この世界と始まり
外へと出ると、肌に突き刺さるような風の冷たさから……つい立ち止まってしまった。
服を着ることができたものの羽織っていたときよりも手足が出ているので、風に当たる素肌はどうしても寒さを感じてしまう。――雪が降るような冬の時期に、その程度ですんでいるだけでもありがたいことではあるけれど。
「どうかしたか?」
「少し風が冷たくて……」
何も考えずに答えたあとで、じっとこちらを見つめるシュオンの視線に気づいた。口に出さないほうが良かったかもしれない。そんな後悔が込み上がってくる。
「でもこの服のおかげで大丈夫です」
慌ててそんな言葉を足したもののとくに反応はないままで、見つめられる気恥しさに耐えられなかった私は逃げるように目的地である海へ向かって歩きだそうとしたのだけど……。
一歩、足を踏み出してすぐに手を掴まれて引き止められた。
「手が冷たい」
シュオンは私の手を包み込むように握り締めながら小さく呟く。
戸惑いはあるものの、彼の手が温かくて……自分から手を離すことに躊躇いを感じてしまう。
「そうか……。今は寒いんだな」
一瞬、どういう意味なのかわからなかったけれど、そのあとすぐに気がついた。ホッキョクグマに近い種類の獣人なら寒さに強いのだろう。それどころか私が我慢できるくらいの気温なら、彼にとってはちょうどよいくらいなのかもしれない。
「気づかなかった……すまない」
「そんな……謝らないでください。この服のおかげで本当に大丈夫なので。――シュオンは大丈夫ですか?」
「俺は平気だ。前は、寒いところにいたから慣れてる」
「そうだったんですね。それなら暑いのは苦手だったりしますか?」
「どうしてわかったんだ?」
「えっと、寒さに慣れているなら暑さには慣れていないのかなと……」
そう答えると、シュオンが「リトはすごいな」と感心したように言葉を溢した。暑さが苦手だと気づいたことに対してなのだろうか。でもそれは――知識は、記憶によるものなので……少しだけ後ろめたいような、騙しているような複雑な気持ちになる。
「寒いほうが楽だ。リトは暑いほうがいいか?」
「うーん、冬の寒さが今ぐらいなら……寒いほうが好きかもしれません」
そんな何気ない会話をしたあとに歩き始めると、いつの間にか手は離れていて……すぐに目的地である海へと辿り着いた。
凍った海面が今は雪によって覆われ隠れてしまっている。今は降っていないけれど、少し前までは降っていたのだろう。
冷たい雪の上に膝をつき、私は前のめりに覗き込む。
「魚がほしいのか?」
シュオンの言葉に首を横に振り「凍った海面を見たくて」と言葉を返す。
雪を何度か手ではらうと、わりとすぐに凍った海面が出てきてぼんやりと私の姿を映していた。
長かった髪は肩につかない長さのボブになり、髪色は白茶色から真っ白に変わっていて驚きはあるものの……前世を思い起こしたときの衝撃に比べると大したことではないように思えた。
動物の詳しい知識はあまりないけれど色が変わるウサギはいたような気がするので、この世界の母や私はその種類のウサギだったのだろう。
記憶の中に色が変わった母の姿はないものの、見る機会がなかっただけで私が逃げたあとに変わったのかもしれない。
「――リト」
数分ほど続いた静かな時間、放心状態だった私はシュオンの声で我に返る。振り向くと、シュオンは少し遠くの方へと視線を向けながら口を開いた。
「戻ろう」
言葉と様子で何かを警戒しているのだと察して……私は頷いたあとすぐに立ち上がる。もう少しだけ外にいたい気持ちはあったけれど、その気持ちを優先しても良いことはないだろう。
「もしかして……近くに?」
「まだ遠い。でも、見られたくない」
不思議そうな顔をしてしまっていたのか、シュオンは補足するように言葉を続ける。
「リトは、狙われる」
「弱いからですか?」
「メスは……危ない。この辺りは俺の匂いが強いから、すぐには襲ってこない。――でも見られたら、狙われる」
彼の真剣な表情と瞳から、改めて危機感を思い出した。
記憶が混ざっているせいなのか、すっかり忘れていた。この世界の女性――女の獣人は男の獣人に比べると少ないため、そもそも争いの原因となる女が一人でいるのは危険なことなのだ。
私が群れから離れたあと無事だったのは運が良かっただけで、もしかしたら最悪の結末を迎えていた可能性もあった。
そのことを考えると今こうして無事であることも、シュオンが他の男とは違って私を襲ったりしてこないことも、彼だから大丈夫だっただけなのだと……少しだけ血の気がひくような気持ちが込み上がってくる。
「中に入ってくることは――」
「ない、今までは。近づいてきたのも……中まで入ってきたのも、リトが初めてだ」
たしかに、鼻が良い獣人や野生動物は自分より強い種族の匂いに気づくと、無意識にも意図的にも避けることが多そうだ。とくに匂いが強い縄張りや巣などには近づかないだろう。種族の中でも強いクマ族の匂いであればなおさらだ。
極限状態だったからということもあり、たぶん私は匂いなどがあまりわからないこともあって彼の巣である洞窟に自ら入ってしまっていたのだけど、そんなことになるのは嗅覚が弱く賢くもないものか……私のように匂いの判別が難しい人間くらいだと思う。――いや、そもそも人間なら動物の巣や洞窟などには入らないと思うけれど……。
「もし近づいてきてもすぐに追い払う。だから気にしなくていい」
洞窟の中へと戻ると、シュオンがそんな言葉を口にした。淡々とした口調と変わらない表情。でも言葉には気遣いと優しさが感じられる。
入り口近くの壁を背にして座った彼は、私が口を開くよりも先にまた口を開いた。
「匂いがなくなったら、狩りに行ってくる」
果物はまだたくさん残っているので、自分の食料を探しに行くのだろうか。狩りへ行くにも私のことを気にかけさせてしまっていることが、ありがたいけれど申し訳なかった。
「シュオンはいつも何を食べているんですか?」
何気なく訊たものの、会話選びを間違えたことを私はすぐに後悔する。
「魚を食べることが多い。でもアザラシのほうが肉が多くて好きだ」
「そう……なんですね」
アザラシをかわいいと見ていたときのことを思い出したあとで、そんなアザラシを食べるシュオンの姿まで想像してしまった。精神的に良くない。この世界では慣れないといけないのだけど、今の私にはまだ刺激が強すぎる。
「私は、果物が好きです」
「水分が多いからか?」
「水分というよりは味ですね……。肉と魚も生のままだと苦手ですが、火で焼いたものでしたら好きです」
「火で、焼くのか?」
話の流れでまた火の話をしてしまったと思ったけれど、でもちゃんも話はしておいたほうが良いかもしれないとも思った。
「はい。周りに燃えやすいものがないところで小さな火をおこすだけなら安全なので……その火で暖まったり、食べ物を美味しくすることもできるんです」
火は今後の私の食生活に火は欠かせないものであり、火がなかったら生きていけないのではないかと不安になるくらいに必要なものだ。
説明するのは難しいけれど、実際に火をおこして使うところを見せることができたらわかってもらえるだろう。
「岩しかないところならいいのか?」
そう言ったシュオンの視線の先は、壁際にある大きめな岩であり……果物や眠っていたところからは少し離れた場所だった。
たしかに燃えるものはないけれど……、
「奥だと煙がこもって良くないと思うので、外に近いところのほうがいいかもしれません」
「ここは大丈夫か?」
「そこでしたら大丈夫だと思います」
煙がこもりにくくて動物避けにもなる外に近い場所が良いことを伝えると、シュオンはすぐに理解してくれた。
まだ上手く説明できていないのに、あまりにあっさり火をおこすことを受け入れてくれていることに少しだけ戸惑いを覚える。
「でもシュオンは……ここで火をおこしても大丈夫ですか? その、怖さとか煙の匂いとかは……」
思わずそう訊ねたけれど、彼は「大丈夫だ」と頷いてくれた。
「リトに必要なものは全部、持ってくる」
至れり尽くせりとはまさにこのことだろうか……。まるで私が言うことを全肯定してくれるのではないかと思ってしまいそうなシュオンの対応に、男の獣人への概念が覆されそうだった。
「ありがとうございます。火には必要なものがたくさんあるので、大丈夫でしたら私も一緒に集めに行きたいです」
「わかった、一緒に行こう。狩りが終わったらすぐ戻ってくる」
狩りはダメそうだけど、そのあと一緒に行くことはあっさり同意してもらえた。意思を尊重してもらえるのは嬉しくて、自然と頬が緩む。
「戻るまで、待っててほしい」
「わかりました。待っているあいだ、果物を少しいただいてもいいですか?」
「ああ。好きなだけ食べていい。――あれだけで足りそうか?」
「はい、十分です。あの量なら二日はもつと思います」
そんな会話をしながら一時間くらい経ち、とくに襲撃などもなく無事に狂獣らしき匂いは遠のいたようで……。シュオンは「早めに戻る」と言い残し、狩りへと出かけていった。
また一人になった私は果物を取りに行ってから、先ほどシュオンが座っていた場所まで戻り壁を背にして座りこむ。そして一口、果物を齧ったあとで深い息が溢れた。
彼はどのくらいで戻ってくるだろうか。まだ出かけたばかりなのにもうそんなことを考えてしまう。
ぼんやりとしながらまた果物を一口、齧る。この果物は今まで食べたものよりも少しだけ酸味が強かったけれど……私は手を止めることなく黙々と食べ続けた。




