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第2話 錆びついた腕輪と代償の記憶

 屋敷を追い出された私は、宛もなく森の中を歩いていた。

 空は鉛色に淀み、冷たい雨がシトシトと降り注いでいる。濡れたドレスが肌に張り付き、体温を容赦なく奪っていく。


 ふと、左手首に巻かれた古ぼけた腕輪に目が留まった。

 真鍮製で、ところどころ緑青が浮き、無数の細かい傷がついている。貴族の令嬢がつけるにはあまりに粗末で、無骨な代物だ。

 けれど、私にとってはこれが唯一の命綱だった。


 指先でそっと金具に触れる。ひやりとした金属の感触と共に、微かに「チリリ……」という音が鳴った。

 その音を聞くと、七年前の記憶が鮮明に蘇る。


 ――七年前、領地は大飢饉と魔獣の襲撃に苦しんでいた。

 まだ魔力制御が未熟だった私は、怪我をした領民を助けようとして、咄嗟に魔力を放出した。

 けれど、私の手から溢れたのは治癒の光ではなく、周囲の木々を枯らし、地面を黒く染める「毒」のような魔力だった。


「うわぁぁ! 魔女だ! 魔女が俺たちを殺そうとしている!」


 子供たちが叫び、大人たちがくわを持って私を取り囲んだ。

「違う、私はただ……」

 弁明は恐怖の叫びにかき消された。父が駆けつけ、私を地下牢に放り込んだのはその直後だ。


 暗闇の中で震えていた私に、この腕輪をくれたのは、旅の行商人だった。

 鉄格子の隙間から、彼は哀れむような、それでいて何かを見透かすような目で私を見た。


『お嬢さん。あんたのそれは、呪いなんかじゃない。「器」が壊れちまうほど強すぎる力を、あんたの身体が必死に受け止めている証拠だ』


 彼は懐からこの腕輪を取り出し、私の手首に嵌めてくれた。


『これは魔力を吸い上げ、痛みを散らす魔道具だ。これがあれば、あんたの体は少しは楽になる。……だが、代償はあるぞ。吸い上げた穢れは、あんたの肌に黒い痣となって刻まれる』


 その言葉通りだった。

 私は気づいてしまったのだ。この領地の地下には、強大な「龍脈の澱み」があることを。それを浄化しなければ、領地は魔物に飲み込まれて滅びるということを。

 

 それから毎日、私は誰にも知られず、この腕輪を通して龍脈の澱みを自分の体へと吸い上げ続けた。

 激痛が走るたび、腕輪はカタカタと震え、肌に新たな痣が刻まれた。

 

 ジェラルド様が剣の稽古で擦り傷を作った時も、ミナが風邪を引いた時も、私はこっそりと彼らの「負」を吸い取った。

 彼らが「今日は調子がいい」と笑っている裏で、私は高熱にうなされ、どす黒い痣を増やしていたのだ。


「……馬鹿みたい」


 雨に打たれながら、私は自嘲する。

 守りたかった。家族だから。婚約者だから。

 たとえ「魔女」と罵られても、彼らが明日を生きられるならそれでいいと思っていた。


 ズキン、と右頬の痣が疼く。

 屋敷から離れたことで、私が張り巡らせていた結界が消えかかっているのだろう。今頃、屋敷の地下では抑え込んでいた澱みが噴出し始めているはずだ。


「もう、知らない」


 私は腕輪を強く握りしめた。

 ミナの「聖なる光」とやらで、どうにでもすればいい。

 私はもう、自由なのだ。


 そう思った瞬間、視界が白く霞んだ。

 限界だった。

 長年の魔力酷使と、雨による冷え。糸が切れた操り人形のように、私の体は泥濘んだ地面へと崩れ落ちた。


(ああ……このまま、泥に還るのも悪くないかも)


 薄れゆく意識の中で、誰かの足音が聞こえた気がした。

 魔女を殺しに来た追手だろうか? それとも魔獣?

 どちらでもいい。私はゆっくりと目を閉じた。


***


 冷たいはずの雨が、止んでいた。

 いいえ、違う。雨音は聞こえるのに、私の体には当たっていない。


 重い瞼を押し上げると、目の前には濡れた黒い革靴があった。

 視線を上へ這わせる。漆黒の軍服。銀糸の刺繍。そして、夜空を切り取ったような長い黒髪。

 男が一人、私に傘を差し掛けて立っていた。


 その顔を見て、私は息を呑む。

 美しい人だった。彫像のように整った顔立ち。だが、その瞳は――


 灰色に濁り、虚空を見つめていた。


「……見つけた」


 低く、けれどチェロの音色のように深い声が響く。

 彼は膝を折り、泥だらけの私と同じ目線になった。その美しい軍服が泥で汚れることも厭わずに。


「あなたは……?」

「名を、カイルという」


 カイル。その名に聞き覚えがあった。

 『盲目の処刑人』。

 第二王子でありながら、王位継承権を放棄し、辺境で魔獣狩りを専門とする冷徹な公爵。その瞳は光を映さないが、代わりに人の「死」を見ると噂されていた。


 恐怖で身が竦む。彼は、私という「魔女」を始末しに来たのだろうか。

 けれど、彼が伸ばしてきた手は、首を絞めるためではなく、私の頬――あの醜い痣がある右頬――へと向けられた。


 ビクリと肩を震わせる私に構わず、彼の手袋越しの指先が、そっと痣に触れる。


「美しい」


 耳を疑った。

 今、この人はなんと言った?


「……何を、おっしゃって」

「ずっと探していた。王都の空がいつまでも澄んでいる理由を。この腐敗した国で、唯一清浄な魔力を放ち続けている発生源を」


 カイル様は、見えないはずの目で、私の瞳を真っ直ぐに射抜いた。

 

「違う、私は……汚れた、黒斑の魔女です。この痣が見えないのですか?」

「見えるさ。私には、形などというあやふやなものは見えない。だが、本質は見える」


 彼は私の手首を掴み、あの傷だらけの腕輪に指を滑らせた。


「君の魔力は黒くない。あまりに高密度で、あまりに純粋すぎるがゆえに、光さえも吸収してしまっているだけだ。……これは『聖痕』だ。誰よりも深く、誰も傷つけまいと願い続けた、愛の結晶だ」


 時が止まったようだった。

 誰にも言えなかったこと。誰にも理解されなかったこと。

 それを、会ったばかりの、しかも「冷徹」と噂される男性が、たやすく暴いてしまった。


 目頭が熱くなる。

 泣いてはいけない。魔女が涙を流すなんて滑稽だ。

 そう思えば思うほど、堰を切ったように涙が溢れ出した。


「エリス嬢。君の献身は、あんなゴミ溜めのような家で消費されるべきものではない」


 カイル様は、泥にまみれた私を軽々と横抱きにした。

 彼の体温が、冷え切った私の体に伝わってくる。

 

「来い。私の屋敷へ。……君のその傷だらけの魂を、私が愛そう」


 その言葉は、雨音よりも優しく、どんな魔法よりも温かく、私の心に染み渡った。

 私は彼の胸に顔を埋め、初めて声を上げて泣いた。

 

 遠くで、雷鳴が轟く。

 それは、私の生家である侯爵家を襲う、破滅の序曲のように聞こえた。

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