13 la sorciere
寝ぼすけの夢野は、起きてからしばらくは頭がしゃんとしない。まっすぐ歩くことさえ困難なほどだ。この起床前後の不快感はたいがいなので、医療局で検査でもしてもらおうかと真剣に思ってしまう。大あくびをしながら大教室の戸をあけた。とたんに彼岸の阿呆ほど大きな声が頭を揺さぶった。
「夢野、こっちだ」
耳まで正しく働かないだなんてうんざりだ。どこから呼ばれたのか、さっぱりわからなかった。いつものように教室の最後尾を見上げたが、そこにはいない。そんな、ぼうっとしたままの彼に苛立ったように、彼岸は「こっちだこっち」と再び声を張った。なんと、彼岸は最前列の席で瞳を輝かせていた。ぶんぶんと手を振ふって呼んでいる。
「しっかりしてくれよ、夢野。おれが起こしに行かなくなったとたん、それだ」
いつものことだと応えようとして、やめた。言い返すのも面倒だ。彼は席につくなり机に突っ伏した。その姿勢のまま、頭だけを動かして彼岸の横顔を見上げた。一方で口の端は下がる。
「気味が悪いな、きみのマブシイ顔は」
彼岸がこんなにも張り切るからには、人間界にまつわる講義に決まっている。夢野は胸元から時間割表を取り出し指で弾けば、薄茶色の小さなロールになる。封を開くと、無地であった面に横長い表が染み出すように浮かび上がる。夢野の指は表の一番上の列を横になぞっていく。一番上の列は文字が何もなく、ただ色でマスが埋まっている。白、赤、桃、橙、茶、黄、緑……青いマスの上で指がとまった。今日は青曜日。
魔界の時間の区切りは「12」が基本だ。(ただし数のしくみは、体の構造を優先して十進法。)人間界で言う「一週間」は、ここではたっぷり12日かけて完成する。そのなかでも白曜日は一週間の始りで、黒曜日は“統一休日”だ。同じように、曜日ごとにモットーがあるし、とるべき生活態度がある。青曜日は、曰く、「精神修練に努めよ」とのことだ。誰も意識しちゃいないけれども。
指は青のマスから垂直に一つ下がる。ゆっくりと、あぶり出されるように文字が浮かびあがってくる。
「そうそう、『人間魔術孝Ⅰ』だった」
「人間魔術孝」は、それぞれ担当教官を変えながらⅠ~Ⅴまでがある。夢野のばあい、「ひとまずⅠだけでも受けてみよう」ていどの気軽な受講だ。なにしろ必修科目ではないし、おまけに特別講義ときた。
指定の教科書もないし、生徒に人気な実習系の科目でもない。にもかかわらず、教室はなかなの大入りだ。いちいち振り返ってたしかめなくとも、無駄話の多さでそうとわかる。
事前に掲示される授業内容告知書によれば、「人間魔術に関しての特別講義。Ⅰ~Ⅴそれぞれ内容は異なる。詳細はそれぞれの担当教官に直接問い合わせて確認されたし。学習目標は、魔界と人間界の魔術の差異を理解すること」……だそうだ。何も明らかになっていない。
夢野は生来の面倒ぐさがりのおかげで、授業内容を問い合わせることなどしなかった。彼岸に至っては、授業の中身が何であれ、講義名に「人間」の文字が入れば見境なく受講する始末だった。そのくせ、もっている知識量としては夢野の方が多いのだからおかしな話だ。
そんなわけで、この授業のおおよその姿すら知らずにここにいるわけなのだが、それは彼ら以外の生徒も同じだった。まことしやかに囁かれるところによれば「コンタクトが取れない謎の教官だ」そうで、「秘密講義らしい」とのこと。一切が謎に包まれているせいもあって、こんなに盛況なのだろう。一回だけでも聞いてみようと思っている生徒も少なくなさそうだ。だからこそ、今だけだ。今回のうっとうしい混雑も、次回にはずいぶんとおさまることになると踏んだ。
授業開始のベルがなり終わる直前になって、突然、前方の戸が勢いよく開いた。生徒のさえずりは一瞬で止んで、注目はそこへ向かう。教室中が固唾を呑んで見守る中、ロングコート姿の男が現れた。一分の隙のない防壁のようにキッチリと、それを着こなしている。赤と橙の間の色の髪は、ピシリと額の後ろに流されている。厳格そうな教官だ。彼は教卓に手を突き、四角くいかめしい顔をぐいと上げる。
最前列に座る彼岸と夢野は、彼の体に刻まれた歴史を目の当たりにする。手にも顔にも、多くの古傷があるのだ。消えない傷なんてあるものだろうか、夢野はいぶかしく思う。彼らは無遠慮に彼のことを眺め回した。教官も教官で、その目に刻みつけろと言わんばかりに、たっぷり数秒は動かずじっとしていた。
「『人間魔術孝』のⅠを始める。担当教官のジジェクだ」
ようやく口を開いたときに出てきた声は酷くかすれていて、おまけに地響きのように低かった。
「……ふん。能天気な面が並んでやがる」
と、鷹のように鋭い眼光で教室中を見渡し、乾いた笑い声を上げた。この手の高圧的な教官には、まったくいやになる。
「先に言っておく。妖精話をするつもりはない。諸君らがまず知るべきなのは、『人間は魔術を使えない』ということだ。懇切丁寧な教科書はない。あくまで私自身の、経験の果実を諸君らに話すだけだ」
教室は一瞬ざわついたが、教師が再び話し始めると、それは瞬く間に鎮火した。
「期待はずれだと思った奴は、今、出て行け。単位稼ぎのばかが“陳列”されていては不愉快だ」
ばか、をことさら大きく発声した。もちろん、生徒のなかでは明らかに「選択を間違えた」と後悔した者はいただろう。でも、誰も出て行かなかった。教官が恐ろしくて誰も身動きできないらしい。背を向けたとたん、捕食する猛禽のように襲い掛かってくるのではないか。
教官は一匹一匹、動く様子のない生徒たちの顔をインプットするように見回した。隣の彼岸が、じれったそうに尻の位置を直している。たったそれだけの身じろぎが、なんだか癇に障る。こんな気分になるとは、なんて厭な空気だ。
「よろしい。では、始める」彼は教卓の前に出てきた。「まず約束していただこう。諸君らは私の発話に積極的に反応し、議論すること。思い込み、偏見、誤解、受け売り、大いに結構! 私に異議を申し立てることも歓迎する。くだらん授業メモを取ることが最大の愚行だと思え。授業参加の意思ある者を求めるのは、そういうわけだ」
あわただしく文房具が片付けられる音がし始めたのを、ばかばかしい思いで聴く。
教官はそのさざめきをひとしきり鑑賞したあと、授業ボードに向かって何ごとかぶつぶつとつぶやき、手の平を押し付けた。ボードは水のように波うち、暗緑色へと変わった。懐から見慣れない白い棒切れを抜き出し、色の変わったボードの上に走らせる。彼の手の動きに合わせて、白い文字が記される。
「見ろ。あれは黒板と白墨だよ」
彼岸は興奮を隠し切れない小声で囁いた。にまっと笑って見せると、すぐさま前を向く。
「先に言ったように、『人間は魔術を使えない』。ここから考えられることを好きに言え。この命題から話を発展させていこう」
ふうん、と鼻から息が抜けていく。さっそく、教官が生徒たちに探りを入れてきたのだ。どのていどの知識を持っていて、どのていどの興味があるのかを計っているに違いない。自由発話に見せかけて、駆け引きと品定めの始まりときた。試されているのは生徒の方でも承知している。講義第一回目に行われる、毎度お決まりの小手調べだ。春の花畑のように、そこかしこににょきにょきと手が伸びる。
「人間は魔術を使えない。なぜなら、人間は魔力を使えないからです。人間は僕らとは違い、魔力を事象に変える力と構造をもっていません」
「その通り。この問題を考える上での大前提だ。生神が子孫を残す力と構造がないようにな。……ほかには!」今度は別の生徒に白羽の矢が立つ。
「きっと、彼らの魔術と我々の魔術は別物なのです。彼らには彼らの魔術があり、我々には我々の魔術がある。その違いは、用いられる力にあると考えます」
「そうだ。人間における一般的な魔術は、古今東西、主に生命力を礎にした力だ。つまり、我々の用いる魔術とは正反対の成り立ちだ。たとえ魔導書を用いようが、それを成すのは魔力ではない。では、一般的でないものの代表例は分かるか」
次に指名されたのは、夢野だった。彼は、先日読み終えた物語を反芻しながら答えた。
「人間の魔術はときとして、“悪魔”を呼び出して契約し、それを使役することを指しています」
たしかあの悪魔は、メフィストーフェレスといった。
彼ら生神が自分たちのことを人間風に“悪魔”というとき、ほんの少し気恥ずかしい。”悪魔”という呼び名も、それにまつわる伝承も、あまりにもロマンチックと悪徳が過ぎるからだ。そんなわけで夢野は、頬を赤くしながら答えた。
「左様。口にするのも阿呆らしいが、諸君ら生神は、人間界においては悪魔と呼ばれる存在だ。……それはどうでももいい。奴らが諸君らを呼び出す行為・儀式は魔術の正式には勘定できまい。さらに言えば、呼び出された生神の行う魔術はあくまでそれらの力であって、人間の力ではない。この点からも、人間は魔術を使えないと言える」
厳格そうだった彼の口元が、今度は正しく笑みに変わった。威信をかけて答えようとする生徒とのやりとりが、楽しいのかもしれない。
「案外、間抜けばかりでもないようだ。これ以上問答を続けても同じだろう、ここで命題を転覆させてもらう」
つまり、と誰かがつぶやいた。
「私は、人間だ」
生徒たちはまず静まり返り、その静寂の中で突然、忍び笑いがもれた。笑いは感染して、やがて教室中を覆った。厳格そうな教官が、そんな薄っぺらな冗談を言うとはゆめ思わなかったのだ。だって、人間であるはずがない。人間は魔界にもいくらでもいるが、だいたいは商業地区で売られていたり酷使されているのが関の山だ。育成局の教官をして、しかも魔術を使う人間なんて聞いたことも見たこともない。だからこそ生徒たちは冗談だと思ったし、そのセンスのなさに半ば見下しの意味もこめて笑った。教官は絶対に、生徒になめられてはならない。そのミスを、たった今、この教官は犯したのだ。そう思ってみんなは笑う。
「私としたことが、とんだ見込み違いだ。君たちの観察眼を過大評価していたのだろうか」
ところが、教官のほうこそ鼻で笑い、彼らの盛り上がりを冷ややかに眺めている。生徒間の浮かれた笑いは徐々に消えて、再び話が再開されるのを待つ形になる。主導権は再び教官の手に渡る。このイニシアチブの奪い合いこそが、第一回目の講義の醍醐味でもあるのだ。
「……先ほど、私が魔術を使うところを目撃したはずだ。このなかにまともな目をもつ者がいたのなら、その際の違和に気付いて――」
「わかった!」
彼岸は椅子をひっくり返して席を立った。彼岸は目をきらきらさせて、教官を指差す。
「詠唱だ。さっきあんたは呪文を唱えたんだ、ジジェク教官!」
教室には、「言われてみれば」という空気が流れた。それだけ些細な仕草だったのだ。教官は満足げに手を打った。
「ご名答。あの程度の魔術、教官ともなるほどの生神ならば、触れるだけ・思うだけで実行できたろう。ところが、残念ながら私は人間だ。そんな芸当、死んでもできぬ」
「それで、呪文という、ひと手間が必要だったのですね」
「そうだ。魔力を現象に転化させるための起動装置、そのひとつが詠唱だ」
生神は呪文を唱えたりはしない。教官はそう言った。
「それだけでは足りぬ。人間が魔力を源にした魔術を使おうとすれば、まず魔力に耐えうる肉体を構成しなければならない」
それじゃ、ジジェク教官はほとんど生神じゃないか。夢野は頬杖をつくのをやめて、机の上で腕を組んだ。なにかがひっかかる。最近、これとそっくりの話を聞いたような気がする。意識はだんだん、教室から遠ざかっていく。教官は黒板にチョークで魔法陣を描いている。何か説明をしているけど、聞いていなかった。
(最近、ぼくは何をしたんだっけ。何を聞いたんだっけ)
――レイナの話だ。
状況は全く逆だけども。レイナは何のために人間界へ行くのかといえば、人間と交わり、混血の第二世代を作るためだ。「生神が子孫を残す力と構造がないようにな」と先ほど教官は言ったけど、もし、その力と構造をもつことができたら? その方法があるとしたら?
混沌だ。白は黒になるし、黒は白になる。オスのフォルムはメスになるし、メスのフォルムはオスになる。生神は人間になり、人間は生神になる。
人間になりたがっている彼岸だって、ほんとうに人間になれるのか。夢野はこっそり、隣の彼岸を盗み見た。くせの混じった不穏な赤い髪は、燃えるようだ。
その時突然、いまだかつて経験したことがないほどの厭な予感が身を貫いた。瞬きの間に、彼岸を覆い隠すように炎が舞った。思わずたじろいでしまったが、それは本物の炎ではなかった。
(これは……ビジョンだ。)
炎のビジョンは、彼岸を舐めるようにまとわりついたあと、満足したかのように消えた。ビジョンは予兆で、未来の占い。そしてうつろうものでもある。
でも、うつろうものをひとところにとどめる術など知らなかったし、それが語ることを聞く耳も、持ってなどいなかった。