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哲学が人を救えるか?
文学が愛を創造できるか?
──水橋明里(15歳 中学生)
教会の中に入った瞬間、煤と火薬が混じった匂いが鼻腔をくすぐった。ステンドグラスから透ける太陽の光に照らされて、空間に漂う灰色の煙がくっきりと見える。教壇に向かって整列された長椅子はひっくり返され、床には血痕や木片が散らかっていた。
レッドスネークへのカチコミに、私がわざわざついてくる必要はなかった。それでも、つい最近訪れたこの教会と半グレ組織との繋がりは運命のイタズラとしか思えなかったし、その最期を見届けたいという使命感、いや好奇心があった。
足元に気をつけながら奥へ進んでいく。とっくに決着はついてしまっているのか、教会の中は不気味なほどに静かで、耳鳴りのように聞こえてくるのは割れたステンドグラスから溢れる喧騒だけ。教壇から向かって右にある扉の取手をつかむ。それは私が自称神様と会話を行った告解室へつながる扉だった。扉を引いて、中に入る。部屋の中は先ほどの大堂と同じくらいに荒らされていて、棚やら、告解の時間を図るために使われていた電光タイマはうつ伏せに倒され、紺色のカーテンは無残に引き裂かれていた。
そして、部屋の中央にどんと置かれた四角いテーブル、シンプルな椅子。そこに1人の若い男が体を仰反らせ、口をあんぐりと開けた状態で座っていた。右手は下腹部を押さえていて、そこからは鮮やかな色の血が流れ続けていた。男が目をあけ、顔を上げる。私と目があう。何となく気まずくなって、私は「大丈夫ですか?」と尋ねる。
「いいや、大丈夫じゃないね。もう助からない」
男はやれやれと肩をすくめてそう答えた。
「ユーも突っ立ってないでさ、椅子にでも座りなよ。ちょっとくらいお喋りしようぜ」
「はあ」
私は近くに転がっていた椅子を手に持ち、自称神様の向かいに腰掛ける。彼は呻き声をあげながら、体を起き上がらせ、まいったねと力なく微笑んだ。
「なんというか、ごめんなさい」
「なんでユーが謝るんだい。別の俺は気にしてないぜ。ただ1人の人間が半グレ連中のカチコミにあって、銃で撃たれて、そんで死んじまっただけのことだ。ユーがどんな死生観を持っているかは知らないけどさ、少なくとも俺はそんなに気にしてない。宇宙規模の時間で考えてみろよ。俺たちは生きてる時間よりも生きていない時間の方が長いんだぜ。死ぬと言っても、それがもとに戻るだけだ。そんなにシリアスになるなよ」
「でも、死ぬのって怖くない?」
「生き続ける方がよっぽど怖いよ。それに、俺の場合はちょっと死に方がレアケースだったってだけで、今こうして世界中のどこかでは何人もの人間が死んでいるんだ。死はユーたちが思うよりもずっとずっと身近な存在だぜ。ただ、ユーたちはそこから目を背けて、死というものを意識の端っこに追いやってるだけだよ」
「何かやり残したことはある?」
「こんな痛い目にあうんだったら、もっと早く死んどくべきだったね」
会話が途切れる。自称神様が右手にはめた腕時計を見て、そろそろ時間だとつぶやいた。
「時間って?」
「もう死ぬってことだよ。じゃあな、ユーの残りの人生に、できるだけ嫌なことが起こらないことを願ってるぜ」
自称神はそういうと、胸の前で十字を切る。そして、それと同時に糸が切れたみたいに体の力が抜け、そのまま勢いよく上半身が机の上に倒れ込んだ。ガンッという激しい音がして、自称神様はそれっきり動かなくなった。私は恐る恐る立ち上がり、白くて細い首に手をやった。彼の身体は石のように硬く、そして冷たかった。脈をとる。しかし、生の鼓動は感じられなかった。
狭い告解室の中、私はたった今死んでしまった自称神様を見下ろしながら、その場に立ち尽くした。長い長い静寂の中で、遠くの方から乾いた銃声が聞こえたような気がした。