23 L'Homme au sable/Der Sandmann
「まったく、やってくれたな……」
研究所所長かつ大会議議長、ルスラノヴィチは大きな事務机の上で両手を組み合わせ、項垂れていた。ろうそくの火がちらちらと燃え、彼の疲れ切った顔のしわはより深く見える。左側の壁に並んだ「立方体の」書物は、ろうそくの光を受けて、部屋全体をオレンジ色に染め上げていた。右手には一面のショーケースが並び、いわくありげな品が鎮座している。彼の背後の窓から見える空は黒く、夜の真ん中が臨める。この静かな夜の静かな部屋に、なにごとか起こりそうなただならぬ空気が充満していた。
話し相手は沈黙を保ったままだ。
彼はぎりと奥歯を噛み、唸るような声を出す。
「ええ? 化け物よ」
威圧するような面持で、机の前に立つ老人を見据えた。黒づくめの老人は、にこにこ楽しそうに微笑み、ルスランの怒りなどまるでどこ吹く風だ。
「言い訳があるなら、聞かせてもらおう」
「とんでもない。魔界のドン、ルスラノヴィチ閣下の御前でいったい誰が言い訳なぞできましょう」
老人は、揉み手でもしそうな猫なで声で答えた。
「貴様に与えられる私の時間は無限ではない」
ルスランはいらいらと指でテーブルを打つが、その音が余計に自分を苛立たせる。片手で顔の右半分を隠しながらも、もう半分の瞳は油断なく老人を警戒している。
「何についての、お話をすればよろしいのです?」
彼をたっぷりじらす沈黙の後、また、彼の本懐をかわすようなことを言う。
「なぜモレアスたちを襲った!」
彼は拳で机を叩いた。はずみで、筆記用具がころころと転がり落ちる。老人は落ちた文具に目線を落とした。拾おうともしていないのに、「動くな!」とルスランは老人を制する。今は従者がこの部屋にいないので、それを拾う者はいない。
ここは議長公邸でも所長邸宅でもなく、ルスランの個人宅の一室だ。客人の訪問に合わせて、お手伝いたちは全員下がらせている。この客の来訪は、腹心の部下にも教えていない。誰にも知られてはいけない、魔界にとっての招かれざる客だった。
「モレアス……?」老人は、何かを思い出そうと目を細めた。「……ああ、あの黒猫ですか。ええ、ええ、覚えておりますとも。ぐうすか平和そうに寝ておった主人を守ろうと、飛び込んでくる勇気ある使い魔でしたね。がっぷりいかせていだきました。おかげで腹はすこぶる満足でしてね」
まったく悪気のない様子だ。
「取引したろう。あの結界の弱点を教えるかわりに、侵入しても、魔界には一切の損害を与えぬようにと」
ルスランは、ぴっちりと後ろへ撫でつけられた髪をぐしゃぐしゃと揉んだ。これからやってくる面倒なあれこれについて考え、頭を抱えた。
「おや、とすると私は、ルスラン閣下のことのはを深読みしすぎたようですね」
老人は肩を揺らしてくっくと笑う。ルスランは顔をあげ、不気味なものから遠ざかろうと体をひいた。椅子の背がぎいと鳴く。
「……どういう意味だ」
老人はまた、黙って微笑んだ。その穏やかな立ち姿が砂嵐のように不確かになる。彼の体の輪郭が薄れたかと思うと、ぶわっと砂が部屋いっぱいに飛び散る。
ルスランは思わず椅子から立ち、叫ぶ。
「なんのつもりだ!」
机の端に手を置いたまま、腰が引けている。使い魔さえここにはおらず、まったくの孤立無援だ。冷や汗が背中を伝う。
「我々という存在は、餌を前にして『おあずけ』ができるほど紳士的ではございません。それは閣下も十二分にご存じのはず」
さきの老人と同じ声なのに、どこから発されるともわからない声が聞こえてくる。
「……ああ、うかつにも、たった今それを思い出したようだ」
ルスランはまっすぐ前を見据えながら、痙攣した笑みを浮かべた。焦りの現れた体はごまかしようがない。捕食されるべき餌であることを自覚している。それでも、彼は助けを呼ぶことをためらっている。ぎりぎりのぎりぎりまで、老人(もはや「化け物」だ)にまともな部分が残っていることを信じるしかない。
「貴様らと理性的な取引を結ぶことは、所詮不可能ということかね」
「理性!」
正体なき声は叫ぶ。ルスランはビクッと肩を縮こまらせる。やがて嘲るような笑い声が部屋に充満する。
「理性とは! 魔界至上主義者であるあなたが!」
笑い声は続いている。ルスランはつぶやくようにようやく言った。
「……生憎、魔界主義者には程遠い」
漂っていた砂は、老人が立っていた場所に集まって渦を描く。それがだんだん、足元から形になっていく。老人は自分に危害を加える気はないと判断し、ルスランはようやく落ち着きを取り戻して背筋を伸ばす。
「主義者であれば、貴様らと取引などするものか。理性という言葉が気に食わないなら言いなおしてやろう。『貴様らは、餌を目の前に涎を垂らし食らいつくしか能がない化け物だ』。……お気に召したか」
元の場所に佇んでいたのは、老人などではなかった。きわめてグロテスクなうごめく化け物が現れた。何羽もの鳥の羽がうごめき皮膚と成し、犬の足が地面を踏み、人間の手が頭を成すような。一時も静止をすることはなく、それぞれの物体がそれぞれの意思をもって離別したがっているようなおぞましさ。口と思われる虚から腐臭をまき散らしながら、老人の声が漏れ出てきた。
「……化け物といえば、こんな調子ですかな?」
「……趣味の悪い冗談はやめろ」
ルスランは、脱力して再び椅子についた。かわれたらしいことがわかっても、怒りよりも安堵のほうが勝っている。相手を仕留めるような魔術は専門外だ。ほっとするあまり腰が立たなくなりそうだった。火力がないことが自分の弱点だった。嫌というほどわかっている。だからこそ、武力でものをいわせようとする連中をにはびこらせないために、権力奪取を目指してきたようなものだ。
「すでに申し上げました。腹は十分膨れていると」
化け物の切り返しに、彼は嫌悪を顕にした。どうどう、とでもいうように、カラスの羽でできた腕が動く。
「……ええ、ええ、ジョークです。腹といっても、好奇心という名の腹。餌といっても、嗜好品という名の餌。魔術使いたちも、腹は減らねども人間の喰らう物を喰うでしょう、気まぐれで。我々の“食事”も、わけは同じでございますよ。……貪欲さでは、我々のほうが勝りましょうが」
「冥界流のユーモアはもうたくさんだ。理解もできん。こちらは貴様の弁解を待っているのだが」
「これは失敬。この格好では面白みもありませんね。……少々、お待ち願えますか」
化け物は砂の山になり、ぞぞぞと柱になり、なんと今度は艶めかしい美女になる。女は、真っ赤に潤った唇に指を這わせて色っぽい笑みを浮かべた。おなじ笑みを浮かべても、老人のそれとは違い、裏を隠し持った偽りのように見えてくる。その意味で、美女に変身したのは失敗だ。
「閣下は我々の性質をご存じです。そのうえで『襲うな』などとは、まさに閣下が先ほどおっしゃったように、躾を知らぬ野良犬の前に生肉を放り、『おあずけ』を命じるような愚です。きかない盛りの子猫の前に機械仕掛けのネズミの玩具を放っておきながら、遊ぶなと命じるに同じ。魔界に適合するよう矯正された死霊ならともかくも、生粋の冥界者には酷なこと。……まあ、例の穴は優秀な魔術使いたちに塞がれてしまい、後続するものはなかったようですが。……ともかくもわたくしは、まさか閣下がその愚をなさるとはゆめ思いません。その逆、好きなだけ喰らえと命じられたのではないかと解釈しまして」
いたるところに散りばめられた皮肉にも気づかないふりをして、努めて冷静に応じようと彼は瞼を閉じた。いかに見目麗しくなろうとも、本質は忌々しい化け物。見たくはなかった。
「獣にテーブルマナーを期待した私が馬鹿だったようだな。喰らいたいなら好きに喰らうがいい。黒猫は困るが、生神ならいくらでも生産調整できる」
「おお、やはり閣下!」
ぱん、とほっそりした手で柏手を打つ。おだてではなく、完全に見くびりの意味で。
「但し書きを忘れてもらっては困る」
彼は歯を食いしばるように言った。
「喰いカスを放置したままとは呆れて言葉も出ん! 餌は巣に持ち帰るなりすればいい! おかげで余計な仕事ができた! こちらは『結界が破れた』という事実だけで充分だと言うに!」
余計な仕事、どころか、致命的なミス、だった。しかし、この化け物に「ミス」だと知られるわけにもいかない。
「『それで充分』! まさかまさか、それではあまりにも、『取引』の名に反します」
常にニコニコと笑っていた美女が、初めておろおろとした心配げなものになる。その白々しさを見抜かないわけにはいかない。
「イーブンだ。それともまだ足りないのか」
「いいえ、とんでもない!」
美女は机に走り寄って、筋張ったルスランの手を握った。豊満な胸が机に接着し豪勢な谷間を作っているが、そのような絵を見たからといって本能が嬉しくなりはしない。ルスランは、そんな化け物の浅ましさに心底軽蔑の念を抱いた。
「むしろ逆でございます。閣下の利がないと申しているのです。わたくしは、『ある一部の結界を破る権利』と『おやつを自由に食べる権利』を与えられましたが、閣下は『魔界の結界が破られる』という損を被るだけ。閣下の益はどこにあるというのです!」
「貴様に詳らかにする義はない」
ルスランはぴしゃりと言い、ぞっとする思いで女の手を振り払う。その時にちらと見た、女のぎらぎらとした黒の爪は、くそいまいましい“政敵”の生意気な教え子の瞳と髪を思わせる。
――畜生、享楽主義の亡者め……!
口には出さず、かわりに歯ぎしりをした。
「……教えてくださらないのですか」
女はしおらしく眉を下げた。「取引」でこんなに食い下がって、内心に踏み込もうとするのは、この化け物が異界の存在だからか。それがわからなかったわけではない。わからなかったわけではないのに、自分はヘマをした!
「この件は政略に深くかかわっている。誰であろうと漏らすわけにはいかない。特に、信用を裏切ったばかりの異界者など言わずもがな、だ」
「――ほう」
女の作りこんだか弱さは、一瞬にして消え失せた。そのかわり、油断ならない狡猾さが浮かんでくる。
「信用が失われてしまったのなら、今さら回復もできませんね?」
「当然だ。もう約束は果たされた。腹も膨れたろう、早々にお引き取り願えないか」
そして縁を切ろう。そのための術なら心得ている。この手の魔術でのし上がってきたといっても過言ではない。それでもルスランは慎重に、女に気取られないように魔術の回路を体内に開く。その回路が見えるとでも言うのか、女は彼の体をじっとみて口の端をあげた。
「……では、もう、忠実ぶる必要もございませんね」
生命を脅かされる恐怖が身体を襲った。開きかけた回路が途切れる。
甘かった。手に余る化け物との一対一が、対等なわけがなかった。せめて使い魔とこの件を共有していたのならあるいは……
「この際、我々の物語への飛び入り参加者は認めませんよ? 登場人物が増えると、混乱するたちでしてね」
彼の目論みを読み取って先回りしたかのように、女は封じた。その意味は、「使い魔に助けを求めたらおまえの命はない」、そういうことだ。自分だけで戦って勝てる相手ではないことは、十分承知している。脅しに屈するしかない。
彼が従順なのを確認すると、女は、尻を机に乗せて燭台を手に取る。ルスランの顔は暗闇の中に消え入る。
「……わたくしが閣下の益に興味を持つのは、遊び心からです。これは魔界と冥界の協定ではありませんね。わたくしとあなたの、個の密約です。そうあって、なにを怖れることがございましょう、ほんの遊び心なのですから!」
火のなかに指をくぐらせ、指がぼろぼろと砂になって崩れていくのを面白そうに見ている。砂はさらさらと落ちて台につもる。かと思うと、指に向かってさかのぼり、燃え尽きたところから元通りのきれいな指になる。女は、その手を握ったり開いたりして、にっこり、ルスランを見て微笑む。手品のようでしょう、というように。
「……貴様のお遊戯が、私を殺すことになってもか……」
女は燭台をおろし、つつつと脇へ追いやった。上体を婀娜っぽく倒して、両手で顔を覆ったルスランを覗き込む。その体の曲線を、橙の火はてらてらと照らす。
完全に、主導権は女に傾いている。もっとも、この対話が始まるまえから明らかなことだが、ルスランに勝機などなかった。魔界における自分の権威が、異界のものにも通じると思いあがった彼の敗北だ。はじめから、この化け物は、遊び心でへりくだっていただけなのだから。
「殺すだなんて、とんでもございません」
「貴様に殺されずとも、失敗すれば、私は死ぬ……!」
「言葉を略されてはわかりませんよ。我々冥界者は、あなたがた魔術使いや人間のような豊かな語彙も、麗しい空気の振動によって分かり合う業も持ちあわせないのですから。何、を失敗して、貴方の何、が死ぬのでしょう」
絶望的に顔を覆ってしまった彼に、詰まらなそうに口をへの字にする女。体を起こして、ふう、とため息をつく。
「閣下はひとの話を聞かない方ですね。上に立つのならば、下々の声を聞かねば」
――なにが下々だ……! 俎上の魚という慎みを前にして、捌かずに喰い散らかそうとする輩が!
「申し上げましたように、ただひたすらに純粋な好奇心から、閣下の『政略』とやらの行く末を見守りたいのでございます。見守るにしても、物語の登場人物が何を思い、どんな意図で行動するのかがわからなければ味気ないものになりましょう。ゆえに閣下の利を知りたいのです」
効果的に、女はいったん言葉を区切った。
「……そのうえで、わたくしは閣下に付きましょう」
一筋の光明が差した。ルスランは、覆っていた手をおそるおそる離す。光とは、ろうそくを手にした醜悪な化け物。
「わたくしめが、閣下の頼もしい味方になりましょう」
その時の女の笑みを、初めて美しいものとして知覚した。とたん、猛烈に力強い焔が体の底から燃え立った。
「……もう一度、……おまえを信用しろと?」
「先ほども申しあげたとおり、これは信用が橋渡しするお話ではありません」
「あ、ああ……そうだったな。選べる道が死か貴様しかないのなら、貴様をとるしかない」
「左様」
「……味方と言ったな? たしかにそう言ったな?」
「ええ。何度でも申し上げましょう? わたくしめは、閣下の味方だと」
気が触れたように楽しくて仕方がなくなった。笑いがあふれて止まらない。
そうだ、忘れていた。自分はいつもこうして生きてきた。
自分よりも力のあるものを味方に引き入れ、こびへつらうことに甘んじても、そのさきの蜜のために耐えてきたではないか。
今でさえ、甘くて甘くて胃もたれしそうなほどに充分、頂上を味わっている。
それでもまだ足りぬ。おそらく生きていれば、次々と足りないものが生まれてくる。それを、こいつの力を借りてどうにかすればいい。その確約をたった今、得たのだ。
この度の「政略」「政敵」、格好つけていってみたものの、それはただの私怨だ。憎くて憎くて邪魔な目の上のたんこぶを切り落とすこと。
これは完全なる勝利だった。化け物に対する勝利ではない。
生涯の目の敵、猫神博士への勝利だ。
「頼もしい限りだ、悪魔が私に味方した!」
――この性悪な化け物は、猫神のような奴には面白みを感じまい。この化け物に面白みを感じさせた私の勝利だ!
喜びに震える男を嬉しそうに見ていた女は、彼の叫びを聞いて嬉しそうににんまりと笑った。
「悪魔は、其方でございましょう」
ルスランはくっくと肩を揺らして、拳で口元をおさえた。
「左様。人間様にはそう呼ばれている。しかし、我々生神にとっての悪魔は、貴様ら冥界の獣どもだ!」
「……光栄でございます」
女は、ドレスのすそを片手でくっとあげ、深々とお辞儀をした。顔をあげざまに、ふっとろうそくを吹き消す。
完全な闇が訪れて、そのなかから、霞のような声が響く。
「今日は唾をつけて回ったのですよ。回収してもよろしいですかな」
「ただし生き神のみだぞ。そして、持ち帰ってから食え」
笑い声が返事だった。信用していいものか、いくらかの迷いはある。面白さのためなら、いつ裏切ってもおかしくない奴だ。しかし、一瞬で敵にして殺されるよりはましだ。いくら今が幸せだとはいえ、まだ成していないことがある。死ぬわけにはいかない、まだ。それなら、奴のためのコメディアンになってやろうじゃないか。
笑い声は消え、何の物音もしなくなる。部屋にはルスラン一人だ。
彼はしばし勝利と死の予感に浸って目を閉じていた。やがて、おもむろに部屋の中央に立つ。タン、と一度だけ靴の底を床に叩きつけた。すると、きゅるきゅるきゅる、と音を立てはじめる。それだけでなく、部屋の中の情景、バケモノとのやり取りが巻き戻っていく。空間の記憶を巻き戻しているのだ。これで、「侵入者」との会合の記憶は消える。
「……いや、違うな」と彼は口に出し、首をひねった。
あの化け物は「侵入者」などではない。たしかに、まごうことなき「客人」だった。ルスラノヴィチが冥界から招待したという、但し書きつきの。
ルスランは戸口に立ち、部屋を見渡した。入った時と何も変わらない。何も。転がり落ちたはずの文具も、元の場所で静かに眠っている。
満足げな笑みを浮かべ、乱れた髪を撫でつける。戸を開けると、絨毯の敷かれた立派な廊下が現れる。足音も立てずに、彼は廊下を歩いて、やがて奥の闇に消えていった。