死にたい人と死んでいる人の物語
目が覚めたら
───身体は縮んでいなかったが───
真っ白な空間にいた。
全く見覚えはない場所だが、どうやらひとつの部屋のようだ。
扉がひとつあるようだが窓はない。机も椅子もない。
自分の着ている服は最後に覚えているのと変わっていない。 黒いスーツのままだ。しかも、持っている中では一番いいものだ。
どうしたことか。
「お気づきになりましたか?」
突然声のした方を振り向くと、これまた真っ白なワンピースを着た一人の少女が立っていた。
年は18前後といったところだろうか。
肌も服や子の空間と同様とても白い。
髪は黒髪で、よく映えている。
にしても、今この子はどこから入ってきたんだ。扉が開く音はしなかったはずだが。
「えっと、君は?ていうか、ここは何ですか?」
とりあえず目の前の女の子に聞いてみる。
辺りを見ても白色しか目に入らなくて何も分からない。
今の時代に冷蔵庫やテレビ、洗濯機がない空間なんて存在するのか。
この女の子が住んでるのだろうか?
そもそも、この子は何者なのか。
見たことも話したこともない人物なのに怪しさを全く感じないのはなぜだろう。
「私はユキと申します。」
名前の通り、雪のようなふわりとした優しい笑みを浮かべて少女はこう続けた。
「貴方様はこちらに来るのは初めてでしたね。」
──この子は自分のことを知っている?
それが分かった瞬間、今更おかしな話だが、この状況に対して危機感を覚え始める。
すると自分の焦りや緊張が伝わったかのように、目の前の少女─ユキ─は言った。
「大丈夫ですよ。貴方様の身に危害を与えたりはしません。まあ、ここでは与えようがないのですがね。」
ユキは後ろで組んでいた手を前に広げて、何も持っていないことをアピールして見せた。
「もちろん貴方様が私に危害を加えることもありませんのでご安心ください。」
たしかに、18歳前後の未成年の女の子と20代の男がひとつの部屋に2人きりだなんて世間からみたら危なすぎる。
が、今はそれよりもこの空間について知りたい。
「ここはどこなんですか?」
そう聞くと、ユキはこの謎の白い空間について説明し始めた。
「ここは、現実世界では認識できない空間、異空間のようなものです。」
────は?
「異空間…?」
自分の戸惑いをよそにユキは話を続ける。
「私は貴方様を助ける使命があるのです。」
「俺を助ける…?君が?」
この子は突然何を言い出すのだろう。
異空間だとか、助けるだとか、頭が追いつかない。
自分の混乱とは裏腹に、ユキは凛とした声ではっきりと言いきった。
「はい。
私の使命は、死にたいという気持ちをもった方を救い、生きたいと思うようにすることです。」
───死にたいという気持ちをもった方
それはまさに、今の自分のことだった。
中学で優等生だった自分は、県内トップの公立高校に進学し、そこでもよい成績を修め続けた。
また、高校ではバスケ部でキャプテンを務めあげた。
初めての彼女もできた。
将来は一流企業で人の役に立つ仕事をしてそこそこいい家に住み、温かな家庭を築きたい。
そんな思いから、大学は全国でも名の知れている国立大学を受験した。
文武両道で頑張っていた高校時代のおかげで、無事現役合格を果たした。
まさに順風満帆な人生だった。
大学でもバスケサークルに入り、充実したキャンパスライフを送った。
3回生になり、先輩からアドバイスをもらいながら就職活動に励んだ。
高校のときから抱いていた、一流企業で人の為に働きたいという夢を叶えるため、有名な企業をいくつか受けた。
そして、ありがたいことに大手企業から内定を掴み取った。
それが、地獄の日々の始まりだった。
入社して数週間はよかった。
憧れの企業で働くのがワクワクしてしかたがなかった。 会社のビルに入る度に喜びを噛み締めていた。
しかし数ヶ月経つと、毎日毎日、厳しい叱責を浴びせられるようになった。
初めのうちは耐えられた。
『自分がまだまだ未熟な証拠だ』
『もっと効率よくできるようにならなきゃ』
『社会人なんだから弱音吐かずに頑張ろう』
自分に言い聞かせていた。
けれど、
「出来が悪い」
「もっと頭使って動けよ」
「できないなら辞めろ」
日に日にエスカレートしていく言葉に、心が追いつかなくなっていった。
『自分は無能な人間なんだな』
『迷惑しかかけてない』
『辞めた方が会社のためなのかな』
自分のためを思っている言葉だとしても、まるで人格まで否定されているような、自分の価値を否定されているような、そんな感覚に陥るようになった。
キラキラした思いで入社した会社なのに、通勤するのが憂鬱でしかなかった。
人のために働きたいだなんて思う余裕はもうなかった。
会社からの帰路は「やっと帰れる」というホッとした思いと「明日も仕事なんだ」という絶望の思いで毎日混濁としていた。
そして入社して半年以上経ったころ
「お前何のためにいるの?」
上司としては悪気なく言った言葉だったのかもしれない。
本当に自分が迷惑ばかりかけていて、イライラさせてしまっていて、つい口から出てしまったのかもしれない。
それでも自分には重い重い一言だった。
一生懸命考えて仕事をしていた。効率よく且つ丁寧にを心がけていた。学生時代に培った精神力と忍耐力にも自信をもっていた。
でももう無理だった。
『自分がいる意味ってなんだろう?』
答えは出なかった。
出なかったから、思った。
─────ああ、死にたい
そして気づいたらこの空間にいた。
「なんで俺なんですか?それから、君は何者?」
未だに困惑が残る頭で、再びユキに問いかける。
「私が貴方様を担当となったのは偶然であります。もちろん、誠心誠意務めあげさせていただきますよ。」
そう言ってユキは黒い髪を翻し、こちらに背を向けて歩きだそうとする。
「え、ちょっとどこ行くっ」
さすがに一人になっては困ると思い、慌ててユキの細い手を掴もうとした。
しかし
掴めなかった。
「……え?」
有り得ないものを見たような目で自分の右の手の平を見つめる。
それに対して、ユキは何事も無かったかのように告げた。
「貴方様が私に触れることはできません。
私は、既に死んでおりますので。」
「しん、でる……?」
震える声で尋ねる。
「はい。私は数ヶ月ほど前に死んだ身でございます。」
自分が今見ているのは幽霊ということか?
「貴方様は少々こちらでお待ちください。すぐに戻って参ります。」
ユキはもう一度背を向けて歩き出し、音も立てずに姿を消した。
そういえば、彼女がこの部屋に現れたときも扉が開いた様子はなかった。
死んでいるから自由に行き来できる、ということなのだろうか。
ユキが戻ってくるまでの間に、少し脳内を整理しよう。
まず、自分はこの半年以上、職場で酷い目に遭っていた。
そしてある日死にたいと思った。
そうしたら、この異空間に来ていた。
異空間にはユキと名乗る一人の少女がいた。
彼女は数ヶ月前に亡くなっているらしい。
彼女の使命は、死にたいと思っている人間を救うことだそうだ。
この空間についてはよく分からないが、ユキが俺を救おうとしているということは分かる。
このように頭の中で結論づけると、丁度ユキが戻ってきた。
「お待たせいたしました。」
先程まではなかった大きなガラス玉のようなものをもっている。
「途中でしたゆえ、私の説明を先にさせていただきますね。」
彼女の手の数倍の大きさはあるガラス玉を抱えたまま、ユキはゆっくりと床に腰をおろした。
「申し上げましたとおり、私は数ヶ月ほど前に死んでおります。交通事故でした。」
「えっ」
驚きから声が出てしまった。なんとなく病気かと思っていたが、事故だったとは。
「加害者の方はかなりのご高齢でした。命を落としたのは私だけでしたが、他にも数名の方が傷を負っております。報道番組でもとりあげられた事故ですので、もしかしたら貴方様もご存知かもしれません。」
正直テレビを見る余裕はここ最近なかったので自分は知らないが、きっと酷い事故だったのだろう。話を聞くだけでも胸が痛む。
「この空間は、私のように意図せず命を落とした者が、貴方様のように人生に絶望を抱いている方を救うためのものなのです。」
ユキは自分の目をしっかりと見て話を続ける。
「私は数ヶ月前死にましたが、その当時まさか自分が死ぬとは思っておらず、生命力をたくさん保持しておりました。突然の事故で身体は生きることを拒否してしまいましたが、生きたいという思いは消えませんでした。その結果、ここで使命を授かったのです。
生きたいという意志を、誰かに繋ぐようにと。」
身体は死んでも思いは死ななかったということか。どれだけ強い思いだったのだろう。その強い思いですら勝てなかった事故は、どれだけ辛かったのだろう。
ユキは辛いというような表情は一切見せずに淡々と話すが、こちらは想像するだけでも苦しくなる。
「この空間については、なんとなくわかった。」
本当になんとなくではあるけれど、とりあえずそう告げる。
「お分かりいただけましたか。それはよかったです。」
優しい笑みを浮かべて、抱えているガラス玉に目線をおとしたユキに、話を聞いて気になったことを質問してみる。
「ユキは、その、生きていた頃の記憶はあるの?」
踏み込んだ問いに、ユキはおとした目線をちらりとこちらへ向ける。
その目になぜかドキリとする。
「あ、ごめん。聞かない方がよかったのかな。」
まずいことを聞いたのかと思い、慌てて訂正しようとした。
「いえ、構いませんよ。」
ユキはもう一度自分の方に向き直った。
「私には生きていた頃の記憶はございません。先程の事故の話もここの空間を司る神様に教えていただいたお話です。」
記憶はないのか。
事故の記憶があっても辛いだけかもしれないから、ない方がいいのかもしれない。
「そう、なんだ。」
「はい。」
ひとつ答えてくれたのをいいことに、もうひとつ尋ねる。
「ユキが亡くなっているというのは分かったんだけど、その、生きている人間とは何が違うの?」
ユキは今度の質問にはスラスラと答える。
「私の存在は今生きている方の中では貴方様しか認知できません。」
「なるほど。」
ユキは一呼吸おいて「それから」と言った。
「私は生きている人間のような"感情"というものを持ちません。」
────感情をもたない?
感情をもたないってどういうことだ?
嬉しいとか辛いとか何も思わないってことだよな?それってどういう状態なんだ?
自分自身が感情を失ったことがないので、まるで想像がつかない。
「今、ユキは何も感じてないってこと?」
「はい。本来死んでいるはずの私が、今こうして存在しているのは貴方様を救うためです。多様な感情はそれには必要ありませんから。」
ユキはしっかりと自分を見て伝えてくる。
瞳は濁りがなくとてもきれいだ。
「そうか…。」
自分で聞いたくせに何を言っていいのか分からなくなってしまい、言葉につまる。
そんな反応を見てか、ユキは話を先に進めた。
「話しすぎましたね。それでは本題に入りましょうか。」
そう言ってユキは抱えていたガラス玉をもちあげた。
「貴方様が、死にたいと思った原因は既に存じております。」
「ああ、うん。」
「それを解決するために、こちらを手に取っていただきたいのです。」
そう言ってガラス玉を差し出す。
「手に取って何するの?」
「貴方様に見ていただきたいものがあるのです。」
「水晶玉みたいに映像が見えるってこと?」
だいぶこの状況には慣れてきたものの、完全に信じるのはやはり怖い。よく分からないガラス玉に触れて大丈夫だろうか。
「いえ、映像が見えるのではなく、実際にその場に行っていただきます。」
「その場に行く?どういうこと?」
「このガラス玉に触れることで、私が指定した場所へと飛ぶのです。大丈夫ですよ、私も着いていきます。」
魔法が使えるのかこの子は。そもそもこんな所に来ている時点で魔法みたいなものか。
もう一度ユキの顔をチラリと見て、その瞳が曇りのない透き通ったものであることを確認する。そして、躊躇っていても仕方ないと覚悟を決める。
手を伸ばし、言われた通りそっとガラス玉に触れる。
自分が触れたことを確認したユキが静かに目を閉じた。慌てて自分も目を閉じる。
場所が変わるというのだから、何か身体に衝撃があるのかと身構えていたら、
「目を開けていただいて構いませんよ。」
と声が聞こえた。
ゆっくり目を開けると、そこは
死にたいと思う原因をつくった、忌々しい自分の職場だった。
「え、ちょっと」
ちょっと待ってくれよと思い、右にいるユキの方を向く。
すると、ユキの向こう側にお世話になっている先輩がいるのを見つけた。慌てて背筋をのばし挨拶しようとしたが、
「挨拶はしても意味がありません。」
と、ユキから制止の声がかかった。
「私の姿も貴方様の姿も、彼らには見えておりませんから。」
「俺のことも?」
ユキの姿が見えないのは先程聞いたが、自分も見えないとはどういうことだ。
「はい。あのガラス玉にはそのような効果がありますゆえ。」
「そういうことだったんだ。」
「ええ。ご安心ください、貴方様もお亡くなりになったというわけではありません。」
死にたいと思っていたのだから、それでも構わないような気がするが。
それにしても、なぜ職場に連れてこられたのだろう。もっとリフレッシュをさせてくれるのかと思っていたのに。
「ここで何するの?」
隣にいるユキに問いかける。
「もう少しすればお分かりになりますよ。行きましょう。」
静かに歩きだし、会社の入口へと向かっていった。
ユキの後ろを歩いて辿り着いたのは、ひとつの会議室だった。
他と比べて比較的小さな部屋になっていて、自分はあまり入ったことのない場所だった。
「こちらです。」
そう言われて中を覗いてみると、そこには、例の憎い上司がいた。
どういう意図だと思い、ユキを振り返る。
すると、彼女は少しだけ微笑み「大丈夫です。」と言った。
───何が大丈夫なんだ。自分はこの上司のせいで死にたいとまで思ったんだぞ。
ユキの考えていることが分からないが、今ここで彼女に逆らう訳にもいかず、言う通り中の様子を再び窺う。
中にいるのは、自分の直属の上司と、会社のかなりのお偉いさんだった。後者の方に関しては、直接話したことはほとんどない。
「中にいる御二方のお話を聞いてみてください。」
後ろにいるユキからそう声がかかり、耳を傾ける。
「君の部署の今年の新入社員はどうかな?」
お偉いさんが自分の上司に聞いていた。
上司がいる部署の新入社員は自分しかいない。
───ユキはどういうつもりなんだ
死にたいと思っている人を救うんじゃないのか?これじゃあより一層死にたくなるぞ。
上司の口から出る言葉を聞きたくなくて、どうにか逃げ出せないかと思案し始める。
とりあえず辺りを見回してみるが、この状況からも空間からもユキの手がないと逃れられない。
とにかくユキに「ここから出してくれ」と頼みこもうと思い、後ろを向く。
そのときだった。
「今年のはすごくいいですね」
─────え?
今、なんと言った?誰の声だった?
「ほお、そんなにかい。」
これはお偉いさんの声だ。
「ええ、かなり期待できますよ。」
これは、
間違いなく、
上司の声だ。
目の前にいるユキと目が合った。
その目は「大丈夫だから話を聞いてみてください」と言っているようだった。
固まった身体をぎこちなく動かし、もう一度会議室の中を覗く。
さっきまでと同じようにやはり自分の上司と会社のお偉いさんが話していた。
「今年のはね、忍耐強いんですよ。」
自分の上司がお偉いさんに向かって喋っている。
「それはいいね。」
お偉いさんはにこやかに答えていた。
「まだ少し仕事が遅いかもしれないんですが、へこたれずに最後までしっかりとやってきますからね」
「随分評価が高いようだね」
「ええ、彼にはそれだけの価値があると思ってますから」
─────これが、あの上司?
本当に同じ人物なのか?
今話していることは本音なのか?
偉い人の前でいい顔してるだけなんじゃないか?
何が何だか分からなくなり、もう一度ユキの方へと振り返る。
「聞いていただけましたね。もうひとつ、ご案内する場所がございます。」
ユキはきれいな声でそう告げ、再び目を閉じた。
同じように自分も目を閉じる。
次はどこに行くんだろうか、と困惑する頭で考えていたら
「目をお開けください。」
と言われた。
言われるがまま目を開けると、そこは見たことの無い家の中だった。おそらくリビングだろう。
母親と思しき女性とその娘の2人が過ごしていた。
「…ここは?」
ユキに尋ねる。
先程とうってかわって縁もゆかりも無い場所につれてこられた。
「少しお待ちください。すぐにお分かりいただけますよ。」
そう言った直後「ただいまー」という声が聞こえてきた。
その声で察した。
───ここは、上司の家だ。
その考えは的中して、数分後、リビングにスーツ姿の上司が現れた。
娘と思われる女の子が「パパおかえりー!」と駆け寄っていく。
想像もつかないようなデレデレの表情で「ただいまー!」と答えている。
絵に描いたような幸せそうな家庭だった。
最近の自分には全くなかった優しさや温かさを3人の様子から感じとり、自然と胸が締め付けらた。
隣のユキの様子を見てみたが、特に目立った変化はなかった。
感情をもたないと言っていたので当然かもしれない。
何分かの間上司と娘が戯れたあと、奥さんが上司分と思われる夕食を並べながら「そろそろ寝なさーい」と声をかける。
娘は「えー」と言いながらも別の部屋へと歩いていく。偉い。
女の子が「おやすみなさい」と言ってリビングから出ていったあと、上司と奥さんは2人きりになった。
「今日も遅かったわね。」
奥さんが上司の向かいの席に座って話し始める。
「まあね、やらなきゃいけないことが多くて。」
美味しそうな唐揚げと白米を食べながら上司が答える。
今まで気づかなかったが、時計を見ると定時よりかなり遅い。残業をしていたのか。
「詳しいことは分からないけど、身体には気をつけてよ?」
「大丈夫だよ。それに、期待の新人もいるしね。」
─────期待、新人
先程までいた会議室でも、この上司は同じ言葉を使っていた。
「ああ、前話していた今年入ってきた若い男の子?」
前にも話していたのか。
「そうそう、新人が頑張ってるんだから俺も頑張らなきゃね」
───頑張っている
そんなこと、直接言われたことない。
「でもその子、大丈夫なの?」
奥さんが心配そうに問いかける。
「なにが?」
白米をかきこみながら上司が奥さんに目線を向ける。
「だって、あなた期待した子には過度に厳しくしちゃうじゃない。若い子なんて打たれ弱いんだから、ちゃんと優しくしてあげてる?」
─────期待した子には厳しくしちゃう?
期待してるから上司は自分に厳しくしてきていたというのか。
「大丈夫だよ。厳しくするからこそ、這い上がってくるだろ。」
「唐揚げ美味。」と呟きながら上司は言う。
「昔はそうだったかもしれないけど、最近の子は繊細なのよ。」
そうだそうだ。奥さん、もっと言ってくれ。
「でも全員が優しくしてたらダメだろ。厳しくするのは俺の役目。そのフォローはちゃんと周りがするようにしてるよ。」
「まあそうかもしれないけど…。ちゃんとカバーできてるの?」
「同じ部署であいつより先輩のやつがちゃんと声掛けとかしてるって。」
「唐揚げまだある?」「はいはい、つけてくるわね。」とやり取りをして、奥さんはキッチンへ戻っていく。
確かにそうだ。
自分が思い詰めているとき、部署の先輩が何度も声をかけてくれた。飯にも誘ってくれたし、コーヒーを奢ってくれたりした。
───あれは全部、上司が気を遣って手をまわしていたのか?
全部が全部そうじゃないにしても、全く気づかなかった。
───自分はきちんと価値を見出されていたんだ
───こんなにも期待されていた
隣にいるユキを見る。
その表情は、とても柔らかくて優しかった。
感情がないと言っていたから、もしかしたら自分が都合よく解釈しているだけなのかもしれない。
でも、まるで「貴方様は大丈夫ですよ」と背中をおしてくれているような、そんな表情だった。
「そろそろ戻りましょうか。」
ユキはそう言って、目を開じた。
自分も同じように目を閉じる。その反動で、両目から涙が零れ落ちた。
今までの自分とは決定的に違う、きれいな涙だった。
「目をお開けください。」
その声に従って目を開ける。視界が少しぼやけている。スーツの袖をまくり、ワイシャツでごしごしと乱雑に涙を拭う。
その間、ユキは静かに待っていてくれた。
自分は、深呼吸をして息を整え、口を開く。
「ありがとう。
俺、周りの人の気持ちとか気遣いとか、全然気づいていなかった。」
その言葉にユキは静かに目を伏せ、微笑みながら答える。
「いえ。私は自分の使命を全うしただけでございます。」
「うん、全うしてくれてありがとう。ユキのおかげだよ、本当に。」
気持ちが篭もり、少し前のめりになりながら感謝の思いを伝える。
「そう思っていただけたのであれば、よかったです。」
「俺、ユキのこと一生忘れない。会う機会はないかもしれないけど。絶対忘れないよ。」
その言葉にユキは伏せていた目を再び開ける。
「それはできません。」
「ん?なにが?」
そして、ユキは優しく微笑んだまま告げる。
「貴方様に、私の記憶は残りません。」
「……え?」
────記憶が残らない?
「先程見た光景の記憶は残ります。ただ、ここで私と話したことや、私自身に関する記憶はひとつも残りません。」
この女の子は、なんでそんな落ち着いた声で、態度で言えるんだ。
関わった人の記憶から、自分の存在というものが消されるんだぞ。
怖くないのか。
─────ああそうか、感情がないから、怖くもないのか
「悲しいな。」
ぽつりと呟く。
「これはもう、抗えない規則ですので。お許しください。」
ユキはこれまでと同じ声色、丁寧な言葉遣いで述べた。
悔しいけれど自分にはどうしようもないことなので納得するしかない。
「そうか。仕方ないね。」
「ご理解ありがとうございます。」
ユキは頭をさげ、感謝を口にした。
────この言葉も形式だけなのだろうか
そう思うと悔しくて悔しくてたまらない。
目の前の女の子を見つめる。
この子は本当はどんな子だったのだろう。
ユキという名は本名なのか。もしそうだとしたら、きっとその名の通り綺麗で優しい子だったのだろう。
時折見える微笑みから、そうに違いないと確信できる。
さげていた頭をあげ、ユキがこちらを見つめる。
「それでは、これで最後になります。」
その言葉に、自分は背筋を正し、唾を飲む。
「お伺い致します。貴方様は、これからの人生を生きたいとお思いですか?」
ユキの強い眼差しに応えるように、自分もしっかりとその瞳を見つめ返す。
そしてはっきりと口にする。
「はい。生きたいです。」
そう言った瞬間、目の前は何も見えなくなった。
最後に誰かの泣きそうな、それでいて優しい微笑みが見えた気がした。
会社の1階でエレベーターを待っていると、先輩が「おはよう」と声をかけて近づいてきた。
少し背筋を正し「おはようございます!」と答える。
「何?今日はやけに元気だな。」と笑われた。
「え?そうですか?」
思い当たる節もなく、聞き返す。
「うん、なんか明るい。最近お前顔死んでたからな、よく分かんないけど安心したわ。」
と言われる。
ニコッと笑いながら「さっ、今日も頑張るぞ」と背中をバンと叩かれた。
「はい!」と返すと「やっぱ今日は元気だな」とまた笑われた。
自分の机に荷物を置く。
しばらく仕事をしていると上司に呼び出された。
資料のやり直しの指示だった。
「これ、前も同じこと言わなかったか?」
「すみません。」
「もう入社して半年以上経つんだから、慣れてくれないと困るよ。」
「はい。」
資料を受け取り、頭を下げる。
「すみません。ご期待に応えられるよう、次こそ頑張ります。」
そう言うと、上司や周りの先輩方は少し驚いたような表情をした。
──なにか変なことを言っただろうか?
数秒間があったあと、上司は嬉しそうに笑って
「ああ、期待してるよ。」
と自分の腕をポンと叩いた。
周りの反応を若干不思議に思いつつ、再び自分の机へと戻る。
席に着くと、隣の女性の先輩が「最近何かあったの?」と声をかけてきた。
「最近?特に何もないですよ?」
「本当に?なんか明るくなったよね?」
「うーん、本当に何もないんですよね…」
「まあ、悪いことじゃなさそうだし、いいけどね!」
そう言って先輩は自分のパソコンへと向き直った。
その後、何人もの先輩に「何かあったか」と聞かれた。
どういうことかはよく分からなかったが、大勢の方の優しさを感じる日となった。
────いい職場だな
そんなことを改めて実感しつつ、昨日と変わらず今日もまた同じように帰路についた。
"明日も頑張ろう"という思いを抱きながら。