第117話 闇色のけだもの。
(三人称)
「むぅ……」
ラーガリが誇る【鎮めの街ガラハリ】
鎮魂祭が終わり、人通りが若干少なくなった城門の前で、1人の獣人が溜息をついている。
艶やかな黒い毛皮をした、美しい長身の女性兵士だ。
「どうしました、バレリア隊長」
傍らに立つ兵士が聞く。
彼女の名は、バレリア。
【鬼鹿毛】の異名を持つ凄腕の兵士だ。
だが、今はなんとも元気のない顔をしている。
「ン……いやなに、少し考え事をな。今朝起きて思い至ったのだ」
「考え事、ですか?」
「ああ、記憶をたどっているのだ……前に見た、白狼のご婦人のことが気になってな」
トントン、と指で額を叩くバレリア。
記憶力にはそれなりの自負がある彼女でも、どうにも思い出せないらしい。
「ホラ、お前もその場にいたから覚えているだろう? 例のムークくんが護衛していたご婦人だよ」
「ああ、あのタリスマン売りのお婆さんですか……むぅ、どうにも妖精とムークさんのことしか思い出せず……」
少し柴犬に似たその獣人は、極まりが悪そうに頭をかいた。
この国では珍しい虫人に、妖精が2人。
白狼の老人よりも何十倍も珍しいからだ。
「それで隊長、そのご老人がどうかしましたか? ひょっとして手配されている賞金首に似ているとか……?」
国中に散らばる賞金首の確保、捕縛も衛兵の任務の一つだ。
それを考えて、獣人の顔が真剣になる。
「ああいや、そう言った類ではないハズだ。彼女と同じ年頃、同性の賞金首に該当はない……ううむ、どこで見かけたのだったかな……北の戦役でもなし、南でもなし……」
ぶつぶつと呟きながらも、バレリアの目は門へ向かって来る旅人をしっかりと視認している。
「昔のお知り合いとかでは? ホラ、隊長はここではなく北の出でしょう?」
バレリアはラーガリ北限の都市、【ハッシュバル】の出身だ。
秋口から夏前まで雪に包まれる、極寒の街である。
「ふむ……北、か。北……北……おい、そこの紳士! 背嚢からゴブリンの耳が零れているぞ! 稼ぎを落とすな!」
「ああ、こりゃあすまねえ! ありがとうよ兵隊さん」
冒険者風の男に手を振りつつ、またバレリアは思考の海に沈む。
「北……故郷ではないな、だが何か……何かひっかかる……」
そんな彼女を見つつ、傍らの獣人もまた考え込む。
(隊長、今日は若い男をナンパしないから楽でいいな……)と。
腕っぷしも強く、気前もよく、何より目の覚めるような美人。
だが、いささか男癖の悪い上司……それが、バレリアだった。
そう思いながら、獣人は空を見上げる。
夕暮れが近付く空に、大きな満月が浮かんできていた。
「こりゃあ……今日は月見で一杯かな」
そう、呟いた。
次の瞬間、バレリアが目を見開いた。
「そうか! 月、月だ! ……嗚呼、私としたことが歳を取ったものだ……!!」
一人合点し、手を叩くバレリア。
「その様子だと思い出したのですね、隊長。それで……そのご老人はどんな方だったのですか?」
当然気になるので、そう聞く獣人。
「私がまだ麗しい少女だったころだよ……やっと思い出した。あの老人は……『月の民』だ」
半笑いで聞いた獣人の表情が、瞬時に引き締まった。
「まさか……生き残りが、いたのですね」
「ああ、あまりにも柔和なお顔だったのでわからなかった。あのご婦人は……そうか、あの時ハッシュバルに避難してきた一隊を率いていた方だったか……」
懐からパイプを取り出し、魔法で火を点けるバレリア。
「では探しているのか、今もまだ、【闇のけだもの】を」
「……いたとしても、ヒトの身でどうこうできる相手ではありますまい、隊長」
お互いに沈黙し、街の喧騒だけが響く。
しばし後、バレリアが紫煙と共に呟きを吐き出した。
「――つくづく、奇妙な星の元に生まれたのだな……ムークくん」
・・☆・・
「アンタたちに渡したタリスマンは、かなり強力な結界を展開できる……用心しな、そこから出るのは簡単だけど入るのはほぼ無理だよ。空間に固定されてる結界だから、絶対に出るんじゃない」
お墓の前で、結界に囲まれたボクらにカマラさんが言った。
い、いきなり何……?
カマラさん、滅茶苦茶真剣な声色だけど。
「カマラさん、これは一体どういうことなのナ?」
いつになく真剣な顔をしたアルデアが、槍を持ちながら言う。
ピリピリしている……
「んだなっす! 何が起こるんでやんすか!?」
ロロンは少し不安そうだ。
ボクらをどうこうする気はなさそうだけど……それならそれで、一体何の目的なんだ?
「一から説明してやりたいけどね――アタシの『相手』が来たみたいだ」
「おやびん!おやびんっ!!」『むっくん!』
カマラさんが呟くのと同時くらいに、マントの中にいたアカとピーちゃんが緊迫した様子で出てきた。
ピーちゃんはボクの首元に埋まって震えてるし、アカは頬に抱き着いてくる。
どうしたのさ!?
「こわいの……こわいの、くりゅ! くりゅ! こわい!」
いつになく混乱した様子のアカを撫でて、慰めようとした瞬間だった。
――ぎしり。
まるで、空間がまるごと軋むような音がして……カマラさんの奥の暗闇が、動く。
「ッグ!?」「ううっ!?」「っは!?」
ボクも、ロロンもアルデアも――押されたみたいに地面に尻もちをついた。
なん……なん、だ、この、感覚!?
『空間歪曲……凄まじい魔力です、あそこに何かが現われます!』
トモさんが叫ぶけど……ボクも、流石にわかった。
背中がひりついて、足が、足が動かない!
とんでもない何かが……何かが、来る!!
「来ると思ったよ」
そんなボクらを尻目に、カマラさんは異常な程いつも通りだ。
いつも通りに、口元に笑みを浮かべている。
「――婆の一人歩きじゃ、不自然すぎる。かと言って大勢でも同じさね」
す、と。
ローブから出てきたのは、いつもの杖だった。
だけど、先端の宝石が……優しい、薄い青色を含んで光っている。
「だから、皆に一緒に来てもらったのさ。不自然に見えない、普通の夜歩きの婆に擬態する必要があったのさ……すまないねえ、本当に」
カマラさんが、背を向ける。
その先の空間が、ねじれ、渦を巻いた。
吐きそうなほどの魔力放射が終わったそこには――小さい、森狼よりも小さい……真っ黒な、子犬がいた。
まるで、闇を捏ねて作ったみたいに。
一切の光を反射しない、闇色の子犬が。
「闇色の、犬……ひいじっさまに、聞いたことが、ありやんす」
ボクのマントに縋り付き、震えているロロンが声を絞り出す。
「『もしも夜に、闇を捏ねたような犬を見かけたら……なんもかんもかなぐり捨てて、朝日が昇るまで逃げろ。おめえがどんだけ、強かったとしても』……と」
「私も、聞いたことがあるのナ」
後ろで、ボクの肩を掴んでいるアルデアも呟く。
「『どこにでもいて、どこにもいない闇色の犬がいる。見かけたら翼が千切れるまで飛んで逃げろ』とナ……」
なん、だそれ。
まるで怪談に出てくる、絶対に倒せない怪異みたいじゃないか。
トモさん、わかる?
『……いくつかの伝承にあります。闇を煮詰めたような姿をした、犬型の魔物……影から影に飛び、その場の生き物をすべて喰らいつくす、そういう魔物が』
トモさんの声をバックに、犬が身震いした。
『その名は――【闇渡り】確認されているだけで、7つの街と12の村が滅ぼされています』
身震いして――吠えた。
「――FRRRRRRRRRRRRRRRR――」
なんてことない音量の、奇妙な声。
だけど、ボクらの体から残らず力が抜けた。
……勝てない。
この魔物には、逆立ちしても、勝てない。
そう、心で実感、いや確信できる。
「うう、あうう……」
頬に縋り付いたアカが、震えて泣いている。
ボクは……震える右手をなんとか持ち上げて、撫でた。
それしか、できなかった。
――でも。
「相も変わらず、耳障りな声だねえ【闇渡り】」
もっと近距離でそれを浴びたはずのカマラさんは、なんともない。
今まで一緒に旅をしてきて、仲良くもなれたはずだったのに。
ボクには、全く知らない人のように思えたんだ。
――ばちん、ばちん。
そんな音が、カマラさんからしている。
何の音かと思ったら……タリスマンだ。
カマラさんの外套についているタリスマンが、弾けるように外れていっている。
内側から爆発したみたいに、破損して。
『これ、は――』
トモさんが絶句している。
ボクにも、その気持ちはよくわかる。
カマラさんの外套から、タリスマンが吹き飛ぶたびに。
彼女の背中から……とてつもない量の、魔力がどんどん噴き出している。
『獣人の、いえヒトの身でこれほどの魔力を……カマラさんは……いったい……』
――ばちん。
恐らく、全部のタリスマンが吹き飛んだ。
そして、それによって保持されてた外套が――風に吹かれて、飛ぶ。
「――おっと、逃がさないよ。病的に憶病なのはもう、知ってるからさ」
犬、いや闇渡りが何かを感じたのか一瞬で消えて――空中に火花が散った。
「GRRRRRRR――」
そして、またカマラさんの前に出現した。
少し、体がチリチリと帯電している。
「――魔素を多く含んだ処女の髪を媒介にした、多重金剛結界陣さ。ちょっとやそっとじゃ、壊れないよ」
カマラさんの体から、外套が完全に滑り落ちた。
「アンタは、ここで、アタシと戦わなきゃいけないのさ……犬っころ」
その体は、真っ白な鎧に纏われていた。
傷一つ、シミ一つない、綺麗な鎧……少し、時代劇で見たサムライの鎧に似ている。
「『月の民』最後の族長――ヴァルダナが一子、カマラ……参る」
カマラさんの首には、やけにムラのある……ボロボロの、赤いマフラーが巻かれていた。




