19 La Tentative amoureuse
「おかえり、瞳の旅人さん」
いたわるようなパヴェルの声が、迎えてくれた。
夢野はぱちぱちと瞬きをしたあと、ゆっくりと瞼を開けた。サハラを抱いたパヴェルが、申し訳なさそうに微笑んで立っている。
「ごめん、時間がきちゃったみたいだ」
半身をよじって背後の香立てに目線を送る。なるほど、彼の視線の先にある香立てには、灰の山しか残っていない。
夢野は黙ってかぶりを振った。むしろ礼を言うのはこちらのほうだ。
でも、狼狽した猫神の姿がまだ気になっている。あの顛末を見守りたかったけれど、もう一度続きを見せてもらおうにも、差し出せるものはなにも持ち合わせていない。聞いていなかったけれど、本来は何を対価として払えばふさわしかったのだろう。
そのくらいの慎みはある夢野だけど、他方、赤髪の少年はというと。
「……すごく大事なところだったのに。融通きかないな」
開口一番文句ときた。重たそうに顔をうつむけたままで、額に手をあてがっていた。めまいが抜けないのだろう。
パヴェルはぽかんと口をあけ、なんとなくサハラを撫でる。
「どういうこと? なにかあったの?」
夢野と彼岸をは、お互いに顔を見合わせた。猫神が結界の件に関わっていることを白状してもいいものか迷ったのだ。でも、この男は腐っても神官。まずいことなら黙しておいてくれるくらいの分別はあるだろう。
彼岸は、「おまえに任せた」と言わんばかりにバタンと仰向きに倒れて、目を覆うように腕を乗せる。まったく、面倒なことは人任せだ。
術が解ける間際の光景を手短に伝えると、彼は夢野と視線を合わせるようにしゃがみこむ。しゃらしゃらと装飾具が鳴る。
「へえ。あの猫神が君たちの師匠だったのか。なるほど、そりゃ気になるね。どうする、もういっかい見る?」
「もう払うものがない」
彼岸は、腕の隙間からパヴェルを覗き見た。もう一方の手で、「ない、ない」と力なく手を振る。パヴェルはその手をぐっと掴む。商談用の真面目な顔になる。
「あるある。生命力をくれればいい。爪一本につき一年分の生命力」
「……ばか高いな」
億劫そうに上半身を起こし、まぶしそうにパヴェルを見た。
「妥当だね。低く設定したら、魔術の価値が下がる」
「時間制限があるのが困りものだな。続きを見たいと思ったら、きりがないぜ」
「こちらとしては、そこが稼ぎのポイントなんだけどね」
くだけた口ぶりで楽しそうに笑われたので、彼岸は彼に掴まれていた腕をバシッと取り戻す。
「……やめだ、やめ。もう見ないよ。お世話様」
「なんだ、残念」
パヴェルはお茶目っぽく頬杖を突き、頬を膨らませる。
彼岸は、つま先からてっぺんまで彼を胡散臭そうに眺めた。神官としては致命的なほどの聖性の欠けっぷりだ、疑い深くなるのも仕方ない。
「術の時間が限られてるのに、索敵なんてできるのかよ。千里眼ってやつはもっと神ががった業かと思ってた」
「ああ、違うよ。さっきの術は“千里眼”じゃない」
「千里眼なら、完璧なのか?」
「完全な魔術なんて、あるわけないだろ。欠点だらけだよ」
「“千里眼”ができるやつが、神官になれるんだろ? それだけ珍しくてすごい魔術ってことじゃないのかよ」
「珍しいかもしれないけど、タマゴとニワトリが逆」
はあ? と少年たちは首をかしげるいっぽう、彼は両の手の人差し指を交差する。指輪が鈍い光を放ち、長い爪はミステリアスに艶めいている。
「千里眼ができるから神官になるんじゃなくて、神官になるから千里眼を習得する権利が生じるんだよ。権利があっても、千里眼をマスターできる神官は限られるから珍しくもなるけど、神官じたいは誰でもなれるんだ」
彼岸はけげんな顔をして、もそもそと膝を体に引き寄せた。
年少者を諭すための誠実な口ぶりを意外に思ったけど、当の本人は、よっこらせ、と暢気そうに胡坐をかいた。サハラは、ぴょんと主人のほうへ飛び乗って丸まる。サハラを撫でながら、彼らの瞳をじっと見つめる。
「だからもう、僕の血肉は僕のものじゃない。厳密にはね」
おもむろに、パヴェルは手の甲に爪を立てた。一筋、きれいな傷跡が浮かび上がり、ぷっくりと血のふくらみができあがる。ノミのような血の球体は決壊し、溢れ出す。一滴がぽたりと床に落ちる。その血、一滴一滴が彼のものではない。「神官は誰でもなれる」、その意味が浸みるころ、床が彼の血を飲みこんだ。「夜道の館」が、街が呼吸をしている。それはまさに、彼の言葉の正しさを証明していた。
いみじくも彼は言った。
“己の血肉を礎にした魔術は何より強い。それが、たかが木の実一個の対価で済むと思うな”。
たた、たた、と落ちる血液を、彼はじっと見つめている。落ちる傍から、じんわりとシミになり、床に吸い込まれていく。まるで、一滴も逃してやるものかと「夜道の館」が思っているかのようだ。
「ということはやっぱり、神官は誰でもなれる」
パヴェルの瞳が、謎めいた色に輝く。どうやらこの男は、自分には感じようのない使命感を抱えて生きているらしい。パヴェルは、未知の場所にいる。
「……おれはごめんだね」
彼岸のさめたツッコミに、パヴェルは、「だろうね」とまた笑う。
◇
応接室を出ると、ユカリが戸の外で待っていた。今にも泣き出しそうに目をうるうるさせている。
彼岸と夢野は、ぴくりと口の端をゆがませた。
「……ううわ」
面倒そうな顔を見て、うんざりボルテージが急上昇する。喉元まで出かかったお礼の言葉は、しゅるしゅるとどこかへ消えてしまった。打ち合わせがなくとも、彼らは当然のごとく無視を決め込んだ。それでも彼は気にもしないで、ぴょこぴょこあとをついてくる。
彼岸は遠慮のない舌打ちをかます。
「……おい。いつまでついてくるつもりだよ。おれたち、もう帰るんだけど」
話しかけてもらえたことが嬉しかったのか、たたた、と走って彼岸のそばに並ぶユカリ。彼は上半身を倒して、ためらいがちに彼岸を覗き込む。ユカリは彼岸たちよりも背が高い。
「さっきすごい音が聞こえてきたけど、何があったの」
すごい音? 夢野は首をかしげたが、彼岸が「あ」と思い出したような声をあげた。
「そういえば、あいつを蹴ったような気がする。その時かな」
「あいつって、パヴェルさんを!? ひどい! 今すぐ謝りなよ。なんてことをしたんだ、彼岸くん」
あいつを、というか、机をだけど。でも、実質的にパヴェルを蹴ったようなものだ。それをユカリに説明するのが面倒だ。説明しなくても面倒なので、放っておいた。階段に差し掛かっても、彼はぴいぴい引き止める。
彼岸は、平手でわざとらしく耳をふさぐ。
「うるさい。……そんなに必死になるような、大した奴かよ」
ふわあ、とあくび交じりだ。目が死んでる。
「それが、大した奴なんだよ! お金持ちだし、『夜道の館』を作ってくれたし……、」
「あーあーあー! もういいよ、真面目に答えるなよ」
じれったそうに叫び声をあげ、ぐしゃぐしゃと髪を掻きむしる。
両手を握り合わせて、きらきらとパヴェルを褒め称えていたユカリは、冷水を浴びせかけられたような顔になる。
「もういいの? まだあるのに」
「流せよ、バカ。どうでもいいよ」
彼岸こそ流せばいいのに。……と思うけど、巻き込まれたくないので夢野はひたすら黙っていた。
「素敵なのに。きみは何も知らないから、」
「素敵かどうかはアヤシイけど、あいつがまっとうなのはわかるよ」
まとわりついてくるユカリを振り払いながら、不本意そうに言った。ユカリは拍子抜けして彼岸の横顔をただ見る。
「……だからこそ、癇に障るんだよ。魔界の生き物らしくてさ。そういう奴に出くわすたび、『お前も、俺みたいになれよ』って言われてるみたいな気分になる。放っておいてくれよな。おれはそういう風にはなれない。……しっくりこないんだ」
彼は目を閉じて、頭の後ろで手を組んだ。独り言のように、気安く言い放つ。
「あーあ。ここから逃げたい。早く人間界で暮らしたい。というか、人間になりたい」
ユカリは立ち止まって、生真面目に彼岸の言ったことについて考えている。そんなに本腰入れて聞かなくてもいいのに。ユカリは悪意なく相手の地雷を踏むことがある。そんな彼らの対話は、薄ら暗くわくわくする反面、ハラハラもする。
「黒猫と契約したんでしょ? もう君は、主人なんだ。どこにいっても逃げられない。同じように、魔界のルールで生きるしかないよ」
ごきげんなリズムを刻んでいた彼岸の足が、急に止まる。コツ、と途切れたブーツの音が吹き抜けに響く。腕をほどいて、ゆっくりとおろし、無表情で振り返る。雲行きが怪しい、かもしれない。
でも、ユカリは屈託ない笑みを浮かべた。なにを言い出すつもりだ、と気が気じゃない。彼岸も彼岸で、彼の次の言葉をじっと待ち構えている。「や・め・ろ」。夢野は、彼岸に見えないようにユカリにサインを送るけど、彼に腹芸は通じないだろう。
案の定、気楽そうに彼は言い放つ。
「緋髪小僧の命だけじゃ、彼岸くんの望みは叶わないね」
とたんに、彼岸の目の色が変わった。氷から、焔へ。拳をぐっと握ったのと、ぐっと口の内側を噛みしめたのがわかった。
夢野は階段を戻って、彼岸の手を取った。
「……帰ろう」
彼はユカリを見据えてこちらを見もしない。夢野の手は、激しく振り払われた。怒っている。それも、激しく。怒った彼のそばにいて「まずいな」と思うことはよくある。「まずいな」というのも、自分も巻き込まれそうで面倒だな、という意味だ。今回は、尋常じゃなく「まずい」と感じる。いったい何が彼をこんなに苛立たせたのか。
こうなったら、ユカリを肉体的に痛めつけるまでおさまらないだろう。止めるつもりなら、ユカリのほうこそを止めるべきだった。
諦めて、夢野はさらに階段を下って位置をとった。それと同じくして、彼岸が動いた。
だん、と大きく踏みしめるや否や、跳ね上がるようにしてユカリのいる段まで一瞬で登った。それをユカリが避けられるわけがない。棒立ちのユカリの胸ぐらをつかんで壁に押し付ける。情けない悲鳴を上げてもお構いなし。その一瞬、ユカリの怯えと疑問とをぐちゃまぜにした表情を見た。すっと脚を後ろに引く。
目を覆いたくなるような一方的な蹴りが、ユカリの腹を見事にとらえた。彼岸の頬や体に、唾が吹きかかる。ユカリは耳障りな声をあげて、ごぼごぼと厭な咳をする。体をびくびく痙攣させ、ぐったりとうなだれた。口からだらりと液体が垂れる。
うっかり見守ってしまった夢野は、はっとして叫ぶ。
「彼岸!」
一撃喰らわせて少しは落ち着いたのか。彼は冷たい瞳でこちらを一瞥すると、またユカリに向き合う。
胸ぐらを離してやったはいいが、髪を掴んで乱暴に突き放す。おかげで彼はバランスを崩して階段を転げ落ちた。それをほどよい場所でキャッチするために、下方で待ち構えていたようなものだ。
「大丈夫、」
気絶したかと思えば、ユカリはぐじぐじ泣いていた。あんがいタフだけど、逆に気の毒だ。どうして傷つけられたのか、さっぱりわかってない様子だった。もちろん、夢野だってわかってない。
「……彼岸。謝れよ」
「なんでだよ」
彼はぺっと唾を吐いて反省の色がない。
「今のはきみが悪いじゃないか」
「そいつは、許せないことを言った」
「……許せないこと?」
夢野はユカリの体を支えながら、睨むようにして彼岸を見上げていた。半分は、自分のためにもこの状況を説明してほしかった。でも、彼は真一文字に口を閉ざしたまま、話そうとはしなかった。
「黙るなよ。彼岸らしくもない」
「……言いたくない」
「なんだよ、それ……」
追及しようと開いた口が、閉じた。彼は、言いたくないのだ。親友の自分にも、言いたくないのだ。ずっと一緒にいたのに、彼についてわからなかった。そのショックで、それ以上何も言えなかった。
彼は、思い出したように顔に付着した液体をふき取ると、ユカリのことは一切視界に入れようとせずに通り過ぎていく。カンカンと階段を鳴らすブーツの音は、彼の不満がまだくすぶっていることを物語っている。
夢野はひとまず、虫の息のユカリに応急処置をしてやった。医療魔術はほとんどわからないので、生命力の譲渡による回復力の補助。苦しみで眉根を寄せていたところからすこしだけ落ち着いて、自分で座れるくらいにはなった。腹を守るように腕を組みながら、彼は壁に寄りかかる。弱弱しく礼を言う姿を見るにつけ、なんだか申し訳なくなった。ただ見守っていたから。
彼岸が螺旋階段を降りる音が消えた。いちばん下に到着したのだろう。
するとユカリは、よろよろと手すりに向かって這う。
「待って、彼岸くん。最後に、とくべつな忠告をさせてくれる」
螺旋階段の手すりから身を乗り出し、彼岸を見下ろしていた。呆れることに、彼はすでに笑顔だった。この頼りない上級生は、その時その時の感情や気持ちに素直なだけだ。うまいやり方からはほど遠いけれど。
「……勝手にしろよ」
素直に彼を見上げる彼岸。先の獣じみた攻撃性は消えて、むしろ無力感に覆われていた。だるそうに、ポケットに手を突っ込んでいる。
「彼岸くんは、とても危ない。どこかで曲がらないといけない。できれば、早く」
「おまえが言うなよ」
彼岸は苦笑した。でも、ユカリはまじめだった。「じゃあ、いち生神として言おう」、と息を吸い込み青ざめた顔で続きを告げる。
「これは『予言』。『その焔を消さないと、君は、いつかきっと燃え尽きてしまう』」
吹き抜けは、彼の声を彼岸のところまで間違いなく届けてくれた。一瞬、目をすがめたように見えた。その刹那に、何を考えたのだろう。
「……おれも、そんな気がする」
彼岸も、腐っても生神だ。「いち生神」の予言を無碍にはしなかった。ただ、それも悪くない、そんな落ち着きをまとった顔だった。それが夢野を不安にさせる。どうしてユカリは、「燃え尽きる」なんて言葉を選んだりするのだろう。いやおうなく、昼間のビジョンが蘇って仕方ない。
夢野は親友が待つエントランスへと急いだ。急がないと、彼がどこかへ行ってしまうような気がした。
彼岸はさめた表情で、夢野を待っていた。彼に喜怒哀楽がないと、とても不安になる。隣に並ぶと、言葉も発さずに歩きはじめる。少年たちは、黙りこんで「夜道の館」のエントランスを抜けた。
重苦しい戸を開けると、光が降り注いだ。彼岸はまぶしさに目を細め、手で庇を作る。
「おかえりなさい、彼岸」
人間の姿の緋髪小僧が走り寄ってくる。
「緋髪!」
とたんに溢れんばかりの笑みになる。石段から飛び降りるときに、夢野に肘をぶつけた。それに気づかずに、彼は夢中で彼女のもとへと走り寄る。お互いが手を取り合って、額をぶつけて笑っている。離れていた数時間を回復するように。
今度は夢野がまぶしさに目をくらませる番だ。
――そうか、わかったよ。きみは、緋髪小僧に「執着」しているんだ。
緋髪小僧への愛が、彼の焔を消さない。
緋髪小僧への執着が、彼を燃やし尽くしてしまうだろう。
いままでひとつの塊だった自分たちは、黒猫という契約によって二つに分かたれた。そしてそれは二度と接着することがない、絶対的な分断だった。
今になって、自分がそれに戸惑っていることに気付かされる。自分も、彼岸も、隣に並ぶべきものは使い魔なのだ。夢野に対する扉が閉じたぶん、緋髪小僧に対する扉が開いた。それなのに、再び扉が開くことを期待している。いまだに、接着できる部分を探しては見つからなくて、手を引っ込めてはまた探す、を繰り返している。彼の背中に向かって、ずっとその試みを続けている。
まぶしすぎて目が痛くなった。眼球を潤すものが、とてもしみる。
夢野は目を閉じた。