18 共同住宅
我々の眼前には、木造二階建ての民家が一軒。
外見は、高度成長期に建造されたかような昭和の雰囲気がある。
ただし、その時代の力強さは無く、一度強い風が吹けば分解されてしまいそうなほどの頼り無さだ。そう考えると、もっと新しいものなのかもしれない。
そして圧倒的な威圧感を持つ、糸杉の生垣。糸杉は敷地の四辺をほとんど囲い、屋根と同じ高さに迫る勢いで成長している。まともに手入れされていないそれは、化け物のように奇妙な形象だ。
そのせいで陽光がまともに差さず、建築物は不気味に暗かった。夏場は湿度がとんでもないことになるだろう。布団も満足に干せそうに無い。
「カア」
近くの電柱にとまる二羽の烏が不吉な顔をして短く鳴く。
私は黒や夢野と違って、あいつらの言葉が解らない。二羽の背後に広がる、陽が落ち始めた空が我々を焦らせた。
はっきり言って、この物件に住まおうとするのは人外だ。ヒトが住むには驚くほどの悪条件だ。貧乏学生でも忌避するに違いない。まったくもって、冗談のような家だ。
私の警戒心は否応無しに引き上げられる。
「ここに、青年は住んでるのか? 一軒家に見えるけど……」
「これでも一応、共同住宅なの。安いし条件悪いから物置に使っている人が殆どだから……人がいなくて、案外、気楽かもね」
直子の笑顔も心なしか引きつっている。しかし、ここを生活の場として選んだ青年とやらを擁護しているような口ぶりだ。
「……ここで間違いないはずだけど……ッ……ギャアアア!」
彼女は急に金切り声を上げて私の腕に飛びついた。その衝撃で私の体は揺れた。
直子はハアハアと荒い息をして足元に顔を向ける。
「な、……なんだぁ、黒猫かぁ……」
一匹の黒猫が、しなやかな体をくねらせて我々の足元をすり抜けた。弾丸のように目的を持った走りをする。ちらと、こちらを振り向いた瞳が反射で白く光った。瞳が白いのではない。
「黒猫……」
私の頭の中では、一つの了解で鐘が鳴った。
恐らくアレは魔界から出てきた使い魔だろう。つまり、直子の言う「新しい入居者」とやらが使い魔なのだ。
黒はそれを感付いていたに違いない。だから晩方迎えに行くと言ったのだ。なぜなら、「彼」は「店に」用があるわけではないからだ。「夢野が」目当てなのだろう。
私の警戒は解ける。
「あ、駄目! 勝手に家の中に入っちゃう!」
直子は玄関を指差して叫んだ。黒猫は前足で木製の引き戸を開け放とうとしていた。
私は、猫を追い出そうと走りかけた彼女の腕を掴んだ。
「いいから。少し待ってあげて」
「待つ……?」彼女は怪訝な顔をする。当然だが。
「この家は、ペット可なのか?」
「解らないけど、多分駄目だと思うよ」
「そうか。悪いが、このことはお前の祖母には秘密にしてくれないか。あの猫はきっと迷惑を掛けない」
私の言葉に首を傾げる直子の手を引いて、私は玄関までのアプローチ(と呼ぶほどのものではない)を進んだ。
庭は微妙な長さの雑草が生い茂り、錆が出た竿が支えに乗っかっている。それと同じだけの時間を一緒に過ごしてきたかのような古びたスクーターが傍にいる。埃を被った真っ赤な車体は、再び走ることが叶うのだろうか。その二つ静物の寂れた様子は、非常に日本じみていた。
この時の止まった庭の様子から見ても、「彼」以外に入居者はいないだろう。恐らく誰も手入れをしていないのだ。大家である直子の祖母ですら。
黒猫は既に、暗い家屋内に消えていた。猫が開けた隙間から見える内部からは、期待を裏切らない程度の湿っぽさが流れ出てくる。間も無く外は闇に落ちるというのに、電気も点けていやしない。
「入るぞ」
一応の挨拶を建物に向けて言うと、引き戸を開け放った。
この戸は下半分は木製で、上半分は、正方形の色ガラスが幾枚もはめ込まれている。原色に近い、しかし既にくすんでいるピンク、青や緑や黄色といった色合いだ。そこだけでも、家を明るく見せようと努力した形跡は認められる。もう少し状態が良ければ、「昭和レトロ風」とでもこじつけられそうだ。
「く、暗ぁ……」直子が恐る恐ると私の後に続く。
「静かだな……」
中はひんやりとしている。
入ってすぐ、目前に迫るのは手すりの無い堂々とした階段だ。存外、内部の木材は上等らしかった。使い込まれて飴色に輝いている。しかも、掃除は行き届いている。
そんな中、どこからともなく、水が流れる音が間断なく続く。それだけが不気味だった。
床よりも一段低い玄関の天井には、控えめな裸電球がぶら下がっている。右手は台所で、左手は風呂場らしく、その向かいは便所だ。階段の脇は短い廊下があり、突き当たりに102号の部屋がある。と言う事は、左右に向かい合っている部屋は101号と103号だろう。
二階も同じ作りだとするなら、全部で六部屋が存在することになる。一部屋せいぜい四畳半、といったところだろう。
靴を脱いで上がる必要があるようだ。靴は二足だけ転がっている。いずれも黒の革靴だ。皺が入って、所々剥がれ、手入れされていない靴。
目を玄関周りに走らせると、右端に木製の郵便受けがあることに気付く。それぞれ入居者の姓の紙が貼られている。直子が言うように、ここを第二の空間として所持しているヒトが多いのだろう、郵便受けは殆どが空だった。
「101、里見。102、園池。103、児島。104……紫。105、は空き、106は田中」
これだけではどれが黒猫の姓なのか判断する材料にならない。彼らはきっと名を偽る。
それに、ここで突っ立っていても埒が明かない。
「すまない! 『土倉真倉』の者だ!」
呼び出すに限る。いい加減、猫も人に戻った頃合だろう。
直子は私の声にビクリと体を強張らせた。繋いだ手からそれは伝わる。
しばしの沈黙の後、二階から「ギイ……」と戸の開く音が聞こえてきた。
足音無く、気配だけがこちらに近づいてくる。
直子が私を握る力は強くなる。乾いていた手は汗で湿る。
気配の割には「突然」。
灰色のスラックスに包まれた足元が、ぬっと踊り場に現われた。上半身は暗くて見えない。
「誰……?」
と、男は問う。
「お前は誰か」と言う意味をこめて、男は言った。
存外高くて掠れており、邪気や威嚇の含まれない声色だ。間抜けとも起き抜けとも取れるような。
「夢野の使い、と言えば解るか」
「え!」と掠れた短い声が聞こえたと思った途端、だん、と足が床を踏みつける。男は転げ落ちるような勢いで階段を下った。
「お、おい、気をつけろ!」
目線は段をしっかり見ていたにも関わらず、彼は最後の一段で転びかけた。
――そのまま倒れれば、直子にぶつかる。私は咄嗟に直子を抱きこんで彼に背を向けた。そんな私ごと、男は抱きしめた。
しかし、我々が転倒の衝撃を受けることはなかった。まるで羽毛布団が掛かったような軽やかさだった。不審に思って体の力を緩める。
振り向きかけたところを……
「黒ちゃん! 久しぶり!」
そう叫びながら彼は私の頬に唇を付けた。しかも、「黒」だって? ふわりと何かの花の薫りが男から漂い、私の鼻腔をくすぐる。
頬への奇妙な感触に、思わず肘を最大の勢いで彼に向かって引いた。
――ドス と厭な音がして鋭利な肘は男の腹部に直撃する。……しまった。強すぎた。
「う゛う゛……」と耳障りな呻きを挙げて男はずるりと手を下げる。やがて、バナナの皮がむけるように私から離れて倒れこんだ。
「……ど、どうしたの夢野さん、」
直子は私の体に収まっていたため、事態を飲み込めていない。彼女の眼前には、腹を抱えた男が蹲っているはずだ。いきなり抱きつく方が悪いと思うので、少しだけ憤然とした気持ちを抱いて私も振り向いた。
「黒ちゃんじゃないのお……?」
男は顔を床にうずめたまま零した。掠れが消えた潤いある声だった。
その髪の色は、黒。ふわふわと癖のついた髪質だ。その薄く粗末な体が身に着けているものは安価そうな灰色のスーツ。そのままの格好で寝ていたのだろう、そこかしこに皺ができている。
「ええ……あの……大丈夫ですか?」
直子が怯えながら男の傍に座り込む。気遣う必要はないと判断した私は憮然と男に問う。
「お前は『使い』だろう。私は最近雇われた夢野の使いだ。あの男に用があるのだろう。迎えに来たぞ」
男はゆっくりと顔を上げる。
意外や意外。美しい造形だった。男とも女ともつかない。黒々とした瞳は丸くて、赤ん坊のように健康的な肌色だ。しかし、その格好から察するに、人間界での設定としては成人しているのだろう。
目の端には涙が滲み情けなくまゆ毛が下がっている。口もへの字に曲がっている。お世辞にも「格好良い」とは言えそうにない。
多くを語りたそうに目がきょろきょろと動き回った。やがてその頼りない口をようやく薄く開いた。
「違うよ……」
「『使い』じゃないのか?」
私は焦る。彼は上目使いにして頷いた。
「僕が主人だよ……」
「お前が……主人?」
直子の助けを得て、彼は胡坐の体制にまで立ち直った。
腹の底から這い出るような長いため息をつき、苦笑する。
「こんなに横暴で豪胆な使い魔は緋髪ちゃん以来だよ……夢ちゃんも物好きだなぁ……」
折角私が「魔」を抜いて語っているのに、こいつは「使い魔」と言ってしまう。
人外の連中に守秘義務があるなんて思えないが(彼らは何時だって横暴な気がする)、話の流れやすさを考慮したら「魔」は抜くべきだ。
案の定、直子は「はあ?」と間の抜けた声を出して口を開いた。
私がじろりと睨むと、男は蒼白になって口を覆った。……もう遅い。まるで叱られた子どものような目で私を見上げる。こういう手合いには、高圧的に当たっても百害あって一利無しだ。
呆れた私は、彼に目線を合わせるように玄関先に腰を下ろす。
「いきなり肘鉄を食らわせて悪かった。……名前は」
「僕は、紫……」
恐らく、この調子だと男は本名を名乗った。私の名や素性を逆に問いもしない。阿呆とでも言える無防備さに益々頭を抱えたくなる。
直子は卒然、すっと立ち上がった。「違う……」そう言う表情にはどこか怯えが窺える。ふるふると小刻みに頭を振った。私と、「紫」と名乗る男は彼女を見上げた。
「あなた、新しく来た人じゃない! だって、彼は『眼鏡のパリッとしたイケメン』で、名前は『菫』だもの!」
「ああ、それは僕の……」
そこまで言いかけた男の口を私の手が覆った。また余計な説明をされたら困る。かと言って、私が妙な話をでっち上げてもまずい。「彼ら」の間で、人間界で暮らすための何らかの設定を既に作り上げているはずだからだ。
しかし、その所為で妙な沈黙が漂った。流水音だけが相変わらずその間を埋めている。
「……二人、知り合いなの?」
直子の疑いに、我々は頭を振って否定する。
ようやく(頭が)落ち着いたのか、紫はそれなりに信用できる作り笑いを見せた。
「ああ、僕はね、彼の兄だよ。近所に越してきたと聞いたんで、顔を見ようと思ってね」
直子は眉をひそめる。この青年を怪しい人物として判断したらしかった。
なぜなら、紫は折角の笑顔を台無しにするほどの絶望的な棒読みをしたからだ。私でももう少しまともにやってみせる。
――その時。
「どうされましたか、」
突然、浴室らしい扉が開いて男が現われた。ユカリは安堵に顔を輝かせた。
「きん…………、菫!」
一つ咳払いをすると、俄然自信たっぷりの態度を見せる。
「紹介しよう。あれが……僕の弟こと、……スミレだ」
ユカリの言葉は、もはや怪しいものでしかない。絶望的なほどに似ていない彼の「弟」とやらは、律儀に頭を下げた。タオルを腰に巻いただけの姿で。
気付けば、水の流れる音は止まっていた。