第125話 禍根を絶つ 前編 (三人称視点)
西方諸国連合、南端の一国。
虫人の国【トルゴーン】
土木建築技術に優れ、生来争いを好まない傾向の強い虫人たちが暮らす……長閑といってもいい国だ。
国土の南端は【戻らずの森】に接しているため、しばしば襲来する魔物に対する防衛として磨き上げられた土木技術。
それが、街々を彩っている。
区画整備された街並み、几帳面と言っていいほどに整えられた建材。
華美でも、豪奢でもない。
しかし、統一された美はあった。
そんなトルゴーンの首都【ラグレス】
他の街よりもより一層整備された街の一角に、その家はあった。
首都中心部にほど近い場所に建つ、3階建ての巨大な建造物。
普段は100を超える使用人たちが忙しく働いているその家は……何故か、静寂に満ちている。
時刻が深夜に近い、ということがまず1つの理由。
そして、もう1つの理由は……家の当主が、最近人払いを命じたからであった。
代々鎮魂の巫女を輩出し、国中から【鎮魂の血脈】と高く評価されて『いた』家の、当主によって。
――その家の名は【サジョンジ】
「おのれェ……おのれ!おのれおのれェ!!」
がしゃん、と陶器が割れる音が響く。
罵声と共に床に叩き付けられた酒杯が、砕け散った音だ。
おそらく高価であろう酒も、半分以上が残ったまま。
「トキーチロ……あの愚か者めがッ!」
憤懣やる形無し、といった声。
「何が、何が『一切万事お任せあれ』だ!おめおめと失敗した上にくたばりおって……!!」
その声を発しているのは、巨漢の虫人であった。
角のない、地球で言えばカミキリムシのような顔をしている。
「おまけに、おまけに……」
虫人の美意識には珍しく、華美に飾り付けられた広い部屋。
これまた高級そうなソファに腰を下ろした、虫人。
「よりにもよって【大角】めに討ち取られた、だとォ!」
身長は2メートルを優に超え、体表面には鍛え上げられた生体装甲。
具足を着込んだ武者のような虫人だ。
「……これではザヨイ家を盛り立ててやったようなものではないかァ!!」
今度は手に持った酒瓶を床に叩き付ける虫人。
精錬された高級なガラスで構成されていたそれもまた、中身をぶちまけながら割れた。
「おのれェ!おのれェ!!」
サジョンジ家の、最も華美で豪華な一室で喚く虫人。
「何故だ!何故こうも上手くいかぬ!」
その名を、『サジョンジ・デツーグ』といった。
かつてゲニーチロがムークに『馬鹿殿』と言い放った人物である。
彼は、先だってのラーガリでの騒動の顛末……その報告を受けて以降、周囲からごく一部の臣下以外を遠ざけて酒浸りの毎日を送っている。
「【影無し】は全滅!僅かに逃げ延びた臆病者しか残らぬとは……大損害だ!!」
そういうことに、なっている。
彼に報告をした虫人は……ゲニーチロ配下の変装であった。
実際は、大けがを負ったものが幾人もいるが……死者はほぼいない。
現在は、ガラハリの衛兵隊本部で静養中である。
己が配下であるはずの【影無し】
それが、別人に入れ替わっているということにもついぞ気付かない。
その事実だけでも、デツーグの資質は察して余りあるものであった。
「どうする……里から追加を出させるか?いや、いっそのこと北端の流民を攫って……」
『デツーグは、兵を率いる器にあらず』……これは先代当主である彼の父、デナーガの言葉だ。
それどころか祖父である先々代・デトーシすらも彼が若い頃からそう言っていた。
ではなぜ、彼が当主になったのか。
それはひとえに、先代の妻……彼の母によってである。
彼女は一粒種の息子をことのほか愛し、なんとか当主にしようと画策していた。
デツーグには年の離れた妹がいるが、これは腹違いの妹。
先代の側室が産んだ子である。
本妻には、蛇蝎のごとく嫌われ、冷遇されていた。
悪いことが重なったのも、ある。
先々代、先代とも早くに、しかも同時に亡くなってしまった。
――双方とも、魔物の襲撃から民を守ろうと奮戦した結果である。
トルゴーン南端の街【リダスト】
その街が未曽有のスタンピードに襲われた。
津波のように押し寄せる魔物と戦い、その双方が古参の配下たちと共に命を散らした。
『死出のお供を』と懇願したトキーチロに、街から避難する子供や老人の護衛を命じてのことである。
兵の先頭に立って剣を振るい、誰よりも勇猛に戦ったという。
特に先代などは、スタンピードを率いる竜と壮絶な相討ちで果てた。
千切れ飛んだ両腕のうち右腕を咥え、それを竜の右目に突き刺したのだ。
先々代は、配下の中でも特に若い兵を庇って命を散らした。
その結果が、現状である。
全身に傷を負い、トキーチロがなんとか首都へ帰還した時にはもう。
デツーグの妹は、病弱に『されていた』
【影無し】総力を挙げた必死の看護により一命はとりとめたが……ひどく複雑で希少な毒を盛られたいた。
死にはしないが、治りもしない……そんな、なんとも性格の悪い毒であった。
先々代・先代を揃って亡くし、古参の兵たちも後を追った。
上層部がごっそり抜けたサジョンジは、デツーグの母によって半ば乗っ取られたような形となった。
妹の母である側室が、若くして病で亡くなっていたのも痛かった。
トキーチロは表向き服従することによって、何の後ろ盾もなかった妹の命を繋いだのである。
生来、争いを好まない虫人の中にあって。
まるで突然変異のように……権力欲と自己顕示欲に支配された愚物。
それが、デツーグとその母であった。
そして……サジョンジは今に至る。
「ジーンハ!ジーンハはおらんか!」
デツーグが叫ぶ。
彼が最も頼りとしている、執事の名だ。
能力は確かだが、デツーグにおもねって私服を肥やすことに余念がない人物である。
しかし、いつもなら呼べばすぐにやってくるはずのジーンハは来ない。
隣の部屋に詰めているはずなのに、である。
声も必ず聞こえているはずなのに、である。
「ジーンハ!……ええい、厠か!? どいつもこいつも儂を馬鹿にしおって……!」
デツーグは自らが割った酒瓶を眺め、テーブルに乗った新しい酒瓶を荒々しく掴んだ。
「――深酒はおやめなされよ」
不意に、声。
「――何奴!?」
先程までの酩酊具合はどこへやら。
デツーグは声のした方へ向けて、酒杯を勢いよく投げた。
さながら手裏剣のように飛んだ酒杯は扉の方向へ飛び――
――虚空で、真っ二つに割れた。
別れた酒杯が床に落ちた時。
先程までデツーグ1人しかいなかったハズの空間に、影が1つ。
「夜分遅くに、失礼仕る」
黒色の外套を身に纏った1人の虫人。
「き、さま……貴様、ゲニーチロ!!」
【大角】ザヨイ・ゲニーチロである。
ずっとそこにいたように、自然体で佇んでいた。
「……料簡違いを起こすな、大角よ」
一瞬呆気にとれたデーツグだが、すぐさま落ち着きを取り戻した。
ゲニーチロが、なぜここへやって来たか瞬時に理解したからである。
暗愚と呼ばれていても、彼はそういう方面への理解力は優れていた。
「トキーチロめから何を聞きだしたかは知らぬが、全てはあ奴が独断で成したこと。当家も、儂も、何の関りもないことだ!」
「成程」
その声に、ゲニーチロは感情を感じさせぬ声で返した。
「儂も報告を聞いて心痛しておった……ガラハリ、否ラーガリへは何の申し開きもできぬ。此度の始末、すぐさま手を打つようにする」
「成程」
サジョンジは、豊かな家だ。
ガラハリへの賠償金など、いくらでも出せるほど。
デツーグはすぐさま謝罪と賠償をすることで、それ以上の追及を避ける心づもりであった。
『報告によれば』生き証人はいない。
それでどうとでもなる……と、今この瞬間も思っている。
「ジーグンシ家にも、勿論ザヨイ家にもな。それでどうにか、矛を収めてくれ……この通りだ!」
デツーグが頭を下げる。
保身の為なら、なんと思っていようとも謝罪は出来る。
彼は、そのような男であった。
頭を下げるのは、プライドしか傷付かない行為だったからだ。
「成程」
それにも、ゲニーチロは短く答えた。
囁くような、それでいて部屋中に響くような声であった。
「……どうだ?ダゴロ産のいい火酒がある、貴様も――」
からん、と音。
ゲニーチロに酒を奢ろうとしたデツーグの前に……鞘に入った長剣が現われた。
テーブルの上に置かれた剣は、見るからに高級品とわかる逸品であった。
「……なん、だ?これは?」
デツーグが、声を絞り出す。
平静を装ってはいるが、その声は震えていた。
ゲニーチロが『何をしに来たか』ということに気付いたからであった。
「――年経た水晶竜の牙より削り出した一刀でござる……デツーグ様は【生成】をお使いにならぬご様子……遠慮なく使われよ」
ゲニーチロの外套が動く。
ばさり、と外に出た左腕の甲からは……剣の柄が飛び出していた。
臨戦態勢である。
トルゴーンにおける、最上級の責任の取り方。
それは、『自らの手で首を落とす』ことである。
戦国のサムライのように切腹からの介錯ではなく、見届け人の前で首を落とす。
それによって、初めて罪は許されるのである。
虫人の膂力あってこそ成せる、凄絶な自殺なのだ。
これは、近年では滅多に行われることのない方法であった。
「馬鹿、馬鹿を申せ!何故、何故儂がこのような――」
「これは異なことを仰る。配下の不始末は首領の咎……金でどうこうできる問題では、ありますまい」
ゲニーチロの声は、恐ろしいほど平坦であった。
「待て!待て大角!ここで儂が首を断てばサジョンジはどうなる!この家はどうなるのだ!!」
ソファから立ち上がり、デツーグがわたわたと混乱する。
剣を持つこともなく、それどころか見るのも嫌だと言わんばかりの態度であった。
「ご安心めされよ、家は残り申す。ルカオコ様もいらっしゃる故に」
「馬鹿な!? あのような脆弱者にこの重責が耐えられるものか!!」
病弱にされた妹。
ルカオコとは、彼女の名であった。
「――脆弱者に『した』のであろう?」
初めて、ゲニーチロの声に感情が乗った。
「年端も行かぬ娘に、なんとも無慈悲なことでありますな。長く、長く、少しずつ毒を盛って……それが、妹にすることでござるか」
その感情の名は、『殺意』といった。
「わ、儂は、儂はなにも知らぬ……知らぬぞ!!」
その殺意に押され、デツーグは思わず剣を取った。
「知らぬ道理はないでござろう? ……まあ、その非道も無駄ではありまするが……よいぞ」
がちゃり、とドアが開いた。
「おま、お前は……な、何故!?」
開いたドアの向こうには、2つの人影。
1人は、黒ずくめ。
そしてもう1人は……
「――お久しゅうございます、兄上様」
ひどく痩せているが、しっかりと両足で立っている美しい虫人の娘。
デツーグの妹、ルカオコであった。