17 Mythologies
応接室にはすでに誰かがいる。扉から見て真正面の席で「彼」は待ち構えていた。ユカリは消え入るように尻込みし、案内をするだけしてこの部屋には入ってこなかった。
「ユカリのやつめ……。紹介ぐらい、していけよな……」
彼岸がむずむずと背中を掻きながら、小声で言った。話しにくそうな相手だ。椅子の上で片膝を立て、その上でそっと両のてのひらを組んでいる。骨ばって細い指には不似合いなごてごてとした宝石飾りが連なる。左耳では、ヒイラギの葉のようなかたちをした耳飾りが揺れていた。
夢野が一歩前へ出て、口火を切った。
「ユカリに、あなたに会うように言われたんだけど」
そう、と答える代わりに、彼は、机上で丸くなっている黒猫を撫でる。育成局に通うような学生ではないな、と感じた。大人っぽい雰囲気があるし、なにより、もし育成局で一度でも彼を見かけたのなら、忘れないだろう。くせのある艶やかな灰色の髪は、髪飾りと相性がいい。上半身は、柄がちりばめられたラクダ色の布を軽くまとっている。それよりも濃くて力づよい肌の色が、布の隙間からのぞいている。たっぷりとした布のパンツはとても着心地がよさそうで、彼自身もリラックスしているように見える。
「君たちのことはよく知ってるよ。たぶん、誰でも。ここに何度か来てくれたことがあるしね。……こっそりの時もあったみたいだけど」
青年はいたずらっぽい笑みを浮かべてウインクした。つい先日も忍び込んだばかりだったので、ばつが悪い。
彼は、赤と黒だね。と順に指差した。爪は明け空のような群青に染められていて、びっくりするほど長い。誰かの喉を掻き切るために伸ばしているのかと思うほど。彼岸は不快そうに爪を眺めて、それから彼の目を睨む。
「僕に会うのは初めてか」
少年たちに向いていた手首がくるんとひっくり返り、自分自身を示す。何連もの腕輪が、しゃらりときれいな金属音を奏でた。
「パヴェルだ。そうだなー……自己紹介は千通りくらいあるんだけど。うん、とりあえず、ここで会ったんだ、『夜道の館』を建てたやつ、って覚えてくれればいいや。不労利益バンザイ、だ」
冗談らしかったが、少年たちの反応は芳しくない。不発をものともせず、彼は続ける。
「……で、こっちは一番手の使い魔、サハラ」
「一番手? ということは、他の黒猫とも契約してるのか」
何匹もの黒猫と同時進行で契約するような生神は、例にもれなく強力な魔力をそなえている。それぞれの黒猫に特別な役割を与えていないのなら、一番手以下の黒猫は、たいてい生命力の供給源でしかない。それゆえに主人は若く、死の迎えも遠い。ひょっとすれば彼は、自分たちの比ではなく生き続けているかもしれない。
「ところで、入居希望? 残念だけど『夜道の館』にかんしては、受け入れにしばりがある」
「家ならあるんだけど」
「そう。ならいいけど」
「なんだよ。なんでもお見通し、ってわけじゃないのか」
見かけ倒し、と言わんばかりに興ざめした彼岸がつぶやくと、パヴェルは苦笑して首をかしげた。今度は耳飾りが、きいん、と高く澄んだ音を出した。動くたびに、なにかしら音が出る奴だ。
「残念ながらね。ユカリが急に呼び出すものだから、ネタを仕込み損ねたんだよ」
「もったいぶった挨拶だな。おれたちは情報を買いにきただけなんだけど」
「なんだ、それを早く言ってよ。お喋りの癖がでちゃうところだった」
もうでてるぜ、という彼岸のあきれた声は彼の高らかな笑い声にかき消された。
夢野は情報料として摘んできたリンゴを、やたら華美な机の上に置いた。
「うん。話が早い子は、良く生きる。リンゴは繁栄の象徴、ビジネスに最適」
パヴェルは指をくいっと内側に曲げた。すると、リンゴはころころと転がっていき、彼の手元におさまった。長い爪でリンゴを突き刺すと、天球儀のようにくるくる回し始めた。どういう仕組みかはさっぱりわからない。事実、魔術は生神の数だけあると思った方がいい。
「リンゴは、生きたものとの交換でしか手に入らないと言うそうだね。なるほど、情報はナマモノか。ボクは情報屋じゃないから、『見せられる』ものと『見せられない』ものがあるけどね」
「あんたが教えてくれるのか?」
「赤髪の君は飲み込みが遅い」
彼はぴっと彼岸を指差した。瞳には、からかう色が浮かんでいる。
「決断力はあるけど、自分で決めたものしか信じない。誇り高い子は、道を拓く。それからボクの名前はパヴェル。よろしく。……あれ、もう言ったかな? 言ったね。なんだ、じゃあ、『あんた』はやめて名前で呼んでよ」
いまの言葉の半分は、使い魔と会話していた。ヘンな奴だ。まともな奴なんてほとんどいないことは知っているけれど。彼は椅子の手もたれに寄りかかって、膝も反対側の手もたれに乗せた。余計な脂肪がついていない、すっきりとした横顔がこちらを向く。彼は痩せすぎかもしれない。口を大きく開いて、リンゴをかじる。小気味いい咀嚼の音と、爽やかな植物の香りが部屋いっぱいに広がる。コレおいしいね、という能天気な賞賛。
「……で、知りたいことはなんだっけ?」
「今の大会議の議題にあがってたことだよ。敵襲があったって言うじゃないか。詳しい話が聞きたいんだ」
言ってから、うっかりに気付く。こんないい加減な道楽者が大会議の参加者であるはずがない。又聞きの情報を掴まされてはたまったものではない。
「最新の情勢だね。でも、聞いてどうする。黙っておとなしく待っていれば、数日後にはニュースになって飛び回ってると思うけど」
そういえば、具体的に何をするかまでは考えてなかった。答えに詰まる。ただ野次馬しようぜ、という勢いでここまできてしまった。神話時代の英雄よろしく、敵と戦いたいなんてこれっぽっちも思っていない。しゃく、しゃく、しゃく。無意味な沈黙が続く。
「おれは、前線にいきたい。敵を見てみたいんだ」
「見てどうする。君たちはまだコドモ。なにもできやしないよ」
「教える気があるのかないのか、はっきりしろよ」
彼岸は机を蹴る。それがあまりに強かったので、まるごと彼の無防備な肘に激突する。彼の体にぶら下がっているあらゆる装飾具が動いたせいか、シンバルを鳴らしたような音がした。彼岸は一瞬、申し訳なさそうな顔をする。
背を丸めて痛がる彼の爪から、食べかけのリンゴが転がり落ちる。それを使い魔のサハラがつまみ食い。どうやら彼も使い魔になめられている手合いかもしれない。彼岸とは逆に、夢野は彼に好意を持った。
半分涙目になりながら、彼は怒りもせずに「悪かった」と姿勢を直す。
「お望み通り、自分の目で確かめてみるがいいさ。ボクはただ『見せる』だけ。勇気があれば、実際に足を運んでみるのもよし。現場付近までは、この館の連中が移動魔術を設置してくれているだろう。血の気の多い連中でね。頼もしい子は、背中を守られる」
「それはあとから考える。今はただ、好奇心を満たしたい」
「うん、かわいい動機だ」
パヴェルは不敵に微笑んだ。何のためらいもなく、ぱちん、と綺麗に伸びた爪を折る。そのぞっとする品を片手に、椅子の下から灰がたっぷり入った香立てを持ち上げた。植物を抽象化して幾何学的に組み合わせたような装飾が、派手な色味で塗り分けられている。
灰の山のど真ん中に爪を指すと、ふっと息を吹きかける。爪の先端に銀色の火がともった。そのか細い炎からは想像もつかないほど大量の煙が、もうもうとあがる。部屋がみるみるうちにけむに巻かれ、仕掛け人の姿がかすんでくる。
彼は頬杖を突き、ゆったりとした声で喋っている。
「己の血肉を礎にした魔術は何より強い。それが、たかが木の実一個の対価で済むと思わないでね、『特別な』コドモたち。でも会えてうれしかったんだ。今回はサービスしとくよ」
意識までぼんやりしてきた。彼を信じてよかったのだろうか、と思う気持ちさえあやふやだ。彼岸、隣にいるはずの彼岸はどこだ。探す手元さえおぼつかない。自分がどこにいるのかわからなくなってきた。時間が伸びて、空間が伸びて、自分が溶ける。金属のしゃらしゃらと鳴るきれいな音と一緒に、いってらっしゃいと送り出す声が聞こえる。リンゴの薫りだけは、いつまでも、鼻の奥をくすぐっていた。
◇◆◇
僕は訓練局への道をひた走っていた。黄髪小僧はまだそこにいるだろうか。
黒猫姿はとても便利だ。人の姿で走るよりも小回りが利くし、体力の消耗の度合いがまるで違う。そのくせ、人の姿でいることには違和感を覚えなくなってきた。もともと人間だったんじゃないかと、ばかなことを思うようになってきたのは、そのせいだ。
いや、たぶん、黒猫はもともと人間なんだ。
自分が何者かわかっていなかったし、わかろうとする頭さえ持ち合わせてはいなかった。気付いたら猫だった。いいや、「猫だった」なんて、他の生き物と比較したような考え方はしていなかったはずだ。今でこそ、いろんなことを考えているだけで。
ただ、同じ種のなかでも、ほかの連中とはすこしちがっていた。人間の話す言葉はなぜか言葉として入ってきたし、自分が彼らに話しかける方法も、なぜかわかっていた。実行はしなかったけれど。
『研究所』の連中が僕を迎えに来たとき、ようやくふさわしい場所に向かえるんだと思ったのに。受け入れてしまったことを、今になって悔やんでいる。といっても、自分に選べる立場なんてなかったろうけど。
研究所の連中の説明を聞けば、自分がどんなに弱い立場にあるかくらいは理解できた。
「黒猫とは、魂の入れ物なのです」
魂というものは、なんだかこう、これがあるから生きている状態といえる、そんなものらしい。魂が生命力を生み出し、生命力がカタチを維持する、と聞いた。
黒猫が特別な存在だというのなら、そういうことにしてもいい。たぶん、ほんとうなのだ。
それから彼らはこう教える。
「あなたは、黒猫のなかでも特別な黒猫。魔界原始の12人のうちの一人、『黒』の魂の器なのです」
魔界というものがある、というのも許そう。ぼくが今走っている、この世界のことだ。小さかった自分は、世界の限界なんて、もともと知らないのだから
そのクソ魔界に伝わる神話の説明もたいくつだった。
でも、それこそが僕をこの檻に縛り付ける理由にほかならない。
僕の魂は、「僕が思う僕」のものではないということ。自分は自分でなく、過去に存在していた“黒を司るもの”の魂なのであるということ。だんだん猫であることを忘れて、人間であると思うようになってきたことが、それを端的に示している。
そんな、確固たる自我を持ち始めた僕に強要されるルールは、主人に従うモノであるいうこと。
許せないことは、一つ。僕の主人が、あの憎たらしい顔つきの少年だということだけ。
「おい」と自分を呼ぶ彼の声が、頭の中で再生される。逆毛が立つほど不愉快だ。
なんでかわからない、最初から、あの少年が大嫌いだった。腹の底がむずむずするほど不快だった。できればひどく傷つけてやりたい。なんで嫌われてるのかわからない、って顔してるところが大嫌い。魔力を受け取るときの感覚は、叫びだしたいくらい気持ちが悪い。あいつへの生命力の譲渡で、繋がっている感覚がいちばんに嫌い。
ぼくが彼を嫌いだから、彼も僕を積極的に嫌ってやろうとするところだけは、いい。
もし、契約の相手が彼じゃなかったら、きっと苦しくなかった。
どう頑張っても、あの夢野と呼ばれる少年に従わなければいけないことは苦痛だ。納得できないからか、彼の前では、極力人の姿でいたい。目線くらい、対等でありたい。
どうして「魔界原始の12人」の魂を受け継いでいるからって、「魔界原始の12人の肉体を受け継いだだけの奴」を主人として従わなければならないのだろうか。
この理不尽に突き当たって、なぜ「猫」が入れ物なのか、わかった気がした。なぜ「猫」が魂を持たない連中に従わねばならないのかわかった気がした。
はじめに、何もわからないからだ。
無知なぼくが悪かったとは思えない。世界のルールのほうが、どうかしてる。
魔界の神とやらはクソくらえだ。自分たちのルールでうまいように使いたいから、まるきり文法の違う生き物を巻き込んだ。黒猫を巻き込んだのは、お前たちだ。
「このままで済むもんか」
“彼ら”はなにもので、どこからきて、どこへいくのだろう。彼らが生きている(ように見える)状態が終わるのは、どんなときなのだろうか。
ふと、その考えにとらわれて足を止める。
「今は、僕との契約によって、僕の魂が、僕の生命力があいつを生かしてるんだろう? じゃあ、あいつは今までどうやって生きてきたんだろう。僕以外の誰かの生命力に寄生してきたんだろうな」
口にしたこととは、正反対の暗い考えが頭の中を駆け巡っていた。
夢野を生かしているのは、僕だ。僕こそが、彼の命の決定権を持っているんだ。
どうしたら、ぼくは自由になれるだろうか。いいや。そんな受け身なことを望んでいるんじゃない。
どうしたら、あいつは消えるだろうか。そう、積極的に、これを望んでいる。
黄髪小僧のもとへ向かっていた足を、くるりと逆に向けた。
知りたい。猛烈に、知りたい。
どこに行けば知ることができるだろうか。契約を解除する方法は。……生神の死の条件は。