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影と声、そして忘れられた恋

真夏の午後、アスファルトの照り返しが揺れる道を、僕はいつものように歩いていた。周りには、たくさんの「影」が漂っている。彼らは生きている人たちと同じように、笑ったり、怒ったり、悩んだりしている。僕にしか見えない、彼らの口は確かに動いているのに、その声だけはどんなに耳を澄ましても届かない。彼らは、僕の住む世界と重なり合うように存在している、幽霊だった。


なぜ僕にだけ幽霊が見えるのか、その理由は誰にも話したことがない。話しても理解してもらえないだろうし、何より、彼らが僕にだけ見えていることを、僕はどこか特別なものだと感じていたからだ。彼らは、生きている人たちに触れることはできないし、僕の声も彼らには届かない。彼らと僕との間には、決して埋まらない溝がある。それは、現世とあの世が重なり合っていても、決して交わらない別世界だからだと、本で読んだことがあった。


その日、僕はいつもの公園で、一人の少女と出会った。

古い公園のベンチに座り、風もないのに揺れるブランコをぼんやりと見つめている。長い黒髪が陽光に透けて、肌は月明かりのように白く、まるで絵画から抜け出してきたみたいだった。彼女もまた、僕にしか見えない「影」の一人。幽霊だった。


「…きれいだな」


僕は思わずそう呟いた。

彼女を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。初めて会ったはずなのに、なぜかとても懐かしいような、大切な記憶の蓋が少しだけ開いたような、不思議な感覚に襲われた。その感覚は、これまで見てきたどの幽霊に対しても抱いたことがないものだった。


その日から、僕は毎日その公園に通った。彼女はいつも同じベンチに座り、同じようにブランコを見つめている。僕は遠くから彼女の姿を眺め、時にはそっと近づいてみた。彼女の口が動くのが見える。きっと何か話しているのだろう。僕が話しかけても、彼女には届かない。僕の言葉も、彼女の言葉も、互いの世界に隔てられている。


数週間が過ぎた頃、僕は一つの結論に辿り着いた。彼女と話す唯一の方法。それは、僕も幽霊になることだった。


僕には、幽霊たちがどんな存在なのか、少しばかりの知識があった。彼らは皆、この世に強い未練を残している。だからこそ、現世を彷徨い続けることができる。でも、その代償として、彼らは生前の記憶を徐々に失い、そして、生きていた頃の知り合いからは、その存在を忘れ去られてしまう。まるで、最初からいなかったかのように。


幽霊たちが、時折、寂しそうに誰かの名前を呼ぶ口元を見つめていると、僕はそう確信したんだ。彼らが呼びかけるその人は、もう彼らを覚えていない。

その知識は、僕の頭の中にいつもあったはずなのに、彼女と出会ってから、僕の心は不思議なほどに、その代償から目を背けていた。


幽霊になれば、僕も彼女と同じ世界に行ける。そうすれば、きっと彼女の声が聞ける。彼女も僕の声を、言葉を、理解してくれるはずだ。

その考えが頭をよぎった瞬間、ゾッとするような冷たい風が僕の頬を撫でた。しかし、その恐怖は、彼女への募る想いに比べれば取るに足らないものだった。


その日から、僕は奇妙な行動を取るようになった。危険な場所にわざと近づき、車が猛スピードで通り過ぎるたびに、心臓が跳ね上がった。高い場所から下を覗き込み、足がすくむのも構わずに縁に立った。毎日、公園で僕を見つめる彼女の目が、日に日に不安と悲しみに染まっていくのが分かった。彼女の口は激しく動き、何度も何かを叫んでいるようだった。


「やめて…!」


きっと、そう言っているのだろう。僕はそう確信した。だけど、その声は僕には届かない。


ある日、僕は意を決して、ビルの屋上に立っていた。風が強く吹き荒れ、僕の体を揺らす。下を見れば、車のヘッドライトが星のように瞬いていた。ここから飛び降りれば、きっと彼女の隣に行ける。彼女の声が聞ける。僕のこの胸の痛みも、この想いも、全て伝えられる。


その時、彼女は僕のすぐ隣に立っていた。彼女の顔はひどく歪んでいて、その瞳から大粒の涙が溢れ落ちているのが見えた。彼女は僕の腕を必死に掴もうと手を伸ばしている。でも、彼女の手は僕をすり抜ける。僕は彼女に触れることができない。


彼女の口が、今までにないほど激しく動いている。その表情は絶望に満ちていた。


「お願い、やめて!私を、置いていかないで!」


彼女の言葉は、まるで心臓に直接響くように、僕の耳の奥に確かに届いた。

声が、聞こえた。

僕は驚きと混乱で目を見開いた。どうして?なぜ、彼女の声だけが僕に聞こえたんだ?

その瞬間、僕の頭の中に、まるで嵐のように記憶が流れ込んできた。

夏の日、あの公園。僕の隣で、いつも笑っていた少女。僕の初めての恋。

そして、あの事故。

彼女を守ろうとして、僕の目の前で、彼女の体が……。


そうだ、思い出した。

僕は、彼女が死んだ日を、必死に忘れていたんだ。

あの時、僕の目に幽霊が見えるようになったのは、彼女が、僕を一人にしないように、側にいてくれたからだった。

彼女はずっと、僕の隣にいたんだ。僕が幽霊が見えるようになった理由と、彼女が幽霊になった理由は、あの日の事故で繋がっていた。


そして、彼女の口が再び動く。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、必死に、僕に訴えかけていた。


「お願い、あなたは生きて!私を思い出しても、あなたは生きて!」


彼女の言葉が、今度ははっきりと僕の心に響いた。

彼女が必死に僕を止めようとしていたのは、僕が死んで、僕が「知り合いに忘れられてしまう」ことを恐れていたからだ。彼女自身がそうであるように、もし僕が幽霊になってしまえば、僕は生きてる家族や友人に忘れられてしまう。そして、彼女自身も、僕に忘れられてしまうかもしれない。


幽霊になった人は、現世を彷徨う代わりに、知り合いに忘れ去られてしまう。彼女は、大切な僕が自分と同じ道を辿ることを、何よりも恐れていたのだ。そして、何よりも、僕に忘れ去られてしまうことを。


僕の足元が揺れる。屋上の縁で、僕は一歩後ろに下がった。

彼女は、僕が生きていることを望んでいる。僕が、彼女を忘れないことを望んでいる。

僕に幽霊が見えるのも、彼女がそばにいてくれたから。彼女は僕に忘れられないように、そして、僕が危険な行動に出ないように、ずっと見守ってくれていたのだ。


僕は、彼女の姿に手を伸ばした。触れることはできない。でも、その手は確かに僕の心を掴んでいた。


「ごめん…」


僕の口から出たのは、後悔と、そして感謝の言葉だった。

彼女の声が聞こえたのは、僕が彼女の死を受け入れ、彼女を思い出そうとした、あの刹那だったのかもしれない。


僕の足は、しっかりと地面を踏みしめていた。

もう、ここから飛び降りる必要はない。

僕が生きている限り、彼女は僕のそばにいてくれる。そして、僕が彼女を忘れなければ、彼女は本当に生きている。


僕は、屋上から街を見下ろした。

そこに彼女の姿はない。

だけど、確かに、風が僕の頬を優しく撫でた。


僕は、生きることを選んだ。

彼女の愛が、僕を生かしてくれた。

そして、これからもずっと、彼女は僕の心の中で生き続ける。

例え、僕の声が彼女に届かなくても、僕の姿が彼女に見えなくても。

僕たちは、同じ世界にいる。

そしていつか、また、声を交わせる日が来ることを信じて。

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