13 猫神博士
「君の貧弱な身体では夢野様を抱くことなど出来ないだろう。さぁ、この僕の悠々たる姿を目に収めるがいい」
「……僕は夢野先生に抱かれても、抱くなど遠慮したい」
黒は、先程から妙に絡んでくる碧髪の青年に随分げんなりしているようだ。碧髪小僧は逞しい腕で夢野を姫のように抱き、さながら姫を救出した勇者然としている。そうだとしたら、随分不健康そうで不気味な姫ではあるが。
夢野の家を出た外は、まるで童話の世界だ。いや、西洋世界と言い換えてもいいだろう。尖塔のある建物がたち並び、町全体が沈んだ色合いで、煙で燻されたような長い歴史の蠢き、深い記憶の沈殿がそこかしこに感じられる。そして、胸が締め付けられるような、この感覚はなんだろうか。
アリスは言った。
「魔界に来るのは初めてだね、音。ここはね、うっかりしたら、とんでもないことになるから、常に私たちの傍を離れないで」
私は、コクコクと頷き、空気に漂っているであろう、濃厚な魔力の気配を身に感じながら、セーラー服の上から、腕をぎゅっと握り締めた。
我々は『研究所』を目指す。魔界の中枢機関のようなものらしい。魔界中の生命力と研究者が集い、日々魔界の発展のための努力を続けている、とか。アリスはそこの職員、変身分野の開発研究者だ。
他の魔界の機関(政策・司法・教育など)や、神殿の説明を受けたが……さっぱりだ。
良く分からないが、とにかく、研究所はそのなかでも最高機関だってことだ。
「……あそこよ」
キルシュがノワールを抱いたまま指差した。ひときわ高く太い尖塔を持った黒い建物だ。まるで黒曜石で出来ているような不気味な艶を持っている。黒くて高い門を越えた先に大きなロータリーが現われ、その中央には黒い氷が張ったように静かな円形の噴水が。
近づくに連れ、建造物の表面に施された繊細な壁面装飾と彫刻に目を奪われる。烏がデフォルメされて連続したレースのような装飾文様となっている。ヒトの形をした彫り、あれは生神だろうか。そして、それに跪いているのは、猫だ。使い魔に違いない。なるほど、ここでは『悪魔』とやらは、生命力を魔界にもたらす神、まさに生神と言えるのだろう。
荘厳な扉の前には、黒ずくめの、槍を持った兵士が警備している。烏のような兜を被り、まるで黒死病と戦う西洋中世の医師のようだ。アリスが職員証明書を見せると、ザッと厳しい音を立てて、クロスさせていた槍を退かせると、勝手に扉は開かれた。
驚いたことに、内部は真っ白だった。徹底的に無機質だ。だだっ広いフロアには、何も無いし誰も居ない。何処までも、地平線のように白が広がっている。
アリスが職員証をひらりと空に晒すと、突然同じく真っ白な直方体の物体が床から生えてきた。やがてそれは扉を開く。エレベーターのようだ。
我々全員を飲み込んだそれはアリスの入力に従って動いていくらしい。静止しているような静かさを暫く保っていたが、突然扉は開いた。勿論、乗り込んだ所とは違う場所に着いた。確かに移動していたようだ。最早、上下左右、その感覚は失われた。
エレベーターの扉の向こうでは、真っ白い廊下が何処までも続き、その両脇には、「0901」などと、何の秩序も無い出鱈目な四桁の番号が刻まれた部屋が整然とずっと続く。そもそも、外から見た限りでは、内部はこんなにも横幅も奥行きも無かったはずだが。
エレベーターから真っ先に降りたアリスは、困惑している自分を見透かしたように振り向いた。
「ね。おかしいでしょう。魔界では物理法則は信用できないの。ここには正しい意味での廊下も階も、配置さえも存在しないから」
部屋番号「8982」、その部屋の前でアリスは立ち止まる。
彼女が職員証を壁面のカードリーダーに読み取らせ、瞳孔チェック機にかかり、更には手を扉に宛がうとようやく静かにそのドアは左右に開いた。
白が基調の部屋の壁に広がるのは黒のコンピューターの液晶画面と呼べる物体だった。その黒は水面のようにゆらゆら揺れ、夜空を模したように星状の光が煌々と輝く。その広大な研究室の中二階から我々を見下ろしたのは、白衣を着た真っ白なおかっぱ頭の少年二人だった。
○
……彼らは囁くように、二人だけで会話する。
「ねぇ、白髪小僧、あの子が来たよ」
「ええ、そうですね、博士」
「さぁ、白髪小僧、用件を聞いてきてごらん。僕は少し疲れているんだ」
○
するすると、その天井桟敷状の場所からステップを使って少年の一人が降りてきた。驚くほど全身が真っ白だ。長い前髪を中央で分けて耳に掛けている。瞳も白いが、その眼球は働いていない。
「彼らは違う感覚をしているだけだよ」
はっとしてアリスを振り返ると、微笑んでいた。彼女は深々と頭を下げる。
「白髪小僧様、研究員アリス、及びキルシュ、夢野商会夢野が参りました」
アリスは恭しく頭を下げる。白髪小僧と呼ばれた少年は、彼女の頬にそっと触れた。それを合図にして、彼女は顔を上げる。
「僕が博士に代わって聞くね。博士は今、疲れているんだ。夢野のお迎えご苦労様、アリス、キルシュ。待っていたよ」
優しくそして高い声だが、水の向こうから聞こえてくるようにふわふわして掴みどころが無い。
「私のたわむれが過ぎて、気絶させてしまいました。起こします」
彼女は照れた様子でこめかみを小指でかく。
「変わらないなぁ。夢野は僕に任せて」
彼はアリスの傍を通り過ぎ、私の傍を過ぎた後に、彼は思案するように顎に指を這わせた。
「あ……この感じ……夢野に新しい使い魔が増えたね?」
「夢野先生は『音』と名付けました。」
と、黒が補足した。
白髪の少年は、今度は黒のいる方を見た。こころもち、華やかそうな笑みが浮かんだ。
「おや、黒髪小僧……久しぶりです。また随分と鍛錬したようですね。そうですか、……『音』……貴女の魂に相応しい名前です。最期に闇と消えんことを……」
『闇に消える』だなんて不穏な言葉の雰囲気ではあったが、彼は優しく私の手をとり微笑んだので祝福の言葉と受け取り、一応、礼を述べた。
白髪の少年は最終的に碧髪小僧の元へ寄り、彼に屈んでもらうと夢野の額に手をあてがった。白い光を発したかと思うと、夢野はふるふると気がつく。焦点の定まらない目で、傍で見下ろす白き少年を幻のように眺めた。よろよろと青白い手を伸ばし、白髪小僧の柔らかそうな髪に触れた。白髪小僧はその手の形を確かめるように両手で掴んだ。
碧髪小僧は静かに夢野を腕からおろす。
「……どうやら私は気絶していたようですね。目を覚ましたら貴方がいるなんて。白髪小僧ではありませんか。お元気ですか?」
「うん。でも、夢野。君の方は随分不摂生をしているね。身体組織物に偏りが見られるよ。たまには魔界に来てメンテナンスをすればいいんだ」
白髪小僧はわずかに心配顔を見せた。それを全く意に介さない夢野。着物の懐に手を突っ込むと、白髪小僧に小さな白い粒を渡した。
「これを博士に。我々は撤退しましょう。後ほど挨拶に参ります」
夢野は、ちらと中二階を見上げた。博士が降りてこない理由を、彼なりに想像したのだろう。彼は後ろ髪を引かれる様子ではあったが我々を促して外へ出ようとするのだ。
そこで、白髪小僧がコツリと小さな足音を響かせ、呼び止めた。夢野は、目線だけで我々に「先へ出ろ」と言った。彼らを残したまま再び静かに、その白い戸は閉まる。
◇
「夢野。緋髪を逃がしてしまったんだ。だから、その……」
白髪小僧は言葉を最後まで紡ぐことなく、うつむいた。
「彼岸の手引きでしょうか?」
夢野が着物の袖で口元を隠して、笑い顔を見せた。対して白髪は、うって変わって髪が揺れるほど勢いよく顔を持ちあげた。
「やめてよ、そんな冗談! 君が言うべき冗談じゃない。それに、真相を解明するのは僕らの仕事だ」
しかし夢野は至極落ち着いたままで「わかっていますよ」と言わんばかりに微笑む。勢い込んだ自分に白髪は少し顔を赤くする。
「……御免よ。夢野だって冷静でいるはずが無いのに」
「いいえ。彼岸が死んだ時点で緋髪小僧は彼の使い魔では無い事位、承知しています。承知できなかったのは緋髪小僧自身なのでしょうよ」
夢野は哀れみの無い表情で、淡々と言い紡いだ。
「彼岸と夢野はいつも一緒にいたね。二人とも凄く優秀で」
「……優秀で、本当に、厄介な教え子だったよ」
もう一人、掠れた声が上方から降ってきた。眠そうな声だ。
「猫神博士。お休みだったのでは、」
「猫神博士」と呼ばれた少年が中二階から静かに下りてきていた。白い眉毛より上方の、極端に短い前髪をしたおかっぱの少年。彼も視覚を使わない。
「僕なら平気。それより、夢野だよ。また性懲りも無く黒猫を契約したね?」
「……耳が痛いです」
「可哀想に」
何が可哀想なのか、ハッキリしない言い方だ。
「おまけに君ってば、人間界に入り浸って。あちらは出張するところであって、僕らが生きるところではない」
博士は、映画のスクリーンほどもある巨大な白いコンピューターパネルの前の、矢張り白い椅子に座る。夢野は、自分より小さい猫神博士と目線を合わせるために、身体を屈める。
「確かに、君達の商会の仕事は群を抜いていて、僕ら魔界はその活躍の恩恵を受けているけどね」
渋い顔をした少年に、夢野はふわりと笑って返す。
「猫神博士、お心遣いありがとうございます。でも、私はあそこが好きなんです。ヒトも」
博士は小さくかぶりを振る。あわせて短い前髪も揺れる。
「君の言い分はよく分かる。でも、たとえば僕らが、一人のヒトを見ようとしたときに、その生は余りに短い。結局、ヒト全般について語るしか方法が無いんだ、僕達には。そこにいても空しいだけさ」
「ごもっともですね。彼らは彼岸花のように儚い。だからヒトは嫌いです」
「彼岸花か、」
二人は、しばしの穏やかな沈黙を共有した。
しかし、せねばならない話は消えてはくれない。そろそろ、始めようか。猫神は、豹のように鋭い瞳に切り替わって、唇の端を噛んだ。
白髪小僧から白い塊を取り戻すと、指で弾いて元の大きさに戻した。さらに二枚の書類を取り出す。皺くちゃな紙を見て猫神はため息をついた。
白髪小僧は、主人同士のやり取りの間の身の処し方を心得ているようで、存在感無く傍で佇んでいる。必要と有らば、そっと手を差し出すのが彼のつとめだ。そこに口はいらない。
「何時もながら天使の仕事は適当だなぁ。今日にも緊急大会議で承認を取ろう。全てが決定するまでに数日が掛かるから、好きに過ごしてて」
「では人間界へ帰ります」
教え子の味気ない返答にあんぐりと口を開ける。
「ゆっくりしていけばいいのに」
猫神は、頬を膨らまして幼い表情をする。それは彼が少年の姿だからだろうか。夢野は、自分の馴染み深い猫神と、この姿との猫神を見比べて微笑んだ。
「そうですね、いずれ。では、こうるさい使い魔が待っていますので、失礼致します」
もう帰るのかいと別れを惜しむ恩師に向かって恭しく礼をすると、ゆっくり、出口に向かって歩を進める。猫神はすっくと椅子から立ち上がり、夢野の背に向かって語りかけた。
「解ってるね。この仕事がいくかも知れないんだ、夢野商会。緋髪は何故か、人間界での君の本拠地の近くに出没したからね」
夢野はゆっくり振り返った。着物の端を口に当てたまま。口の端は奇妙でいびつに上がっている。
「先生も察しが悪い。それを避けたいが為に窓口を通さず直接貴方に届けたのです。この可愛い教え子に、親友の元使い魔の始末なんて惨い事はさせたくないでしょう? 私の為に議会で戦ってくださいよ」
猫神博士は、うっすらと口を開ける。笑みだとは認めがたいほど、うっすらとした代物だ。
「……だから君には手を焼いたんだよ」
夢のも呼応して、薄ら寒い笑みをはりつける。前髪のせいで、瞳の輝きは確認できないが。
「計算ずくで可愛くないんだよね、君はさ。何の下心も無くお世話になった師に顔を見せる、って気持ちは無いわけ」
ありませんねえ、という冷淡な返事が返ってくる。それを期待していたかのように、猫神は満足げに頷いた。彼らにしかわからない符号、あるいは過去のなぞりなのかもしれない。
「期待しないでよね、僕は議会では大した力無いんだから」
冗談でかわすように明るくい声の猫神に夢野は少し驚いたが、彼に再び顔を向けることは無く、白い無機質な個人研究室を後にした。
猫神の個人研究室の前には誰も居ない。恐らくアリスの個人部屋に向かったのだと踏み、夢野は直ぐ左のドアに指を触れる。扉は融けるように夢野を飲み込み、再びその廊下に無が訪れる。吸い込んだ扉の向こうから僅かにペタペタと、彼が廊下をすすむ音が響いているのだった。