2.出逢い
何かが喉を通る感覚と、音によって意識が目覚める。
瞼を開くと、何かの瞳だということはわかる黒色と目が合って……。「ぇ」という小さな声は溢れたもののそれ以外の反応をとることはできなくて、私はまるで硬直するように固まった。
静かな数秒間の間が過ぎたあとで、ゆっくりと黒色が離れていく。
ようやく無意識のうちに止まっていた息を吸い込むと、柑橘系の爽やかな香りとともにわずかに海を感じるような匂いがした。
そして真っ白な色をした何か――髪の毛が頬にあたったことで、ようやく目の前にいるのが獣人なのだと気づいた。
「……お腹」
まだ近い距離にある、薄く綺麗な形をした唇がゆっくりと動いて……、
「すいてるか?」
そんな言葉を口にした。
意味を考えると同時に我に返った私は、今の状況を理解して慌てて口を開く。
「あ……、大丈夫です。大丈夫なので、少しだけ離れてもらえませんか」
真っ白な髪と漆黒の瞳の獣人は、私の言葉に従って素直に離れてくれる。意思疎通ができそうで安堵したものの、彼次第では緊迫した状況であることは変わっていない。
「まだ弱ってる。起きてすぐ、動かないほうがいい」
もしものときに備えて立ち上がろうとしたけれど、その言葉と真っ直ぐ見つめてくる瞳に制止されて上半身を起こすだけにとどめるしかなかった。
この状況をどう対処するべきだろうか……。被っていた皮革が落ちないように胸元に押しつけて、私はゆっくりと息を吐きながら彼の様子を眺める。
「食べてた果実は取ってきた」
そう言った彼の視線を辿ると、あのミカンに似た果物が数えきれないほどたくさん置かれていた。
食べてしまったことは知られているらしい。でも、彼の言葉や態度からは敵意や悪意を感じられない。むしろまるで私のために食べ物を用意してくれたり、心配してくれているように見える。
「食べるか?」
その声が低く淡々としたものではあるもののどことなく落ち着くような響きだったからなのか、私は思わず頷いた。
すると彼はすぐに立ち上がり、無防備にも私に背を向けて歩き始めたと思ったら……いくつか果物を手に取ったあとでまたこちらへと戻ってくる。そしてゆっくりとした動作で果物を持った両手を差し出した。
恐る恐る一つだけ手に取ると、無表情で何を考えているのかわからない瞳が私の様子を見守るように見つめてくる。
居心地が悪いような気恥しいような、なんとも言えない気持ちから俯いて一口、果物を齧ると……味わった憶えのある酸っぱい果汁と果肉の甘味が口の中に広がった。
美味しい。口には出さなかったはずのその心の声が聞こえていたのだろうか……。ふと顔を上げると、彼の表情が和らいでいるように見えた。
襲うつもりならすぐに襲っていただろうし、悪意があるならこんなふうに穏やかな時間が流れることはないだろう。
黙々と果物を食べる私をじっと見つめているだけの彼の様子に段々と警戒心が弱まっていく。
そうして気持ちと思考が落ち着いてきたことで、狭かった視野も広がったのだろう。
改めて見た彼は、すぐに気づかなかったことが不思議なくらいにとても整った顔立ちをしていることに気がついた。
少しだけ眠たそうな二重の目と、鋭さのある澄んだ漆黒の瞳は親近感を感じるけれど、鼻や口と眉毛や輪郭すべてが驚くほどに綺麗な形をしていて……。
正反対であるはずの幼さと大人っぽさ、かっこいいという言葉も美人という言葉もあてはまる中性的で整った顔である。
柔らかそうな長い髪と前髪は、汚れのない雪のように真っ白な色をしていて……無造作に伸びているのだけど、妙に彼の容貌と似合っていて綺麗だと思った。
どこを見ても欠点なんてものは見つけられそうにない。何かを一つだけ挙げなくてはいけないとしたら、服の問題くらいだろうか。
この世界ではまだ服の需要がないようなので仕方ないことなのだけど。隠されていない体――精巧な顔立ちに不釣り合いそうなのに違和感のない引き締まった上半身は、目の保養と言えなくはないけれど……刺激が強すぎて、見てしまうと罪悪感のようなものを感じた。
美しいにもほどがある……。
あまりの端麗な容姿に、見れば見るほど近くにいることがおこがましいような……離れなくてはという気持ちが込み上がってくる。
視線を逸らすようにまた俯くと……「どうかしたか?」と、心配するような言葉とともに私の頬に温かい何かが触れた。
それが彼の手なのだとすぐに気づいて、反射的にのけぞってしまったのだけど……。その時、仄かに揺れた彼の瞳が目に焼きついて、どうしてなのか悪いことをしてしまったような感覚に苛まれた。
「ごめんなさい、驚いて……。果物ありがとうございます。美味しいです」
咄嗟に謝罪とお礼の言葉が口から溢れる。
彼は何も言うことはなく、ただ静かに私を見つめていた。その瞳と変わっていない表情からは何を考えているのか読み取れない。
「もっと食べたほうがいい。魚は? 肉のほうがいいなら、獲ってくる」
果物を私のそばに置いたあと、物騒な言葉を残して立ち上がろうとしているので慌てて口を開く。
「待ってください。果物だけで十分なので、魚とお肉は……」
生々しい肉塊を持ってこられるのは想像するだけで辛い。魚も火をとおしてない生のものはどうしても抵抗感があった。獣人だから大丈夫かもしれないけれど、できるだけ食べたいとは思えなかったのだ。
「魚と肉は苦手か?」
「……今は苦手です」
「同じ色でも、食の好みは違うんだな。――気をつける」
同じ色という言葉が気になって聞き返そうとする前に、彼がまた口を開く。
「でも、それだけ食べても良くならない」
真っ直ぐな目でそう言われるとなんとなく居たたまれない気持ちになった。――偏食とは違うけれど、食べず嫌いは良くないと言われたときのような心境である。
「火があれば……」
「火?」
彼は私が思わず溢した言葉に首を傾げた。
「あんな危ないものがほしいのか?」
その言葉を聞いて思い出す。火は獣人――動物たちにとっては身近なものではない。災害のように恐怖心を覚えるような……危険なものだと思っているのだ。
「いつか火をおこしたくて……」
「火をおこし……、どういう意味だ?」
再び首を傾げる彼に、具体的に説明できる語彙力がなかった私は誤魔化すように苦笑いを浮かべた。
「難しいことはわからない。――でも、役にはたてる」
「え……?」
「必要なものがあるなら取ってくる。何が必要か、教えてほしい」
彼のその言葉は明らかに好意的なものだった。
やっぱり彼からは敵意も悪意も何か企んでいそうな雰囲気も……下心のようなものも感じられない。読みにくいのではっきりとはわからないけれど、それでも言葉と態度はずっと穏やかで優しく接してくれているのだとわかる。
「あなたの食べ物を勝手にいただいたのに……どうして優しくしてくれるんですか?」
疑ったり考えたりするよりも素直に聞けば答えてくれるような気がして、失礼ながら訊ね返すことにした。
「……ここまで入ってきて、果実を食べたことは驚いた。そのあと逃げなかったことも」
「それは本当にごめんなさい」
少し考えるように間をおいたあと答えた彼の言葉を聞いて、すぐに謝罪の言葉を口にしたけれど……そういうことではない――気にしていないと言うように彼は小さく首を振る。
「無防備に寝てるお前を見てたら、死なせたくないと思った。――だから、怖がらせたくない」
嘘をついているようには思えなかった。ただただ訊かれたから正直に答えてくれたのだろう。
この世界の記憶の中の男性の獣人は、動物性――獣としての性質が残っているのか……獰猛で女性の扱いが酷い男性が多かった。その性質を隠せる男性がいたとしても、大半は瞳や雰囲気からわかるのだけど……。
たった少しのやりとりで、彼は他の男性とは違うのではないかと感じられる。
「――群れから逃げてきたんです」
気がつくと、口を開いていた。
「私はたぶん他の獣人とちょっと違うというか、変わっていて……。群れでは過ごせそうにないし戻りたくもなくて……」
恥ずかしいくらいたどたどしい話し方をしているのはわかっているけれど、言葉で上手く言い表すことが難しくて……。でも話さずにはいられなかった。
不安と恐怖、堪えていた色々な感情が一気に弾けたようなこの妙な感覚のせいなのかもしれない。
「ここなら過ごせるか?」
そう言った彼は、私の言葉の意味を理解した様子ではないものの……、
「ここでも違うところでも……お前が過ごせる場所で、俺も一緒に過ごしたい」
何でも受容するとでもいうような寛容さが、声と言葉から伝わってくる。まるで愛の告白でもされているのかと思ってしまうような言葉のおかげで顔が熱い。
戸惑いはもちろんあるけれど……正直、嬉しいと思った。会ったばかりの獣人相手にと冷静に思う気持ちもある。それでも彼とならこの世界でも生きていけそうだと、そんなふうに思えたのだ。
頼りになりそうだから、一人で生き抜くことは難しいから……そんな打算的な気持ちもあるかもしれない。でもそれ以上に期待のようなものが募っている。
「ありがとう、ございます。ここにいさせてください」
その言葉に目を細め口元を緩めた彼の表情が優しくて印象深くて……。ふわっと揺れた白色の髪も、とても幻想的で綺麗だった。