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第5話 腐臭漂う泥の城と、愚者たちの晩餐

王都の空が不吉な赤紫色に染まり始めた頃、エリスがかつて住んでいた侯爵領は、文字通り「地獄」の釜の蓋が開いたような惨状を呈していた。


 ズズズ……と、屋敷の床下から不気味な地鳴りが響き続けている。

 磨き上げられていた大理石の床の目地からは、コールタールのような粘り気のある黒い汚泥が絶えず湧き出し、高価なペルシャ絨毯を無残に浸食していた。

 屋敷中に充満しているのは、下水道の汚水と腐った生ゴミ、そして何かが焦げたような鼻をつく刺激臭だ。


「いやぁぁぁ! 私の、私のドレスが! お父様、なんとかしてよ! 汚い、臭い、気持ち悪いッ!」


 ヒステリックな叫び声を上げているのは、義妹のミナだった。

 彼女は椅子の上に立ち上がり、汚泥から逃れようと必死になっていた。だが、その豪奢なドレスの裾は既に黒い泥を吸い上げ、重たく垂れ下がっている。かつて「聖女の再来」ともてはやされた彼女の美貌は、三日と洗っていない脂ぎった髪と、睡眠不足による酷い隈によって見る影もない。


「黙らんかミナ! 今、執事に排水ポンプの手配をさせている!」


 侯爵である父が怒鳴り返すが、その声には隠しきれない恐怖が滲んでいる。

 彼もまた、膝まで泥に浸かりながら、執務机の上の金品や重要書類を必死に掻き集めていた。


「旦那様、申し上げます……! 執事も、メイドたちも、既に誰一人おりません! 彼らは金目の物を持ち出し、裏門から逃げ去りました!」


 泥だらけになって戻ってきたのは、古株の老従僕ただ一人だった。

 その報告に、侯爵は目を見開き、顔を真っ赤にして激昂した。


「なんだと!? 恩知らずどもめ! 誰が雇ってやっていたと思っているんだ! ……ええい、ミナ! お前の『聖なる光』でこの泥を浄化するんだ! お前は次期公爵夫人だろう!」


「やってるわよ! さっきからずっと祈ってるの! でも、光が出ないのよ! 出ても、すぐにこの黒い泥に飲み込まれちゃうの!」


 ミナが両手を組んで必死に祈るポーズを取る。指先から蛍の光のような弱々しい魔力がチカチカと明滅するが、それは足元の汚泥を数センチ退けるのが精一杯で、すぐに波のように押し寄せる黒い奔流にかき消された。


「くそっ、なんでだ……。エリスがいた頃は、こんなことは一度もなかったぞ!」


 ドスン、と乱暴な足音と共に部屋に入ってきたのは、ジェラルドだった。

 かつて「貴公子」と呼ばれた彼は、今や見るも無惨な姿だった。自慢の騎士服は泥と魔獣の返り血で汚れ、左足を引きずっている。屋敷の結界が消えたことで侵入した低級魔獣に、足を噛み千切られかけたのだ。


「あの女だ……あの『黒斑の魔女』が、我々に呪いをかけたに違いない!」


 ジェラルドが血走った目で叫ぶ。痛みと屈辱で、彼の理性は崩壊寸前だった。

 彼らの思考回路において、「エリスが身を削って汚れを吸収していた」という事実は存在しないことになっている。なぜなら、彼らは完璧な特権階級であり、誰かの犠牲の上に立っているなどと認めるわけにはいかないからだ。

 ゆえに、この現状は「エリスによる悪意ある攻撃」でなければならなかった。


「そうだ、そうに違いない! 家を追い出された腹いせに、魔女の本性を現しおったのだ! なんて性根の腐った女だ、育ててやった恩を仇で返しおって!」


 侯爵が机を叩き、同意する。彼らは「共通の敵」を作り上げることで、自分たちの無能さから目を逸らそうとしていた。


「許さない……お姉様、許さないわ。私がこんなに惨めな思いをしているのに、自分だけ逃げるなんて!」


 ミナが爪を噛みながら、怨嗟の声を漏らす。

 その時、窓ガラスを叩く激しい風音と共に、一羽の伝書鳩が泥だらけのテラスに舞い降りた。

 ジェラルドが足を引きずりながら捕まえ、脚に結ばれた筒を開く。


「……王宮からだ。『星降りの舞踏会』の招待状……!」


 その言葉に、三人の目に狂気じみた希望の光が宿る。

 『星降りの舞踏会』。それは王家が主催する、国で最も格式高い夜会だ。全貴族が参加を義務付けられており、当然、あの「盲目の公爵」カイルと、彼に囲われているエリスも出席するはずだ。


「これだ……! これが逆転の機会だ!」


 ジェラルドが歪んだ笑みを浮かべ、招待状を握りしめる。


「陛下や高位貴族たちが集まるその場で、エリスの悪事を告発するんだ! 『魔女が呪いで侯爵領を壊滅させ、聖女ミナを殺そうとしている』と訴えれば、必ずや正義の鉄槌が下る!」


「おお、素晴らしい! カイル公爵とて、王の前で魔女を庇えば反逆罪だ。エリスを捕らえさせ、再びこの屋敷の地下に鎖で繋げば、この泥も消えるはず!」

「そうよ! ジェラルド様、私、あの一番高いピンクのドレスを着ていくわ! ……泥で半分汚れてるけど、これが被害者の証拠になるわよね?」


 三人は顔を見合わせ、ニタニタと笑い合った。

 その笑顔は、汚泥の臭気よりも遥かに醜悪で、腐りきっていた。

 彼らは気づいていない。自分たちが乗っている船が既に沈んでおり、これから向かおうとしている場所が、華やかな舞踏会場ではなく、断罪の処刑台であるということに。


 ズズズ……とまた地鳴りが響く。

 屋敷は悲鳴を上げるように軋み、彼らの足元の泥は、まるで獲物を逃がさないとでも言うように、ねっとりと足首に絡みついていた。

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