10 L'Assommoir
戸を叩き付けるようにして、彼岸はこの古臭い家屋を飛び出した。彼の前方には、隼のように鋭く飛ぶ朱華。追いかけているのだ。パンツにおさめられていない白いシャツの裾が、ぱたぱたと小さくはためいている。
「朱華! どこへ行くんだ」
あとを追う夢野は、彼岸には似つかわしくない必死な声にふきだしそうになる。でも、ここで笑ったらあとでしぼられそうだ。口の内側をかんで笑みを殺すしかない。
朱華は低空飛行で道を進む。往来の者たちはまず烏に驚いて、その次に、烏を追いかける幼い彼らに道を開けた。烏の調教訓練は誰しも覚えがあるのだろう、なかには微笑んでいる者さえいた。
「待てったら。そっちは駄目だ」
吸い込まれるように、朱華はアーケードの奥に消えていった。アーケードの向こうは天蓋のせいで夜闇のように暗く、あっという間に朱華の姿は闇色に溶けいった。
彼岸は、夢野にちらと目配せをしてみせた。夢野も夢野で、こくりと頷いてサインを返す。彼らはいっそうの加速をつけて、アーケードに走り寄った。
ところが、案の定、だ。例の黒づくめの兵士は身を乗り出し、手持ちの槍を交差させた。進入目前、というところで、大きなバッテンが彼らの入場を拒む。
「夢野、止まれ。強行突破は得策じゃない」
彼らが槍の前で素直に立ち止まると、つがいの兵士はクロスを解いた。夢野と彼岸を通すためではなくて、ほかの通行者のためだ。彼らは、監視するようにこちらを見下ろしている。仮面のせいで、瞳など見えもしないが。
「やっぱり、学生を入れないようにしているのか」
「そうみたいだ。でも、規制されているかもしれないけどさ、禁止もされてないよ」
彼岸は彼らに詰め寄って、語気を荒くした。
「おい、警備員。今の烏を見ただろう。おれの使い魔なんだ。連れて帰らないと」
黒尽くめの兵士は互いに顔を見合わせた。烏を模した面をつき合わせている。
「なあ、自分で自分の身が守れたら入ってもいいんだろ? いざとなったら逃げられるから、入れてくれよ」
苛立った彼岸と一緒になって、近くにいた無関係の野次馬までもが、「そうだ、そうだ」と同意してくる。このあたりの住人は、中央地区の連中ほど生真面目ではないらしい。
「きかん坊のほうが、将来有望だ」
ひげ面のオヤジは、そんな憎まれ口をたたきつつも満面の笑みだった。彼岸の頭をなでながら、アーケードの中に消えていく。子ども扱いが気に食わなかったのか。彼岸は、そのオヤジの去り行く背中にべえと舌を出した。
他方、肝心の兵士は、彼らの言葉を聞き取っている気配はない。相変わらず、沈黙したまま相方と顔を見合わせている。煮え切らない、というよりも、さっぱり読めない彼らにうんざりした彼岸は忌々しそうに舌打ちをする。例のごとく、おぞましい不機嫌に塗り固められていくのが分かる。
「気味が悪いな。これだから、おれはこいつらが嫌いなんだよ。……殴っちまおうか?」
いいね、と応えようとしたのだが、その必要が無くなった。
黒尽くめは、急に少年らの腕を掴んでアーケードの内へと押し出した。逃れる間もなかった。あまりに突然、あまりに強い力で動かされたのでバランスをくずしてしまう。そのまま、第七商業地区内の地面に頬をこすりつけることになる。ドシャア、と間抜けな音と体勢で地面に倒れこんだ。
「おまえら、ふざけるなよ。一声くらいかけろ」
頬に小石を貼り付けたままの彼岸が振り向いて叫んだときには、兵士はもとのように商業地区に背を向けた直立不動に戻っていた。いきり立って振り上げた拳は落ち着く場所もなく、へなへなと力を失った。
「どうやら、なかには入れたみたいだし、もういいじゃないか。……さあ、朱華を捕まえないとね?」
夢野は穏やかに立ち上がって、膝をはたいていた。
もちろん、朱華は逃げ出したわけでも、命令を無視したわけでもない。打ち合わせどおりに、第七商業地区へ突っ込んだのだ。
彼岸は、面白くなさそうな顔で、差し出された夢野の手の平を見つめていた。早く、と夢野が促すと、乱暴に手を取って腰を上げた。歩き出すときに、彼はちらと警備員を振り返った。
「なあ、あの黒尽くめ連中がどうして喋られないか知ってるか」
「ぼくらが知覚できないだけで、彼らは彼らでコミュニケーションしているよ。ぼくらとは手段が違うだけさ」
「それはわかってるよ。だから、なんでその言葉がおれたちに聞こえないんだと思う」
「……さあ、」
夢野は眉をひそめた。彼岸がさきほどこぼしたように、夢野も連中のことが好きではない。挨拶も返さないし、顔は面に覆われていて見えないし、なにより、自分と同じ黒を、気味悪く纏うところが厭だった。
「それはな、連中が死霊だからさ」
怪談話でもするような調子で、彼岸は声色をおどろおどろしくした。いくら魔術を操る生神と言えども、冥界の存在や化けものは得体が知れなくて恐ろしい。……はずだ。
答えを与えられても、夢野の顔の曇りは晴れなかった。むしろ、さらに雲は濃くなった。
「冥界の存在が、どうして魔界にいるのさ」
「それじゃ、人間界に天使や死神がいるのは、おかしくないのか?」
微妙に論点を転がして、彼岸は得意そうに聞き返す。「それはね、」と律儀に説明しそうになって、やめた。彼岸でもその程度の知識を知らないはずがない。ようは、世界の境界などあいまいだし、越境なんて簡単だ、と言いたいのだ。
「冥界の連中には、連中にしか通じない言葉があるらしいぜ」
「死霊に鎧とマントを着せて、面をかぶせて槍を持たせて。警備の真似事をさせているって言うのか。奇妙な話だね」
「奇妙? そうでもないさ。……不気味ではあるけど。やつらは生命力を消費しないから、魔界には好都合なんだ」
「ねえ、死霊の話はやめようよ、」
目の前には、天蓋で区切られた壮大な第七商業地区の喧騒が広がっていた。
そろそろと踏み出せば、あっという間に外の世界を忘れてしまう。入り口付近の昼間の光はすぐに消え、夜が始まる。まるで常夜の街だ。天幕の裡は紺碧で、その空間を星のように照らす明かりが浮いている。それらが、この空間をまさに夜にした。
それぞれの店でも、軒先に光を点している。ランプの中の光が揺れ、地面に淡い影を落とす。逆に、まばゆいばかりの光が、けばけばしい看板を照らしていたり。露天風の店もあれば、どっしりとした店舗を構える店もあった。方々で硝子の割れる音や、音楽や喝采、呼び込みの声、賭博の華やぎが沸き起こっている。足元にはうじゃうじゃと黒猫がいて、気をつけないと、蹴飛ばしてしまいそうになる。
「そこのぼうやたち、チョコレートはどう」
銀色のチョコレート・ポットを手にした女が、彼らの進路を阻むように顔を出した。ポットはその状態で熱を持っているようで、ぽこぽこと湯気をだしている。チョコレートのすこし苦い香りが鼻をかすめる。その反対側で、ごつごつした体つきの男が現れた。
「ウチは銃専門店だ。試し撃ちをしてもいい」
なんと切り返せばよいのかわからず口をパクパクさせているうちに、呼び込みはさっさと後続の客にターゲットを移している。あっけにとられて、しばし呼び込みの背中を見つめていた。そうして立ち止まっていると、通行する者たちとぶつかってしまう。「邪魔だ」と罵られもする。黒猫たちが、彼らの足の間を潜って通り過ぎる。
夢野と彼岸は、顔を見合わせてふきだした。お互いに、こんなに戸惑ったのは久しぶりだからだ。
「……楽しいじゃないか。思ったよりも治安は悪くない」
「生命力を直接的に狩らない連中は、こうして通商で生活しているんだね」
はた、と夢野は瞬きをした。店先で売買している者たちを見て気づいたことがある。
「ねえ、彼岸。いま、お金持ってる」
返事がない。持っていないらしい。
彼らはしばらく、口をつぐんでに耳を済ませ、目を走らせ、鼻をくんくんとならしていた。香ばしい香り、甘い匂い、油のにおい。軒先に、てらてらと光る七面鳥の丸焼きが、豚の顔が並んでいる。珈琲豆が挽かれて強烈にかぐわしいにおいがする。
それらが渾然一体となって漂い、本来調理された食物を必要としない生神でも、思わず飛びつきたくなるほどだった。なるほど、ここには中央地区にはない娯楽が詰まっている。刺激的で、わくわくして、そして、ほんの少し人間界を思わせる一種の不完全さと不便さ。
そこで、烏の鳴き声が二人の注意をひきつけた。朱華だ。軒先にとまっている。
「そこにいたのか、朱華。よくやった」
彼岸が顔をほころばせると、彼女ぱたぱたと降りて肩にとまった。心なしか、誇らしげだ。
「ご褒美に何か食わしてやろう。そうだ、このカフェーでいいな。食べ物くらいあるだろう」
この、と朱華がとまっていた店舗を見上げる。煉瓦造りのがっしりとした店で、ところどころ緑の苔が張り付いている。小さな窓は雨戸ごとぴたりと閉じられていて、中の様子は分からない。
店の名を照らす浮きランプ(ほわほわと宙を浮く発光玉だ。エネルギーは魔力に拠っている。)が灯っているところを察すれば、営業しているのだろう。
「構わないよ。で、通貨はどうするの」
「べつにあってもなくてもいい。食い逃げすればいいんだからな」
「きみには呆れるな……」
そう苦笑しながら、反対するわけでもない。彼らはささくれ立った木の戸を開け放った。
◇◆◇
店内は薄暗い。彼らが戸を開けた音は、鳴り響く拍手と口笛にかき消された。
店内奥には小さなステージがあって、そこで何ごとか催しがあったようだ。誰もいなくなったその一角だけが明るくなっていたが、催しは終わったらしく、その明かりも消えた。その代わりに、壁に沿った橙の発光体がかすかな光を発し始めた。ようやく、なんとなくではあるが店内の規模が見えてくる。
ざわざわと陽気な声が大きくなっていく。おーい、と注文を叫ぶ声が飛び交う。
「想像していたようなカフェーじゃないな。パブみたいだ」
散生するキノコのように、背の高い立ち飲み用の木のテーブルが生えている。ステージに近いほうはいっぱいで、入り口付近にしか空きがない。彼らはひとまず、いちばん近いテーブルに寄った。彼らの身長では、このテーブルは胸の辺りまでくる。
メニューは、ステージの右側バーカウンターの上方、黒板に記されている。暗くてよくわからない。
「いらっしゃい。注文は、」
いつの間にか、傍らに少女が立っていた。
「……あ。とりあえず、珈琲ふたつ。あと、パンはあるかな」
白目の白だけが、やけに浮き立つ。黒い肌で黒い髪、縮れた髪の毛の少女だ。髪を包んだ極彩色のスカーフの隙間から、幾筋かがこぼれている。骨ばった細い腕を気だるく組んでいる。
「欧州風とオリエント風があるけど。付け合せは?」
「付け合せは要らない。オリエント風の方で。パンの細かい種類は分からないから任せるよ。それから、小さくて構わないよ、朱華が食べる分だけだから」
メモも取らずに注文を受けている少女は、ぴくりと眉を動かした。
「使い魔の分だけ? あんたたちは食べないの」
「だって、必要ないだろう?」
「珈琲は飲むのに?」
「珈琲は飲むけど」
夢野と少女は、お互い不審なものを見る目になる。そこで、黙っていた彼岸が急に声を出した。
「へえ、女給がいるのか。珍しい店だな」
彼岸が目を丸くすると、彼女は怪訝な顔をした。
「何言ってるの? 女給がいなくちゃ店は回らないでしょ。さっきから変な客だね」
「そっちこそ変だろ。だってふつう、こういう店じゃ注文も調理も魔術でシステム化されている。ずいぶん旧式だなあと思って。ああ、ひょっとして、きみは使い魔なのか」
「……そうだけど」
彼女のくりくりとした丸い目がすっと細められた。夢野と彼岸を、つま先からてっぺんまでじろりと眺めている。
「なるほど、あんたたち、この辺の生神じゃないのか。黒猫を連れないでこの街にいるなんて、正気の沙汰じゃない。それとも、そっちの黒い髪の坊やが黒猫?」
「違う、ぼくは生神だ」
使い魔だと思われるなんて、心外だ。夢野はほんの少し憤ったのだが、彼女は厭味を言ったつもりはないらしい。それよりも、気にかかることがあるようだ。彼女はちらと二人の背後に視線をやって、そっと近づく。口をほとんど動かさずに、囁いた。
「余計なことをしないで、珈琲を飲んだらさっさと出て行きな。――ああ、飲みもせずに出て行っては目立つ。そして、できればさっさと第七商業地区から失せな。ここは、あんたらみたいなエリート候補が来る街じゃないんだよ。観光がてらで面白がって覗かれちゃ、必死に生きてるこっちはたまったもんじゃない。毎日、奪うか奪われるかの暮らしをしてるんだ、生神同士で争ってでもね」
それを、一気にまくし立てるのだ。言っていることを理解できたのは、たぶん夢野だけ。彼女は最後に、手のひらを差し出す。彼岸はそこに手を乗せて、しっかりと握り返した。ところが、彼女はぱあん、と払い落とす。彼岸はぎょっとして手をさすった。
「真面目な話をしたばかりだってのに、ふざけんな。金だよ、金。あんたの街ではどうだか知らないけど、この店では先払いだよ」
これはまずいぞ、と、夢野と彼岸は顔を見合わせる。
「じつは今は金を持ってないんだよ。でも、生命力ならいくらでもあるからさ、それで勘弁してくれ」
「バカ言うな。使い魔が生命力を受け取っても何の意味もないんだよ、店の売り上げなんだから。使い魔もつれていなければ、金も持ってない。あんたたちに比べたら、人間どもの方がこの街の歩き方を知ってるよ! まったく、どんな街からきたんだよ」
「中央地区、」
「……最悪だね。最悪の世間知らずってわけか。もういい、ここは私がおごるから、飲んでさっさと出ていきな。働き始めたら、金を返しに来ればいい」
彼女の手は、いらいらとテーブルを指で叩いた。
「働くって……どれだけ先の話だと思ってるんだ。だったらすぐにでも換金してくるぜ。それでいいだろう、」
「いいから黙っておごられろって言うのに。話を聞いてなかったの」
彼女はまた、ちらと彼らの背後を気にかける。まだ何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言わず、くるりと背を向けた。彼らはきょとんとしながら、彼女の背中を見送る。
「女給がイイ奴でよかったな。他の奴だったら、追い出されていたかもしれない」
「イイ奴なのが理解できているなら、その厚意をしっかり受け取ろうよ。きみって、ほんとうに話の流れを理解するのが下手だよ。いちいちひやひやする、……けど、それが楽しい」
夢野はにやりと笑った。まったく、彼らは能天気だった。