21 Les Paradis artificiels
湖を見下ろして立ち尽くしていると、また突風が彼を襲う。
帽子が飛んで行ってしまった。それを当たり前のように見送ってしまい、うつろな目になる。髪の毛がばさばさと煽られる。邪魔だ。彼は顔周りの毛を耳にかけた。その時、目に砂塵が入り込んだ。目をこすりこすり、さっきとは意味も重みも違う涙を流していると、瞬きの合間合間に視界に入るものがある。普段のような危機感が湧き上がってこない。なんだかすっかり、気力を失っていた。
「どうしたんだい、坊や。悲しいことでもあったのかい」
数秒前までは誰もいなかったこの空中遊歩道に、こつぜんと、一人の老人が姿を現した。彼は銀色の城を背景に、漆黒のそろいで身を包んでいた。その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。しわくちゃなので、目なのかしわなのかわからない。
「坊やじゃ……ありません」
間違いなく自分の姿は「坊や」だったが、見ず知らずの者に言われることではない。黒髪小僧は、さめた瞳で老人を見据えた。翁は、後ろに組んでいた手をそろそろと前に出す。その手の裡には、黒が飛ばしてしまった帽子がある。なんで、そこに。ぼんやりと彼は思っていた。
「落し物だよ」
老人は、こつこつと音を立てながらゆっくりとこちらに近づいてくる。黒は黙ってそれを待っていた。彼が黒のもとまでたどり着くと、透き通った瞳でこちらを観察する。まるでこの湖のような色だった。背丈は黒とほとんど変わらない。彼は大仰そうに手をあげて、黒の頭に帽子を載せる。不思議と、先ほどのような強い風はやってこない。
「泣いていたんだね。可哀想に」
彼は黒の頬を撫でた。涙の筋が残っていたのだ。鼻をすすりながら、老人の手をじっと受け入れていた。老人はふと、湖を覗き込んだ。
「あそこが気になるのかい?」
黒は頷いた。
「あれが何かわかるかい?」
黙って首を振る。
「あそこはね、坊やが行くようなところじゃないよ。ずっと昔に喪われてしまったものが眠る場所だよ」
「つまり、……過去?」
微笑みしか見せていなかった老人が、驚いた。もさもさと毛虫のような眉がぴくりと上がったのだ。変なことを言ってしまった自覚が、黒の頬を赤く染める。なんでそんなことを言ってしまったのか、自分でよくわかっている。過去に帰りたいからだ。
「過去の国か。……おとぎ話のようだね」
はっきりと指摘されて、さらに恥ずかしくなる。でも、この人の前では、なんでもないふりをしたり、無感動ぶる気負いがなくなってしまう。たぶん、表情だって夢野の前とは違って穏やかなはずだ。喋り方も、自然なものになってくる。
「でも、残念ながら違う。あれはただの遺跡だよ。ずっと昔の。その意味で、過去の国と言えるかの」
黒髪小僧が不思議そうな顔をするのを、老人は楽しそうに見つめている。
「おとぎばなしついでに、ひとつ脅かしてやろう」
脅かすというわりには、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「闇夜が来る前に、早くおうちにお帰ってお眠り。でないと、化け物に目玉を取って食われてしまうよ」
闇夜? 化け物? 老人の脅かしに誘われて、黒は空を仰いだ。もちろん、化け物が空を飛んでいるはずなどなかった。でも、気付いたら、あたりはほとんど夕方だった。青と橙が入り混じったような空が、彼らの上に広がっている。黒は憎々しげに眼を細めた。つくりものの空だ。
「……帰りたくないんだ」
老人は黙って彼の頬に手をあてがった。乾燥とひび割れで、かさかさとした手だった。
「なにか悪いことでも、したのかい」
「した」
黄髪小僧に会いに行っていない。
「やらなくちゃいけないことを、やってないんだ。でも、それはとってもくだらないことで、やらなきゃいけない、って思っていたのがばからしくなった。だから逃げちゃったんだ」
「それをしないと、怒られるのかい?」
「わからない」
黒は遠くを見てぼうっとした。命令に背いたのははじめてなので、この罰がどんなふうに下されるのかわからない。やはり、夢野に采配があるのだろうか。
「君のお父さんとお母さんは、怖い人なんだね。でもきっと、君が帰らないと心配する。だって彼らは君のことを愛しているんだから」
父でもなく母でもない、ただの主人だ。それを老人に説明する気もなかった。
「まさか。僕は憎んでいるのに?」
「どうして?」
何度も自問自答して、わからないと蓋をしてきたことだ。それなのに、急に、どうしてなのか答えが欲しくなった。この老人が、答えを知っているような気がした。そんな気がするのは、いま、自分以外の誰かに猛烈にすがりたいという弱さでしかない。彼にすがったところで、彼は自分について何も知らないのに。
「どうしてなんだろう」
老人は再び湖の底に目線を落とした。黒もつられてそこを見る。夕暮れも映さない、静かな湖面だ。あのなかに、答えがあるとでも言うのだろうか。
「この世界は、虚だ」
老人は低く、しわがれた声で言った。うろ、と黒は彼の言葉を繰り返した。
「虚。まぼろし。この世界は、なにものでもないのだよ。砂の城だ。ほころびの糸をひけば、すべて消えてしまう。残るのは、魂をもったものだけだ」
はじめ、湖の中の遺跡のことを言っているのかと思った。けど、彼はどうやら、この世界のことを語っている。生神と、生神の創世した総てについての話だ。空間も、時間でさえも自由に操れる不思議な力。気まぐれのように姿形を変えては、貪欲に生きながらえる、魂のないあの生き物について。
「はじめからないのだから、なくなっても誰も気付かない。なにもないゆえに、なにもかもが起こりうるし、なにもかもを可能にするのだよ」
その意味を問い詰めようと彼を見ると、彼の体がさらさらと砂になって崩れていっている。黒髪小僧は声のない悲鳴を上げた。
「おじいさん!」
老人を捕まえようと、黒は手を伸ばした。しかし、空を掴む。あたり一面に砂塵が舞う。たしかに、あの老人は自分に触れていた。それが飛ばされた砂のように消えてしまった。呆然と頬に手を伸ばした。頬に張り付いているなにかに気付いて、彼はぎょっとして手を引っ込めた。
汚れた指を見て、彼は愕然とする。
「なんだ、これ……、」
涙の筋を拭いてくれたはずなのに。頬には、濡れてべとついた泥が張り付いていた。今のはいったいなんだったのだろう。この場所に仕掛けられた、誰かの魔術だったのだろうか。それとも、あの老人は生神だったのだろうか。
再び、風が吹き始めた。今度は、殴りつけるような横風ではなくて、前へ送り出す追い風だった。
黒は帽子を押さえて、マントを掻き合わせるようにして前へ進み始めた。あたりはどんどん暗くなっていく。夜が近づいているのだ。
「化け物に取って食われてしまうよ」、か。
危険な闇夜を怖れるようにつくられた物語だ。弱き者が危機を侵さぬように聞かされる童話が、この世界にはない。弱き者の危機を案じるべき「父」や「母」が、この世界には存在しない。あるのはただ、創世の神話だけだ。
黒は天空高くそびえたつ城を見上げた。自分の何倍もある高さの門が、来訪者を拒んでいる。ここに門番はいなかった。黒はそっと、銀色の戸を押し開いた。
力を込めたにもかかわらず、扉は空気のように軽く開いた。驚いて手を引っ込めてしまった。体の幅くらいに開いたままになる。ぼんやりした光がもれて、黒の頬を明るめた。
「……こんばんは」
顔だけを覗き込ませて、きょろきょろとあたりを見渡した。黒ははっと息をのむ。あまりに高い天井、空中に浮く青白い発行体、カーペットの敷かれた通路、森のように林立した柱。装飾が排除されているという点では、研究所と似通っていた。カーペットを除けば、色はあたり一面銀色。しかも、氷のように半透明だ。おそるおそる、足を踏み出した。発行体の数に対して、ホールはあまりにも広すぎた。奥がどうなっているかまでは見通せない。
「……誰もいないのかな」
ぷかぷか浮いていた発行体が近づいてくる。それが頭の真上で漂い続ける。どうやら、照らしてくれているらしい。思わず笑みが浮かぶ。
右や左を眺めながら、ホールの奥に向かっていく。いくつも立ち並ぶ柱の向こうには、大きな扉が並んでいる。
「ここは何の施設なんだろう」
もちろん、それに応えてくれる者はいない。
こつ、と靴底が床を叩いたのに気付いて、黒は目を落とした。カーペットが途切れている。発行体があたりに集まってくる。上へと向かう、二股に別れた階段が正面に続いていた。その踊り場にある、大きな物に目を奪われる。
十二の人間が入り乱れた彫刻がそびえ立っていた。彼は足を速めて近づく。思ったよりもかなり大きい。その足元の台座でさえ、胸あたりまでの高さがあった。黒は台座に右手をついて、ぐるりとその周りを歩く。そろそろと左手を伸ばし、石に触れてみた。漆黒で、なめらか、そして冷たい。不思議な素材だ。
彼は、自分が触れた人物を見上げた。その長い髪の女は、剣を掲げている。顔はここからでは遠すぎて、どんな表情をしているのかが見えない。
正面に戻ろうと顔を戻したとき、視界に人影がうつる。心臓がドクンと脈打つ。見間違いかとも思ったが、たしかに居る。左手の階段。登りきった地点の手すりに、人がいる。その人物のまわりには発行体がないのに、輪郭がわかる。発光しているようだ。自分と同じくらいの姿恰好だ。いや、もう少し大きいかもしれない。
黒はあやうく叫びかけた。
――あれは、自分だ!
着ているものこそ違うが、黒髪小僧を黒髪小僧たらしめる要素はまるでそっくりだ。黒い髪。不吉に白い肌。冷たい光を湛えた黒の瞳。敵意すら感じる冷ややかさだった。そのせいか、自分よりもいくらか大人びて見える。
その男は、長い上衣を翻して暗闇に消えた。
待てと呼びかける間も惜しくて、黒は飛ぶように階段を駆け上がった。男の消えた方へ走ると、まさに、壁に吸い込まれて消えていくところだった。
「あれも魔術なのか……」
口の中で呟いて、その壁に走り寄ったが、遅かった。黒はぺたぺたと壁を触ってみた。隠し扉があるのだろう。押したり、殴ったり、蹴ってみても反応がない。力で開くタイプではないようだ。……だとしたら。魔術が必要なのか。
「どんな魔術が必要なんだろう。僕はまだあまり使えない」
説明書きや暗号などはないだろうか。手探りで壁を伝っていると、ピリッとした痛みが指に走る。針のような尖りに手を引っかけてしまったらしい。血がぱたぱたと落ちる。その様を見て、黒ははっとした。
血が流れる指を、壁に貼り付けてみた。壁の一部が煙をあげながら、じりじりと床に吸い込まれていく。地響きのような音がフロア全体を揺らす。人ひとり入れるくらいの穴が、ぽっかりと空いた。地下に降りていく穴だ。彼は、迷いなく滑り込んでいく。
穴は、なんのとっかかりもない滑り台のようだ。ずいぶん長い。おそらく城の下の下まで降りて行っている。落ちていきながら、風が湿り気を増していくのを感じた。湿り気……。黒は帽子を押さえながら、来るべき着地に構えた。坂はだんだんなだらかになって、落ちるスピードがゆっくりになっていく。
出口は突然にやってきた。ごろりと一回転してようやく止まった。纏わりついたコートのすそをひきはがし、やっぱり落ちてしまった帽子を拾いってぱんぱんと汚れを払う。落ちてきた穴を見上げる。風邪を吸い上げて形容しがたい音を立てている。地上の世界がひどく遠くなった気がした。城の中に帰るときは、どうしよう。急に心細くなる。自分に似合わず、考えなしの勢いで動いてしまった。
黒は帽子をかぶり直し、「自分」を探すためにあたりを見渡した。
ぴちゃん、ぴち、ぴと……と、水が落ちてくる音がする。
「水か……。やっぱりここは、あの湖とつながるんだろうな」
長いこと暗闇にいたので、目が慣れてきた。これならば、猫の姿にならなくてもよさそうだ。でこぼこした道を注意深く進んだ。右手には大きな扉がずっと連なっている。鍵がかかっていて、びくともしない。この扉の奥は、湖に繋がっているとみて間違いないだろう。あの砂の老人は、行くことができない場所だと言っていたが、どうやら近くまで来れたみたいだった。
「……そこには入れないわ」
黒は飛び上がって驚いた。
「誰だ!」
黒は構えながら振り返る。明かりをもった、女。銀色のまっすぐな長い髪。透き通るような白い肌。自分よりもずいぶん年長に見える。見上げるくらいの身長だ。シフォンのような薄い布のドレスを着ているが、ひかえめな凹凸で、女らしい体つきとは言えない。おっとりとした目つきに、わずかに微笑んだ唇。敵意はなさそうだ。
それにしても、いつの間に現れたのだろう。ちょっと前から油断しっぱなしだ。いろんな不審なものに接近を赦しすぎている。ゆるみきった表情を引き締めた。
彼女は少し、悲しそうな顔になる。
「……そんな怖い目を、しないで」
ささやくような、小さくて、幻のような声。この女の存在感自体、幻のようだ。
「私も、あなたとおなじなのだから」
黒はいかがわしいものを見る目をやめなかった。女のほっそりした手が、慎ましい胸元をなぞった。
「銀髪小僧」
黒が目を丸くしたのを見て、彼女はゆっくりと頷いた。
「……証拠は」
「すぐにわかるわ。また会うことになるもの」
「どうかな」
ぷいと女から背を向けて、再び扉を押してみた。びくともしない。彼女はふわりと足を踏み出し、黒の脇、扉にそっと手をついた。なめらかでほっそりとしている、きれいな腕だ。おとなの女の腕。
「……“記憶の残滓”がここに来たから、追ってきたのね」
「記憶……? 僕にそっくりの男の幻影こと?」
壁に消えた、おとなびた自分の姿を思い浮かべる。あれは記憶だというのか。未来ではなくて。
女は、口を薄く開いた。それは、明らかに憐みの表情だった。
「……『黒』はいつもそう。魂と肉体が相容れない」
魂と肉体。黒髪小僧と、夢野の関係性を指していることはすぐにわかった。黒はぎりりとこぶしを握る。いつもそう、と言われても、そんなの知るもんか。
「主人を殺したいのね?」
女ははっきりと言い表した。さすがに、そうだ。と肯定することはできなかった。自称だけど、この女も自分と同じ「小僧」だ。
「あなたたちの代替わりを、もう何度も見てきたわ。あなたも、他と変わらないのね。けど、今度はいつもよりずっと早い」
「……まさか、」黒は痙攣するようにピクリと笑った。「僕は、夢野を殺すのですか」
決められていることなのだろうか。知らずして、運命に従わされている。強烈な糸で繋がり、操られている。気にくわない主人に隷属している自分の境遇が我慢ならないという、この上なく人間的で個人的なところから、夢野に反発しているものだと思っていたのに。
「好きにするといいわ」
女の口調は、冷め切っていた。先ほどとは打って変わって。
「けれど魔界の神は、ぜったいにあなたたちを手放さない。あなたが楽になっても、つぎのあなたもまた、繋ぎ止められたまま」
女の使う「あなた」は、黒髪小僧自身を指しているときと、魂を指しているときとがあって、混乱する。でも、次の言葉は明らかに前者を指していた。
「……あなたは、弱い子ね」
頭を殴られたようだった。同時に、運命にしたがってなるものかという気持ちと、もういいやという投げやりな気持ちが拮抗していた。銀髪小僧の諦めが、自分をどっちに転ばせるのかわからない。
銀髪小僧は扉に触れていた手を、黒の頬に添える。先の老人よりもずっと、潤いにみちて、生命力にあふれていた。がくがくと震えが走った。目を開けていられなくなり、瞼を閉じた。そのまま、意識が遠のいていく。
気づいたら、黒は、橋の真ん中で立ち尽くしていた。夕闇だった空は、いつの間にか真っ暗になっていた。それほど時間が経ったとは思えないのだけれど、実際にはかなりの時間が過ぎ去っていたようだ。ふと、湖の中の遺跡を見下ろした。確かに、あのそばまで行っていたはずだ。あの場所への渇望は、きれいさっぱり消えていた。今はとにかく無気力だった。
「……夢を見ていたみたいだ」
丸ごと全部、幻だったのではないか。空を仰ぐ。漆黒の闇は、完全な夜を告げている。結局、夢野の言いつけを放っておいたままだ。のろのろと、城に背を向けて歩き出した。湖を横切る橋の終わりまでは、とても長く感じた。とぼとぼ歩いているせいでもあるけれど、ずいぶん時間がかかってしまった。橋は荘厳なアーチをくぐったところで途切れ、そこから土くれが転がる森の中の道になる。よっぽど城で一晩明かしてやろうかとも思ったが、「自分」を見た手前、気分が悪い。あんな霞のようなものがまだうろついているとしたら、とてもじゃないがいられる気はしない。
黒は振り返ってアーチを仰いだ。アーチの天辺には、文字が彫られている。闇夜の暗さで見えぬかと思いきや、ぼんのり明るい橋の光を受けている。
「……『この先、神の御前』、か」
黒はたいしてその言葉が示す意味を考えもせず、暗い森のなかへと進んでいった。
足を動かしながらも、彼は、橋の上で出会った老人と、城で出会った自分、地下で出会った銀髪小僧について考えていた。彼らの謎めいた言葉は、黒髪小僧を苛立たせた。どうしてはっきりとしたことを言わずに、詩みたいなことを言うのだろう。おかげで今の自分は混乱している。どうすればいいのか、指針をすっかり失ってしまった気分だ。ここからどうやって帰ろう。どこに帰ろう。カラスの羽ばたきが、だんだん近づいているように感じる。
化け物に取って食われる前に、帰らなければ。