00 夢野家の授業参観
じりりりり、と家の壁を揺らすほどのけたたましいベル音。夢野の家の電話は、旧式の黒電話だ。
ちゃぶ台に座り、音と向かい合って宿題をしていた黒がぴくんと顔をあげる。その反応の素早さは、まさしく猫のそれだ。
夢野はひらりと片腕をあげて黒を制した。読みかけの新聞を脇に置き、つと立ち上がる。
最近、電話を受けるのはもっぱら夢野の仕事になっている。それもそうだ。黒が受けたところで、彼がどうこうできる話題は少ない。結局、主人の夢野への用件であることのほうが多いのだから彼が出た方が早い。
おまけに、音の面倒やら火の加減やらを見ているせいですぐに動けないことも多い。今もまさに、音の宿題の面倒を見ているところだ。
「ええ、はい、はい。……左様ですか。……存じ上げませんでした、申し訳ありませんねえ……、」
音は電話など意識にも上らなかったようで、一心不乱に理科の回答に取り組んでいる。が、黒は中座しようと腰を浮かせたまま、襖の向こうの会話に気を取られていた。
「はい、はい、ではそのように。お手数をおかけ致しまして……」
もとより腰の低い夢野だが、こう何度も容赦を請うのは何事だろう。店関係のことか。夢野は店を持つまで世話になっていた師匠はとうに亡くしているので、めんどうなこともそうないはずだったのだが。不審に思った黒は、しばしの逡巡のあとに襖の隙間からそっと廊下を覗いた。が、目の前には一面藍の布が広がっている。
「……何ごとですか、はしたない」
夢野が目の前に立って見下ろしていた。
目を泳がせることもなく、黒はポーカーフェイスを装ってもそもそと元の場所に四つん這いで戻る。
夢野は、ふうと小さなため息のあとで、座椅子に身をしずめた。おもむろに新聞を開き、ふちのない眼鏡をかける。煙草盆を煙管の雁首に引っかけて手元に寄せる。見慣れたルーチンだ。
新聞に落としていた視線を、ちら、とあげて黒を見る。黒も黒で、彼のことを観察していたのでばっちり目が合う。夢野は薄気味悪い笑みを浮かべて、おいでおいでと手招いている。黒は観念して彼の元に膝を擦っていった。その間、何か失態を犯したろうか、と自称「完璧な毎日」を振り返る。
「……黒。私に何か、謝るべきことがあるのではないですか?」
彼の元にかしずいた黒に、それはそれはやわらかい声色で問う。
今日一日、いや、ここ一週間で「夢野に対して謝らなければいけないこと」について、再び思いを巡らせた。謙虚な気持ちになってみれば、思い当たることはぽこぽこ沸いて出てきた。
どれのことを指しているんだ……?
と、混乱するくらいには彼に対して礼を欠いていた。彼の気付かないようなうっかりミスも、そのなかには含まれている。たとえば、消費期限の切れた卵を彼のぶんにしてしまったり、白の襦袢を色物と洗ってしまったり、そのくらいのかわいいものだが。わざとではない、断じて。
「ひょっとして、木苺のアイスをひとつ失敬したことですか。あれには理由が……、」
やぶへびだった。黒が弁解し終わらぬうちに、夢野は顔を青ざめさせて冷蔵庫へと飛んでいった。台所の出来事に関しては腕をかけるのが馬鹿らしく思えるほど無頓着の癖して、木苺が関わると目の色を変える。とぼとぼと戻ってきた彼は、いけない子ですね……、と恨みがましそうに呟いた。何個も蓄えておくのだから、一つくらいいいだろうにと開き直った気分になる。
「わかりませんか。……授業参観ですよ」
「授業……参観?」
思わず、なにごとかと繰り返してしまった。音もなにやら興味を持ったようで、宿題の手を止めて目をらんらんと輝かせている。食べ物の話じゃないぞ、と突っ込みを入れる者はいない。
夢野は仰々しいため息をついて続ける。
「先ほどの電話は、君たちの担任の先生からでした。授業参観不参加の保護者サインが、どう見ても黒のものであると、ね。私本人に直接確認したかった、とのことです。……やれやれ、時代は変わりましたねぇ」
黒は中学の三年間を延々と繰り返す、永遠の中学生のようなものだ。もう何回目の中学二年生かは、彼もよく覚えていないらしい。そのなかで、夢野が授業参観に訪れたことなど一度もなかったような気がする。
「で、先生はいらっしゃるんですか」
「無論。大事な取引先ですからねぇ」
「そういうこっちゃないでしょう。だいいち、営業かけているのは僕ですからね、あなたではなくて。……何をたくらんでいるんです」
黒は忌々しそうに目を細める一方、夢野は楽しそうに袖口で口元を覆う。どう考えても謀り顔だった。
「何も」
そんなことより、と彼は膝の皺を払う。
「……さて、謝罪なさい」
「なぜです。あなたは『学校行事には一切参加しない。以後確認の必要なし』としているじゃあありませんか。だから連絡のプリント類は音のものも一緒に処理しているんですよ、」
「それが好かないんです」
彼は新聞をばさりと膝に下げた。
「音の授業風景を見たいんです。勝手に欠席扱いにされては厭です」
そんな思わぬ答えが返ってくると、黒髪小僧は目を丸くした。あえて「ああ、なるほど」と応じるが、声色は冷め切っていた。
「ご期待には添えませんよ。この阿呆は授業中ほとんど寝ていますからね」
夢野と黒髪小僧の視線を浴びた音は、わけもわからず「おおう……」と頷いている。ややこしいから黙っていろ。
「お馬鹿さんなんですか、おまえは。そこは腕の見せどころでしょう」
意味が分からない、というように黒は眉根を寄せた。
「……そいつは、……僕の腕の問題でしょうか。ひょっとしたらですが、これは音の問題ですよ。いや、やはり九分九厘そうです」
「泣き言は止しなさい。半時間です。その授業のたった半時間、素敵な授業風景を見せてください」
ムチャ言わないでください、この寝坊助をどうやって……
と、ごねてももう主人は交渉をする気はない。新聞を膝に広げて黒を視界から遮断した。まったく気まぐれな主人でかなわない。今まで一度だって、「二匹目」をこんなに気にかけたことがあったろうか。いや、ないのだ。
「承知しましたか」
「……ご命令とあらば」
「言わずもがな命令です。ああ、魔術はナシですよ」
わかってます、と黒はぶっきらぼうに答える。
相変わらず他人事のように目を輝かせている音をうらめしく思った。このわからんちんのボケ娘は、僕に協力してくれるだろうか。と。
◇◆◇
翌朝、いつものように黒と音はいっしょに家を出た。
竹刀を握って大あくびを繰り返す音の背中は猫のように丸まって見える。朝、必ず出会う近所の茶トラ猫と程度の低い威嚇合戦をし合ってから先に進む。学帽を目深にかぶった黒は、厳しい目で彼女のその様子を睨んでいた。
「音。おまえ、授業中は眠ってしまわないように頑張れませんか」
「猫は寝るものだ。仕方がないだろう」
何言ってるんだと言わんばかりにあきれ返った表情で、彼女は鼻で笑った。ふてぶてしくて可愛げのない女。こんなふうに小馬鹿にされているようじゃ、自分の教育も底が知れるというものだ。何度繰り返しても、普通の黒猫だったものを「使い魔」らしくするのは骨が折れる。黒にとっては、使い魔らしくなってくれた方がものを教えやすい。他方夢野は、使い魔らしい精神が音には必要ないと言う。このギャップがまた、彼を困らせている。
そもそも、使い魔が使い魔として確立するためには、魔界の教育機関に放り込んだほうが手っ取り早い。それが規則でもある。しかし、魔界に音を献上してしまえば、彼女が夢野の手元に戻ってくる可能性は万に一つもない。
それゆえに夢野は、非公式で二匹目の黒猫を飼いならすのだ。いや、飼いならすということならば、実際のところ、黒髪小僧が負っているようなものだ。
「我々は学校では人間です。都合のいい時だけ猫ぶらないでください」
音は聞いているのだかいないのだか、生あくびで返事をした。
足をずるずると引きずって歩いている彼女の足元で、チャリーン、と軽快な金属音。人通りの少ない通学路に響いた。
「なんだ?」
彼女はしゃがんでその音をたてたものを拾った。お金だ。百円玉。初めて見たわけてもないだろうに、彼女は興味深そうに銀色のコインを眺めている。
「落し物ですね。もらっておきなさい、音」
「ひかりものだな」
嬉しそうに見上げてくる。おまえはカラスか、とツッコミそうになっても、そこはぐっとこらえるのが黒だ。いつでもどこでもツッコミを入れてもらえると思ったら大間違いだ。
「これがあれば、なんでも買えますよ。あなたの好きな珈琲屋の木苺フラッペなんたらも……」
と、ここで名案が浮かんだ。
「そうか……珈琲……、」
彼はうわごとのように呟くと、あたりをきょろきょろと見渡した。金が道端に落ちているぐらいなのだから、
「あった。自動販売機」
数メートル先で、赤い自動販売機がういんういんと健気に運転中だった。あれで珈琲を買えばいい。珈琲に含まれているカフェインが効くのは、自分の体でも実証済みだった。それならば、音に効かないわけがない。珈琲で眠らなくさせればいいのだ。なんて簡単な解決法だろう。黒髪小僧は急に気分が穏やかになった。
同時に、今月のお小遣い事情に思いを巡らせる。夢野はあんがいケチで、黒と音のお小遣いも月1000円だ。あの双子天使に連れられた店の品なら、二回もいけばすっからかんになるが、缶珈琲数本くらいどうにでもなりそうだ。
これはいい。試しに音に飲ませてみればいい。彼は自動販売機の前で、ブラックコーヒーとミルク・砂糖入りの甘いコーヒー、どちらにしようか一瞬だけ迷う。それでも、指は結局ブラックを押す。彼女は珈琲を飲んだことがない。(珈琲屋の品とはいえ、木苺なんちゃらという飲み物は、いちごミルクのような甘い代物だ。)これが珈琲だと叩き込むにはうってつけだ。
騒々しい音を立てて缶が落ちてくる。プルタブを開けてやり、音に差し出す。飲み口からは、もうもうと湯気が立っている。
「音。これを飲んでみなさい。すっきりしますよ」
しめたもので、彼女は嬉しそうに受け取る。勢いよく缶を傾けるやいなや、……珈琲を派手に噴き出した。そのくらいの反応は想定していたはずなのに、黒はその飛沫をまともに顔面から浴びることになった。目を閉じる猶予があったことが幸いだ。
「なんだ、腐っているのか! こんなものは飲んだことが無いぞ! 道端の泥水よりもひどい。……貴様謀ったな!」
「謀っているのは先生です。それから、覚えたての活劇の台詞を口にするのは止めなさい」
青筋が立ちそうなのを必死にこらえ、黒は顔のしずくを袖口で拭う。
「……それが珈琲というものです。飲むと眠気が飛ぶんです」
音は急に疑り深い顔と姿勢になり、まるで野良猫のようだ。
「おまえ、昨日からなんだかおかしいぞ。やれ眠るなだの、眠気が覚めるだの、そんなに私に眠ってほしくないのか」
「大事な話が伝わってないですね。同じ場にいたのに」
彼女は珈琲を持て余しながら、黒と並んで歩く。
「いや、わかっている。授業サンカンに夢野が来るので、私が眠ってはいけないのだろう? そしてそれは今日じゃない」
「いいえわかってないですよ。授業参観に夢野先生が来るから、眠ってはいけない。確かにそうですが、音、授業参観というものがわかっていないでしょう」
「いや、わかる! 担任の女教師が言うところによれば、ガキどもの親が授業を見に来るんだろう。ホームルームで何度も聞いた」
「そうです、夢野先生はあなたがまじめに授業を受けているさまを見たいのです。だからこれは訓練です。眠らない訓練です」
今まで一度だって、夢野が黒を見るために学校に足を運んだことはない。だから、自分ではなくて彼女のためにあの男はやってくるのだ。
音は承服しかねる様子で缶を握っていた。もう一押しだ。
「あなた、先生の喜ぶ顔が見たくないのですか」
あの男はそんな顔はしない。どうせニヨニヨ不気味な顔をするだけだ。気持ちの悪いことに。
それでも音には効果抜群だったようで、彼女はきっと顔をあげて覚悟を決める。
「……わかった」
これも、ちょっと厭なところだ。夢野の言う事はしっかり聞く。少なくとも、ひねくれまくっていた昔の自分に比べれば、夢野と彼女の関係は良好らしい。
残り半分となった珈琲を、彼女は気張って飲み干した。黒はそれを見届けると、なんだか厄介に思い竹刀を抱え直した。
◇◆◇
授業参観といえば、上宵浜中学では担任の授業を見学させるのが常だった。とすれば、黒と音のクラスは英語の授業。よりによって音のいちばんの苦手科目ときた。
しかし彼女の授業は、無関係な保護者も注目するほどの人気だと聞いたこともある。なんでも学生時代にイギリスに留学していたとかで、発音はべらぼうによい。ティーチング・アシスタントととの英会話の読み上げの質も高い。
黒は、英語の授業の前に音をつれて彼女のもとを訪れた。
「先生、授業参観のことでお話があります」
「何ですか?」
女教師の目線は、どこか冷たかった。
それもそのはず、夢野が参加の意思を改めて示したことによって黒の立場はなかなか悪くなっていた。親に内緒で連絡をごまかしたことになっているからだ。
「授業参観では、音を指名しないでいただきたいんです」
「あら、どして?」
彼女の興味を惹いたようだった。黒は万難を排除しにかかった。起きていてくれさえすればいいと思うのは甘い。
「音は、ご覧の通りめったに話もしない。今までだって、指名されてもちゃんと答えたこともない。見知らぬ大人がたくさんいる場では、より緊張してしまうんです」
「まあ。それは初めて聞いたわ」
初めても何も、今作った設定だ。われながらよくやる。音は普段居眠りしているのだから、いささか苦しいつくり話ではあった。
しかし、女教師は手ごわい。そこで「そうするわ」とは言わなかった。
「でもね、授業参観で指されるのが厭なのはみんな一緒。緊張するのもおんなじ」
「いや、私は別に……」
黒は音の室内履きを踏みつけた。「みんないっしょ」は、諭し方としては最悪だと思いながら黒は黙っていた。それでも、この教師は自分よりも音のほうに甘い。音は、「両親不在のため夢野家に預けられている」ということになっているからだろう。
「ねえ、夢野さん。どうして人間が緊張するかわかる?」
「いや、」
音は首を横に振った。
「理科で習ったかもしれないわね。簡単に言うと、不安を感じた時にある神経物質が分泌されて、体に変化が起きるの。なら、不安を軽くする状況にすればいいの。たとえばほら、音楽で習ったでしょう? 腹式呼吸」
それから彼女は、練習と慣れで不安を少なくするの、と言った。
「次の授業で、授業参観でやるページを発表するわ。そのページを、土曜日までに一生懸命勉強すればいいの。単語、日本語訳、発音、文法……、全部そらで言えるくらい。ほんとうは、毎時間これくらいやってほしいけどな。でも、目標のために気合入れて頑張るのも大事なことだものね。テスト勉強と一緒。夢野君に一緒に練習してもらったら、もっと安心よ。彼、学年でいちばんなんだから」
そりゃ、何度も中学生をやればそうなる。彼は謙遜もせずにそうですね、と肯定した。
案外、女教師は役に立つ情報をくれた。少し面倒だが、彼女を丸め込むよりは音を教育したほうがいくらか健康的だろう。彼らは彼女に礼を言って職員室をあとにした。
それからの日々は、他の科目はそっちのけで英語のそのページを徹底的に叩き込んだ。発音はこの際かまっていられない。音は無機質なものを覚えるのが案外得意なようで、意味を取っ払って形だけを覚えるようにさせたら、なんとか答えられるようになってきた。そんな調子で、英単語をマスターするのは早かった。意味を取っ払っているので、邦訳と英文の繋がりは、彼女はまるでわかっていない。この部分はこの日本語、とパズルのように覚えているだけなので応用力はまったくない。それでも、打てば響くようになってきたころ、黒は妙なティーチング・ハイに陥っていた。
「……あの黒ちゃんが熱血教師ねえ……、ついこの間まで反抗期だと思ったのに。アタシも歳を取ったはずだわ」
戒厳体制を掻い潜って遊びに来ていたキルシュが、居間で煎餅をかじりながらぼそりと呟いた。彼女の周りでは、三匹の黒猫がうろうろしていた。また、黒猫狩りにやってきたらしい。
夢野は新聞をめくりながら、どこか楽しそうに口角を上げていた。
「そうですね。婆さんや、お茶ですよ」
夢野はキルシュの前に湯飲みを差し出した。彼女は無言で受け取り、頬杖をついたままの口元にお茶を注ぎ込んだ。
「ちょっと待ちなさいよ。アタシが婆さんなら、あんたは何? 仙人?」
「妖怪だと思われてますよ、巷では」
「……あんた何十年も姿変えないから」
「そりゃ、人間じゃあありませんから仕様ないことです」
夢野はまた新聞をめくり、もう一方の手でテレビのスイッチを入れた。野球中継が映っていた。
「僕の親友は、それでも人として死にたかったんでしょう。僕は死ぬなんて真っ平ごめんですが」
ぱり、とキルシュが煎餅を割る音が響き、少し遅れて、フライを打った高い音がテレビのスピーカーから流れてきた。
◇◆◇
さてさてやってきた授業参観日当日。
夢野家の朝は不気味なくらい浮足立っていた。黒は自ら朝の支度を買って出たが、それよりも早く起きた夢野が先に朝食の準備を始めていた。
「わくわくして眠れなかったんですよ」
「僕が寝床に入ったころには、先生はぐうすか眠っていましたよ」
それには返事を寄越さず、鼻歌を歌いだすので苛立った。
「今日はだし巻き卵にしましょう」
「僕が用意していた献立は無視ですか。昨晩のうちに気軽な食パンを買っておいたのですが」
「私は和食派です」
「知っています」
夢野はにっこりと笑みを深くする。
「あの、君は邪魔ですから、一人でいい子にしててください。できますね?」
「……」
さすがにこれは受け流すのはムリだった。この家において、台所で天下を取って、天下泰平を実現しているのは黒だったというのに。嫌がらせとしか思えない自分用のフリフリエプロンを、主人の顔めがけて投げつけた。まだ火に当たっていない卵焼き用フライパンをひっくり返す音と、声なき悲鳴を背中に聞いた。
こんな朝の戦争のあと、音と黒は夢野のお手製の弁当を持たされて学校へと送り出された。
授業参観は二時間目だった。はじめの数十分は通常通りの始まりで、残り30分になったところで父兄たちが教室にやってくる。みな前を向いているのだが、さやさやと衣擦れの音で彼らが入ってきたことが判る。教室は妙な緊張感に包まれた。いつも通りの者、わざとだらしなくする者、まじめぶる者、それぞれだ。
いちばん前の席の黒は、やるべきことはやったと菩薩のような穏やかな表情で黒板を見ていた。適度な時間にコーヒーを飲ませたし、今朝登校中での復習もばっちりだ。この女教師の言うとおりのことをして、緊張・不安を取り除くことができたのは他でもない自分だった。音がへまをする心配がない、それだけで安心だった。
「それじゃ、48ページ。一文目を……今日は笹田くんからね。読んで訳してください」
本文の読みと訳は、いつもどおり教師の保存してある指名名簿順に回ってくる。ここで音があたってくれればよかったのだが、彼女まで回りそうにはない。みな、さすがに予習をこなしてきたのか、いつもよりはそつなくこなしていく。発音がいい生徒に父兄たちはどよめくので、やはり見ている人がいることを意識させられる。
そのあとは、英単語の確認、文法の解説など、滞りなく進められていく。黒板に出て書かされたり、会話をさせられたり。
あと数分というところで、この女教師オリジナルの挑戦問題が出される。今日の授業内容を踏まえた上での応用だから、音が答えることはできないだろう。だが、挙手制なので問題はないはずだ。いざとなれば、自分が手を上げて答えればいい。
教師は黒板に五つの問題を書き記した。
「一問目。誰かわかりますか」
優等生が真っ先に挙手した。教師は彼女に回答権を与える。彼女はチョークを拾って左端の問題の下に回答を書き記す。流れるような美しい筆記体だ。
「二問目。……まだ当たってない子、やってみない?」
今度はちらほらと手が挙がる。確かに、二番目となると挙げやすくはなる。
「福島さん! やってみて」
「え! マジでー!」
音の隣の女生徒が指名された。明るい冗談めいた反応に、生徒からも父兄からも笑い声が上がった。
「三問目。……誰かいない?」
当たってない子を指すものだと皆が察し。あたりを伺うように勢いが落ちた。おまけに、すこし他よりも難易度の高い問題だった。手をあげるものがないのはそのせいもあった。
黒が手を上げようとしたその時。
「……はい」
「お。夢野さん、やってくれる?」
教師は嬉しそうに笑った。教室中も、意外さにはじかれて彼女のほうを眺めていたが、黒は振り返りはしなかった。いままでいるかいないかわからなかった転校生が、自ら名乗り出た。それだけでも、クラスメートにとっては大事件のようなものだろう。
黒板にむかう途中、音は黒の机にさりげなく触れながら前に出た。黒は彼女を見上げた。音は無言で語っていた。「大丈夫だ」と。
黒は拳を口に当てて、微笑みそうになるのをこらえた。
授業は終わった。教師は起立のあとに、父兄のほうを向くよう促した。黒はしかと夢野の姿を見つめた。着物姿の人一倍色の白い妖怪みたいな不気味な男。人一倍悪目立ちしている。
「ありがとうございました」
みんなは揃って頭を下げていたけれど、黒はうっかりそれを忘れていた。
夢野は笑っていた。それは彼が想像していたようなニヤニヤ笑いではなくて、それはもう、いつどこで見たのか思い出せないくらい穏やかで幸せなものだった。音を見ているものかと思った。だが、皆が頭を上げたとき、彼は自分のことも見た。口元がかすかに動いた。父兄たちは、ぞろぞろと教室を出て行く。
クラスメートは、緊張の糸が切れたようにばたばたと座り、だらけた声で「疲れた」を連呼する。黒は、起立の姿勢のまま少しも動かなかった。やがて、主人と同じように口を小さく開き、独りごちた。
「何て云ったんです。わかりゃしませんよ……」
◇◆◇
その日は、保護者懇談会をすっぽかした夢野と三人で帰路についた。夢野は、音の積極性と頑張りをたいへん嬉しそうに誉めそやした。黒としても、なぜ音が正解を出せたのか教えた身としてもわからなかった。彼女いわく、ある時堰を切ったように理解しだしたのだということだ。ヘレン・ケラーのようなことを言われても、それが48ページで起きた奇跡だと思うとちっとも感動的ではなかった。
「私はたいへん嬉しいです、音。来てよかった」
「おまえが嬉しいと、私も嬉しいぞ夢野」
「そうでしょう、そうでしょう! 嬉しさは伝染するんです。ねえ、昼はとくべつ牛鍋屋に行きましょう。ほかにも、なんでもご馳走してあげますよ」
「ほんとうか! ならば、木苺フラッペコーヒーが飲みたい! あと、あれだ。『ブルー・ベルベット』の木苺ムース!」
「音と私は趣味が合いますねえ」
「黒! おまえは何が食いたい」
音はいきいきした様子で振り返る。
そんなふたりから一歩ひいて、黒は燃え尽き症候群のような無気力さで足を動かしていた。こんな状態だけれども、いうべきことは言わねばならない。
「……木苺フラッペなんとかの店は、宵浜の街中にいかないとないですよ」
「たまには街に繰り出しましょう。そうです、新しい着物でも買いに行きましょう」
黒は歩みを止めて、ジャンプしながらカバンを背負いなおした。あんがいと今日のカバンは重い。夢野は黒を待つように体を斜にして立っている。音はもう、るんるんとスキップしそうな勢いで道を下っている。
「……厭に浮かれていますね」
「苦手な英語を克服したんです。自己成長は猫だって嬉しいものです」
「音じゃあありません。僕は夢野先生のことを言ってるんです」
夢野は羽織の袖を掻き合わせるようにして体の前に持ってきた。そうしてごそごそと懐を漁り、煙管を取り出した。その先っぽには、ふつうの紙巻タバコが刺さっている。黒は彼に近づき、指の先から火を出した。夢野はそこにタバコをくべると、すうと息を吸って火をつけた。
「黒髪小僧。私はおまえの頑張りも嬉しく思うのですよ。おまえが私を想って音をしつけてくれたことを」
夢野はわざとらしく黒を褒める。脱力して気の緩んでいる様を気色悪い解釈でもしたのか。
「勘違いなさっていませんか。僕そんなんじゃあありません」
夢野は苦笑した。
「おまえは『~じゃあありません』ばかりですね」
「先生の性根は腐っているのだから、仕方ないでしょう。僕ぁ、気味が悪くてなりません。ほんとに、何たくらんでいるんです」
「まったくおまえは口の減らない使い魔です。貴方は音から素直さを学びなさい」
彼は腰を屈め、タバコの煙を黒に向かって吹きかけた。
「……彼女がいなくなる前に」
やがて、彼は涼やかに背筋を伸ばした。黒の表情筋はこわばった様に動きが悪くなった。もともとそうだとも言えるが。
「云ったでしょう。他はなんだって好い、と」
「……そりゃあ、承知してますが」
夢野は煙管の吹き口を黒のほうへ向けた。はずみでタバコの先がほろりと崩れ、地面に灰色の花を咲かせた。
「承知していなくて、勘違いしているのはお前のほうだよ、黒髪小僧。私は、其の『他』だってじゅうぶんに幸せであってほしいのだから」
彼はキセルの吸い口を脇に遣って、黒の学帽のつばをきゅっきゅと正しいほうへ動かした。
おかげで、夢野の口元しか見上げられない。授業参観の号令のときのように、夢野の口はすっと開いた。
「今日は好い日で、私はとても幸せです。……ありがとう」
今度はきちんと、彼の声は耳に届いた。彼の口の端は瑞々しく正しく、上方に持ち上げられていた。
坂の下で、音が我々を呼んでいる。すき焼き、すき焼きと手を振り振り叫んでいる。黒は息を漏らし、笑みらしきものを浮かべた。けちんぼうの夢野が、どれほどの肉を食わせてくれるのか。
あまり期待しないほうがよさそうだ。