12 Romances sans paroles
カウンターに座るレイナが、はしゃいだ様子で手招きしている。それを見て彼岸が、ちっと舌打ちをする。
「ちょっと、あんたたち。こんなところで何してんのよ」
「何でもいいだろう。絡むなよ、酔っ払い」
噛み付くように答える。可愛くないわねえ、とレイナが苦笑している。
「あんたたち通貨持ってきたの? 無銭飲食したんじゃないでしょうねぇ」
ルイーズは、少年らを立たせて彼女の側に連れて行く。カウンターにはささやかなスツールがあった。少年らには少し高かったが、よっこらせと尻を乗せる。手負いの彼岸にはちょっとした困難だ。
「無銭飲食って……。人聞きの悪い。女給をやってた使い魔がまかなってくれたんだよ」
「あら、人様の使い魔をたらしこんだの。夢野ったら、やるわね」
「そういう話じゃないだろ。レイナはいつだってからかってばっかりだ」
彼岸は面白くなさそうに肩肘をつきながら、はっきり開かない口で喋る。
「まだ常識も叩き込まれてないような育成局のガキんちょなんかと、真面目にお話なんてできるもんですか。特にサボってばっかりのあんたたちは、並以下ね。とにかく、ここに来るのはこれきりにしなさいな」
「でも、ユカリとか、上級生はここに出入りしてるよ」
レイナはニヤっと笑ってまた揶揄したそうに口を開き、素直そうな顔の夢野を見下ろした。しかし、奥の席でぶすっとしたまま正面を向く彼岸が目に入る。彼女に見える側の頬は、赤く腫れている。
彼女は肩をすくめて、真面目な顔を取り繕った。
「……きみたちの先輩なら、ちゃあんと遊び方を知ってるってジャアも言ってたでしょう。育成局の制服なんか着てこないし、通貨も持ってくるもの。それから、使い魔を連れているわ。また来たいなら、先輩に連れてきてもらいなさい」
「レイナが引率してくれればいいじゃないか」
しばらくはここに顔を出す気にはなれそうもないけど。レイナはアハハと笑った。夢野の好きな、からからとしたものだ。
「厭よ、あんたたちみたいなガキを連れて街を歩くだなんて。『子連れはお断りだよ』なんて言われちゃうワ」
どこかの下品な男の声色を真似て、彼女は笑い声になる。それを聞いた夢野は、レイナはこの街の常連らしいと気がつく。レイナはこの街では顔が知れているらしい。
「ねえ、ドーラ。この子達にチョコレートを。お砂糖はたっぷり入れてあげて」
「チョコレート? チョコレートが飲みたいなら、サマンタの店にでも行くんだね」
文句のようなことを言いつつも、店主のドーラは手を動かし始めた。どうやら、ちゃんと調理の過程は魔術が使われているらしい。
「砂糖たっぷり、か。味覚までがガキ扱いかよ」
「あら。ご不満なの? でもね、砂糖抜きのチョコレートはとんでもなく刺激的よ。ちょっと昔、魔術を操ろうとした一部の人間たちはチョコレートを飲んだのよ。トランスと媚薬の魔術的なチョコレート」
と、言い終わったときにはもう、あつあつで湯気の立つチョコレートのカップが目の前にある。とろりとした黒い液体は、珈琲に似ていた。夢野はこくりと、その一口を口に含んだ。ミルクと砂糖、そしてバニラ。たぶん、何かはわからないけど、お酒も入っている。その味は、刺激的な苦さというよりは、弛緩した甘さだ。ようやく一息つけた気がする。その隣で、ズズズとありがたみもなくチョコレートを吸い込む彼岸。
「ところで、レイナは何でこんなところにいるの。ふつうの生神でもあんまりこの辺には来ないって聞いたけど」
いちばん聞きたかったのは、そのことだ。まさかこんな街のこんな店で、知り合いに会うとは思わなかった。しかも、それがレイナだとは。それはね、と彼女は顔をグッと近寄せる。
「『お着物』が手に入るのは第七商業地区だけなのよ。あんな辺鄙な地域の民族衣装なんて、普通の商業地区には入荷されないもの。……どんなに優秀な魔術でも、こんな緻密な模様や色合いは絶対に生み出せないわ。だからみんな、こぞって商業地区で人間界のお洋服やらを買うのよ」
レイナはうっとりとして、着物の丸みや、リボン(帯、というらしい)の糸を細い指でなぞっている。似たような格好のルイーズは、主人の嗜好につき合わされているといったところだろうか。夢野は彼女たちの装いが嫌いではなかった。
「でもネ、これからは、好きなだけお着物が手に入るの。私ね、これから人間界で暮らすの。しかも、着物の国に!」
ぶっと彼岸がチョコレートをふきだした。それをまともに浴びたドーラが喚いて怒ったが、それどころではない。レイナの隣の夢野をどかして、彼岸は身を乗り出した。
「それって、どういうこと」
「誰にも言っちゃぁ、駄目よ。私ね、“伝統ある”極秘政策に志願していたのよ」
それは変わった話だった。レイナは、人間と交わって第二世代を作るよう命じられていたという。そもそも、こうした人間と生神の交配は昔から魔界の関心だったとか。芳しい成果が出てはいないが、前々から、生神を人間界に送り出すことはしていたらしい。生神の体質は人間界に合わないらしく、うまくいかないことが多いのだとか。
レイナは先行研究の話をしばらくしたあと、くいとチョコレートを口に含んだ。
「あくまで政策と研究だから、総てをキチンと報告しなきゃいけないのよ。どんなことがあっても冷静でなきゃいけない。だから、私はあすこで雇われていたのよ」
「あすこ……って言うと、つまり、時空間魔術研究部付属商店のこと?」
「そう。人間界全体の環境を知れる最先端は、商会でなくて、あすこでしょう? なんたっていくつかの未来の可能性が知れるんだから。私だけぢゃないわ。あの部署で働いている生神の一部は、おんなじような任を任されている。あんたたち気付いてないかもしれないけど、いなくなった職員はいっぱいいるのよ? その代わり、新しい職員が入ってくるのだけど。……おかしなものよ。世界や時間というものは、一本のリボンじゃないんだから」
彼岸は夢野を押さえつけたまま、らんらんと目を光らせている。彼岸の人間界への憧れは、きっとレイナをもしのぐ。彼はレイナを質問攻めにしては、その答えに一々驚いている。夢野は会話に参加するきっかけをすっかり失ってしまった。
「もう帰ってこないのか?」
レイナはにっこりと頷いた。
「あんたたちが育成局を立派に卒業して、商会でももつようになったら、あっちで顔を合わせたりするかもね。でもね、会いたいんなら早く会いに来て頂戴。あんたたちがのんびり大人になるまで待ってたら、私きっと死んじゃうもの」
「……なんでさ」
彼岸が怪訝な顔をしている間に、ようやくそれだけを聞けた。
「人間と一緒に暮らすのだもの。一緒に衰えて、同じように死ななきゃ嘘だわ。そういう枷がなきゃ、あっちに行く意味がないわ」
レイナはわけがわからないことを言った。老いも死も、生神にだってある。その枷はすでに背負っているはずなのではないのだろうか。
「私があっちの世界に憧れるのって、彼らのすべてが短いからなのよ。若さも、充実も、人生も。彼岸花みたいに」
最後はからかうような調子になって、言葉を終えた。
「おれはそんなしょっぱい枷なんて、まっぴら御免だね。“政策”なんかじゃなくて、自力でそっちにいってやる」
「アラ。勇ましいのね。『オスのフォルムには剛が宿る。メスのフォルムには柔が宿る』ってことわざは本当かもネ」
「本当なわけあるか。アリスなんて“剛”以外の何ものでもない」
レイナが空中にすっと手を差し出したかと思うと、その手に額をぶつけるようにして擦り寄る黒猫が現れた。いつの間にか、ルイーズは猫の姿に戻っていた。彼女はルイーズを抱えてその狭い額に頬を摺り寄せていた。
レイナがこれから人間と同じように老いるということは、ルイーズとの契約は切れるのだろうか。それとも、別の誰かがルイーズとの契約を引き継ぐのだろうか。一般的な場合、主人の死に際して、新たな主人と契約しなおすか、それとも主人とともにピリオドを選ぶかは、黒猫本人の意思にゆだねられている。
もし、ルイーズが後者を選んだら、彼女はこの世界に一切を残さずに消えてしまうのだろうか。
「……いつから決まってた話なんだよ。今までひとっ言も聞いてなかった。これから会えなくなるなんて、夢野が寂しがるぜ?」
夢野本人が目の前にいるのに、彼岸は眉根を寄せて内緒話をするように彼女に囁いた。
「あらぁ、嬉しいこと言ってくれるじゃないの」
「冗談じゃなくて、本気でだよ。だって夢野は、あんたのことが好きなんだ」
「彼岸、」
夢野はしかりつけるような声色で親友の名を呼んだ。べつに隠すことでもないけど、話すことでもない。何の意味もない話だった。レイナはまた、からかうような顔をする。それを見て、なんとなく自分が格好悪く思ってしまう。
「私もあんたたちが好きよ。元気でね」
レイナは夢野の肩越しに手を伸ばして、彼岸の頭をぐしゃぐしゃとかき回しながら席を立った。ルイーズがぴょんと彼女の肩に飛び乗る。どうやら、店を出るらしい。
彼岸にはスキンシップをしておいて、自分にはしてくれないのか、と夢野はほんの少しふてくされた気分になる。「マタネ」と手を振られているのを背中で感じつつも、振り向きはしなかった。手だけは振り返したけど。
彼女は足を止め、困ったように腰に手を当てた。
「やだ。あんた、本当に寂しいの?」
違う、と答える時間も寄越さずに、レイナはいきなり夢野の腕を掴んだ。あまりに強い力だったので、椅子から滑り落ちるところだった。その落ちる体をレイナが抱きとめた。抱きとめるだけでなくて、小さなキスを一つ、唇に落とす。触れるだけのものを。
生神にとって、口付けは日常茶飯事のもの。なにかをやり取りするときの、手っ取り早い交信手段だ。ただしそれは、体液を媒介にするからであってのこと。だからこそ、この表面と表面が触れるだけのそれには、なにか特別な意味があった。
ドサリと夢野は椅子から落ちて、しりもちをついた。彼の体を支えていたレイナは、消えた。彼岸はへたくそな口笛を吹く。
「失恋だな、夢野」
彼岸はカップをさかさにして、最後のチョコレートの一滴を舌に落とそうとしている。
「失恋? ただの好意なのに?」
「だから、その好意がたまたま恋だったんだろ。破れりゃ失恋になる。あたりまえじゃないか」
「どういう基準で恋になるのさ。第一、きみが決めつけることじゃない」
「面倒なやつだな。突っかかるなよ」
生神は恋をするのか? と今更なことを彼岸は口にした。
「ほんと、面倒だ。嫌悪や悪意には簡単に説明ができるのに、好意は難しい」
夢野は首をひねった。すると、彼岸は心底おかしそうに首をそらせて笑った。
「もう気にするなよ。そんなもの、説明する必要がどこにある。そもそも、説明したところで誰が聞くんだよ。観客がいるオペラじゃないんだぜ?」
「自分でこの話題をふっておいて、そりゃないじゃないか。どうせきみも、自分の好意を説明できないんだ。そもそも、好意なんて清らかな感情、持ち合わせちゃいないんだろう」
「持ってるさ。たしかに、清らかじゃないけど」
そらせた首をぐっと元に戻して、しりもちをついたままの夢野を見下ろした。彼の目には光がなくて、妙なほどに赤の色が暗かった。
「血のようにしつこくて、血のように落ちないんだ。執着。それが、おれのもついちばん純粋な好意だよ」
夢野が彼岸に何かを言おうとして口を開きかけたとき、ドーラの大いびきが耳に飛び込んでくる。あっけにとられて、彼らは黙ったまま向かい合ってしまう。唇は、力なく閉じる。
そして少年らは、先ほどまでの話題は流れてしまったかのように気安く笑いあった。