18 Le Visible et l’invisible
夢野との契約を破棄したい。
その方法として、彼を消してしまいたい。
この熱望を成就することが、夢野のくだらない命令を遂行するよりも大事なことだった。だから彼は、黄髪小僧のもとへ走ることをやめた。やめることができたことに、ひどい感動を覚えていた。やめることができるなら、契約の効力はいったいどこで発揮されているのだろう。背くことができるなら、主人に従う意味などどこにあるのだろう。したいようにしている自分にどきどきしながら、足を動かしていた。
でも、どこへ。だって、どこに行けば答えが得られるのかわからないのだ。誰に聞けばいいかもわからない。この世界のことなんて、まだなにも知らない。とにかく浮足立っている。興奮したまま、わけのわからないまま動いているのに、自分が夢野の手足でなくなっていく感覚が嬉しくてしょうがない。
気が付けば、土の道がいつの間にか煉瓦道にかわっていて、そして今はつるつるした大理石のような通路をひた走っている。
「ここはどこだろう……」
走るスピードを緩めて、彼はあらためてあたりの風景を見渡す。強い風が吹いていた。
それもそのはず、空中に浮かぶ一本道だった。行く先は、城のような大きな建物に繋がっている。これは道というよりも橋といったほうが近い。城に向かうしかない橋、空中遊歩道のような橋。
なんだか心細くなって、彼は完全に立ち止まった。前足で、ついついと道をこすってみた。肉球の汚れが落ちてしまうほど、見事ななめらかさだ。
道の端に寄って下の世界を覗きこんでみる。はるか下に、銀色の湖面が広がっている。360度見渡しても果てがない。とてつもなく広くて遠い。カラスが数羽、自由そうに飛んでいる。
ふと、なんで自分はカラスではなくて猫なんだろうと、どうしようもないことで悲しくなった。カラスなら、今の自分のような悩みなんてないんじゃないだろうか。いや、猫ですら悩むんだ。彼らカラスだって考えることくらい、できるのかもしれない。帰ったら、同じ夢野の使い魔である縮緬に愚痴をこぼしてみようか。
――帰る?
ふるふると頭を振る。この期に及んで、僕はまだあいつのもとに帰る気でいるのか。命令に背いているのに。それどころか、逃げ出しているのに。この僕が、どの面下げて帰れるっていうんだ。黒は自虐的な笑みを浮かべた。
湖面には、ところどころ葦のようにつんつんと生えているものがある。距離感からしてもちろん、植物なんていう程度の小ささではあるまい。建築物だ。銀色の塔が生えて、湖面を突き破っている。突然、煽るような風が吹いた。吹き飛ばされそうになり、黒髪小僧は思わず顔を引っ込めた。ここで猫の姿のままでいるのは危険そうだ。
今度は人の姿で、下を覗き込んだ。風に吹き飛ばされそうになる帽子を押さえても、髪が、マントがひるがえる。ばさばさとうっとうしい。猫の姿でいるよりも、この場所の高さがより高く感じられた。
――怖い。
それなのに、どうしても、湖の中の街に惹かれる。なんだか懐かしくて、恋しくて、目のあたりがむずむずした。懐かしいだなんて、どうしてそう感じるのだろう。ひょっとすれば、あの水の中の街は、ここに来る前の自分が生きていた場所なんじゃないだろうか。こんなのは初めての感覚だ。
どうすればすっきりするのだろう。街に向かって飛び込めたのなら、ちょっとは癒されるのかもしれない。できるわけもない。かわりに、湖面に向かって叫んでみた。カラスたちは驚いて、一様に同じ方向に向かって逃げ去っていく。声は谷底に吸い込まれてしまい、反響もせずに湖面に波紋をつくりだしただけだった。
それでも満足しない。息が荒くなって、ようやく、自分が泣きたいのだということに気づいた。
「どうしろっていうんだよ……」
つぶやいた途端、張りつめていたなにかがほつれた。頬に冷たいものが流れる。ぬぐうものだとは知らなかった。その液体は、固く結んだ唇の中にしみこんできて、塩辛い味がした。
黒は、城を振り返った。あそこに行ってみよう。しかし、逆らい難く湖が呼んでいる。
◇
煙の中で気が付いた。強いリンゴの香りにむせこんで、思わず咳をした。これはパヴェルの焚いた香だと思い、パタパタと目の前の煙を払ったが、消えない。これは普通の煙じゃない。魔術だ。どんなものかはわからないが、パヴェルがつくり出したものだろう。移動魔術の類だろうか。
「彼岸、彼岸はいる?」
「いるよ」
声はすぐそばから聞こえてきた。彼はぐいと夢野の水兵服の襟を引く。力が加わった方向を頼りに、四つん這いのまま這った。床まで煙だらけだけど、なんのことはない、この煙は霧のようで、物体に近づけばほとんど難なくかたちを認めることができた。彼岸はすでに意識がはっきりとしていて、膝立ちの姿勢でまっすぐ前を見据えている。
「ねえ、ここはいったいどこなんだろう。パヴェルになにをされたんだろう」
彼が何を見ているのかを確認するよりも、現状を把握するほうが夢野にとって急務だ。しかし彼岸は視線を動かさずに「静かに」と短く言い、黙らせようと夢野の口をふさいだ。その手を振りほどいて彼岸の肩を揺すった。
「きみ、気にならないの」
彼は面倒くさそうにこちらを向いた。
「……見ればわかる」
と、夢野の首根っこをつかんで煙の中に頭を突っ込ませる。
思わず目をつむったが、先は煙が薄くなっていた。「外」の景色が見える。はっと息をのむ。ここは雲の中のようだ。なぎ倒された木々と、抉り取られた大地が見下ろせる。彼らは空中に浮かんでいる心地だった。
「ここって……」
彼の隣で、彼岸が再び正面を向いた。
「そうだよ。結界が破られた場所だ」
いくつかの種類の制服を着た連中が、作業をしている。あれは守護隊、警察、よくわからない機関の集団、配置された門番、それに白衣を着た研究所の者もいる。制服組以外の姿もある。物々しい様子だ。でも、遠すぎて細かいところまでは見えない。
「降りられないのかな」夢野はもそもそと動いて煙の中を探った。
「むやみに動くなよ。落ちたらどうするんだ」
「そのほうがいいじゃないか。ここからじゃ、何が起きているのか全然わからない」
「おまえって、ときどき能天気だよな」
「きみこそ、相変わらず小物くさいよね」小声だ。
「おい、今なんて言った」
「……べつに」
「外」の音だって聞こえない。黙る必要なんてないのに。
『ホラホラ喧嘩しない、しない。大丈夫だよ、落ちないから。心配ご無用。君たちの体は、応接室から動いてないよ』
どこからともなく、パヴェルの声が聞こえてきた。ぐるりとあたりを見渡したが、彼の姿は見えない。
『君たちもボクもここにいるよ。ちょっと滑稽だけどね』
「どういうこと? 移動魔術じゃないの。体は……ここにあるみたいなんだけど」
両手をまじまじと見て、閉じたり開いたりしてみた。いつもと何も変わらない。
『君たちの視界を、お望みの場所まで飛ばしただけ。起きている体はそのままここにある。ボクに見られてないと思って恥ずかしい動きはしないでおくれよ? 爆笑しちゃうから』
かくいうパヴェルの姿は認められない。すると、髪の毛が誰かに触れられている感覚がある。彼岸が触っているわけでもない。ちょっかいの主を捕まえようとしても、空をつかむ。まるで見えない手がそこにあるようだ。
『ホラ。ぼくからは君たちに干渉できる。安心した?』
むしろ不安が増した。あの応接室で無防備に四つん這いになっている自分の体を思うと、居心地が悪い。まったく信用できない奴の前に体を置き去りにして、背中を曝しているなんて、おちおち見物なんてしていられない。
かといって、文句を言って彼の機嫌を損なうのも得策じゃない。ほんとうならば、もっと大きな対価を払わなければいけなかったらしいのに、リンゴひとつで請け負ってもらった負い目もある。まっさきにぶうぶう言いそうな彼岸でさえ、目の前のありさまに心奪われていて大人しかった。
そわそわと体の置き場所に迷った挙句、もとの態勢に戻った。(パヴェルはちょっとやそっとのことじゃ機嫌を損ねそうにないが、念のため。)
「じゃあ、いくつか質問するから、答えてくれる」
『わかる範囲までだ。ただし、リミットは爪が燃え尽きるまでだからね。のんびりしてたらすぐ終わっちゃうよ。そら急いだ急いだ』
面白がって煽るパヴェルが鬱陶しい。
ちらと、真剣そうな彼岸の横顔を見た。彼に気の利いた質問をさせるのは期待しない方がいい。記憶力のいい彼には黙って観察させておくことにする。
「あそこに大きな陥没があるよ。あれはいったい何?」
どれどれ、と探すような声色。応接間に視界があるパヴェルも、自分たちと同じものを見ることができるのだろうか。
『ああ、わかった。あれね。うん。あれは、敵が湧き出した痕跡だ』
「湧き出した?」
『そう。敵襲があったときに気にしなきゃいけないことは、“どこの結界が破れたか”だ。穴はさっさと埋めなきゃいけない』
「つまり、敵方は底面結界を破って侵入したということ」
『その通り』
魔界には、本来、上下左右東西南北もなければ、底も天辺もないはずだった。しかし、魔界のマジョリティの生神は、人間的な感覚をもっている。そのせいで、便宜上、人間界に似せた世界のつくりになっている。
そういえば、アイビーは、結界が破られたことに憤慨していた。彼女によれば、それはルスラノヴィチ閣下が張ったものらしい。ルスランは猫神先生の開発した術式をぬけぬけと自分の名義で発表しまくっているとのことなので、本当に彼の功績なのかはあやしいところだ。でも、こうなった以上、ここの結界はルスラン自身が開発したものでなくてはまずい。
だって、と夢野は案じた。
もし、これが猫神の開発した結界だとすれば、この事件によって、猫神の術式の不完全さが証明されてしまうことになるのだ。自身の頭脳を絶大に信用していた猫髪を思い出すと、複雑な気持ちだ。
惨憺たる有様のグラウンドゼロは、ばっくりと大口を開けた絶望そのものだ。結界の修復はなされたのだろうけど、取り急ぎでしかないだろう。つまり、刷新されていない。胸騒ぎがする。
「敵というのは、誰のこと?」
『冥界の存在だ。彼らはじめじめした暗いところが好きなんだね。悪趣味だ』
「なんだ。人間じゃないのか」
彼岸はぼそりとこぼした。彼でもいちおう、耳にも意識をまわせるらしい。
『人間は魔界の存在に気付いてないっていうのが定説だからね。自分からこっちに出向くようなみょうちくりんな人間は、なかなかいない』
「それにしても、どうして冥界が魔界にちょっかいを出すんだ? 天界はともかく、冥界とは望月関係だろう」
「蜜月関係、ね」夢野は素早く訂正した。
『蜜月関係、とはちょっと違う。どちらかというと、魔界が甘い蜜を吸っているんじゃないかな。“門番”という処遇が物語ってる』
「具体的には、冥界の『何』が来たの?」
『残念、それはまだ調査結果が出ていない。それを調べているのが、下の彼らだよ』
たしかに、まだ場は混乱しているようだ。抉れた地面の穴は、生神を数百くらい飲みこみそうなくらいに不穏に大きい。結界という異世界の摩擦を突き破るには、とてつもないエネルギーが必要だ。爆心地の大きさが、そこに費やされたエネルギーの途方もなさを物語っている。
このうろから、どれほど巨大なモノがやってきたのだろうか。あるいは、どれほどの数のモノが世界のあわいをつき破ってきてしまったのだろう。夢野は暗い顔で黙り込んだ。
「でも、襲撃を受けたやつがいるだろ。モレアスが重症だって聞いたぜ」
『耳ざといね。でも、モレアスも、その主人も敵の姿を確認できなかった。あれでも訓練局お抱えの使い魔だ、もし気付いていたら応戦くらいはできただろう。今、彼らを医療局で修復しているところだから、情報はだんだん増えていくさ』
そうだ。天井桟敷にいる気で忘れていたけれど、実際に魔界は攻撃を受けている。怪我をした者だっている。これからも増え続けるだろう。物見やぐらの中の自分だって、安全だとは限らない。
「侵入者は、いま、どこにいる?」
『それも、残念。功績目当ての商会も、血眼で探し回ってる。根拠もなく動いたって無駄だと思うけど。誰が来たかわからない状態でやみくもにさがしたって意味がない。おむこうさんは冥界の存在、闇に隠れるプロだから不毛なかくれんぼさ。調査結果が出次第、ボクら“千里眼”が動くことになるだろうね』
千里眼。それを聞いて、夢野はたらりと冷や汗をかく。
「パヴェル、あなたは神官だったのか……」
(そういうことは、先に言ってよ……。めちゃくちゃなめてたよ……。)
『まあね。神官のパヴェル、って覚えてくれてもいい』
たしかに「自己紹介が千通りある」とは言っていたが、ただのレトリックではないのか。恐れ入る。それにしても、上級生のアパートの一部屋で神官に出くわすとは。神官とは、神殿に鎮座しているものだと思っていた。
「じゃあ、あなたも大会議に出席したの」
なにがツボに入ったのか、パヴェルはおかしそうにふきだした。
『ボクが? まさか。あれは、あくびを噛み殺しながら耐える苦行だ。ボクは招集されてないしから他人事だけど、あすこに座席がある方はお気の毒だ。その哀れな大会議の出席者は怒ってたよ。“俗っぽい連中の集まりである大会議ごときが神官を招集したり、神殿に指図するなんて畏れ知らずだ”ってさ。でも、どっちもどっちだと思わないかい?』
議会の出席を軽んじたこの言いようを、アイビーが聞いたらキレそうだ。けれど、「哀れな出席者」のいうことも一理ある。実際的な権威は研究所がもち、決定権は大会議にあるとはいっても、政治不干渉の高みにいるのが神殿なのだから。
この手の話題はデリケートで、自分の意見を言うのが難しい。猫神先生には、自分でものを考えろと言われたばかりだ。少なくともパヴェルはこの件に頓着していないようだけど、アイビーの話をそばで聞いていた夢野は、まだ考えがまとまらない。ここはノー・タッチだ。
「まとめると、あんまり事態は進んでいない。むしろ、悪いんだね」
『いまのところはね。これで、なあんの専門性もないコドモが祭りにが参加するのは邪魔だってこと、身に染みただろ』
「よく、わかったよ。オーケー、家で大人しくニュースでも待とう」
『いい子だね。身の程をわきまえる子は、永らえる。……おお、いいタイミング。術が解けるよ。帰っておいで』
その時だ。林の切れ目が光った。移動魔術の残光だ。その地点に真っ白の存在が二つ現れた。間違いない、あれは猫神先生と白髪小僧だ。彼岸も気付いたようだ。驚きの声をあげている。
彼らが到着すると、作業中の者たちはいっせいに動きを止めて彼らを振り返った。移動魔術の衝撃から態勢を立て直すや否や、猫神は中心核に向かって走り出す。彼が走るなんて。漫然としたイヤな予感が、はっきりとした輪郭をもちはじめる。
「――待って、パヴェル!」
急いで彼に待ったをかけたが、どうしようもない。パヴェルの意思とは関係なく、爪が燃え尽きる間しか見られないのだから。遅かった。煙はさらに濃くなり、視界を覆い尽くした。もう少し現場を見ていたかったけれど、めまいに負けて目を閉じた。応接室に戻っていく。