22 竹馬の友
「気のせいじゃないと思うけどさ、この辺って黒猫の気配が少ないよね」
ユカリと菫髪小僧は、後生大事に夢野のサイン入りの書類をポケットに仕舞い、アパートへの帰路をたどる。
「夢ちゃんがあらかた刈りつくしちゃったんだろうね、」
ユカリの指摘する「黒猫がの気配が少ない」という状態に、菫髪小僧ははじめから気付いていたようだ。スンスンと何かを探るように鼻を動かしてはあたりに鋭い視線を送る。
「いいえ。本来、夢野商会は窓口商会ですから、黒猫狩りはもっと末端の商会の仕事でしょう。何もこの国のこの町に限定されることはありません」
「何でまた夢ちゃんの居るのはココなんだろうねえ……。成績優秀だった夢ちゃんなら、イギリスやアイスランド、アルバニア駐在とか、どこでも選べたろうに、」
「同感です。こと、夢野様のご親友であった故・彼岸様は欧州を偏愛なさった」
「そもそも、人間界に出る必要もなかったろうに……」
大した速度の出ないスクーターは、ぶぶぶと不機嫌そうな音を立てる。良い意味でレトロ・かつスタイリッシュなかたちの乗り物を、車体前面にむりやり取り付けられたプラスチック製のちゃちな荷物カゴと、運転手である情けなさそうな男のよれよれのスーツが、揃って台無しにしてしまっている。箒の代わりに、スクーターに乗った不恰好な魔法使いに見えなくもない。
しかし、彼らに目を留めるものは、あたりにはいない。シンと静まり返った夜道に、彼らの行進の音が響くだけだ。彼らを照らす月はとうに赤さを失って、いつもの金のような銀のような、清廉な色の光に戻っている。
「……ねえ、菫髪。夢ちゃんも相変わらずだね」
ユカリは、カゴに大人しく鎮座している黒猫姿の菫髪小僧に話しかけた。声は空気に溶けずに、彼の耳に届く。菫髪小僧は、紫の瞳を暗く光らせて振り向いた。
「それをご本人に言ったら、全くおんなじ言葉を返されますよ。……まったく、嘘泣きなど」
ユカリは、心外だと言わんばかりに目を見開いた。運転中にも拘らず、彼はカゴの中の猫に顔を向けている。
「嘘泣きじゃないよ。本当に悲しかったんだ。夢ちゃんと彼岸は本当に仲が良かったから。ほんとうに、二人でひとつみたいだった」
「……意外ですね。ユカリ様があの方たちをそのように評するなんて」
ユカリはまゆげを下げ、クシャリと崩れるように苦笑した。
「評する、っていうのとは違うよ。ほんとうにそう思ってたんだってば」
「そうですか?」
黒猫は意外そうに啼く。
「菫髪は僕をゴカイしているよ。僕には外面があるんじゃなくて、その場その場の気持ちがあるだけだよ」
「例えば、対象者に関して一貫した感情を持たない、そういうことでしょうか」
「そう……なのかな?」
あまり良く理解していない顔で、ユカリは慎重に頷いた。それに対して、菫髪小僧は解説を加える。
「例えば夢野様が、ユカリ様を打ったら嫌いになるが、しかし数秒後、飴をくださったら今度は好きだと思う、そういうことですね?」
「かもね。でも、菫髪小僧、きみは変わらず僕の気に入るよ。……頼れるし」
と、右頬をぽりぽりと掻く。
「それは、私があなたに対する態度を変えないからです」
「……うん、よくわからないけど、そういうことでいいよ」
基本的にユカリは「よくわかっていない」。ゆえに『政治局』で飼いならされているのだ。
スクーターは、ウィンカーも上げずに細い道を右手に折れる。燃料のメーターはゼロなのに、不思議な力で走る。
「多かれ少なかれ、生神はそういった性質があります。その場その場で判断を下す、非常に動物的なところが。ユカリ様は特にそれがお強いご様子。だからでしょう、恐怖心も大きいのです」
と、分析したかのように菫髪小僧はまくし立てた。最後はクスリと笑って締める。
「じゃあ、菫髪小僧はそうじゃないのかい?」
「……私は、『人間』なのかもしれません。引きずる思いも、抑制に働く力も、あります」
黒猫はそう言葉を紡ぐと、遠い何かに想いを馳せるように夜空を仰いだ。彼の瞳には、満天の星空が写っているのだろうか。それとも、紺碧のスクリーンには思い出という映像でも浮かんでいるのだろうか。
菫髪小僧は数秒と待たずにまた口を開く。
「情緒の退化はある意味で、進化なのかもしれませんね。ヒトから生神へ、という進化です。神話の通り、生神の始祖が人間そのものであるとするなら」
彼の主人であるユカリの顔は正面を向いたまま、ウンでもスンでもない。口元には、聖人じみた微かな笑みがあるだけだ。
しばしの沈黙の後、ユカリは掠れた声で呟く。
「魂と感情が深いカンケイなら……、魂がない生神は、進化じゃなくて欠陥。……なのかもしれないね」
その低い囁きは、使い魔には届かなかった。そもそも独り言だったので、それでよかった。
何も聞こえなかった黒猫は、再開するような調子で話し始めた。
「……その点、夢野様は不思議な生神ですね。いつまでも彼岸様を慕われる」
「不思議じゃないさ。僕は少し、そう思える者が居る夢ちゃんが羨ましいな。……あーあ。僕にも同期の『主人』がいたらよかったなあ」
主人、という言葉には二つ意味がある。ただ単に「使い魔の主人」という場合、それから、「色の名前を冠した小僧と呼ばれる使い魔を従える主人」という場合だ。後者の場合、「12主人」と呼ぶことが多いが、ユカリなど本人たちは、ただ単に「主人」と言うこともある。
ちなみに、12の小僧を「12小僧」、「12人」と呼ぶことがある。
「何をおっしゃいますか。夢野様と彼岸様とユカリ様とアリス様にオル様、それから、他にも。これだけの主人がほぼ同時期。奇跡に近い事態です。……理由あってのことですが」
ユカリは、夢野と「彼岸」よりも早く「製造」された。彼らが生神としてのイロハを学ぶ教育機関、「育成局」では、夢野と彼岸はユカリの下級生だった。ユカリのような「小僧」の主人だろうが、キルシュのようなごく普通の生神であろうが、生活の場は同じだ。
しかし、「主人」として「製造」された夢野やユカリのような生神は自然と、同期の輪の中からは外れることになる。「主人」には特有の修学カリキュラムがあり、何より他の生神と一線を画するのは、「小僧」を使い魔にできる点だ。
「そのうち、夢ちゃんと彼岸くんとアリスは、本当に同時だよ」
「彼らの先代は同じ戦場で亡くなられましたから。複製体が完成するのも同時期になりましょう」
「天使たちとの戦いが激しかった頃のことだよね? 僕らの先代は、だいたい同じ時期に壊れた。だから、今の僕らが生まれた……『生まれた』って言い方が正しいかは解らないけどさ、とにかく、生まれたときが近いんだ。奇跡でも何でもないよね。それどころかホントに秩序だってる、」
秩序、その言葉を苦々しげに発音する。
菫髪小僧は、糸のように目を細くして前を見据えた。人間の姿だったら、眉間には深い皺が刻まれていただろう。
「……厭な戦いでした」
「覚えてるの?」
「所々です。主人が亡くなる度に記憶処理をしますし、過去や前世のことを完璧に覚えている小僧はそうそういませんよ」
「歴史の授業で習ったから、このまえの大戦のことなら僕も知ってるよ」
ユカリは片手をハンドルから離して、人差し指で空中に円を描く仕草をしながら滔々と語る。
「戦場は魔界。未曾有の歴史的大敗だよ。だからこそ今は、天使の監視をくぐって、日々の生活を送るだけの生命力を得るだけの活動に留まっている。……幾年もの間ね。僕らの代は、瓦礫の中で生まれて、ぬるま湯の中で生きてきたんだ」
左様で、と菫髪小僧は頷いて瞬きをする。
スクーターはさらに速度を落として、伸びきった草の生えるアパートの敷地に侵入していく。錆び切った物干し台の傍で完全に止ると、ユカリは黒猫を抱いて地面に足をつく。
一足遅れて、烏の西陣が音もなくユカリの肩にとまる。
「だからさ。緋髪小僧が何をしようとしているのかは知らないけど、彼女が僕のぬるま湯を熱湯に変えたり、冷や水に変えたりしたら、厭だな」
菫髪小僧のふさふさした後頭部に口を押し当て、ふうう、と熱い息を吹きかける。黒猫はされるがままになっている。彼の胴体は伸びに伸びて、ぶちりと千切れてしまいそうだ。
「彼女にも、忘れたくない思いもあるのでしょう。だからこそ、大人しく記憶処理されていればいいものを、逃げてしまって。ほんとうに、馬鹿です」
「……だから駄目なのさ。主人が死んだら、小僧は殺すべきなんだ。記憶を消すだけじゃなくてさ。研究所が面倒くさがるからこういうことになるんだと思うんだけどなあ。……でも、夢ちゃんが何とかしてくれるよね。僕は知らない、っと……」
弾むような足取りで、彼は色とりどりのガラスがはめ込まれた玄関の戸を開く。ガラガラと音を立ててそれは閉められ、建物の内部はぼんやりとオレンジ色に光る。ピンク、緑、黄色と染められたガラスは、橙の光を浴びて潤むように輝き、闇に沈む庭の草木に色相豊かなカゲを落とす。
今しばらく本編はお休みして、これより暫くは過去編を書きたいと思います。
世界観や言葉の説明をそこで強化するつもりです。