呪う町
けたたましく鳴るスマートフォンのアラームと、喉の奥に奇声を上げる化け物が住んでいるかのようなうめき声。
二日酔いのような視界が回る気持ち悪さとも、風邪のような鉛の重りを体に結びつけられた気だるさとも違う、骨が引っこ抜かれたようなふにゃふにゃとした脱力感が僕を襲ってくる。
秋口の池に突き落とされたような、体温よりも少しだけ低い水に浮いている不快感を伴う浮遊感。
ここ一年ほどずっと続く、不快感。
――起きなきゃ。
スヌーズ機能が僕を強制的に起こそうとしてくる。
――わかっているんだ、起きなきゃいけないのは。
息を深く吸って、止める。
一分ほど息を止めてようやく、体に力が入り始めた。
――よし。
歯を食いしばって全身の力を入れて起き上がった。
力を入れたせいか、両わき腹が剣山で刺されたかのように痛い。
手元を探って見つけた充電切れすれすれのスマートフォンの時計は、家を出る時間を過ぎていた。
「やべえ」
服を着替えながら歯を磨き――この仕事に就いてから覚えた珍妙な芸だ――何とかそれらしい体裁だけは整えて、玄関から飛び出す。
家賃が安いからと、職場に近い部屋を選んだのは正解だった。
たった1 kmもない程度の距離を息も絶え絶え、足が棒のようになりながら走り切り、職場のエントランスに飛び込んで社員証を打刻機にタッチした。
定時一分前。いつも通りだ。
膝から崩れ落ちたいのを堪え、荒い息を整え乾いた口を湿らせながら、苦笑する。
――高校の頃の顧問が見たら、腰を抜かすだろうな。
弱小校だったとはいえ、これでも元陸上部主将。1500 mを4分20秒で走っていた人間が、今は1000 mを10分もかけて息も絶え絶えに吐きそうになりながら職場へ走っているのだから。
おかしいとは常々思う。いくら年を取ったとはいえ、まだまだ体力には自信がある方だと思っていた。
なのに、働き始めてからとてつもなく体力が落ちていた。
何度か病院にも行ったが、原因不明。
精々、「ストレスかもしれませんねー。心療内科の受診もお考え下さい」と気の抜けた声で言われ、ビタミン剤を出されるだけだ。こっちだって色々と調べて食生活を変えたり、ビタミンB群のサプリを飲んだりしているというのに。
リフレッシュということで時々色々なところへ小旅行に行くと気分が良くなるものの、この町の駅についた瞬間あっという間に元通りだ。
――クソ、なんなんだよ……。
あれだけ好きだったランニングも、もう一年近くしていない。
走る時に感じる心地よい風。
限界が近づいてきたときに刺激される挑戦心。
そして限界を超えた時の宙に浮くような開放感。
肺に残った息をすべて吐き切った。
そんなの、もう何か月も体験していない。
定時を知らせるチャイムが、僕を強制的に現実へ引き戻した。
――行かなきゃ。
僕は深呼吸を二、三して事務所へ走っていった。
「諏訪さん、汗だくだけど大丈夫?」
僕が急いで事務所に入ると、偶然入り口近くにいた蛇田部長が聞いてきた。
「大丈夫です。すいません、遅れて」
人当たりの良さそうな笑顔を浮かべながら、部長は小さく首を横に振った。
「タイムカードは始業前に切ってるんでしょ? なら大丈夫大丈夫」
部長が僕の顔を覗き込む。
「……見たところ、家に帰って寝た方がよさそうだけど?」
今度は僕が首を振る番だった。
「お気遣い、ありがとうございます。大丈夫です、ちょっと風邪気味なだけで」
「そう? じゃ、今日もよろしくねー」
課長は入れ違うようにして事務所から出ていく。多分、外の自販機で飲み物でも買ってくるんだろう。
僕は手のひらで額の汗をぬぐってから、席に座ってパソコンの電源を付けた。
家に着いて――僕のいる部署はルーチンワークばかりだからほぼ毎日定時退社だ――痙攣する体中の筋と戦いながらドアを開けた瞬間、いつもは鳴らないSNSの通知音が鳴った。
「ん?」
スマートフォンを取り出してロックを外すと、高校の時に入っていたクラスのグループチャットが通知の元だった。
――まだ生きてたのか、このグループ。
画面に映る“同窓会のお知らせ”という言葉と、具体的な日時と場所、あとは出欠の確認。
集まるのは土曜日だけど集合場所はここからだいぶ遠い地元のホテルで、一泊した方がいい距離だ。
僕は玄関ホールに腰掛ける。
――どうするかな。
仲がいいやつとは同窓会関係なく会っているし、特にそれ以外の人達に会いたいという気持ちもない。
そういえば、有給を使えと総務の蛇口さんに言われていた。年間五日取らないといけないんだとかなんとか。
――ちょうどいいか。
繁忙期というわけでもない。気分転換にちょっとした小旅行気分で行くのもまあ、悪くはないだろう。有給をくっつけて、友達と一日遊んだり実家に顔を出したりするのも有りだ。
僕は“参加”の方にチェックを入れ、ほぼ電池切れのスマートフォンをポケットに滑り込ませた。
二泊分の荷物を詰め込んだリュックサックを近場のビジネスホテルに放り込んだ後、僕は少しゆるくなった――やつれたからではないと信じたい――ビジネスカジュアルな私服を着こんで、駅前のホテルに向かった。
――不思議なもんだよな。
その足取りはあの町にいるときとは打って変わって軽やかだ。数歩踏み出したら息が上がるような、そんな感覚は一切ない。むしろ走り出したいくらい……革靴で走る自信はあんまりないけど。
ほどなくして、目的のホテルにたどり着く。エントランスで会場の場所を聞いて、簡単な受付を済ませていると、良くつるんでいた二人が僕のことを見つけたらしい。
「よう、久しぶりじゃねえか――」声をかけてきたのは僕らのリーダー格だった佐藤だ。こいつのおかげで、学生の頃は怒られも褒められもしたっけ。「――痩せたな、お前。大丈夫かよ」
「大丈夫だ、ちょっと仕事が忙しくて」
「田中なんかついに三桁超えたってのに」
いつもひょうきんものだった田中が佐藤の言葉に笑うと、半人前の空間を占拠しているような腹の肉も震えた。
「おふくろの飯がうまいのが悪いんだ。お前らも食ったらこうなるぞ」
周りにいる奴らが全員笑い、佐藤がツッコミを入れる。
「ならねえよ」
――ああ、なんか懐かしいな。
思えば、働いている間にこうやって笑ったことはなかった気がする。いつも苦笑いばかり浮かべていた。
この二人がそろったときはもちろん、大学の時だって。僕はもっと笑っていた。
いつの間にか手が顔を触っていることに気が付く。笑えているかどうか、確認するかのように。
「そういえば、陸上部の鈴木、今大学駅伝のコーチだってよ。今、追い込みしてるから都合つかなかったって」
年賀状の一つも出していなかったから近況は知らなかったけれど、確かにあの先生ならやっていそうだ。
「先生、出世したなー」
「まあまあ諏訪くん、人のことはともかくまずは諏訪くんのことだよ。お酒、飲むだろ? つまみもあるぞ、料理だってたくさんあるんだ」
僕は五本並んだソーセージみたいな手で僕の腕をつかんだ田中に引っ張られるようにして、料理が並んだテーブルに引っ張られていった。
特に幹事たちが用意したイベントなんかもなく、昔馴染みとただ食べたり飲んだりしゃべったりしていると、視界の端に着物とも民族衣装ともつかない服を着た子が写った。
そっちの方を見ると、形が一番近いのは神社なんかの神主が着ているような着物だろうか。でも白ではなくて濃い紫色をした異質な着物だ。これまで気づかなかったのが驚くくらい目立つのに、何故かこの場に馴染んでいる。
――いや、気づくわけないか。
神無まいこ。
高校の時についたあだ名は『占いちゃん』。
常に古文と日本史は100点を取るような才女だけれど、ともかく影の薄い子だった。占いができるらしくて、一部の女子なんかはよく彼女と話していた……それでも、影が濃くなることはなかったが。
どんな格好をしようと、どんなことをしようと、彼女は一切目立つことがなかった。隣にいるかと思えば、いつの間にか消えていた。席に座っているのかと思ったら、すでに下校していた。階段を上っているのを見たのに、何故か一階の玄関に居た。
特別印象に残らない顔――まあ、美人寄りではあるが――や服装をしているわけでもないのに、本当に目立たない子だった。
そういえば一度、「どうしてそんなに影が薄いのか」と聞いたことがあったっけ。その時の答えは、「私の魂は半分あの世にあるから」とかいうよくわからない答えだったっけ。
彼女の目が僕の顔を見つけると、歩いているのかどうかわからない、上半身をほとんど上下させない滑るような歩き方で僕のほうへ寄ってきた。
「諏訪君、すごいつかれたねえ」
開口一番これだ。
「久しぶり」
彼女は鼻をひくつかせ、抱きつくようにして僕の体をペタペタと触った。
「うんうん、これは――」彼女が呆けるような顔で笑った。「――どうしようもないねえ」
この世にいる人としては少し妖艶な顔がそう告げるのは、端的に言って不気味だ。まあ、この顔も話が成り立つのに時間がかかるのも、昔からだけれど。
「元気そうで何よりだよ」
「ねえ、どうしてそんなに気が吸われて具合が悪いか知ってるの?」
その言葉に、僕は体中が緊張する。
誰にも僕の体調のことは話していない。佐藤にさえ誤魔化したのに。
「重怠いでしょ、体力がなくなった感じがするでしょ、まるで溺れたみたいに」
僕は声にならない唸り声しか上げられない。
「それはね――」
突然、目の前の彼女が「コキュ」としか例えようのない声を上げて、ぐりんという音とともに目が上を向く。
次いで、ぶくぶくという音と彼女の口や鼻からあふれ出た水がホールの床に飛び散る音が響いた。
「お、おい……」
僕の目はなにかおかしくなったのか、目の前で何が起きているのか理解しきれない。
わかるのはただ、彼女が苦しんでいることだけだ。
「諏訪君、私じゃ……」ごぼごぼという音の合間に彼女が声を絞りだす。「ダメみたいだあ」
ぐにゃりと彼女の体が僕にもたれかかる。
反射的に支えると、その体は人がしていい柔らかさをしていなかった。
「……全力で、逃げて」
あまりにも重くて、僕の腕から滑り落ちた彼女の体はどさりという音を立てて――この時、僕はあまりのことに「ああ、人が倒れるときって本当にこういう音がするんだな」なんて考えていた――床へと崩れ落ちた。
ホールが悲鳴で覆いつくされたのは、一拍置いた後だった。
僕は自分の家のキッチンで、先ほど買ってきた背の高い湯吞みに水を注ぐ。
あの後病院へ運ばれた彼女は……。
死んだ。
死因は溺死だという。
水中じゃない、陸で。
当然一番近くにいた僕は警察に色々と聞かれたけれど答えられることはなかったし、僕が何かに関わっていると証言する人は誰もいなかったらしい。
僕含めあの場にいた皆、むしろ何が起きたのか知りたかったはずだけれど、わかっているのは彼女が変死したということだけだった。
葬式も内々で行われたらしく、墓の場所すら教えてもらえていない僕は、なにも知る由が無かった。
彼女が最期に、僕のズボンにあるポケットに残したレシートを除いて。
それは駅前にあるコインロッカーの預り証だった。
警察にも言わなかった……いや、警察の取り調べが終わってから気づいたのだ。ポケットに入っている紙に。
まるで彼女が他の誰にも気づかれたくなかったかのように遺したその痕跡を、無下にはできなかった。誰にも気づかれないように、でも僕にだけは気付いてほしいかのように遺したものを。
だから、ロッカーを開けた。そこに入っている彼女の遺したものを無駄にしないためにも。
『満月の夜、背の高い湯吞みと二本の棒を用意して。湯吞みに水を7割まで注いで、中央に棒の一本を渡す。先端を湯呑に差し入れるようにしてもう一本の棒をその棒に立てかける。あとは、思いつくものの名前を言い続けて。もし立てかけた棒が少しでも動いたら、それがあなたを呪っている。だから、それから逃げて。全力で』
水を注いだ湯吞みの中央にコンビニで付いてきた箸の片割れ――ちょうどいいのがこれくらいしかなかった――を渡し、そこへもう一本を立てかけた。
「本当にこれで……」
その疑念を振り払う。死ぬ間際の人間がこんなバカげた冗談を本気で言うわけはない。
――それに彼女は……。
あんなメモをコインロッカーに遺していたんだ。どうやってか、自分が死ぬこともわかっていたに違いない。
死にゆく人の遺したものを真剣にとらえられないのは、彼女が死を賭してでも伝えたかったことを信じないのは、あまりにもバカバカしい。
「思いつくものか……」
僕は誰に呪われるだろうか……ああ、そういえば。小学生のころ、道路の真ん中で轢かれて死んだ近所のタマが居た。地域猫として僕もよく遊んでいたけれど、あの時はどうしようもなくて母親に泣きついたっけ。
――タマはすぐに助けてくれなかった僕を呪っているかも。
「タマ」
箸はピクリとも動かない。
――違うのか。
まさかとは思うが、仕事先の人だろうか。
――僕のミスで迷惑をかけたことがあるもんな。
「辺見さん」
動かず。
「蛇目さん」
ピクリとも。
「蛇草さん」
まさかとは思うが、動かない。
「……蛇田部長」
少しも。
それからはもう、やけくそだった。
神無さんの言葉を信じたい一心と何の成果も得られない結果への、苛立ちをぶつけるかのように。
「――諏訪武史、諏訪和子、佐藤、森田、諏訪家」
箸は少しも動かない。
――ありえないだろうけどな!
僕は叫んだ。
「蛇睨町!」
その時、立てかけた箸はまるで僕の目に突き刺さるかのように飛び跳ね、踊り狂うかのように床をべちんべちんという音を立てて跳ね回った。