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第6話 星降る夜、断罪の序曲

 王城の大広間「天上の間」は、その名の通り天国のような煌めきに満ちていた。

 頭上には数千の魔石を埋め込んだ巨大なシャンデリアが輝き、床は鏡のように磨き上げられている。楽団が奏でる優雅なワルツの調べに乗せて、色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちが蝶のように舞っていた。


 だが、その喧騒は、ある一組の男女が扉口に現れた瞬間、波が引くように静まり返った。


 衛兵が高らかに告げる。

「――カイル・フォン・オルディス公爵閣下、ならびに、そのご婚約者、エリス・フォン・メルクリア令嬢、ご入場!」


 ざわめきが、感嘆の吐息へと変わる。

 現れたカイル公爵は、漆黒の軍礼服を完璧に着こなし、目元を覆う包帯すらも装飾の一つのように見せる冷徹な美貌を放っていた。

 しかし、人々の視線をより釘付けにしたのは、彼にエスコートされるエリスの姿だった。


 彼女が纏っていたのは、夜空を切り取ってドレスに仕立てたかのような、深い、深い黒のドレスだった。

 生地には無数のダイヤモンドパウダーが織り込まれており、彼女が一歩歩くたびに、スカートの上で天の川が流れるように煌めく。

 そして何より衝撃的だったのは、彼女が右頬の大きな「黒い痣」を隠そうともせず、むしろ堂々と晒していたことだ。


 これまでの常識であれば、それは「醜い呪い」として忌避されるべきものだった。

 しかし今、彼女の頬にあるそれは、計算し尽くされたアートメイクのように妖艶で、神秘的な美しさを放っていた。黒いドレスと、彼女の透き通るような白い肌、そして頬の黒い紋様が完璧な調和を生み出し、誰も彼女から目を離せなかったのだ。


「……怖いか、エリス」


 カイルが耳元で低く囁く。

 エリスは小さく首を横に振った。


「いいえ、カイル様。……不思議です。あれほど怖かった視線が、今はただの風景に見えます」


 彼女の声は震えていなかった。

 カイルの腕の温もりと、彼がくれた「君は美しい」という言葉が、彼女の背骨を支えていた。

 二人は優雅に歩を進め、玉座に座る国王陛下の御前へと向かう。


 その時だった。

 バンッ!! と、大広間の扉が乱暴に押し開かれたのは。


「お待ちください陛下!! その女に騙されてはいけません!」


 劈くような絶叫と共に乱入してきたのは、異臭を放つ三つの影だった。

 会場の空気が一瞬で凍りつく。

 そこにいたのは、泥と汚物にまみれ、異様な悪臭を漂わせる侯爵一家――父、ミナ、そしてジェラルドだった。


「なんだ、あの者たちは……」

「酷い臭いだ、衛兵は何をしている!」


 貴族たちがハンカチで鼻を覆い、蜘蛛の子を散らすように道を開ける。

 彼らの姿は凄惨そのものだった。服は泥で重く垂れ下がり、肌は垢と膿で汚れ、目は血走っている。優雅な舞踏会に紛れ込んだ、下水道の住人のようだった。


「陛下! 聞いてください! そこにいるエリスは稀代の悪女です!」


 侯爵が、泥だらけの指を突きつけて叫ぶ。


「この女は『黒斑の魔女』です! 家を追い出された恨みで、我が領地に呪いをかけ、魔物を呼び寄せ、私たち家族を殺そうとしたのです! ご覧ください、この惨状を! これこそが彼女の呪いの証拠です!」


「そうよ! お姉様は、私が次期公爵夫人になるのを妬んで、私の聖女の力を封じたの!」


 ミナが半狂乱で叫び、ジェラルドが剣の柄に手をかけながら殺気を放つ。


「エリス! 今すぐ呪いを解け! そして私の足に口づけをして、慈悲を乞え!」


 あまりの剣幕と、彼らの常軌を逸した姿に、会場の一部からは「まさか、本当に呪いなのか?」という疑惑の視線がエリスに向けられる。

 エリスは、かつてなら恐怖で縮こまっていただろう。

 だが、今の彼女の瞳に宿っていたのは、恐怖ではなかった。それは、底知れぬほど静かな、哀れみだった。


(ああ……なんて可哀想な人たち。自分たちの汚れすら、私のせいにしなければ生きていけないなんて)


 エリスが一歩前に出ようとした瞬間、カイルが片手で彼女を制し、前に立った。

 彼は抜剣すらしなかった。ただ、その灰色の瞳を亡者たちに向け、会場の気温を数度下げるような冷徹な声で言った。


「……臭うな」


 その一言は、彼らの狂乱を一瞬で切り裂いた。


「な、なんだと!? 泥の臭いに決まっているだろう!」

「違うな。泥の臭いではない。お前たちの魂が腐り落ちている臭いだ」


 カイルは嘲笑うように口角を上げた。


「陛下、ならびに御列席の皆様。これなるは、私の愛しき婚約者エリスに対する許しがたい侮辱。そして、自らの領地管理の失敗と悪政を、か弱き令嬢一人に転嫁しようとする、見苦しき道化たちの断末魔です」


「黙れ盲目! 貴様に何がわかる!」

「わかるさ。私には視力がない代わりに、真実を見る目がある」


 カイルはゆっくりとエリスの方を振り返り、その頬の黒い痣に触れた。


「彼らはこれを呪いと言う。だが、事実は逆だ。エリスは長年にわたり、自らの身体をフィルターとして、侯爵領に溜まる『穢れ』を一人で吸い上げ続けてきたのだ。……彼らが贅沢な暮らしをし、聖女ごっこに興じている間、彼女はずっと血を吐きながら、彼らの尻拭いをしていたに過ぎない」


 会場がどよめく。

 カイルの言葉には、有無を言わせぬ説得力があった。


「嘘だ! でまかせを言うな!」

「では問おう侯爵。エリスがいなくなってから、なぜ領地は崩壊した? 彼女が呪いをかけたからではない。彼女という『掃除人』がいなくなったから、お前たちが垂れ流したゴミに埋もれただけのことだろう」


「ぐ、ぬ……!」


 図星を突かれ、侯爵が言葉に詰まる。

 だが、逆上したジェラルドは違った。彼のプライドは、真実を認めることなど到底できなかった。


「黙れ黙れ黙れェッ!! 魔女め、お前さえいなければ! お前さえ死ねば、呪いは解けるんだ!」


 理性を失ったジェラルドが、抜身の剣を振り上げ、エリスに向かって突進した。

 狂戦士のようなその姿に、令嬢たちが悲鳴を上げる。

 白刃がエリスの首元に迫る――。


 エリスは動かなかった。逃げなかった。

 ただ、静かに彼を見つめ、心の中で「さようなら」と呟いた。


 その瞬間。

 エリスの頬の黒い痣が、ドクンと大きく脈動した。

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