらベストだ。
もっとも使う前に期限切れとか店が潰れた、なんて悲劇もままある。
合計で1500まで溜まった。
ポイントのカンストってできるんだろうかと思う。
そして僕は購入した本とポイントカードを貰う。
「現在、当店ではキャンペーンを実施していまして、くじ引きでアタリを引きますと景品が貰えますがいかがなさりますか?」
景品が貰えるのか。
まぁ、ただならやって損は無いだろう。
「ならお願いします」
すると店員は小さな箱を取り出す。
上面に穴が開いている。
手を突っ込んで引け、という事だろう。
僕は躊躇なく右手をそこに入れた。
中には紙が何枚もある。
そこから適当に僕は一枚を摘み出す。
ホチキスで綴じられていて、結果はわからない。
僕はゆっくりとそれを開いた。
店員もそれを覗きこむ。
結果はアタリだった。
僕は内心ガッツポーズをとる。
無料のやつだし大したモノではないだろうがそれでも嬉しい。
「おめでとうございます! ではこちらをどうぞ」
店員は僕に何かを差し出した。
「ありがとうございます」
僕は喜々としてそれを受け取る。
そして無表情になった。
厚紙で作られた横長の立方体。
見るからにティッシュボックス。
僕が購入したのは成人向けコミック。
この意味がおわかりだろうか。
一つしかない。
僕は信じられなくて店員の顔を見る。
彼の顔はにこやかだった。
しかしどこか客をバカにしているような顔に見えた。
確信犯だ……!
僕は慄く。
そうしてティッシュボックスと購入した本を鞄にしまうと力なく店を出る。
店に入った時よりも空は昏くなっていた。
そうして出来るだけ大通りを避けつつ裏路地に入る。
勿論知り合いの女子や現実を満喫している男子に見付からない様にする為だ。
お前が言うなとか言われそうだが僕の場合居候だ。彼女持ちではない。
さて、買ったは良いがどうやって部屋に隠そうか、と考える。
祀はともかく阿吽コンビには見付かる。
何考えているのかよくわからない阿形と嗅覚と妙に勘も鋭い吽形。
恐らくこの2人は一筋縄ではいかない。
某頭脳戦漫画に倣って正しくない手順で引き出しを開けると自動で発火するセキュリティでも設けるか……いや、シャレにならないな、と考えつつジメジメして狭い路地裏を歩く。
前に目を凝らす。
水を吸った段ボールや穴が開いたバケツ、骨の折れた傘などが散乱している。
幽かに差し込む夕日によって陰影が色濃い。
まるで血みたいな赤い光。
どこか不吉な感じ。
僕は早く出たいな、と思いつつ足を急がせる。
足から頭へ得体の知れないモノが這い上がってくる。
虫のようなものが皮膚の下で蠢いているかのような不快感。
進むほどに温度が低くなっていく気がする。
恐怖や焦りに似た感覚がだんだんと這い上がってくる。
呼吸や鼓動が早くなる。
どうしてこんな気持ちを抱くのだろうか。
わからないけどこの先に何か悪い事が起きている。
たまに感じる予感めいたもの。
それは当たる事もあるし当たらない事もある。
だけど今日はそれが当たる気がしてならない。
僕は一歩二歩と歩く。
進んではいけないと思う。
本能が僕の腕を引っ張っているが僕の身体は構わず進み続ける。
見てはいけないと思う。
この先の光景を見たらもう引き返せないと思う。
だんだんと闇が深くなっていく。
薄汚い通路の異臭が強くなる。
それは単なる臭いじゃない。
言うなれば鉄みたいな。
何があるんだ。
僕は声を少しも出さずに奥へと進んでいく。
何故だか足音にも注意する。
空気が淀んでいく。
死の香りが強くなる。
ここがお化け屋敷みたいだった。
それでも僕の足は止まらなかった。
導かれるように。
何かに背中を押されているかのように。
僕は自ら『非日常』に堕ちていく。
どこまでも、迷路のように続く薄汚い路地裏。
永遠とも思えるような時間が経ち、そうして遂に何かが見えた。
僕は目を細める。
一瞬それが何なのかわからなかった。
繊翳がそれを朧げに隠している。
仄暗い路地裏に差し込む黄昏の光はそれを曖昧に照らしている。
淀んだ赤黒い液体が広がっている。
かなり広がっている。
まるで人間大の袋に水を詰めて、それを割った後のような光景。
地面だけではなく壁まで赤黒で塗り潰されている。
そしてその液溜まりの中央。
そこに何かが転がっている。
肉の塊――?
あの大きさだと牛か豚だろうか。
この近くに精肉店があるのだろうか。
ならおかしい話だ。
こんな薄汚い場所に鮮度や清潔が命の商品を置くなんてあり得ない。
僕は笑おうとする。
だけど笑えない。
笑える訳がない。
そもそもこの辺りに精肉店なんて無い。
思考が混乱する。
なんでこんな所にと思う。
なんでこんな事が起きてると思う。
ならあれが何なのか。
その答えは一つしかないじゃないか。
直後に腹の底から喉に何かがせり上がって来た。
それは不可解なものだった。
何か大きな肉塊。
血だまりに沈んだ、人の形を留めていない死体だった。
僕は悲鳴をあげそうになったが何故だか少しも声は出なかった。
じりじりと後ずさる。
そうして腰が抜けて地面に尻もちを着いた。
意味がわからない。
こんな路地裏でこんな死体がある意味がわからない。
どういう事だ。
頭が混乱する。
良く見るとひしゃげて変な方向に曲がった腕や足らしきものが見えた。
頭にあたる部分は割れて、柘榴の中身みたいになっている。
顔面は潰れている。
口から下がはみ出している。
白っぽい頭蓋骨に包まれてぐちゃぐちゃの脳が剥き出しになっている。
胴体も破れて、内蔵が飛び出していた。
破壊し尽くされすぎて残酷さは寧ろ感じなかった。
ただ恐怖だけがあった。
何でこんな所にこんなものが。
わけもなく全身が震えて歯が噛み合わなくなる。
逃げたくなかったが身体は少しも動かない。
そうしてすぐに僕は気付いた。
これは明らかな殺人だ。
見たところ死んでからそんなに経っていない。
それならばこの近くにはまだ。
この男か女かもわからない人間を殺した犯人が居る。
だとしたらこれを発見した僕まで殺されるかもしれない。
するとガサリと何か物音がした。
僕は肩を震わせて恐る恐る音源を見る。
それは単に積み上げられたゴミ袋がバランスを崩して倒れただけだった。
僕はどうしようかと思う。
この場に残る理由は僕にない。
「……そうだ、警察に」
ようやく僕はその考えに至る。
この事件の事を伝えなければ。
そうして助けて貰おう。
そうすれば犯人だって無暗にこちらを襲えない筈だ。
待っている内に襲われるかもしれないがその時はその時だ。
運が悪かったと思うしかない。
僕は震える手で携帯電話を取り出し、110番を呼びだす。
だが、たった3桁の数字なのに手間取った。
119番だっけ、117番だっけ。
頭が混乱してうまく打てない。
指が違う番号を入力する度に僕は携帯電話を投げ捨てたい衝動に駆られた。
暫く格闘してやっと相手に繋がる。
電波は運よく届いていた。
これで繋がらなかったら僕は発狂していたと思う。
そうして僕は捲し立てて状況を話した。
路地裏で人が死んでいる事。
何を説明しているのか自分でもよくわからない。
ただ口だけが勝手に動く。
めちゃくちゃな事を叫んでいたかもしれないし、淡々と静かに状況を説明していたかもしれない。
なんだか途中で泣きそうになったが堪えた。
そうしてわかる範囲で現場の場所を話し、通話を止めた。
ただ確実なのはここに警察がすぐ到着するという事。
今更引き返す気にはならなかった。
引き返しても殺人者が理由もなくそこに現れる気がするのだ。
かといってこの先に進める筈もない。
警察の事情聴取というのもあって僕は結局ここに留まる事にした。
警察は20分程でやってきた。
僕にとっては1時間くらい待った気がするし、ほんの5分足らずで来た気もする。
空は太陽が完全に沈んで星が瞬いていた。
雲に隠れているのか月は見えない。
今日は満月だったと思う。
僕はやってきた警官3人に目を向ける。
警官というよりドラマに出てくるような刑事に近いかもしれない。
僕には違いが良くわからなかった。
殺人事件なのに数が少ないな、と思ったがどうやら後に鑑識や救急車なども到着するという。
「君が通報してくれたのかな?」
ぼんやりとしていた僕は我に返る。
僕の前に中年の刑事が立っていた。
「……はい、そうです」
「わざわざありがとう。ショックだろうが捜査に協力して欲しい」
取り敢えず僕は電話で伝えた事をもう一度繰り返し伝える。
「人がそこで死んでます。30分くらい前に発見しました。原型を留めてないくらいぐちゃぐちゃで……何が何だか」
僕は自分の目に焼き付いた光景を思い出しながら説明する。
もしかしたら事実と食い違っている場所があるかもしれないがそれでも説明した。
警察は死体に近付く。
顔を顰めた。
「これはひどいな……長い間仏さんを何百人と見てきたがここまでなのは殆ど見た事が無い」
第一発見者として警察署に連れて行かれるか、とも思ったがあまりにも不可解な事件である上、僕の精神状態を考慮して今回は個人情報を伝えた上での解放となった。
魔術や能力などの犯行でもあるとされてもしかしたら警察のお世話になるかもしれないな、とぼんやり考えながら僕は警察や野次馬の集まった現場を離れる。
空は真っ黒に染まっていた。