14 「アリス」
「おやおや、みなさんここにいらしたんですか。」
アリスは顔を上げて、遅れて現れた夢野へ落ち着きのある笑みをかえした。
「相変わらずとんちんかんな部屋ですねぇ……。アリス、家には帰っているんですか」
ここに生活感が見受けられる有様なので、そう聞くのだ。ソファーベッドのフチや、トルソーの腰を指先でなぞりながら、彼は部屋の中央へ向かう。
「帰ってないね、ここのところ。だって、『あの事件』があったんだ。誰も今は忙しくてここを離れていはいられないよ。もちろん、研究所から個人宅まで直通回路は引けないし」
彼女はすこし疲れた様子で、椅子に掛かったネグリジェをハンガーにかける。天井のシャンデリアがきらきらと、聳え立つ重厚なガラス戸の付いた本棚や巨大な天球儀に光を落とす。
彼女の部屋は人間界の豪奢な家具や雑貨で埋め尽くされている。キューブによる縮小が効かないので、人間界の物は置けば置くほど空間を食う。それでも、インテリアやコレクションとして成立するのがそれらの醍醐味だ。人間界の品を愛好する生神も少なくない。専門店もあるくらいだ。
そのようなわけで、この部屋はモノが絶対的に多い。だが、総じて彩度が低く暗色でまとめられているので、鬱陶しい感はない。むしろ雑多さに由来する面白みが漂う。
「貴女はこうして個人研究室があるからかまわないでしょうが、他の方々は詰め所や共同空間でしょう? お気の毒に」
「別に、仕掛けようと思えばいくらでも空間拡張はきくよ。すくなくとも、職員全員の個人研究室を設置する程度なら。でも、上層部が動かないのは研究室持ち職員の特殊性を壊したくないんだろうね、この状況下でもさ」
疲れの影に侵されたアリスの横顔が、壁面いっぱいの鏡に映る。くすんだ金・銀・銅、木といった枠の大きな鏡。漆黒の部屋の壁という壁に鏡が巡り、合わせ鏡が何処までも続く。これに限っては落ち着かない調度だ。
「溌剌としていない貴女は、らしくないですね。気味が悪い」
「こんなときに、無茶な注文をするね。せっかく君と二人きりだから、ようやく肩の力を抜けたってのに。……普段だって、べつに元気ぶってるわけじゃないけど、」
「他の方々はどうしたんです」
「帰らせたよ。きみももう帰るの?」
何のために現れたのかわからないキルシュだった。
猫ちゃんたちはこっち、とアリスはソファを示した。深い赤の滑らかな生地が張られた曲線が美しいソファに、使い魔たちは猫の姿でびろうどのクッションの様に丸まって寝ている。黒髪小僧が無防備に寝るのは珍しいことだ。
「さっさと帰りますよ。発注した音の刀を受け取って帰ります」
「気色悪いなぁ、その話し方。前の方がずっといい、」
夢野はすみません、と形だけの謝罪を口にする。
「こっちはきみの状況は大体知っているけど、きみは魔界の状況が良く解ってないでしょう。何か教えようか」
夢野は結構だとアリスの提案を退ける。久しぶりだと言うのに、彼は世界の状況に無頓着だ。
「ま、そう言うと思ったよ。ただね、シトロンが『先日はありがとう』って言ってたよ」
「先日? ……ああ、黒猫調達の件ですか。それに関しては私も連絡を受けていますよ。活況で魔界から離れられないんだとね。まあ、彼にも立場がありますから。こんなときに大活躍するのが、身軽なキルシュお嬢様ってわけです」
作業台に向いていたアリスの目の光が、ふと暗くなった。
「あの事件、知ってるんだね。知ってるから来たんだろうけど。緋髪小僧が逃亡したんだ」
夢野の口は、ひがん、と動く。それを見て、アリスは顔をしかめた。
「彼岸がどうしたってのさ」
いいえ、別に。と笑う。
「あいつは死んだんだよ」
アリスは冷たく言い放つ。
「……可笑しな話だよ。『赤の主人』の複製体製造に着手するまで数十年のロスがある。緋髪小僧の記憶処理も手間取って、未遂に終わった」
「外的な力が働いているんですよ。こう考えてはどうです。彼岸がいまだ、どこかで糸を引いているとしたら、」
夢野は天球儀を指先でくるくると廻しながら不気味に口角を上げる。合わせ鏡の向こうの幾人もの夢野も一緒に笑った。
「ばかはよして。……それとも、いつもの悪趣味な冗談なの? 研究所も神殿も、ちゃんと彼の消滅を確認してる」
解っていますよ、と湿った笑みを浮かべる。
「わかっていないから、そんな顔をするんだ」、アリスは彼につかみかかりたかったが、冷静な部分と哀れみが、それをおしとどめる。
彼岸と夢野は、唯一無二の親友だったから。そして彼岸と自分は、顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた犬猿の仲だ。実際、彼の死の報せを聞いても、こころは悲しみの方面には動かなかった。ただ、「ああ、アイツは壊れたのだ。喧嘩相手は消えたのだ」と受け入れただけだった。同じく神妙に聞き入れた夢野が、心の中で何を考えていたかなど、計り知れなかった。今に至っても、こうして彼の名を出す夢野を不気味だとすら思う。
そんな自分の声に、夢野が頷くとも思わなかった。
夢野は、ぐにぐにと軟体動物のようになってしまった二匹の猫を抱えて戸口に向かう。
「……何です、この子たちの様は」
浸っていたアリスは、はっとしてたじろぐ。
「あ、ああ。私が変身用の新作を試したらこうなっちゃって……」
心の中で、自分の頬を打つ。しっかりしろと、頬を打つ。
「アリス特製変身ビスケット。カプセルより可愛いくて美味しいんだよ!」
アリスは、毒々しいペールトーンのマジパンをかぶせ、アイシングでデコレーションされたビスケットを手のひらに乗せる。途端に、夢野の白い顔は、むしろ青へと変わる。
「変身と言うことは、私の血が入っているでしょう。どういうことです……キルシュは貴女に売らないと誓約したのですが」
「ん? 彼女は『売った』んじゃないよ、『譲った』んだよ」
「人の言葉尻を捕らえて! 卑怯です」
突然手を伸ばしたアリスは、猫を抱えて両手が不自由な夢野の首筋を掴むと自分に引き寄せた。
息つく間も無く前に屈ませられた彼は、無用心な首筋に鋭く歯を立てられた。
その不可解な仕打ちに、夢野は声をかみ殺して眉間にしわを寄せるだけだ。
アリスは、唇の血を舐めると薄ら寒い微笑みを浮かべた。
「私から……逃げ続けてる君も卑怯だよ。」
やがて彼女は、だらしない彼の着物の襟を正してやった。
彼女は、自分自身の行動にこころが追いついていない、脈絡がないと呆れていた。
「私はきみが好きだなあ」
熱に浮かされたような、それでいて機械的な告白に、夢野はいつだって眉をひそめる。にやにや笑いがデフォルトの彼が、顔をこわばらせる。
「……知っていますよ」
そのあとは、いつも同じ言葉が続く。「だからどうしろって言うんです」。それには、今度はアリスが困った顔をしなければならない。
「別にどうしようとも思わないよ。ただ、きみの血はとても不味い。床に吐き捨てたいほどに」
「じゃあ、吸わないでください」
アリスは快活に笑った。吸ってないよ、と。
◆
研究所を出た夢野は、なかなか目を覚まさない二匹の黒猫を抱えて往来を歩く。和服姿とうっとうしい黒髪は異彩を放っているのに、誰一人彼を気に留める者はいない。姿さえも一定とは限らないこの世界では、今現在の外見の様相など拘るところではないのだ。
彼は、大通りから右に折れる、アーケードの架かったほの暗い路地に向かう。繊細なレリーフがほどこされた透かし看板が各店舗にぶらさがる。その上には不吉に顔を左右に振っている烏が、くすんだ石畳の道を見下ろしている。一匹が鳴くと、感染したように他の烏も騒ぎだす。
ピストルの交叉したレリーフが掲げられた古めかしい店舗に手を掛けた。ぼろぼろの木製の戸は、不快な低音を発しながら静かに開いていく。
「いらっしゃい!」
フロアランプのみで照らされた陰気な店内の奥から、そこには不釣合いな陽気で幼い声が飛んできた。夢野の目線その先に、ミントアイス色の靴下が鮮やかに見えてくる。
やがて、その高い位置のカウンターに尻を乗せている少女の全体像が浮かびあがってきた。
「ようこそ! 何をお求めですか、お客さん」
靴下と同じ色の長い髪を、高い位置で二つに結った少女だ。クリアなグリーンとブルーが基調のタータンチェック生地のサロペットを一枚で着ている。そのため、少年のように華奢な骨格や、飴玉のようにつややかな肩口の肌色が顕になっている。棒のような足は、太ももまである靴下がおおっている。
「おや、君がお留守番ですか、翠髪小僧」
少女は、身を乗り出して無遠慮に客人を眺め回した後、身軽にカウンターから飛び降りた。一瞬ためたかと思うと、ぴょんと夢野の腰に飛びついた。
「わぁわぁ! 夢野様、お久しぶりです」
「いい子にしていましたか、翠髪」
二匹の猫で両手が塞がっているので彼女を撫でることが出来ず、ただ微笑んで見下ろした。
「はいっ! ……あれ、そこに見えるは、黒髪先輩ではありゃしませんか」
翠髪は、手を伸ばして夢野から黒髪小僧を譲り受けた。相変わらず黒髪は起きる様子が無い。
「わぁわぁ、黒髪先輩が寝ているところなんて、はじめて見ました。なんて可愛いんでしょう! こんなにくってりしちゃって……なにか術を掛けられているんでしょうか?」
きょろきょろと、好奇心旺盛そうな使い魔「翠髪小僧」はものめずらしそうに黒を見上げる。
「いえ、アリスにしてやられましたよ。新発明とやらの餌食に。君も気をつけなさい」
「およ、じゃぁ変身系の製品ですね。だったら、さっさと起こして差しあげればいいのに」
「起こしたら起こしたで、黒髪はうるさいのです。それは、君もよく知っているでしょう」
翠髪は、華奢な肩を揺らしてくくっと笑った。
「じゃあ、そっちの黒猫ちゃんはどなたです。新入りさんですか?」
「ええ。『音』といいます」
彼女は、今度は音の寝顔を眺めた後、ふくふくと幸せそうに拳を握った。
「めちゃキレエなお姉さんです」
その評に、夢野はいたく上機嫌になる。
「そう、そこが私の気に入っている点です。そうそう、今日はこの子の『陣』を引き取りに来たんですよ。ご主人はお留守ですか?」
翠髪はぴくりと姿勢を正す。
「さっき、緊急大会議に呼び出されちゃいました。最近、大会議が多いんですよ! この前は緋髪先輩が逃亡したとかで! 今回はですね~、天使から『休戦協定』が出されたとか。……だから、スイが姉御の代わりをしますよ。お任せあれよ!」
彼女はそう言って薄い胸を叩くと、カウンターの下にもぐりこんだ。ガシャガシャと、ガラスの海を泳いでいるような背筋が凍る音がしばらく続く。
数秒後、ニョキ、と使い魔の武器『陣』がカウンターに「生えて」きた。
続いて翠髪がひょっこりと顔をだした。
「これですね!」
夢野は、二匹を床に降ろした。ゼリーのようにとめどなく流れていってしまいそうに脱力している。
彼女から陣を預かると、鞘から刀身を抜いて何かを確かめるように撫であげた。流れるような仕草で、ヒュッと音を立て刃を振りおろし、銀色の光は空を切る。
夢野は、満足そうに目を細めた。
「時に。ご主人は、緋髪について何か言っていませんでしたか? その、彼岸のことを、」
翠髪は無表情にかぶりをふった。
「姉御は、スイに難しい話はしてくれません。それに、姉御は彼岸の兄さんが大嫌いでした。きっと、緋髪先輩のことも、嫌いです」
刃を鞘に収める。暗い表情で翠髪小僧の返答を受け取った。
「我々は、武器商人です。ですから、姐御は研究所のエライ人にも、逃がすのを手伝ったんじゃないかって疑われたのですよ。姐御は、その無礼にとてつもなく怒ったんです」
翠髪小僧は顔を顰めて、苦々しげに爪先を弄んでいた。
「そんなわけないんです。そんなこと出来ないように、ウチの製品には『登録』がしてあるのです」
彼女は、「エライ」研究所職員らに釈明をするような必死さで、夢野を見上げた。夢野自身、この店の登録のしるしが何であるか、よく知っていた。と同時に、今ここで黒髪小僧が眠っていて良かったと、アリスに感謝したいと(一瞬だけ)思った。
「……そうですね。……では、私どもは帰るとしましょう。ご主人によろしくお伝えください」
陣を帯に差し込むと、床に転がっていた黒髪小僧と音を抱え込んだ。翠髪小僧が代わりに戸口を開け支えてくれている。
「あの、夢野様、」
口ごもる彼女に夢野は首をかしげる。
「その、スイたち『12人』は、主人が死んだら逃げることが出来るんですか。あの、スイはそうしたいんじゃありません。ただ、」
「翠髪小僧」
夢野の芯のある声に彼女は背筋を伸ばした。黒髪の隙間から、獣じみた瞳が暗く光る。
「貴女が逃げたくなったら、その時は、それに答えてあげましょう」
彼の両手は塞がっていたが、翠髪小僧は頭を撫でられた気がした。それはそれは、冷たい手で。