16 兄弟冷戦
夢野とオルは如何なる感情の時でも、微笑を纏って会話するのを忘れない。不愉快な時はなおさらだった。
「……ほぅ」
夢野は伏し目がちに、吐息とも返答とも取れる微妙な音を発した。その曖昧な反応に、オルは詰まらなそうに片眉を吊り上げた。
「な〜んだ、気の無い返事だなぁ。君の親友が復活するって言ってるのに。眉毛くらい動かしてくれたって良くない? ま、その前髪の所為で殆ど見えないけどさ、」
こうした挑発も受け流し、夢野は相変わらず淡々と語るのだ。
フィルターがかかったように不鮮明なこの主人と使い魔を、オルはいつも不気味な気分で眺めていた。それを取っ払うのがオルの趣味だが、表に現れ出たものだけでは彼の本心を読み解く材料として足りなかった。
「彼岸の復活ではありませんよ、オル。……彼岸と同じなのは身体情報だけです。肉体も記憶も別物。むしろ、あらゆる要素が『彼岸』から遠ざかります。あの、赤い髪と瞳を除いて。彼岸だって、我々だって、脈々と作られてきた複製体の中の取るに足らない一世代ですから。……作り替えられるたび違う名前が付いて、人格もそれぞれで。馬鹿らしいったらありません。しかも、その大元すら何者かハッキリ判っていない」
「ま、その通りだよね。この肉体が朽ちればまた新たな体が作られる、ね、それだけさ。そしてそれは今生きている僕とは無関係の出来事さ」
「そうです。だからもう、『彼岸』という名も、存在も、語ることには意味が無いんです。……私を除いて、ですけど」
その呟くように零れた一言に対し、「正体見たり」とでも言わんばかりにオルは満足げに首をかしげた。
「何さ、つまりさぁ、夢ちゃんは……まだ彼岸が恋しいわけかい」
彼は、「彼岸」と呼び捨てにしてしまっていることに気づいていない。そんな彼の迂闊さに、夢野は口の端を持ち上げて微笑む。 感情を表出した彼はそのまま言葉を紡ぐ。
「僕は夢ちゃんが『大好き』だけどね、」
「おお、厭だ。嘘つき、あなたは大嘘つきですねぇ……」
遮られたオルは、一度言葉を切って瞼を閉じる。その一瞬で、美しい顔には寒気がするほどおぞましい冷たい表情が張り付く。
「彼岸は大嫌いだよ」
黒髪小僧がカップに珈琲を注ぐ音が、張り詰めて破れそうな空気を辛うじて保っていた。
コポコポという軽い音を聞きながらオルは、ふ、と鼻を鳴らして腕を組んだ。すると、不穏な気配もすうっと波に消されたように引いて、からかうような気軽さが代わりに浮かび上がる。
「君と彼岸くんは、まるで………『家族』みたいだ。そんな感情、僕らは持つべきじゃないんだよ、夢野」
「私は彼を家族だなんて思っちゃいません。親友でした」
「……ならいいけどさ。家族への愛ってやつは、一見美しいけど、他から見たら只の理不尽なんだ。その愛ためならば、彼らは平気で世界を裏切る。何もかもを壊してしまえる。家族の愛ってのは、それだけで犯罪ものだ。……うん、夢ちゃんはそうじゃないみたいだし、安心したよ」
安心、その言葉を特に強くオルは発音した。
「まるで兄貴分みたいな言いようですね、オル」
オルは、夢野の皮肉に声を漏らして笑った。今のは本当の笑いだったようだ。
「だって、僕は本当に、君のことを弟みたいに思っているんだ」
「……支離滅裂ですね。家族感情を否定する割に、貴方自身、それを抱えていると言う。一応言っておきますが、私は貴方のことを兄だなんて思ったことはありませんよ。私が貴方を『お兄さん』と呼ぶのは、キルシュの……」
「おっと残念! この愛は一方通行でも成り立つことがミソだよ〜」
人差し指を左右に振り、小さくウィンクしながらそう言った。それはアリスの癖だった。
「だから、死んだのが彼岸くんでよかったよ。いたたまれないじゃないか、彼岸が生き残って君が死ぬっていう構図は。そんなのって、なんていうか……仕留めそこなった鼠のようだ」
「そんな仮定をすること自体、意味がないですけどね、でも、」
あくまであどけなさを纏って問い掛けるオルに、夢野はゆらりと首を傾げ薄く笑う。長い黒髪が不吉の象徴のように頬に淋しく垂れ掛かる。
「……嘘でしょう。貴方はほんとうに嘘つきだ」
窓ガラスに衝突し、床に転がるような冷たい声だった。
「酷いなあ」
オルは大袈裟に唇を突きだして甘えた声を出す。
「君は変わっちゃったよ。育成局の制服がよく似合う、可愛い子だったのに……。君は本当に、血が通っているのかい?」
そんな彼を夢野は大人しく眺め、頬に垂れた髪をそっと耳に掛けた。そうすると、繊細なバランスを持つ目鼻立ちが浮き立つようだ。その面影に、オルはかつての夢野を見出すのだった。咳払い一つで夢野は話を切り上げる。
「兎に角。我々が、推論やもしも話を交わしても仕方の無いことです。それに、私だって、指示のもと動くだけです。……正直な所、夢野商会が指名されるのは御免こうむりたいですけどね」
「どう考えても君のところだろう。ま、加勢は格安で請け負うよ。連合軍らしいからね、あちらさん」
「けちですね。タダではないんですか、お兄さん」
「夢ちゃん、つぎ、『お兄さん』って呼んだらキルシュ殺すから」
この男なら本当にしかねない、と黒髪小僧は思った。しかし夢野は、能天気に笑うだけだ。キルシュは彼の妹などではないことはオル自身、解りすぎているくらい、解っていた。
もう一つ補足するとすれば、夢野に対するオルの気持ちは、大好きどころか大嫌いの範疇だ。それ以上に、「どうでもいい」のかもしれないが。
図々しい客人は、細い腰をようやくソファから上げた。
玄関まで夢野と黒髪小僧は見送りに出て行く。音は相変わらず出窓で気持ちよさげに出窓で寝ている。オルは彼女に目を留めた。
「ところで夢ちゃん。この子は登録済みかい? それと、訓練局は通過したのかな?」
「いいえ。私の、収穫物ですから」
「なに胸張ってるんだよ。……規則違反じゃないか」
彼は無表情で責める。
「せっかく容姿のいいのを捕まえたんです、馬鹿正直に訓練局に預けて間違って育成局の後輩たちに回されるなんて耐えられませんねえ……。何より手続きが煩雑です」
夢野は僅かに顔をしかめた。オルは呆れたように腰に手を当てた。夢野は大概、自分の価値観で全てを判断する。そのせいで、部下も持たずにワンマンで商会を経営する羽目になっている。その割りに優秀な成績なのが驚くべきところだった。
「まったく君って奴は、自己中心的でいけない。君がこの一匹でも魔界に回せば、誰かが契約できるんだ。後輩や使い魔に技術を伝承するのは年長者の務めなんだ。君みたいな風来坊が増えたら、魔界もお終いだよ」
オルの兄貴的説教が始まってしまった。加えて此処が玄関先であるのが夢野と黒の気に障る。
「ま、ね。僕らは大抵自分への興味がほとんどだけど、行動の根本はみんな『魔界のため』さ。人間界を見てみろよ、とくに君の住む国ときたら、」
「……そういう話はやめましょう。しかも異界の、」
オルは言葉に詰まった。自分が住んでいる世界の情勢に疎く無頓着なのも、夢野の特徴だ。例えば日本で戦争が始まったとしても、国家が破綻しようとも、あの商会で静かに本を読んでいそうなものだ、とオルは思う。
(夢ちゃんには何言っても無駄かなぁ……)
「とにかく、自己中心的な思考は、塵も積もれば山となる。ね? ……世界を破綻させかねないんだよ」
「まさか貴方に言われるとはね。……でも、私の知ったこっちゃありませんねぇ」
オルは夢野の言葉に僅かに不安を抱く。それは魔界では危険思想に繋がる。夢野が核心を突く言葉を発しないのがせめてもの救いだった。
《生神には魂が無いんです。過去も未来も関係無い。》
そう開き直ることは即ち、自己のみを見つめて生きる姿勢に転換しやすい。
《私がいない世界など、どうなろうと知ったことではない》
その思考はじわじわと魔界を弱めることとなる。
通常そこまで自分の存在意義について考えないのが「生神」たる所以なのだ。
その点、確かに夢野や彼岸は異端だった。
しかし、夢野が彼岸と違うのは不安の感情、――存在不安――を表出したりすることは無いのだ。
「その感情によって、仕事に影響が出たり、反旗を翻すことは無いだろう、夢野はただ単に自分の享楽を求めるだけ」。 少なくともオルはそう判断している。
「君は気まぐれで、狡猾で、優秀だ。今回の件もそうであることを祈るよ。……普段は腹が立つほど冷徹なのに、彼岸くんのこととなると、君はまるで詩人のように情緒が潤う。ね、そんなところが心配なんだよ」
「まるで私が既に討伐隊に指名されているかのような口ぶりですね」
オルは肩をすくめて苦笑した。
「決まってるさ。この仕事は君等、夢野商会のものだよ」
「そうでしょうか。手は打ったのですけどね」
「どちらにしろ、彼女を壊すのは嫌な気分だね」
「なにを差し引いても、」
「「緋髪小僧は美しい」」
見事に声をそろえた二人を、黒髪小僧は蔑んだ目で見上げた。
「お二方とも、そんな理由で神経質になっていたんですか」
「黒ちゃんにもう一つ教えてあげようか。赤はね、幸運を引き寄せ、決断力、権力……そして生命力を表す。ちなみに。赤は数字の5と因果関係を持ち、それが表す人格は、過激で行動力があり、好奇心旺盛。本能的で束縛を嫌う、それから、」
「人間関係破壊者」
と、夢野が引き継ぐ。彼は袖で口元を覆っているので、その声は幾分かくぐもっていた。オルは満足そうに、その答えに頷いた。黒は胡散臭そうに二人を見上げた。
「信憑性無いんでしょう、そのお話……。第一、美しさがなんになりますか」
突然、オルは目を光らせた。
「黒ちゃん、君は解ってないよ! 魔界は美によって保っていたといっても過言ではない! 美しさの定義って言うのは、時代と共に移り変わるものでありながら、芯の強いものでもあるんだ! まず、均整だよね、重要なことは! バランスがいいってことは丈夫ってことで……その美しさは生き物の生存・生殖本能を強く揺さぶるんだ! だから美しさを求める姿勢は決して蔑まれることでは無く、むしろ……」
彼の講釈が終結する前に夢野はその重厚な戸を閉め鍵を掛け、彼を締め出した。外では未だ彼が何か喚いているが、夢野も黒も、もはや耳を傾けることはしなかった。
黒は戸にもたれ掛かりながら長いため息をついた。夢野は微笑んで黒を見下ろした。
「下のものに世話を焼きたがるのが兄ってものです。適当にからかってやりなさい」