第9話 戸惑いと諦め
街の喧騒が少し落ち着いた午後。
エリスは、一歩一歩、石畳の上を歩きながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
――「彼女は――俺のだ」
あの言葉が、まだ耳に残っている。
あの深い青色の瞳の奥には、嘘も冗談もなく、ただ強い意志があった。
あの瞬間、ライナルトの黒髪と精悍な横顔が、まるで胸に焼き付いて離れない。
二人はそのまま、街角で言葉少なに別れた。
ライナルトは少し動揺した表情を見せたが、すぐに騎士らしい落ち着きを取り戻す。
エリスは、頬が熱くなるのを感じながらも、静かにお辞儀をして歩き去った。
(私……どうして、こんなに心がざわつくの……)
控えめで地味な自分が、ライナルトの存在を意識してしまうことに戸惑う。
身分差を考え、理性で自分を押さえ込もうとするが、頭の中はあの深青の瞳や黒髪でいっぱいになっていた。
――この気持ちは、いったいどうすればいいのだろう。
家に戻ると、男爵家の屋敷は静かで落ち着いた雰囲気だった。
使用人たちが行き来し、食事の支度や掃除を進める中、エリスの歩みは少し遅れてしまう。
「あら、お嬢様、どうかしたのですか?」
にこやかな使用人の女性が声をかける。
「いつもより少し顔色が優れないように見えましたが……」
エリスは咄嗟に笑みを作り、首を振る。
「大丈夫、何でもないの。ただ少し考え事をしていただけ……」
使用人は微笑みながらも心配そうに見つめる。
「そうですか……でも無理をなさらないでくださいね」
エリスは小さくうなずき、心の中でため息をつく。
ライナルトの言葉が頭から離れず、胸の奥がじんわりと熱い。
地味な自分、男爵家の令嬢としての立場を考えれば、こんな気持ちは抱いてはいけない。
だからこそ、家族や使用人の前では、つい「なんでもない」と濁してしまう。
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さらに居間に入ると、両親が穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「エリス、今日は少し疲れているように見えるが、何かあったのか?」
優しい父の声に、エリスはまたも心の内を濁す。
「いえ、大丈夫です……ただ、考え事をしていただけで……」
母も心配そうに微笑みながら頷く。
「そうですか……でも無理をしないでね、エリス」
胸の奥で小さくため息をつきながら、エリスは頬に手を当てる。
――あの人のことを考えてしまうのは、どうしても止められないのだ、と。
両親や使用人には隠しても、心の中ではライナルトの黒髪、深青の瞳、そしてあの力強い声が反響している。
控えめで地味な自分は、まだ口にできない。
でも、胸の奥のざわつきは確実に増していた。
――次に彼に会うとき、私はどうすればいいのだろう。
その問いに答えはまだ出ない。
ただ確かなのは、胸の奥で芽生えた戸惑いと、ほんの少しの期待。
エリスは、それを抱えたまま、静かに夜の屋敷を歩き続けた。




