特訓_1
花が開花する要因はいくつかあるようで、その中でも一番わかりやすいのが心身の強化らしい。体を鍛えることで花の成長を促し、開花に繋がるとのことだ。
少し脳筋な気がするが、アッシュが言うのだからそうなのだろう。
「今日からお前の訓練の指揮を任された、杏奈だ。教官やら司令官やらをやっている」
「はい!よろしくお願いします!」
気合いの入った声と共に春樹は杏奈に向かってきれいにお辞儀した。
杏奈。ザープ出現時の現場指揮を行う司令官を務めており、普段は剪定者の教官として訓練を行っている。今日の朝、柚利乃から杏奈について聞いていたが、実際に会ってみると思っていたより若い印象を受けた。
上下ジャージ姿でジャージの上着は肩に掛けているスタイル。くせっ毛の強い赤茶色の長い髪の上にはアッシュの制服用であろう帽子を乗せていた。
「………」
上半身がTシャツ一枚のせいかやたら胸が強調されて見える。大きさもあるから余計にだ。僅かに見える谷間につい目がいってしまう。
「____っ!」
いかんいかん俺はここに訓練に来ているんだ。そんなくだらない煩悩で集中を切らすわけにはいかない。
「柚利乃、お前はどうする?」
「私も参加します。杏奈さん、お願いします」
柚利乃の静かながらも熱のある返事に杏奈は口元を緩ませる。
「あぁ、いいぜ。まとめて相手してやるよ」
実際いろいろ聞かされ、昨日の今日で不安だったっていうのもある。見知った顔がいてくれるのは心強かった。
「ま、柚利乃に関しちゃぁ心配いらねぇが…」
杏奈が春樹の前まで近づいて来るとガッと自分の顔を春樹の顔に寄せてきた。
「おい、小僧」
「はっはい!」
「本部長から昨日、長ったらしい話を聞かされたが、ようはお前をしごきまくればいいってことだろ?」
人差し指で春樹のおでこをツンツンとつつく。
ゴクリと春樹は固唾を飲んだ。
「へっしっかりとついてこいよ」
「はい!」
今日は大事な初日だ。気を引き締めていかなければ。
「おぉいい返事じゃあねぇか」
杏奈はニッと口角をあげる。
「そんなやる気のある小僧に一つ頼みがある」
「頼み…ですか?」
「あぁ」
肩に手を置き、杏奈は自分の口元を春樹の耳に近付けた。
そして、一言。
「一発、殴らせろ」
「え?_っんぐ!」
瞬間、腹部に激痛が走る。
杏奈の拳が春樹の腹部を直撃していた。突然のボディーブローに春樹の体は地面に崩れ落ちる。
「須藤くん!」
柚利乃が近寄って来る。
口の中に朝ごはんが戻って来そうになったがギリギリのところで抑えた。
「……はぁ…はぁ…はぁ…いっいきなり…何…するんです…か…っ!」
脂汗を滲ませながら杏奈を睨み付ける。
苦しむ春樹をよそに自分の拳を見つめる。そして、改めて春樹を見下ろす。
「お前、想像以上にもやしだな」
「_っ」
何か言い返そうと口を開くが、腹部の痛みもあってかうまく頭が回らなかった。
上を見つめ、杏奈は少し考え込む。
「よし、今日のメニューが決まった。あたしは道具をとってくる。その間、お前らは準備体操でもして待ってろ」
といって後ろへ戻って行った。
「須藤くん、大丈夫?」
「ぁっあぁ…」
声にならない声でどうにか返す。
「ちょっと背中貸して」
春樹の両肘を自分の肘に絡ませる。自分と春樹の背中を合わせると体を持ち上げ、ぐっと春樹の体を伸ばしてくれた。
「どう?」
「ありがとう。少し楽になったよ」
春樹はお腹を擦りながら杏奈の出ていった入口を見つめる。
「しっかし、なんなんだあの人、メンチ切って来たと思ったらいきなり腹パンしやがって本当に教官なのか?」
「あれはあの人なりの挨拶よ」
「そんな挨拶があるか!やってること完全にヤンキーと一緒じゃねぇか!」
お陰で始まって早々、いや始まる前から早々に致命的なダメージをお見舞いされたわけだ。初見殺しもいいところである。
「それはそうと早く準備体操しましょ。ちゃんとしとかないと体、壊すわよ」
「…はいはい」
春樹と柚利乃は言われた通り準備体操を始めた。
「そういえば、須藤くんは運動経験はあるのかしら?」
「おぅ。俺、中学のとき陸上部やってた」
「へぇー。種目は何をやってたの?」
「長距離だな。だから、体力には自信あるぜ」
体を伸ばしながら「そう」と短く答える
「あのころの練習はきつかったなぁ。夏だと炎天下のアスファルトあちいし」
「それは大変そうね」
「まぁな。でも、そのおかげもあって根性ならそこら辺の人よりかはあると思うぜ」
と自信満々に言う。
「それは頼もしいわ」
三ヶ月、それが俺のリミット。それまでに俺の花を必ず開花させる。
辛い特訓になると佐伽羅先生が言っていた。覚悟ならできている。どんなに辛くても乗り越えて見せる。
話している間に杏奈が奥から戻ってきた。
「二人とも待たせたな」
見ると片手に何かかけている。
「では早速特訓、と言いたいところだが、小僧、お前にはまずはこれを着てもらう」
手に抱えていたものを一つ杏奈は掲げた。
「黒い…Tシャツ…?」
それはビニールの包まれた新品の黒いTシャツだった
「柚利乃、お前のやつ最近悪くなってきたって言ってたろ。ほら」
杏奈は手に持ったTシャツを柚利乃に向かって投げた。それを柚利乃は受け取る。手に持った瞬間ふと違和感を覚え、柚利乃は首を傾げる。
「杏奈さん、もしかして_」
「ほら小僧、お前のだ」
「あっはい」
杏奈は残ったもう一枚を春樹に投げた。
春樹がそれを受け取った次の瞬間___
「っ__」
春樹の体が床へ一気に沈む。まるで床に吸い寄せられるかのように体が急降下した。
「いってててて!」
服と床の間に腕が挟まれ凄まじい圧迫感に悲鳴を上げる。服を持ち上げようとしたり、横から抜け出そうとするもまるで接着剤でくっつけたかのようにびくともしなかった。
「お前、何やってるんだよ」
呆れ顔浮かべながら杏奈はこちらに歩いて来る。
苦しむ春樹の代わりにTシャツを持ち上げてくれた。
「いって…」
春樹の救出された腕を見ると真っ赤に膨れていた。痛みを和らげようとバサバサと振っている。
「ほら。今度はちゃんと持てよ」
と手渡しで差し出して来た。
「ちょっちょっと待ってください!」
「あん?なんだよ」
慌てて春樹はその腕を制した。
「何ですかこれ!?見た目に反してめちゃめちゃ重いんですけど!?」
「これはアッシュでトレーニング用に作られた着るタイプのダンベルだ。仕組みは知らんがそこそこ重いぞ」
「それを先に言ってくれませんかっ!こっちにも持つ準備ってのががあるんですけどっ!ってかこれそこそこの重さじゃねぇーだろっ!一体それ何キロなんですかっ!」
「ごちゃごちゃうるせぇなぁー。一応、お前に合わせて10キロのやつを持ってきたんだそ。………でも、まさかここまでモヤシだとはなぁ…」
困ったように杏奈は頭をかく。
春樹は耳を疑った。
10キロ!?これが!?まさかっ!少なくとも象に踏みつけられた時ぐらいはあったぞ。あれがお米と同じ重さだとは到底思えなかった。
「杏奈さん、それ多分私用です」
後ろにいた柚利乃が言う。春樹たちに近寄り、先ほど渡されたTシャツを杏奈に渡す。持った時の感覚ではっとなる。そして、服のラベルの数字を確認する。
「あっマジだっ!わりぃ、間違えて逆に渡しちまったわ」
杏奈は改めて黒シャツを春樹に差し出す。それをおそるおそる受け取る。今度は重いには重いが春樹でも持てる現実的な重さだった。安心し、胸を撫で下ろす。
「はぁ…ちなみにそっちは何キロだったんですか?」
「100キロだ」
「…………………………は?」
杏奈は立ち上がり、帽子のつばをつまみ整える。
「よーし、着替えてきたら即トレーニングを始める。1ミリも手加減する気ねぇからなっ!死ぬ気でついてこいっ!」
「はい」
「…………………は?」
俺はとんでもないところに関わってしまったのかもしれない。Tシャツを抱えたまましばらくその場から動けなかった。
中学まで陸上部に入っていたこともあり、体力には自信があった。今回のこの特訓にもある程度はついていたいけると思っていた。だが、それは数分と立たぬまに打ち砕かれる事となった。
「おら走れ、走れ、走れ。止まったら落ちまうぞ」
「ひいぃぃいい!」
巨大なランニングマシーンに乗せられた春樹たちは現在絶賛疾走中であった。
柚利乃は早朝の池のある大きな公園内を爽やかに快走しているかのような綺麗なホームで走る。一方、春樹は部活引退後全く運動していなかったため、早々に体力を使い果たしていた。どうにかその場にとどまろうと必死に足を前に出している状況だった、顔は青ざめ、疲れきった表情、というよりもどちらかと言うと何かに追われた恐怖の表情だった。
「おい小僧、そのままだとまた落ちて電流だぞ」
マシーンの周りには黒いマットが敷かれており、触れた瞬間に電流が流れるという罰ゲームのおまけ付きだ。異常だろこの特訓っ!それにスピードもだんだん早くなって来てる。一歩でもテンポがずれれば足が空回ってそのまま落ちる。
「なんなんだよっ!この特訓わよぉぉお!」
「何って?ランニングよ」
「お前はちょっと黙ってろっ!」
マシーンの床に春樹の汗が染み、色が濃くなっている。
「はぁっ…はぁっ…はぁっ…」
狂っている。電流の罰ゲームは言わずもがだが、マシーンのスピードだ。今走っているのが初級コースの速さだと言っていたが、駆け出しのスピードだって車の徐行ぐらいあったぞ。
…ってか、これよりも上の速度で走る柚利乃は何者なんだ。あぁ、マズイ…。酸欠で目の前がチカチカする。
「あっ…」
景色が上へとずれていく。頭が下がり流れる床が顔に迫る。
マシーンの床に付いた汗で足を滑らせた。
ギリギリ保っていたリズムがずれる。
足を慌てて前に出す。しかし、遅い。既に取り返しがつかなかった。無機質の床に顔を叩きつける。
「いだっ!」
そして、そのまま下座へと流れていく。
「あぁぁぁぁぁぁああっ!」
電流が春樹の体を激走した。
「…21………22……………23………」
「腰を浮かすな!顎を引け!」
両手を床に着け、震える体を沈ませる。
「………24………………25……………」
「声が小さい!25っ!」
「…………25…………」
「二度同じことを言わせるなっ!25っ!」
「…………………25……………っ!」
自分の影とにらめっこをしたまま動けなくなる。腕立て伏せ、部活時代にさんざんやった、やっていた。
だが、腕立て伏せで雪の重りを体に乗せるなんて聞いたことない。
「おら、小僧!何止まってんだ!さっさと腕を動かせ!」
「は……は……ぁ、あの…」
首を上げ杏奈を見上げる。
「なんだ?」
疲弊しきった体から声を絞り出す。
「休憩って…ないん…です、か?」
「休憩…か」
隣に目を向ける。春樹同様、背中に雪の重りを乗せ、腕立て伏せをこなす柚利乃の姿。
ただ、その背中に乗っているのは春樹の10倍近い大きさの雪の重りだった。黙々と丁寧に。
「…999…1000」
体が上りきった時、背中に乗った重りを消す。僅かに額に滲み出た汗を拭う。
「終わったか。ちょうどいい、柚利乃っ!」
「_っ。はい」
急に呼ばれ驚きつつ、顔を向ける。
「こいつにもう1キロ追加しろ」
「ちょちょちょっ、待ってくださいっ!俺、これ以上は_」
「甘ったれたこと言うなっ!お前は普段の1/10の回数にしてやってんだ。次、泣き言言ったらぶっ殺すぞっ!柚利乃、やれ」
「はい」
「おおおいっっ!はいじゃな_____ぅぅぅぅぅっ!」
春樹の背中に雪の重りがまた一つ乗る。
「汗をかいたから流させてやる」
そう言って連れてこられたプールサイド。
「うっ…ぐっ!_げほっ!…げほっ!……うぅ…」
塩カルの苦い味が口に広がる。
腹筋と言うものは床に寝そべってやるものだと思っていたが、どうやらアッシュでは違うらしい。
「どうだ?水浴びできて気持ちいいだろう?」
にこやかに杏奈は話しかける。しかし、春樹はその問いには答えなかった。というより答える余裕がなかった。
潜水腹筋。下半身をプールサイド側に向け、縁に膝を掛け固定する。上半身を水中に沈め、プールの壁に背中が着いたら起き上がる。
アッシュではよくやるトレーニングだとさっき鬼が言っていた。
「なぁに、精力の無い顔してんだよ。こんな目の前に女子の水着姿があるんだ。これほど嬉しいことはないだろ?」
今、春樹の両足は柚利乃が両手で押さえてくれていた。装いはその場に相応しい水着姿で。股の先がハイカットになっている競泳水着のようなデザインであり、スタイルが引き締まりとても綺麗に見えた。女子の水着姿がこんなにも近くにあるとやはり気恥ずかしい。後、柚利乃の体勢的に起き上がるとちょうど目の前に胸があり、まともに前を向けない。
「はぁ…。はぁ…。はぁ…」
なーんて最初の三回ぐらいまでは思っていた。
ちなみに春樹はさっきの服装のままだ。つまり、さっきの十キロのTシャツも健在である。上半身が重くなっている分潜水に力は使わないが、問題は浮上だ。ただの腹筋とは異なり起き上がる時の水圧が想像以上にきつい。それにもとより重い服が水を吸ってさらに重くなる。なんてトレーニングだ。およそ人が考えたものとは思えない。
「はぁ…はぁ…杏奈、さん…」
「ん?なんだ?」
「もう…無理、です。これ以上は…はぁ…はぁ…死に、ます」
今にも消えそうな声で春樹は話す。限界だ。これ以上は本当に命に関わる。
呆れたようにため息をつき、頭をかく。
「仕方ねぇなぁ~。んーじゃっ後、5回だ。5回。今日はこれで勘弁してやる」
5回、五回、ご回、ごかいか…
「はい、ごーー」
落ちるように体を倒す。
水面が後頭部にぶつかり、意識を狩りにかかる。
体を沈め、起き上がる。体を沈め、起き上がる。何度もやっていると、なぜ自分はこんなことをしているのだろうと時折、疑問に思ってしまう瞬間もあった。
「よーーーん」
見える景色が白とびし色濃くなる。
目の前にいるはずの柚利乃の顔の輪郭は認識できない。
「さーーーん」
カウントが彼方から聞こえる。
もう、動く体に意思などない。辛い、きつい、苦しい。そんな感情を抱く余裕すらなかった。
「にーーー」
歪む視界。揺らめく集光模様。あぁこの景色。後、何回見れば終わ…
「_っ!」
Tシャツが首に巻き付き、のしかかる。今までそうならない気を付けていたのだが、最後の最後で気が抜けた。
「っっっっっっ!」
首からほどこうと必死に踠く。しかし、水中だとうまく体が動かせない。気道を完全に塞がれた。ヤバイっ!息がっ!息がっ…!
「ん?」
水面にボコボコと泡が浮き上がってくる。
同時に押さえてある春樹の足先が突然暴れだす。しばらくするとそれは収まり力無く垂れる。
杏奈は嘆息を漏らす。
「_ったく。ホント根性がねぇ。柚利乃、引き上げろ」
「はい」
両手で足を持ち、春樹を一本釣りする。
「起きろっ!小僧っ!」
「___っ!ぶっはっ‥‥‥‥‥っ!」
強烈なボディーブローで春樹は現世へと呼び戻された。
「…ぁっ…ぁ……………ぅ…」
「須藤くん、生きてる?」
床にへばりついた春樹の横に柚利乃がしゃがみ、顔を覗き込む。
「ぉれ…もう…動けない…」
今日一日のトレーニングで一週間分の体力を使い果たしたと言っても過言ではない。限界過ぎて普通にしゃべるのも容易ではない。
腕も足も破裂すると言わんばかりにパンパンのパンパンだった。
「おい、あたしは先に帰るぞ」
荷物を片手に杏奈は言った。
「はい、杏奈さんお疲れ様です」
「おっおちゅ…かれさ…まです」
「けっ。なんだ。その情けない顔は初日だってのにだらしねぇ…」
ぐうの音も出なかった。
プールに沈められていたせいでちょっと寒い。
「はぁっ…はぁっ…はくしゅんっ!!」
大きなくしゃみをすると、口から大きな炎が吹き出す。その勢いはテレビで見るファイャーパフォーマンスさながらだった。
「おいおい、お前はドラゴンかよ」
「す…すみません。最近、無意識に炎が出ちゃって」
先日までは出す出さないの有無は操作でき、その際の強弱がうまくできなかった。しかし、今は自分の意思とは関係無いところで力が発動してしまうことがある。
「ふーん。そうかよ」
すると、杏奈はバックの中を漁り何かを取り出す。
「そんなお前にいいものをやる」
杏奈が春樹に近づき、横でヤンキー座りをすると手に持った物を見せてきた。銀色のブレスレット。それを春樹の目の前で揺らす。
「これは花錠っていってな。花の力を抑える力があんだ。能力が安定てねぇなら、寝てる時これつけろ寝ろ。無意識の内に能力を使って起きたら焼け野原になるかもしんねぇからな。あっでも、昼間はつけるなよ、成長の妨げになるからな」
「…は、はい、…わかりま_」
いじめまくった右腕をぷるぷる震わせながら手を伸ばす。
「おっと」
掴もうとした時、直前で杏奈は手を引く。春樹の腕が地面に落ちる。
「でも、タダじゃぁやれねぇな」
いたずらっぽい笑みを浮かべ、ゆらゆらと花錠をゆらす。
からかうように見るその目に春樹は顔をしかめる。
口に出しては言えないが、なんと言うかめんどくさい。
「もしかして、カツアゲですか?俺そんなお金もって_ぁ痛っ!」
杏奈の拳骨が頭に直撃する。。
「あたしをいじるとはいい度胸してんなぁ。一回目だから今回はこれで許してやるよ」
杏奈は立ち上がり、歩き出す。
春樹が倒れている目の前のボルダリング用の突起のついた壁の前で止まる。
「だらしねぇお前のために追加メニューだ」
花錠に指をかけ、くるくると人差し指で回転させる。遠心力のついた花錠を投げ輪の要領で高く飛ばす。それは大きく弧を描き、一番上にある岩の先端に引っ掛かった。
「壁を登って花錠を取ってこい」
「____っ!」
呆然とし言葉が出なかった。
杏奈は踵を返すと右手を軽く振りながらは歩いて行く。
「じゃあな。明日も早いからなちゃんと休めよぉ」
そう言って彼女は出ていてしまった。
「須藤くん、大丈夫?」
「……」
本日二回目のその質問に今回は答えられなかった。
天井を仰ぐ。視界に先ほどの投げられた鍵が空調設備の風に揺られ、ゆらゆらと動いていた。
これが初日…。初日か…。
右腕で目を覆う。
始まる前のあれだけあった自信はいつのまにか汗と共に流れていってしまった。
こんな辛い特訓がこれから毎日あるのか…。考えるだけで今にも吐きそうだ。
暗澹たる思いにうちひしがれ、春樹はため息をつく。
「須藤くん、ちょっと口開けて」
そんな言葉が聞こえ、春樹は片目を開ける。柚利乃がこちらを覗き込んでいた。
「なんだ?」
「いいから」
「お前…人の口の中覗く趣味でもあんのか?」
「そんなわけないでしょ。ほら早く」
疑問を抱きつつも、柚利乃に言われた通り口を開けた。
柚利乃の手には何やら瓶ような物を持っており、それから中身を一つ取り出し春樹の口の中に落としてきた。
「あむっ。ん?なんだこ____っ!」
瞬間、電流が走ったかのような衝撃が全身をかける。まるで全身の筋肉が搾り取られるような感覚。行き場のないむずかゆさが身体中を襲う。
手足をバタつかせ悶え苦しむ。慌てて飛び起き、一目散にトイレに駆け込んだ。
しばらくして。ぜいぜいと息を切らした春樹が戻って来た。
「おい、柚利乃っ!お前、俺に一体何食わせた!薬品かっ!?それとも化学兵器かっ!?」
物凄い剣幕で睨む春樹に柚利乃は小首を傾げる。
「何ってただの梅干しだけど」
「隠語か!?」
「普通の」
何食わぬ顔で答える柚利乃。
春樹は耳を疑った。酸っぱいと言う表現を聞くと確かにそうだったように思える。だが、あれは最早酸っぱいの枠を越えている。
「家で作ったやつをいくつか持ってきたの。これを食べればどんな疲れも一瞬で吹っ飛ぶの」
おぉ、これはすごいな。謳い文句だけ聞くとヤバイ薬にしか聞こえない。
とは言え効き目があるのは確かなのかもしれない。さっきまで会話することすらままならなかった春樹だが、今はこうして立っている。
「まさか、梅を薬品にでも浸けてるのか?」
「C6H12O6」
「劇薬!?」
「はちみつよ」
「なんだよ」
紛らわしい。
「はちみつは万病に効くって言うし、相性がいいのよ」
瓶から一つ取り出すとパクリッと口に含んだ。
「お前、それ酸っぱくないのか」
「もう慣れたわ」
なるほど。剪定者は舌も化け物級のようだ。
柚利乃は立ち上がり、春樹に近づく。そして、新しい梅干しを取り出すと春樹の口へと手を伸ばす。
「だから、ほら今度はちゃんと食べて。はい、あ~ん」
「うっ…」
差し出された手に反射的に顔を反らす。
なぜだろう。女子にあ~んされているというのにこんなにも嬉しくないなんて…。
「ほら、抵抗しない」
ごくりと唾を飲み込み。
再び口を開けようとする。しかし、口が本能的に抵抗し、思っているよりも開かない。
「はぁ…」
しびれを切らした柚利乃は持った梅干しを指ごと口の中に突っ込む。
「うむっ…………………っ!●◆▲Ⅹ●◆”ーーーー!!」
春樹にとってとても甘酸っぱ過ぎる記憶となった。
その後、酸味という兵器により意気消沈し春樹は立ち上がることが出来なくなってしまった。結局、春樹に代わり花錠は柚利乃が取ってきてくれた。