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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ノー・ノイズ ノー・ネーム

作者: 五月病

第一章 ノイズの残響




街は、呼吸を忘れていた。

灰色のコンクリートが果てなく続く無音都市――ミュート・シティ。すべてが整然と整いすぎていた。人の姿はあるが、音はない。信号も、車も、広告も、無音だ。機械が規則的に点滅し、ドローンが空を滑っていくその風切りすら、無音化フィールドによってかき消されている。


そしてその静寂こそが、この都市の「正しさ」だった。


歩道を行き交う人々は、口を開かない。

必要最低限の指の動きと、政府指定端末による電子会話。会話文は文字として浮かび上がるが、音にはならない。


「#通行ID照合完了:通過承認」

「#音声発生:0db」

「#名義接触:なし」


それが、人間として認識される条件。


───はうつむいて歩いていた。黒ずんだ作業服、フードで顔を半分隠し、背中には旧型の清掃装置を背負っている。彼の仕事は、地下の空調シャフトや排水孔に溜まる“塵”を取り除くことだった。社会の表層に出ることは少ない。それでよかった。表通りには、“ノイズの感知者”が溢れているからだ。


空調の吹き出し口に座り、───は端末に指を走らせる。


『#報告:C路線-2区、異常なし。』

『#出力確認:NOISE=0。』


表示された“NOISE=0”の数値は、システムが最も好む答えだった。


音はない。名もない。だからこそ、「正常」だとされる。


だが、───は知っていた。この世界がどれだけ不自然で、どれほど虚構に覆われているかを。


なぜなら彼はかつて――

“声”を、聴いたことがあるからだ。





第二章 囁きの記憶




地下水路の壁に背を預けながら、───は目を閉じた。

暗闇に沈む静寂が、彼の記憶を引きずり出す。

音のない世界に慣れてしまっても、決して消えない残響がある。


──あれは、まだ彼が「ただの子供」だった頃のことだ。


都市の最下層。記録にも残らない不法居住区のひとつ。

上層市民が捨てたスクラップと湿気の残骸に囲まれ、名を持たぬ子供たちが、名を知らぬまま生きていた。


生まれてからずっと、声を聞いたことはなかった。

誰もが、唇を動かさなかった。罰を恐れていた。

それがこの都市の常識であり、空気だった。


だが──その日、彼の世界に“音”が差し込んだ。


彼らの目の前にある金属扉の向こう。

静まり返った空間に、微かな“歌”が流れた。誰かが、何かを口ずさんでいた。


───は吸い寄せられるように金属扉を開け、その場所へ向かった。

錆びたコンテナの奥。小さなランプと古びた電子端末。

そして、その隣に──ひとりの少女が座っていた。


長い髪。煤で汚れた白衣。

声が出せる者などいないはずのこの世界で、彼女は口を開いた。


「・・・きこえる?」

声があった。震えるような、けれど確かな響きだった。

───は呆然と頷いた。


少女は微笑み、彼の目をじっと見つめた。

そして、そっと囁いた。


「君には・・・名前が必要だと思ったの」


───はその意味が分からなかった。ただ、その言葉が心の奥深くに突き刺さった。

その瞬間、何かが変わった。世界の色が、音が、温度が。


少女は言った。


「今日から君は――クロウ。空を飛ばず、でも高く跳ねる、鋭い爪を持つ鳥。忘れないでね」


その名は、今でも彼の胸の中で燃えている。

たった一人だけが、彼にくれた音。

誰にも知られてはいけない、彼だけの“本当の音”。


そして少女は、姿を消した。

情報警察サイレンの無音ドローンが、赤い警告灯を点滅させながら突入してきたあの日。

名前も、歌声も、すべてが連れ去られた。


だがクロウは、記憶している。

あの声を。あの名前を。

そして、彼の中に初めて芽生えた、“自分”という概念を。









彼はゆっくり目を開けた。


音のない都市の中で、ひとつだけ違う響きが、胸の奥で小さく震えていた。





第三章 違法ノイズ




薄暗い路地の壁に沿い、クロウは低い姿勢で足を進めた。足元の石畳は湿り、古い街灯の残滓がわずかな光の帯を作り出す。無音のはずのこの場所に――かすかな振動が伝わってきた。


ポケットの中で、拾った筒状の金属が微かに共鳴する。違法音源――「録音カプセル」。政府の監視網をくぐり抜け、闇市で取引される禁断の品だ。クロウはその形状を覚えていた。表面には無数の細かな溝が刻まれ、内部に収められたデジタル粒子が“記憶”を保持している。


彼はそっと端末を取り出し、ディスプレイに映る解析画面をにらんだ。


『#CAPSULE解析:音声サンプル、容量3.2MB。』

『#潜在コード:不明』


クロウは息を呑んだ。潜在コードが不明ということは、政府製の高セキュリティ音源か、あるいは――反政府組織ネームレスの手による“真実の声”かもしれない。


路地を照らす人工灯に向け、ゆっくりとカプセルを開く。内部から現れたのは、細いスリット状のアンテナと小型のスピーカー――本来なら音を再生するはずの装置。しかし、外部スピーカーが音を遮断するこの都市では、音は流れない。


だが、クロウの特別な機能がそれを可能にした。喉に埋め込まれた違法音声モジュールが微弱な振動を拾い、わずかに再生する。


――――――――――――――――――――


微かなハミング。

高く澄んだ、女声。

それだけだ。だが、その一声が路地を震わせた。


――――――――――――――――――――


クロウの心臓が跳ねる。

音という“ノイズ”に、身体の奥が疼くようだった。


しかし、その瞬間。

警報音が聞こえぬはずのスピーカーから、金属音にも似た警告信号が発せられた。

──システムが異常を検知したのだ。


「警告。違反ノイズ。即時対応を開始――」


文字が脳内に浮かぶと同時に、背後の壁が勢いよく開く。

赤い無音ドローン──《サイレン》第7査察官ラウゼ配下の追跡装置だ。無数のセンサーが暗闇を探り、わずかなエネルギー放射を追跡してくる。


クロウはカプセルを握りしめ、素早く身を翻した。

壁の隙間に手をかけ、押し開く。


外の通り――市街地へとつながる抜け道だった。

だが、そこは人々が行き交い、監視カメラとノイズ・スキャナーが網目のように張り巡らされている。


これでは……


クロウは視線を走らせ、一瞬の判断を迫られた。

追跡ドローンは、すでに数メートル後方まで迫っている。


人ごみの中なら隠れられるかもしれない。

だが、露骨な動きをすれば瞬時に検知される。


クロウは端末を操作し、次の一手を探した。

──そのときだった。


背後から、乾いた声が響いた。


「クロウ、こっち!」


影の如く現れたのは、あの少女──シェル=レイだった。

彼女は手に小型フィールド・ジェネレーターを抱え、冷静に微笑んでいる。


「急いで。私が遮蔽するわ」


言葉は音声モジュールを通じて、かすかにクロウの耳へ届いた。

彼女の掌から放たれた微弱なエネルギーが、追跡ドローンのセンサーを寸断する。


「行って!」


シェル=レイの声の導きに従い、クロウは再び抜け道へと飛び込んだ。

背後で金属の衝突音が鳴り、ドローンの赤いライトが揺れる。


クロウは振り返らず、ただ走り続ける。

手の中のカプセルと、胸の奥の自分――「クロウ」という名を守るために。





第四章 声の導き




都市の地下16階層。

登録マップにすら存在しない断層区域(ゾーン=ナンバーX)は、崩落の恐れありとして封鎖されていた。だが、クロウは知っている。

この“空白”こそが、かつて音が生きていた場所だということを。


クロウはシェル=レイに導かれ、歪んだ階段を降りる。コンクリの天井は剥がれ、鉄筋がむき出しだ。そこに、微かな“音”があった。水の滴る音、風が抜ける音、そして――


「・・・君が、まだ生きてるって信じてたよ」


シェルの言葉が、静かにクロウの心に沁みる。


「私たちは“音”を消された。だけど、それは殺されたんじゃない。封じられただけ」


彼女は腰の端末からプロジェクターを起動する。空中に広がるのは、禁止された音響波形。

“人間の声”と“名前”に含まれる、高周波の連動パターン。


都市システム(ミュート・ネット)は、全人口の名を削除しただけじゃない。名前という概念自体を“ノイズ”と定義したの」

「名前があると、人は独立する。だから政府は、それを消した」


クロウは静かに頷く。

それを知らされなくても、彼の体は知っていた。名前を得た瞬間に、自分が生きていたという感覚を。


「私たちは、“ノイズ”を取り戻す」


シェルは真っ直ぐにクロウを見た。


「この世界に、本当の音を取り戻すために。君の力が必要なの」


そのとき、通路の奥で金属の響きが鳴った。

遅れてやって来た《サイレン》の索敵機が、彼らの行動を追い始めていた。


「もう時間がないわ。ネームレスの拠点はすぐそこ。クロウ、来て」


シェルの手が差し出された。


クロウは数秒だけためらった。

この手を取れば、後戻りはできない。

けれど――


「・・・行こう」


ガシッ


彼はその手を握る。


音が、確かにそこにあった。





第五章 記録なき者たち




暗い地下室に足を踏み入れた瞬間、クロウの肌に感じたのは、何とも言えぬ“違和感”だった。

この場所は、他のどことも違う。冷たいコンクリートの壁が薄暗く反射し、周囲の空気はまるで静寂の中で重く押し寄せてくるようだった。


「ここが・・・」


クロウは声を漏らしながら、周囲を見渡す。


シェル=レイが頷く。


「ネームレスの隠れ家。ここでは音も名前も、すべてが“記録なし”で存在する。」


彼女は先に立ち、暗い廊下を進んでいく。途中、何人かのメンバーが足音もなく行き交い、彼らの目は一瞬だけクロウに向けられたが、すぐに視線を外した。言葉は交わされなかった。


「何で、人がここに集まっているんだ?」


シェルが振り返る。その目には少しの不安があった。


クロウは思わず答えに詰まった。


「音を取り戻すため・・・なのか?」


シェルはその問いに軽く笑った。


「それもあるわ。だけど、それだけじゃない。私たちは名前を持つことを拒否された。都市の記録には、私たちが存在したことすらなかったことにされている。だから、私たちの記録はすべて消されている。」


その言葉は、クロウの胸を深く突き刺した。

“記録”とは、存在を証明する手段だ。人間にとって、名前と記録があれば、それが生きた証になる。しかし、政府のシステムではそれを消すことで、あらゆる抵抗を排除し、統制を強化している。


「ネームレスは、音を失った者たちの集まり。私たちは記録を消された存在なの。けれど、私たちには今、反撃出来る手段がある。」


シェルは歩みを止め、クロウに向き直った。


「クロウが手に入れたカプセル。その音声が、真実の“名前”を持っているんだ。」


クロウはそれを取り出し、再び手に取る。


『#CAPSULE解析:音声サンプル、容量3.2MB』。


最初の解析結果に表示された内容は変わらない。しかし、シェルの言葉がその背後にある意味を強く感じさせた。


「君は名前を持っている。カプセルの中の音声が、それを証明する。」


クロウの中で何かが弾けた。

それは音としてではなく、感覚として胸の中に広がっていく。

彼の名前――“クロウ”という名前が、ただの言葉ではなく、自分そのものの証であるということに気づいた瞬間。


「私は、この音を解放したい。私たちの名を取り戻すために。」


シェルの言葉がクロウの耳に響く。

彼はゆっくりと頷き、カプセルを持つ手に力を込めた。


「俺も・・・解放する。」


その瞬間、地下の空間が微かに震えた。

どこか遠くで音が響き、クロウの体内にその振動が伝わってくる。

名前を持つ者たちが、その音を感知した証だった。


「君の力で、すべてが変わる。」


シェルは静かに言った。

クロウはその言葉を心の中に刻み、深く息を吸った。


「行こう。名前を取り戻すために。」


その言葉とともに、クロウはシェルと共に再び歩き始める。

“記録なき者たち”が、歴史に新たな足跡を刻む時が、今まさに訪れようとしていた。





第六章 新たなるノイズ




夜の帳が都市を覆い、空には星すら見えない。

全方位を監視されるこの街で、クロウとシェル=レイは、地下から地上へのルートを静かにたどっていた。

目的はただ一つ――「音の復元装置」を起動し、“名”を語れる空間を作り出すこと。


それは、都市全体の秩序を揺るがす行為だった。


「本当にここにあるのか?」


クロウが声を落として問う。ノイズ検知器の感度を最小に設定しながら、前を行くシェルに目を向けた。


「間違いないよ。都市の記録に存在しない“第零制御塔”。ミュート・ネットの設計段階で、バックアップとして作られた実験施設。政府もすでに忘れているわ」


「“忘れる”何てこと・・・奴等がするか?」


「それだけ……恐れているということよ。音が生む、“意志”を」


彼女の言葉には、痛みと怒りが混じっていた。

音が消された日――“名”を呼ぶ声が一斉に消失した記憶。

それは都市の人々から、心と心をつなぐ手段を奪った。


「ここだわ」


シェルが立ち止まる。錆びついた鉄扉の前で、端末を取り出し、鍵となる周波数信号を送る。


ブツン――

電子ロックの機構が解除され、ゆっくりと扉が開いた。


中は、異様な静寂に包まれていた。

巨大なホールの中央に鎮座するのは、かつて“音響中枢”と呼ばれた装置。都市に音を届けるネットワークの心臓部。今では完全に切り離され、稼働の痕跡すらない。


「これが、音の中枢・・・」


クロウは、無意識にカプセルを取り出す。小さな筒の中に封じられた“声”が、彼の掌の中で微かに震えた。


「私たちの目的は、この装置に音を流すこと。ただし、起動には“名を持つ者の声”が必要」


シェルが言う。


「つまり・・・俺の声?」


「そう。君はすでに、“名前”を思い出している。クロウという、“音の印”を持って」


クロウは息を飲んだ。

思い返すたび、その名前が自分の中心に存在するように思える。

ただの音ではない。心の輪郭そのものだ。


彼は装置の前に立ち、深く息を吸い込む。

そして――


クロウ


自らの“名”を、声にした。


その瞬間、装置が震えた。

長い間沈黙していた音響中枢が、深く低いノイズを発し始める。


ブォオオ――ン・・・


装置のリング状パネルが回転を始め、空間に微細な振動が広がる。

都市に忘れられた“ノイズ”が、再び目を覚ます音だった。


だが――


ウゥー↑ウゥー↑


警報が鳴った。

この空間では絶対に鳴るはずのない、“政府式アラート音”が響く。


「バレた・・・!」


シェルが叫ぶ。


クロウはとっさにカプセルを抱え、装置の中枢に差し込む。

全周波が解放され、都市全体へと向け、名を含んだ音声が拡散される。


「これで・・・!」


しかし、次の瞬間。

空間が赤く染まった。


高圧収束レーザーが天井から放たれ、装置の一部を焼き切った。


「制御班、到着済み。標的、クロウおよび反逆者2名を確認。即時排除を実行する」


機械的な声が響く中、数体の《サイレン》が扉を破って侵入してきた。


「・・・逃げるわよ!」


シェルがクロウの腕を掴む。

音は解き放たれた。しかし、戦いはこれからだ。

“新たなるノイズ”は確かに届いた。

この都市に生きる、全ての“記録なき者たち”の心へと。





第七章 ミュート・ネット




都市全域に、異常が走った。


わずか3.2秒――それが、“音響中枢”から拡散されたノイズが生きた都市網ミュート・ネットに到達し、都市中の認識制御にエラーを引き起こすまでの時間だった。


無名のまま働いていた労働者が、突如として「名を呼ばれた」幻聴に襲われ、路地で膝をついた。

映像モニターは一瞬の“静的乱れ”を表示し、音のない都市に微細な“ざわめき”が走る。


政府の中枢では、即座に《緊急遮断プロトコル》が作動した。


「ミュート・ネットの第7層、通信制御が一時オフライン! ノイズ侵入確認!」


「特異個体の共鳴反応と推定されます――クロウという名前の“記録外存在”、音響中枢からの干渉を確認」


管制官たちの声が飛び交う中、最奥にある制御室では、一人の男がモニターを見つめていた。


男の名は、ヴェイン=ヘルド。

都市を無音に導いた張本人であり、“ミュート・ネット”の設計者。


『共鳴者・・・そう簡単に現れるとはな』


ヴェインは笑う。静かで冷たいその声は、音でありながら“音の意味”を欠いていた。


『仕方ない。計画を前倒しする』


彼は、中央塔に設置された最終制御装置リリス・コアに向けて、起動命令を送る。



---



一方、逃走中のクロウとシェル=レイは、地下の水路へと逃げ込んでいた。


「くそっ・・・あいつら、俺たちの場所を完全に把握してた」


「当たり前よ。ミュート・ネットは都市そのもの。呼吸一つ、心拍一つまで“音”として記録される」


シェルが言いながら、端末を急いで操作する。


「けど、今のでわずかに裂け目を作った。ほんの一瞬、都市中に“名”が届いた。それだけでも大きな意味がある」


クロウは、自分の胸に手を当てる。

“名”を呼んだあの瞬間、確かに都市が揺れた気がした。まるで、機械ではなく、ひとつの“巨大な意識”が驚いていたような――


「……ミュート・ネットは“生きてる”のか?」


シェルは黙っていたが、やがて静かに言った。


「ネットの最奥には、人間の脳神経が基盤として組み込まれている。数百万人分の“沈黙した声”が、あのシステムを支えてるの」


「沈黙……させられた?」


「そう。政府は、都市の統制のために“音”を封じるだけじゃ足りなかった。人々の記憶、名、声――その全てを吸収して“無音の知性”を作ったのよ。それが、リリス・コア」


そして今、そのリリス・コアが“クロウ”という名のノイズに反応し、排除を始めた。


「君の声は、あのネットにとって異物そのもの。けど、逆に言えば唯一干渉できる存在でもある。共鳴者、クロウ――」


その時、上方から鋭い電子音が鳴り響いた。

遮音兵――無音の処刑者たちが、水路の両端から現れる。


クロウは立ち上がり、再び名を口にした。


「俺は・・・クロウだ」


彼の声が空間を震わせる。


遮音兵たちが、一瞬、動きを止めた。


そのわずかな間に、シェルが装置を起動し、空間に幻惑ノイズを拡散する。


「今よ!」


二人は一気に抜け出し、再び都市の暗部へと消えていった。



---



《ミュート・ネット》に裂け目ができた。

それはほんの小さな、わずか数秒の“揺らぎ”。


だが、それだけで都市の秩序は動き始めていた。


名を思い出す者。音を夢見る者。

そして、“声を取り戻すため”に目を覚ます者たち――


ノイズは、もう止まらない。





第八章 リリス・コア




中央塔ゼロ・オベリスク

都市の中心にそびえるその構造体は、夜の闇の中でも常に薄く光を放ち、都市全域の“沈黙”を制御していた。


その最下層――人の立ち入りを禁じられた領域。

そこに存在するのが、都市中枢制御装置リリス・コア


ガラスのドームに覆われたその構造体の中心には、無数の神経様構造が網のように張り巡らされている。

その全てが、かつて「名」を持っていた者たちの“記録”で構成されていた。


記録とはすなわち、「音の墓標」だ。


ドームの前に立つヴェイン=ヘルドは、操作台に指をかけ、冷ややかに言い放つ。


『反応値:共鳴レベル・フェイズ2に到達。対象“クロウ”、完全共鳴まであと僅か。・・・始めるか』


彼がスイッチを押すと、リリス・コアが脈動を始めた。

都市中に新たなノイズ抑制信号が広がり、再び“名”の回収が始まる。



---



一方、クロウとシェルは、東地区の崩壊ビル跡に身を潜めていた。


「……“共鳴レベル”が上がってる」


シェルが小型の共鳴計を見つめながら言う。


「それって……俺の声が、都市にもっと響いてるってことか?」


「逆よ。都市が、君の“本当の声”に応答し始めてるの。・・・リリス・コアが反応してる。あなたを取り込もうとしてるのよ」


「取り込むって、まさか……」


「リリス・コアは“完全な静寂”を求める意志。異物であるあなたを“同化”すれば、その沈黙は永遠のものになる。そうなれば、二度と名は戻らない」


クロウは、沈黙した。


都市を救う鍵でありながら、同時にそのコアにとっては最大の“脅威”である自分。

それが“共鳴者”の意味だった。


「だったら……俺があそこに行く」


彼は静かに言った。


「リリス・コアに、自分の声をぶつける」


「無茶よ!」


シェルが叫ぶ。


「あそこは都市中のノイズが集約する場所! 生半可な“名”じゃ、弾かれるか、同化されるか・・・!」


「・・・俺の声がどこまで届くかは、行ってみないと分からない」


クロウの瞳には、決意の光が宿っていた。


その時、通信端末がノイズを吐き、知らない声が割り込んできた。


『クロウ。君か? 君の声が届いた』


聞き覚えのない声。だが、どこか懐かしさを孕んでいる。


『僕たちは、“名を呼ばれなかった者”たち。都市の片隅で、記憶の底で、君の声をずっと待っていた』


端末のスクリーンに、無数の匿名IDが表示される。

“クロウ”という名に反応した者たちが、わずかに目覚めていた。


「・・・!?おい、それって・・・」


横に居たシェルは開いた口が塞がらない程、絶句していた。


「そうよ。これは、都市の“名前なき者たち”の集合意志。彼らがノイズとなって共鳴しようとしてる・・・!」


クロウは、深く息を吸い込む。


「だったら行こう。みんなの“名”を背負って」


彼の声が、またひとつ強くなった。



---



ゼロ・オベリスク最下層。

クロウはついに、リリス・コアの前に立った。


そこには、ヴェイン=ヘルドがいた。


『君の声は、都市を乱すノイズだ。だが同時に、沈黙に耐えかねた亡霊たちの願いでもある・・・矛盾だな』


「矛盾で結構だ。俺は“名前を奪う都市”に、名を返す」


クロウは手にしたカプセルを起動する。

それは、かつて奪われた声たちの記録――ノイズの集合体。


「――ここに、すべての“声”を解き放つ!」


リリス・コアが激しくうねる。

脳神経構造が歪み、ヴェインの目の奥に怒りが灯る。


『やはり君は“あの日の子供”か……!』


その言葉が意味するものとは何か。

過去に何があったのか――全ての記憶は、次の一撃の先に待っている。


クロウの声が、都市の中心を震わせた。





第九章 名前の記憶




リリス・コアの空間に、ノイズと名残の“声”が渦を巻いていた。


クロウは、全身をその圧力に晒しながらも、まっすぐにヴェイン=ヘルドを見据えていた。


「・・・お前が、“俺の名”を奪ったのか」


『奪った? 違う。君が“自分の意思で"差し出した”んだ。まだ幼かった頃に、な』


ヴェインはリリス・コアの端末に指を添えながら、静かに語り始めた。



『15年前、君は都市外縁の“音付き特区”で暮らしていた。音や名前、呼び声がまだ残っていた最後の地域だ』



「だがそこは・・・突然、消えた」


『そう。リリス・コアの初期起動実験で、最初に“音の喪失”が起きたのがその特区だった。君はその実験体として選ばれた――いや、“志願”したのだ』


クロウの意識に、かすかな映像が差し込んできた。







白い部屋。手を引かれて進む少年の自分。そして、研究員たちに囲まれた一人の女性。


「・・・母さん?」


『君の母親は都市研究機関アンヴォイスの主任だった。リリス・コアの設計者だよ。自らの息子を記憶媒体として差し出した。彼女は、都市の“沈黙”こそが争いを終わらせると信じていた』


「・・・そんな」


『君の“名”は、都市に封印された最初の“鍵”だ。だから今、都市中の記録が君に共鳴している。名を失った者たちは、自らの代弁者を求めている。つまり――君は、“リリスそのもの”になれるんだ』


ヴェインの目が、狂気と確信に染まる。


『君が沈黙を受け入れれば、この世界は完全な静寂となる。そして君の存在は、その中心に永遠に在り続ける。“不滅の名もなき者”として』


クロウの中で、何かが軋んだ。


記憶が崩れ、名を呼ぶ母の声がノイズの海に溺れていく。


――でも、それでも。


「・・・俺は、誰かに名を呼ばれたかった」


沈黙の中で、クロウの声だけがはっきりと響いた。


「奪われたんじゃない。思い出すんだ、俺が“俺”だった証拠を」


そのとき、シェルの声が遠くから届いた。


《クロウ! 聞いて! “音”は失われても、“想い”は消えない!》


シェルの手には、共鳴端末があった。

それは都市中の“匿名ID”から送られた、無数の断片的な“名前の記録”。


「これは・・・!」


《君に反応した人々の声。彼らも、自分の“名”を取り戻そうとしてる!君だけじゃない、私たち全員が、声を持っている!》


リリス・コアの内部で、構造が音を立てて歪みはじめた。


制御不能な共鳴波。過去の声たちの震え。


クロウは自分の胸を押さえながら、叫ぶようにして言った。


「・・・俺の名前は、“クロウ”だ! 誰かにそう呼ばれていた! 忘れない! 忘れさせない!」


ヴェインが叫ぶ。


『黙れ! 沈黙こそが秩序だ! 名など、争いの種にすぎない!』


だが、もう止まらなかった。


リリス・コアは、クロウの名に呼応して開きはじめていた。

内部に封じられていた、もうひとつの“記憶”が露わになる。



---



白く、光に満ちた部屋。


母が最後にクロウに語った言葉が、断片的に甦る。


「クロウ。もしあなたが“名前”を忘れても、きっと誰かがあなたを呼んでくれる。あなたの声は、誰かの中で生きるから」


それが、母の“最後の願い”だった。


そして、クロウが都市に残された“希望”だった。



---



「・・・俺は、音を取り戻す。名も、記憶も、すべて」


クロウの体から放たれる共鳴波が、リリス・コアの中枢へと到達した。


機械の神経構造が、名前を宿す“記録媒体”へと書き換わる。


都市中に、名も知らぬ人々の声がこだまし始めた。


誰かが誰かを呼び、音が音を生み、そして――沈黙が、ひとつ破られた。





第十章 静寂の終わり




都市〈リリス〉の最深部、コア中枢に奔る共鳴の波。

クロウの名が触媒となり、都市中の“匿名”に隠された声が連鎖的に響きはじめる。


「制御不能なノイズが・・・いや、これは“音”だ」


リリス・コアに組み込まれたAI補助ユニットが、自壊前のログを吐き出す。

その全てが、誰かの“名前の記憶”に繋がっていた。



---


クロウの視界に、世界が二重に揺れて見えた。

ひとつは、名前を失った沈黙の都市。

もうひとつは、名も声も持った人々が生きる、かつての光景。


どちらを現実にするか、それを決める鍵が今、自分の中にある。


「・・・ヴェイン、なぜお前は“音を消そう”とした?」


対峙する男は、かすかに目を伏せた。


『・・・記憶が多すぎるんだ。争いも、愛も、裏切りも。音も、名も、人を縛る。私は……それを、すべて静かにしたかっただけだ』


「それは、自分だけのためだろ?」


『・・・違う!』


ヴェインの右手が閃き、コア端末が黒く染まる。


『お前が“音”を望むなら、私は“沈黙”で応える。これが最後だ、クロウ!』



---



二人の意識が、コア空間で衝突する。

名を持つ者と、名を拒絶する者。


無数の記憶が交錯し、人格と人格がぶつかり合う。


クロウの胸に、幼い頃の自分が問いかける。


――「名前って、本当に必要なの?」


そして、あの声が返ってくる。


――「名前があるから、私はあなたを思い出せるのよ」


母の声。


それが、クロウのすべてを貫いた。


「・・・必要だ。だって、誰かに呼ばれなきゃ、俺は“ここにいる”って言えない」


彼の意識が、リリス・コアの本体を貫く。


反応するように、都市のあちこちで凍結されていた音声記録が解凍されていく。


「マリア・スピカ、セクター24・通信技師」

「カイン・ノルド、第7警備部所属」

「ライナ・ハヴェル、15歳、学校に行きたがっていた――」


誰かの名前、誰かの存在が、次々に蘇る。


それは都市にとって“災厄”であり、そして“祈り”だった。



---


ヴェインの肉体がゆっくりと崩れていく。

コアに自らを接続していた彼の精神は、過去の全記憶とともに消えようとしていた。


『・・・俺は、間違っていたのか?』


クロウは手を差し出す。


「お前もまた、誰かに名を呼ばれたことがあるんだろ?」


ヴェインの目が、かすかに潤んだ。


『・・・母がいた。忘れていたが・・・確かに───』


そして、ヴェインは音もなく消えていった。

名前を思い出したその瞬間に。



---



都市に、風が吹いた。


それは本当に、久しく誰も感じたことのなかった“音”。


コアが再起動する。

だが今回は、静寂の演算ではない。


共鳴と記憶をつなぐ、新たな回路として。


クロウの名が、都市中に広がっていく。

ただのコードではなく、“人間”の記録として。


《名を持て。音を抱け。誰かの声に応えて、生きろ》


リリス・コアの最終命令が、それだった。



---



そして。


地上に戻ったクロウとシェルは、空を見上げた。


灰色だった都市の空に、はじめて青が戻っていた。


ポロロン♪


誰かがギターの弦を弾いた音が、どこかで鳴っていた。


それは、名を取り戻した都市が奏でる“最初の歌”。


「・・・おかえり、クロウ」


シェルが、名を呼んだ。


クロウは静かに、笑った。


「ただいま」





第十一章 ノー・ノイズ ノー・ネーム




都市〈リリス〉は変わった。


音を取り戻したその日から、誰もが“名前”を持つようになったわけではない。

それでも、誰かを名で呼ぶことを恐れなくなった。

耳を澄ませば、遠くからピアノの音。通りには誰かの笑い声。小さな子どもの「おはよう」が朝を告げていた。


クロウは〈第零区画〉跡地に建てられた共同記録棟の前に立っていた。


シェルとともに、都市に残された“無名の記録”を一つずつ呼び起こす仕事に取り組んでいる。








エピローグ その名を呼ぶために




リリスの空は、今日も青い。


けれど、あの日と同じ青ではない。

かつて“ノイズ”と呼ばれた声の奔流は、今や“音”として都市の命を奏でていた。


クロウは、郊外の記録館の屋上に腰掛けていた。

風が少し冷たくなったこの季節、遠くの街路樹が赤く色づいている。


彼の横には、一冊の古い記録冊子。表紙に刻まれていたのは「匿名回廊再生計画・第1期完了報告書」。


――あれから、もう20年が経った。


あの日、都市を覆っていた“名のなさ”は静かに解け、時間をかけて少しずつ、誰もが“名乗ること”を思い出していった。


すぐに変わったわけではなかった。

戸惑いもあったし、過去を取り戻すことに痛みを感じる人もいた。


けれど、人は誰かに呼ばれて初めて“生きている”と実感できるのだと。

その事実だけが、変わらず都市を支えてきた。



---



足音がした。


軽やかで、けれど迷いのない音。

彼はその足音を知っている。


「・・・また古い報告書読んでたの?」


振り返ると、シェルがいた。

その胸には、小さな命を抱いている。

静かに眠るその子の頬は、まだほんのりと赤く、時折ふにゃ、と小さく鳴いた。


「また眠ってるのね。音に敏感だから、ちょっとした声でも目を覚ましちゃうのよ」


「・・・誰かさんに似たのかもな。俺が夜勤明けに音楽流しただけで、機嫌悪くしてたろ」


「え、それは“音”じゃなくて“雑音”だったからね。古いスピーカーで爆音のギター・・・やめてほしいわ」


ふたりは、静かに笑い合う。


クロウは目を落とし、赤ん坊の顔を見た。


「・・・もう名前、決めたんだろ?」


「ええ。今日、君に呼んでほしかったの」


シェルは小さな手をそっと包み込み、囁くように言った。


「この子の名前は――『リオ』。

 “音の記憶”って意味があるの。過去と未来を繋ぐ音の、その真ん中に立って生きていけるように」


クロウはその名をゆっくりと反復した。


「リオ・・・いい名前だな」


そして、彼は赤ん坊の額にそっと触れた。


「・・・ようこそリオ、お前がこの世界で出会う音と、名前と、誰かの声が、全部優しいものであるといいな」


リオはまどろみの中、かすかに笑ったようだった。


その小さな表情だけで、十分だった。


この都市に、音が戻って本当に良かったと、心の底から思えた。



---



遠く、街角の広場で子どもたちの声が飛び交っている。

名を呼び合い、笑い合い、ときには泣きながら、それでも音と共に生きていく。


名があるから、人は人でいられる。

それは今も、変わらない真実だった。




登場人物の容姿とかそこら辺を紹介します


クロウ(Crow)


年齢(物語開始時):16歳前後


身長:180cmほど


外見:短めの黒髪に鋭い目つき。頬に過去の傷痕が一本だけあり、無精髭が少しだけ残っている。

服装は簡素な黒の作業服と、左肩に記録端末を固定した専用ホルスター。


印象:寡黙で観察眼に優れ、感情を抑えているように見えるが、芯には情が深い。




シェル(Shell)


年齢(物語開始時):18歳前後


身長:165cmほど


外見:灰がかった銀色の長髪を後ろでまとめている。瞳は淡い緑色。

記録官の制服を少しだけ改造して着ており、動きやすさ重視。細身ながら姿勢が良く、芯の強さを感じさせる。


印象:理知的かつ情熱的で、冷静な判断と共感力を兼ね備えている。



ヴェイン(Vane)


年齢(見た目は30代後半)/実年齢不明


身長:185cm


外見:白銀の長髪を後ろで編み、目元には常に眼鏡型インターフェース。服は旧時代の研究機関のローブのような装いで、胸元には黒い識別タグ。

肌はやや血色が薄く、動作に一部人工的な違和感がある。


印象:感情の希薄な口調とともに、不気味な静けさをまとう存在。過去を背負いすぎた男。



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ここまで見てくださいありがとうございます。

またいつか、何処か出会いましょう

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