第1章「黄昏の来訪者」
桜が咲き乱れ、生命が活動を再開する春。
やれ花見だ、卒業だ、入学式だ、人事異動だ、イネの植え付けだ、とどこも慌ただしい。 そしてどこか浮ついた感じだった。
冬は例年に増して寒かったので暖かく、気候の穏やかなこの季節が僕は好きだ。
繁殖期で野鳥の鳴き声が騒々しいのがアレだが。
そして昼と夜が交錯する黄昏時。
逢魔時ともいう。
黄昏は黄が太陽を意味し、昏が暗いを意味する言葉なのだが「おうこん」や「きこん」と読まないのは、誰彼と表記する、「誰そ、彼」のことであって、「そこにいる彼は誰だろう。よくわからない」という薄暗い夕暮れを言葉にしたものと、本来の夕暮れを表すの漢字である黄昏を合わせたものだという。
古来より夕方は昼と夜の境界という事から先程の逢魔時のように「魔と出遭う時」という風に考えられていた。
実際、その時間帯から『人ではない』者達の活動は活発となり、多くの子供が行方不明になったり、謎の殺人事件が多くあったという。
まぁこの時代においてそのような事件はめっきり無くなった訳だが。
「――ここが目的地……なのか?」
僕は立ち止って『目的地』を見渡した。
ちょうど街に入ったあたりだ。
やはり人の行き来が激しい。
流石有名な観光スポットでもある。
ここまで長い道のりだったので精神的にも肉体的にもヘトヘトだ。
なんだかんだで半日近く狭い電車や汽車の中で暇と戦っていたのだ。
痔になったら嫌だと思うが手遅れかもしれない。
だけどここまで来ればもうその必要はない。
苦労した甲斐はあると言えるだろう。
なかなか刺激的な事が起きる予感がする。
今までとは違う何かが。
僕はうーん、と伸びをした。
ゆっくりと休めそうだ。
僕は改めて街の風景を眺める。
僕の目の前に広がるのは煉瓦造りの道と建物、均等に並ぶ街路灯、馬車、自動車、人力車、そして着物にドレスに軍服、学生服。
和洋折衷という言葉をそのまま表したようだ。
空には飛行船が漂い、遠くから陸蒸気の汽笛が聞こえる。
夕日の朱色に染まる街。
赤く燃えているかのように。
ここ――『朧想街』で見るもの全てが新鮮だった。
とはいえここは街の中心部であり、このような風景もほんの一部でしかない。
この街の居住部の4分の3は神社や寺を含めた日本風建築物が殆どである。
ほんの僅かながらイギリスやフランスなどヨーロッパ系の人達が多く住む、ここよりも更に洋風度がアップした『西方部』や中国やインドなどアジア系の人達が多く住み、日本とは別のアジアっぽさが強くなっている『東方部』など国際色豊かな場所が沢山あり、観光客を飽きさせないという。
大きな街とはいえかなり人口密度はある。
しかし限られた面積を様々な技術や工夫を使って最大限に利用したこの街は人に少しの窮屈さも感じさせない。
――といった事を僕は観光ガイド『朧想街のあるきかた』を読んで知った。
まさにそんな感じ。
こんな本がフルカラーでワンコインだ。
超お得。
噂の通り人はかなり多い。
人種も種族も様々。
黄色人、白人、黒人。
人間、妖怪、妖精、精霊、幻獣、魔獣、亜人、宇宙人、超能力者、魔術師、……珍しい事に神人まで居る。
どうやら暇潰しに下界までやってきたようだ。
なんの神様かわからないが黒い人だかりができている事から察するに人気のある神らしい。
外見から多分日本系。
どうやら神様もサインには応じるようだ。
きっとネットオークションに出品されると思うが言わないでおこう。
そうして僕は感嘆とも興奮とも言える溜息を吐く。
なんだかすごいなぁ。
見慣れない光景に軽く気圧された。
やはりこの街なら僕は変われる気がする。
僕の心中はここで始まる新生活の期待と不安で一杯になっていた。
そしてそれらがぐちゃぐちゃに混ざり合ってよくわからない気持ちになる。
ポケットからスマートな携帯を取り出し、当初の目的を確認する。
メモ帳アプリは便利だ。
そうだ、寝泊まりする宿を見付けないと。
僕は携帯をポケットに戻す。
ここに来るまでは最悪野宿でも仕方が無い、と思っていたがこんなにも活発な街なら宿の 一つや二つ選り好みしつつ簡単に泊まれるだろう。
今この場所にも何軒か見付かった。
一応資金も当分の生活には困らない程度持っている。
取り敢えず今後の事も考えて安い所にしよう。
という訳で僕――焔魂夜行は再び歩き出した。
風景はめぐるめく変わっていく。
新たな生活が始まる期待による高揚感に浸りながら僕はかつてを回想する。
ここに来た理由。
それは両親の勧めだ。
それにもれっきとした訳がある。
幼少期より『とある理由』から村人達から良い目で見られていなかった僕は引きこもりがちになっていた。
つまるところ学校には通っているニートだった。
母さんも父さんもそれを咎めたりはしなかったのだが先日遂に父さんに家を叩き出されたのだった。
まぁ当然だろう。
とはいえ僕はその事についてなんの恨みも持っていない。
持てる訳がない。
寧ろ機会を与えてくれた事に感謝している程だ。
迷惑を掛けたとは自覚していたし。
そうして父さんが紹介してくれたのがこの街だった。
どうやら昔お世話になった所らしい。
両親も誘ったのだが代々の仕事である人と妖魔の仲介の為に出来ないとの事。
世知辛い世の中だ。
そんな訳でたった独り、遠路遥々(えんろはるばる)機関車を乗り継いでここまでやって来たのだ。
本当にあの空間は洒落にならない。
座標移転装置などに比べて遥かに安価という理由で利用したがもう二度と利用したくない。
帰省する時は瞬間移動系の能力者にでも頼んで送って貰おうと思う。
という事で唐突に一人暮らしをする事になった僕は挙動不審に宿を探す。
あそこ良いかも。
……で、結局。
僕はベンチに座って嘆息した。
「……どこにも泊まれないな」
無様な結果だった。
五件巡ったがどれも宿泊代や空き部屋などの都合で駄目だった。
一泊二日で5万とかナメているのか、と言いたい。
金はあると言っても稼ぐ方法が無い今、出来るだけ使わないのが賢明。
仕送りはちょっと望めないのだった。
まぁ未成年が持つには多すぎるお金を貰ったのだから当然といえば当然なのだが、僕が愚かにも使いすぎて路頭に迷う、という可能性を考えなかったのだろうか父よ。
近くの自販機で購入した缶珈琲を片手に嘆息する。
微糖・ミルク入りじゃないと飲めないお子様の味覚を持った僕だが生憎とブラックしか無かった。
とはいえジュースを買って飲むのは僕のくだらないプライドが抵抗したのだ。
いつもならカルピスとか炭酸買うのに。
空も朱から深い藍色に変わり始めていた。
見ると子供達の姿は見えなくなっていた。
どうやら5時になる前に帰宅したようだ。
僕には帰る場所が無いよ。
そして僅かに残った苦汁を呑み込み、その空き缶をゴミ箱に投げ入れる。
……しかし外れたのでちゃんと入れ直した。
我ながら小心者だ。
情けない。
不良は嫌いだけど。
「仕方無い、今日は野宿にしよう」
僕は自分を納得させるように独りごちる。
一応背負っている風呂敷の中にはキャンプ用の道具もある。
ホームセンターで買ったやつ。
頑丈であり、コンパクトに収納できる優れ物だ。
更に他の商品と比べてかなり安い。
非の打ちどころは無かった。
と、ここにきて僕は電車に乗ってから何も食べてないな、と思いだす。
取り敢えずお腹も空いてきたし、どこかで食事でも摂るかな。
なるべく安いの。
僕はそう思い立つと適当にレストランを探す。
残念ながら『朧想街のあるきかた』にそういった情報はあまり載っていない。
自力で探すしかないようだ。
暫くの間、宿も一緒に探してみる。
そうして見付けたのは『西風苑』という小さな店だった。
ドアには『開店中』のプレート。
外観は煉瓦造りで、見るからに洋食店といった感じ。
穴場のような印象を抱く。
それと同時に名前がミスマッチだと思ったが気にしてはいけないだろう。
僕は右側に目を向ける。
外にある小さな黒板には『本日のおすすめ・ビーフステーキ』と書かれている。
『腹が減ったらこれしかねえ! 長年愛されている当店自慢の肉厚ジューシーなビーフステーキ!』とアオリ文がある。
値段も手頃だった。
僕は再び店を見上げる。
夕餉はここにしよう。
そうと決まれば早速入店だ。
僕はドアノブを捻り、店内に入った。
それと同時に食欲をそそる匂い。
瞬時に僕の心は満たされた。
なかなか良い雰囲気だ。
店内は暖色で統一され、観葉植物だけが唯一異彩を放っている。
照明を明るすぎず、窓から差し込むオレンジの光が何処かノスタルジックな感慨を抱かせた。
天井にはシーリングファンが備え付けられており、カラカラとどこか空しく回っていた。
こういうのは換気が目的なのかそれともただの飾りなのかいまいち僕には判断できなかった。
BGMは落ち着いたジャズ。
知らない曲だが悪くない、と思う。
客は多すぎず、少なすぎず、といった程だ。
ますます期待。
「いらっしゃいませ、何名様での来店でしょうか?」
横から声がした。
「一人です」
レジの店員に人数を尋ねられ、僕は返答する。
顔を見る。
店員は僕より年下か同じくらい――15歳程だろうか。
顔は結構整っている。
明るめの髪をツインテールに結わえている。
可愛らしい少女だった。
矢絣とメイド服を合わせたような制服を着ている。
メイド喫茶ほど狙ってはいないが、そのテの客は居そうだ。
「それではこちらへどうぞ」
そう言って彼女はレジから出た。
勘定係の少女は僕を空いているテーブルに案内する。
店員は彼女だけなのか。
そうしてメニュー表を置くとすぐに戻っていてしまった。
写真とか殆ど使われていないシンプルなもの。
僕といえば既に食べる物を決めていたので手元にあった呼び鈴を鳴らして店員を呼ぶ。
すぐに伝えれば良かったな。
そうして来たのはさっきの少女だった。
何故。
他に店員は居ないのか、と僕は内心突っ込む。
どうやらこの店の店主は店員は殆ど雇わない主義らしい。
夫婦で営んでいる食堂じゃないんだから。
「お決まりでしょうか?」
店員は無表情に、無愛想に言った。
もうちょっとにこやかでも良いんじゃないかな。
「本日のおすすめのビーフステーキ一つとライス一つ、オレンジジュース一つ下さい」
僕は適当にメニューを伝える。
取り敢えずこのくらいで十分だろう。
「注文を確認します。ビーフステーキお一つ、ライスお一つ、オレンジジュースお一つで宜しいでしょうか?」
伝票にペンを走らせながら少女が確認してきた。
「はい」
僕が答えると同時、ポケットにペンを仕舞う。
「承りました」
彼女は書いた伝票をテーブルの上に置いた。
そうして店員は厨房に向かっていく。
「ビーフステーキ一つとライス一つ、オレンジジュース一つ」
どうやらちゃんと厨房係が存在しているらしい。
そこから人が動き出す気配がした。
もしかしたら、と思っていたので少し安心する。
それでも少人数で店を切り盛りするのは大変なんだろうな、と思った。
暫く茫としながら過ごしていると店員の少女が漸くやって来た。
その手には大きな盆。
「お待たせしました。ビーフステーキとライス、オレンジジュースです」
僕はすぐにやってきたな、と感心する。
ステーキのプレートは熱いのでお気を付け下さい、と付け加えて少女はテーブルに料理を 手早く置いていく。
僕は目を細める。
慣れた手つきだ。
長い間働いているのだろう。
肉とデミグラスソースの焼けた香ばしい匂いを吸いこむと幸せな気分になる。
見れば他の客も多くがこれを注文しているようだった。
「それではごゆっくりお召し上がり下さい」
そうして彼女はレジに戻って行った。
精算と給仕をこなしているようだ。
店員を増やした方が良いという考えと彼女に対する感心と尊敬の念を抱く。
手を合わせ、戴きますと言って僕はフォークとナイフを握り、食事にありついた。
「美味しい……!」
牛肉の焼き加減、食感、味、温度、どれも完璧。
これが、800円だと……?
ナイフもフォークも止まらなかった。
こんなに安価でこんなに美味しいものにありつけるとは思いもしなかった。
僕は最後にオレンジジュースを飲み干し、手を合わせて御馳走様と言うとテーブルを立った。
「ありがとうございましたー」
「いえ、こちらこそ」
勘定を済ませて店を出る。
また来たいと思う店だった。
名残惜しく僕は扉を閉める。
そうして一層暗色に染まっていく空を心持ち物憂げに見上げた。
「さて、どうしたものか」
僕は頭を掻く。
野宿と言っても街中でする訳にはいかない。
山とか森とか贅沢を言えばキャンプ場だろう。
しかし朧想街の山がどれほどの危険度なのかなんて知らない。
僕に護身する程度の力が無いと言えば嘘になるがそう簡単に使える訳ではないのだった。
さっきまでは大丈夫だと思っていたが実際こういう状況に陥ると冷静になるらしい。
「ん?」
その時僕は一方に多くの通行人が歩いている事に気付いた。
通りに出て確かめるとどうやら山の方に向かっているようだ。
「何をやるんだろう?」
疑問に思った僕は人混みに紛れて山に向かった。
西洋の印象が強い中心部を出て自然が色濃くなる北部へ向かう。
確かこの先にある山の名前は『神鳴山』だったか。
神社があったと思う。
名前は知らない。
ガイドブックには載っていないがこんなにも人が集まる神社だ。
もしかしたら祭りか何かをやっているのかもしれない。
木々や草が生い茂っているが、ある程度整備されているらしく道も快適だ。
綺麗に整備されているそこは参道か何かだろうか。
そうして暫く歩いていると長い階段が見えた。
結構な高さがある。
多分50メートルくらい。
僕はうへぇと口に出し掛けた。
これを上るのかと思うとうんざりする。
が好奇心には勝てない。
周りの人は至って苦にしていなさそうだ。
慣れだろうか。
おばちゃんとかおじいちゃんまでゆっくりながら普通に上っている。
今の時代、医療も昔と比べて飛躍的に進歩したが流石にこれは驚く。
僕は仕方が無いので一歩踏み出した。
この一段をあと何回繰り返せば良いのだろうか。
すぐにその考えを頭から振り払う。
気持ちさえあればすぐに到着するさ。
……そう思っていた。
一〇分後。
そこにはだらだらと汗を流し、肩で息をした僕の姿が。
運動は苦手だった。
僕は吐きそうになりながら俯けた顔を上げる。
やっと半分くらいだった。
かなり長い。
引き返そうかと思ったがやはりここまでの努力を無駄にはしたくない。
最早執念だった。
そのままへとへとになりながら上っているとやっと終わりが見えた。
僕は前のめりに倒れそうになりながらも何とか踏み止まる。
汗を拭って俯けた顔を上げる。
桜が咲いていた。
薄紅色の花弁は風に乗って闇に沈んでいく。
闇に浮かぶそれは妖艶に感じる。根元に死体が埋められている、と言われたら信じてしまいそうだ。
次に見えたのは大きな鳥居。
鮮やかな朱色であり、新品同様にも見えるが実際はどのくらいのものなのかはわからない。
傷や汚れも見受けられなかった。
次に見えたのは灯籠と石でできた台座。
狛犬が座るであろうそれには何も乗っていない。
もしかしたら狛犬ではなく全く別の何かなのかもしれない。
神社の設備には疎いからわからないけど。
そして視線の先にあったのは神楽舞台と大きな神社。
もう一度言うがかなり大きな神社だ。
稲荷大社や出雲大社、厳島神社、八坂神社、春日大社、北野天満宮、上賀茂神社、日光東照宮など挙げればキリがないもののそれに及ぶくらいの大きさはあると思う。
屋根が曲線を描いて沿っているような外見から判断すると春日造りに近いか。
ガイドには載っていないようだが地元では有名な場所らしい。
木と木を繋ぐようにして提燈が幾つもぶら下がり、辺りを照らしている。
それはまるで闇に浮かぶ人魂のよう。
光華、光耀。
それが現実感を与えず、僕に夢を見ているような気分にさせる。
かなりの人が居るようだ。
屋台も多く出店していて、金魚すくいや射的、たこ焼き、かき氷などバラエティーに富んでいる。
さっき食事したばかりなのに辺りから魅力的な匂いを感じて思わず唾を飲む。
それ程人で賑わっているのにも拘らず、僕には何故だかどこか閑散とした印象を与える。
夜風が涼しい。
節約しようとさっきまで考えていたが、ここまで来る時にもう喉が渇いてしまった。
という訳でかき氷とラムネを購入した。
どうして祭の屋台って物価があんなに高いんんだろう。
そうして何でコンビニとかスーパーで買ったほうが安くて量も多いのに買ってしまうんだろう。
自答するが買ってしまったものは仕方が無い。
僕は頭痛と戦いながらかき氷を平らげ、ラムネを一気に飲み干す。
爽やかな味と匂いと喉越し。
炭酸も強すぎず、かといって弱くない。
丁度良いラムネだ。
僕は空になった瓶の中にあるビー玉の回収を決行した。
しょうもないことは自覚している。
そして僕がなかなか取れないので瓶の飲み口を割って取り出してやろうか、と思いついた時、龍笛、楽太鼓、楽箏の奏でる荘厳な音色が耳に届いた。
仙楽という言葉が相応しい、そんな音色。
何かを演奏しているらしい。
僕は舞台の中心に目を向ける。
そこに居たのは巫女だった。
長い黒髪を後ろに纏めている。
顔はよく見えないが整った顔立ちであるのはわかった。
歳もかなり若いだろう。
小柄だが彼女に弱弱しさは感じない。
貴、安閑、凛、寛雅、閑寂、清幽。
僕の頭にそんな例えが浮かんでは消えていくものの、なんだかそんな言葉では当てはまるようで当てはまらない。
その眼は宝石を彷彿とさせる美しさだが、どこか憂いを感じさせる。
深海のように深く玄奥。
何を考えているのか一切読み取れない。
自分とは全く別の存在らしい。
彼女は紅白の衣装に身を包み舞台の上を艶やかに優雅に舞っている。
思わず息を飲む。
その姿は余情的で、最早耽美とすら言える。
それは神秘的であり、自分のような者では到底関われそうもないような気がして。
雲の上の存在とか高嶺の花、みたいな。
夢みたいで決して届かなくて大きな隔たりがあって。
別世界の人間で。
そしてどこか悔しさすらも感じる。
彼女に対してだ。
そしてこんな自分に対してだ。
恋とは違う別の感情。
彼女に見て貰いたいと思う。
僕の存在を知ってほしいと思う。
だけどそれは過ぎた願いだとわかる。
多分僕と彼女は交差しない。
僕は彼女を一方的に見ているだけで彼女は僕を視界の隅にも入れていない。
それが普通だ。
だから僕はそれが屈辱的で遣り切れないのだ。
別世界の人間に対する憧憬。
彼女の声は神籟、天籟玉音清亮、例えるならばそんな音色。
それが嚠喨と冴え渡っている。
吟遊詩人として働く妖精を昔見た事があるが、それよりも彼女の声が僕は魅かれる。
辺りに居る観客も聴き入っているようだ。
まるでここだけが周囲から隔絶されたような、聖域の中にでも居るかのように錯覚させる。
中心で踊る巫女。
神々しさすらあった。
それは気高く、崇高で、何人も寄せ付けない。
そして僕は己の身体が震えている事に気付く。
恐怖に近いが別のもの。
畏れ、のようなもの。
一種の感動に全身を支配されているようだ。
ある意味かなり興奮しているのかもしれない。
人前にあまり姿を顕わす事のない神が眼の前の少女なのかもと僕は思う。
彼女の虞になっている、と指摘されたら否定できない。
「凄いな」
思わず正直な感想を漏らした。
このまま永遠にこの舞を見ていたいと思う。
彼女がこちらを見向きしてくれなくても。
彼女と同じ空間に居れれば良いのかな、と思う。
しかし時は不変だ。
例外はある、と言ってもこの空間においてそれはない。
始まりがあれば終わりはあるのだ。
そのまま永遠に続くかと思われていた時間はすぐに終了する。
演奏と舞は名残惜しく終わった。
余響すらすぐに消失していく。
小さな歓声が舞台を包んだ。
そこに何人かの溜息が混じり、すぐに搔き消える。
巫女は一礼すると舞台を降りる。
それが僕に『終了した』という紛れもない事実を再び突き付けた。
僕はせめて彼女の姿を目で追いかける。
やはり彼女は最後まで僕に顔を向けてくれなかった。
そうして神社の中にその姿は消えて行ってしまう。
あっけなく。
まるで今迄の事が全て幻であったかのように