④迷路海流
それからどれくらいの時が経っただろうか。
陽の光が届かない霞の下では、時間も方角も確かめるすべはなく、あらゆる感覚がゆるやかに狂っていく。
霧の内側は、生暖かな気流と冷たい気流がかわるがわる渦を巻いて、乳白色の空気の塊が滝のように、もしくは巨大な生き物のように滑落しては、波の上を遊び、また気まぐれを起こして天高く昇っていく。
なんとも艶なる赴きである。
この場に京の歌人でも居合わせようものなら、「いとおかし」と目の色を変えて筆を執ったであろう。
東雲も、はじめこそは移りゆく白の世界に興味深げな視線を送っていたが、次第に飽きがきてしまった。
今では、船の縁に頬杖をついて、かわりばえのない光景をなにをするでもなく眺めている。
からりと乾いていた船板はしっとりと湿って、髪の毛先にもこまかな水の珠がぽつぽつと纏わりついていた。
すべての景色が水墨画のようにぼんやりと滲む世界に閉じ込められ、ともするとずっと同じ場所を彷徨しているような気さえしてくる。
会話は絶えて久しく、舳先が波を掻きわける音だけが、終わることのない山彦のごとく耳を打つ。
誰も口に出しはしないが、彼らの頭には、まったく同じ内容の危惧が瞬いていた。
時間が止まってしまったような静寂は、彼らの精神をじわじわと蝕んでいく。このままでは、肉体の生存限界がおとずれるよりも早く、灰白の沈黙によって死んでしまいそうだ。
しかし、そんな息のつまる状況下にあっても、東雲だけは特にこたえた様子もなく大きな欠伸をもらした。
忍者とは、読んで字のごとく〝忍び堪える〟者である。
針の筵のような環境で、下手をすると何年もじっと機をうかがわなければならない仕事などざらである。
つまるところ、このような停滞は慣れっこなのだ。
しかしながら、だらけきった体勢に反して、黒々とした鋭い双眸は、あますことなく周囲を見つめている。
最低限の食料と水さえ持たない彼らには、干からびるよりも前に陸地へたどり着くことだけが唯一の活路である。
――逆にいうと、他にできることも特にないのだ。むしろ余計な体力を使わないよう、極力動かずしゃべらない方が良い。
それは他の二人にもわかっていた。
しかしなにもすることがない状態というのも、それだけで神経を疲弊させる。
先の見えない絶望的な航海である。不安が胸を塞ぐのもやむをえないことであった。
膝を抱えうつむいてしまったレイラを、トトが心配して気遣う声をかける。
しかしその表情は晴れない。東雲は舌打ちした。
「そんな顔するくらいなら、脱走などするんじゃない」
なんだか無性に気に入らなくて、あけすけな台詞が飛び出した。
叱責とも、皮肉ともとれる物言いに、レイラはわずらわしそうな様子でぼそぼそと言い返した。
「うるさいわね。――私だって、覚悟は決めているつもり。あのまま惨めに生きるくらいなら、たとえ死ぬことになっても、あの場所から出たかった……。でもだからって、死にたいわけじゃないのよ」
「…………」
言いたいことはよくわかる。しかしそんなことを言ったところでどうなるというのだ。
東雲は自分でも気づいていなかったが、少女の分不相応ながめつさをそれなりに気に入っていた。
彼女の行動は良くいえば決断力があり、悪くいえば短慮で無謀である。
本人はいろいろと悩んでいるつもりなのだろうが、若さゆえの考えなしな言動が目立った。
その証拠に、命懸けで国を出たくせに、今頃になって死の影におびえている。あきれるほど近視眼的である。
しかしその破天荒さは、常に打算で石橋を叩かなければ行動へ移すことができない東雲にとって、少しばかりうらやましくもあった。
だからこそ、暗くしおれている少女は見ていて面白くない。
「生き残りたいなら、うつむいている暇なんかねェぞ」
東雲は二人に背をむけ、ゴソゴソとなにかをいじりはじめた。
そしてすぐに、細長い物をレイラへ投げてよこした。
「……なによこれ」
それはなんの変哲もない、縄をほぐしただけの一本の麻紐だった。
「やることねェなら釣りでもしてろ。馬鹿な魚なら引っかかるかもしれん」
よく見ると、先端が綿毛のようにけばだたせてある。
餌がないため、虫を模した擬似餌のつもりだった。
レイラは、こんなもので釣れるのかと、疑わしげに紐をつまんだ。
まあ釣れねェだろうな、とは口にはすまい。
この際、釣れる釣れないはどちらでもいいのだ。ただ手慰みでもあれば、この気が滅入るような空気も少しはマシになるだろうと思ってのことだった。
しかし、疑うことを知らない純粋なネズミは、そらぞらしい口八丁の擬似餌にコロッと一本釣りされた。
「さすがはしのにょめどにょ!」
そして噛んだ。
――地獄の住人にとって、この名前はそんなに言いづらいのだろうか。
トトはまたしても恩人の名前を間違えたことに落ち込み、そしてレイラも、先ほどの失態を思い出したのか、きまり悪そうに明後日をむいた。どちらも耳が赤く染まっている。
微妙な空気が流れた。
「まあ、うん……、もう好きなように呼べ」
狙った結果ではないが、これはこれで、ありだろう。
意図せず悲愴な雰囲気を霧散させた立て役者は、一転してほがらかに言った。
「では、シノ殿と!」




