生支
「いらっしゃいませー」
お客さんが来店し、レジにいた私は挨拶をする。私の顔を見るなり驚きの表情に一変したお客さんを見て、「あぁ。ここに来るのは初めてなのね」と察した。
入店してくるお客さんの初めの反応で、ここに来店したことがことが有るのか無いのかはハッキリとわかる。……違うな。ここで働く私の顔を見たこと有るか無いか、か。
ここ『渋井リサイクルショップ』は、さほど広くもない道路の脇にある。周りには商店街というほどお店があるわけでもなく、目立っているわけでもなく、ひっそりと営業している。近所の人や、知る人はよく活用してくれているリサイクルショップなのだ。入り口を入って正面の奥にレジカウンターがあり、レジに向かう通路の左右に設置されている棚には様々な商品が陳列されているが、それらの商品に目をやる前に、レジにいる店員へ真っ先に視線が送られれる構造になっている。それほど奥行きがあるわけでもないので、来店したお客さんの表情もよくわかる。私は視力も良い方だし。
今、レジにいる私は、丁度パソコンで調べ物をしていた。リサイクルショップということで、品定め、査定といった仕事をするのだけれど、ここでのバイト歴がおよそ二年となる私はそれなりに仕事を任されている。こんな私に任せていいの? と思うんだけど。
なにせ、明るめの茶色(ほぼ金色)に染めた髪を後頭部でまとめたポニーテールに、片耳に三つずつのピアス。眉毛はあって無いようなもので、化粧も厚めにバッチリ(眉毛は描いてるから有るように見えるだけ)。服装も、緩い感じのパーカーに破け気味のジーンズ(ダメージがあるジーンズって言えばいい? 貧乏で、新しいジーンズを買えないわけじゃないよ)。そこに店のエプロンを着用。
そんな私を採用してくれた理由は未だに不明。雇ってもえただけで嬉しかったから気にも留めなかったけど、ホントなんでだろう? 面接で店長と話したときもこんな格好だったし。
高校を卒業してからの二年間はここでバイトしていて、もうじき私は二十一歳になる。
特にやりたいと思うことも無くて、希望とする就職先も無い私は、このままフリーターでもいいかなぁなんて思ってもいる。一応、ハローワーク(公共職業安定所)にも行ってみたんだけど、なかなか「コレ!」という仕事は見つからない。
まぁいっか。という感じでフリーター生活をしているのだけど、ここがまた離れ難い、良い環境で困ったものなのです。
この、『渋井リサイクルショップ』は、店長と奥さんと息子さんが、家族で経営している小さなお店で(他の兄弟は結婚して家を離れたらしい)、それがまた、皆さん良い人達で。私に対して偏見の眼差しも無く、すごく優しく接してくれるんです。
街中をフラフラ歩いていた私の目に留まった『アルバイト募集』の張り紙。お店の窓ガラスに貼り付けられていて、それを見た私は即座に入店し、アルバイト希望の旨を伝えた。すると、その場で店長との面接が始まり(と言っても世間話をしただけなんだけど)、即採用。「履歴書は書けたら持ってきてくれればいいから。明日からよろしくね」と店長に言われて、翌日から〝研修〟という名の〝お手伝い〟が始まった。
それからは特に何の問題も無く、皆さんの優しさに甘えながら平穏無事にやってこれた。
そして今に至る。
だけども、やっぱり初対面のお客さんはビックリしちゃうみたい。かといって、私は今のスタイルを変える気は無いし、渋井家の皆さんも何を言うわけでもないのでそのまま続けている。言われたら変えると思う。言われてないから継続中。
もしかしたら、言いたくても言えないのかなぁ? 辞められたら困るから? それとも、平気なフリをしていて実は私のことが怖くて言えないとか? 後者だったら凹む……。いろいろ考えちゃうなぁ。
とにかく、態度で誠意を伝えようと、日々、真面目に仕事に取り組んでいる。なかなか誰かに言ってもらえないから自分で言っちゃうけど、根は真面目なんです、私。常連のお客さんからも評判は良い。明るくて、丁寧な接客で、話しやすいし、そして可愛い、と。ちょっと盛られている部分もあるだろうけど、素直に嬉しい。
そう。見た目はちょっとアレだけど、私と少しでも関わってくれれば分かってもらえる。なんてことない、ただの可愛い女の子なんだって(笑)。
なんて、冗談はこれぐらいにしておいて。
もう少しちゃんとした顔を作って(もう少し薄めの化粧でおとなしめに見せて)外見を整えれば、もっと評判が良くなるかもしれないと思ったことが無くもないけど、私は変えない。なぜかって? 外見だけで判断されるのが嫌だから。友人だと思っていた人から「人は中身だよ」と散々言い聞かされていた挙句、最終的に「見た目が大事」と言われたときのショックったらもう……。トラウマとなって私の中に住み続けている〝外見〟という束縛から私は逃れたい。そう思って足掻き続けているのだ。せめて私は「中身が大事」という言葉を貫きたいがためにこんな派手目な格好をしている。
さてさて。
そんな私に怯えながら(?)、陳列棚に並んでいる商品を眺めていた男性が、こちらを覗い、気合いを入れたようにレジに向かって歩みを進めてきた。
背が高く、ひょろっと細長く、眼鏡をかけた二十代後半ぐらいのその人は、私に声をかける。
「あっ、あの。ここって何でも買い取ってくれるんですか?」
思いの外、低くて渋い、良い声をしていた。
「えぇ、大概の物でしたら。うちは雑貨や衣類、小さ目の機器類がメインですけれど。ただ、物によっては買い取りではなく引き取るだけになってしまう物もあります。それは実物を見て判断させていただきます」
笑顔で対応する私に向かって、その男性は一言、
「ど、どうも」
と言った。
「いえ。また何かありましたら気軽にお尋ねください。それにしてもお客様、良い声をしていますね」
「そうですか? 低すぎて気持ち悪い、とか言われたりするんですけど……」
「そんなことないですよ。男の人だったらそのぐらいで丁度いいと思いますし、カッコイイじゃないですか」
「あ、ありがとうございます」
男性はあからさまに顔を赤らめた。色白の肌がピンク色へと変わっていく。ちょろいなー。そう思って、笑ってしまいそうになった。笑いを堪えながら、私はその男性に質問をした。
「ここにこのお店があることはご存知だったんですか?」
「え、えぇ。たまに目の前の道を通るので、気になってはいたんですけど……。あの、お恥ずかしい話、入る勇気が無くて」
苦笑いを浮かべる男性に私は、
「そうだったんですか。でも、これからは気楽に入れますね。もうお店の雰囲気もわかったことですし。勇気を振り絞ってくださって、ありがとうございます」
と笑顔で言った。すると男性は、恥ずかしそうにして俯く。
「て……店員さんも優しい人で良かったです」
「優しいなんて! 滅多に言われることの無い言葉、ありがとうございます! またなにかあったら気軽に話しかけてくださいね」
「は、はい。じゃあ、また来ます」
「ありがとうございましたー。お待ちしてまーす」
明るく元気な声でお客様を見送った。
「さすが山ちゃんだねー」
すぐ隣から声がして驚いた。なんだ、総一さんか。店長の息子さんである。
「なにが〝さすが〟なんですか?」
きょとん、として私は聞いた。
「無意識にやってるんだもんなぁ。ああいう、お客さんとの会話。入り方が自然すぎて怖いよ」
「そうですか? 総一さんだって上手くお客さんとの会話に入り込んでるじゃないですか」
「いやぁ、僕は業務的なことばかりだよ。山ちゃんみたいな観察力も無いしね。やっぱり親父が一目見て決めただけあるよ」
はっ! そうだ! これを機に聞いてみよう!
「そう! それがわからないんですよ! いきなりお店に来て面接してバイトの採用が決まったわけですけど、なんで私を雇おうと思ったんですかね? 見た目もこんなですし、面接だって、軽く世間話をしただけですよ? 私の何が良くて採用したんでしょう……」
私の不思議そうにしている表情を見て、総一さんは笑った。続けて私は言う。
「店長って、変な人ですよね」
「おいおい、その息子が目の前にいるのになんてこと言うんだよ。まぁ、確かに変わってるけどさ」
「良い意味で、ですよ。変わってるとこが面白いというか」
「そう言ってる君も、ずいぶん変な人だと思うけどな」
「そうですか?」
「そうだよ」
そんな言い合いをしていると、奥から総一さんの母、つまりは店長の奥さんである志恵さんが出てきた。
「山ちゃん、総治さんが帰ってきたから今のうちに休憩しちゃって」
「はーい」
私は返事をして、総一さんに仕事の引き継ぎをして休憩室へと向かった。結局、私を採用してくれた理由を聞き出すことができないまま。
「ただいまー」
「店長、おかえりなさーい」
店長の声に反応して言った挨拶。自分で言っておきながら、まるで親子みたいなやり取りだなぁなんて思ってしまった。
志恵さんに「総治さん」と呼ばれた『渋井リサイクルショップ』の店長、渋井総治。その人は小柄な体格で、力なら私の方が強いんじゃないかと思える。そして完璧な白髪に眼鏡。奥さんの志恵さんは、まだ「白髪交じり」といった感じだけれど、店長と同じく眼鏡をしていて小柄な体格。どうしたらこの二人から、総一さんのような背が高くて体格もがっしりとした、目も良い人が生まれてくるのだろうと疑問に思う。「橋の下で拾ってきた子」と冗談で言われても信じてしまいそう。
私は椅子に座って、志恵さんが淹れてくれたお茶をいただいた。
「総治さんは、お茶はどう?」
「いや、このまま店に入るからいいよ。ありがとう」
当たり前のことかもしれないけれど、お茶を淹れてくれようとした志恵さんの気遣いに対して「ありがとう」と言った店長を素敵だなぁと思った。その一言が言えない人が割と多い気がする。「当たり前だから」と、あまり意識していないのだろうけど。渋井家の中にいると、常々、色々なことを考えさせられる。
「山ちゃん、お菓子あるわよ」
「わーい。志恵さん、ありがとー」
そう言って、志恵さんの出してくれたお菓子におもむろに手を出す。そして、ふと思い出したことを志恵さんに聞いた。
「そういえば。今さらなんですけど、私ってなんでここのアルバイトに採用されたんですか? 普通、私みたいな外見の人なんて、まず雇わないですよね? もっと普通っぽい人じゃないと採用されないと思ってたんですけど」
「じゃあ逆に聞くけれど、山ちゃんの言う〝普通〟って、どんな感じのことを言うのかしら?」
「えー? ……んーと、髪を染めてなくて、耳に穴があいてなくて、目立つようなメイクをしてなくて。地味……いや、質素って感じ?」
「ふんふん。じゃあ山ちゃんの言う〝普通〟と渋井家が思ってる〝普通〟の基準が違うってことね」
「私は渋井家の〝普通〟の枠内に入るってことですか?」
「入るわよぉ。うちは変わってるしね。ふふっ。それに、もしマイナス面があったとしても、プラスの面が上回れば問題ないわよ」
「プラス面?」
私の良いところってなんだろ?
その思いを見透かしたかのように志恵さんは言った。
「山ちゃんには、持ち前の明るさとか器用なところとか、良いところがいっぱいあるじゃない。あとは、さりげなく気を遣うところとかね」
「いやいや! 全然気を遣ってなんかないですよー。逆に〝ぼーじゃくぶじん〟というか? あはっ」
普段使わない言葉を使ってみたくなった。けれど、その言葉の意味はわかっていない。「ぼうじゃくぶじん」。後で調べてみようっと。
「ふふっ。まぁそういうことにしておくわ。でも、山ちゃんにはいっぱい助けられて本当に感謝してるのよ? 明るい挨拶をしてくれたりポップも可愛らしく作ってくれたり。お店の雰囲気もだいぶ変わったわ」
そう! 何を隠そう、私は中学生の頃は美術部だったのだ!
なにかしら、部活に入らなくてはいけないという学校だったので、仕方なく幼馴染みと一緒の部活に入っただけなんだけど。
「山ちゃんの一番の持ち味といえば、やっぱりその馴染み易さね。こんな小さなお店だから、来てくれたお客さんには〝また来たい〟って思ってもらえるようにならないとやっていけないと思うし。まぁそれは他のどこのお店でもそうかもしれないけれど。その点、山ちゃんはお客さんの心をガッチリ掴んでくれるし、心強いわ」
「そんなそんな……」
まったく、志恵さんの褒め殺しには困ったものだ。嬉しくてついつい笑みがこぼれてしまう。褒められることに慣れていない私は、なんて返していいのかわからなくて落ち着きが無くなっていた。
渋井家のためなら、見世物になろうが汚れ仕事だろうが、なんでもやってやろうという気さえ湧いてくる。
「それで、〝例の話〟については考えてくれたのかしら?」
思わずお茶を吹き出しそうになった。すいません、前言撤回。「なんでも」は言い過ぎでした。例外もあります。
「いや、その……、それはまぁ、相手の事情もあるでしょうし、それに、私にはまだちょっと早いというか……」
モゴモゴとはっきりしない口調で話す私に、志恵さんは言う。
「早いなんてことはないわよぉ。そうだわ、今度一緒に食事でもしながらお話しましょうよ」
「そ、そうですね。あ、休憩時間が終わるんで行きますね。ごちそうさまでしたぁ」
食べ終えたお菓子のゴミを捨て、湯呑みを洗って水切りカゴの中に入れる。タオルで手を拭いて颯爽と休憩室を後にした。休憩を終えるにはまだちょっと早かったけど、この話題から逃げたくて店内へと戻った。
「休憩ありがとうございましたぁ。お願いしまーす」
「お、よろしくね。じゃあ今度は僕が休憩に行ってくるかな」
総一さんは微笑みながら言う。
……うーん。悪い人じゃないんだけどなぁ。むしろ良い人なんだけど。
そう思いながら、私の横を通り過ぎていく総一さんに目をやる。
「山ちゃん」
「はっ、はいっ!」
総一さんとは逆の方向から声をかけられたので、驚いて、思いのほか大きな声が出てしまった。声をかけてきたのは店長だった。同じくらいの身長なので、振り向くとすぐに目が合う。店長は優しい笑みを浮かべながら聞いてきた。
「志恵に何か言われたのかい?」
「あ、いえ、ちょっと世間話をしてただけで……」
「まぁ志恵が言うことは気にしなくていいからね。気楽にやっておくれ」
店長はそう言って、商品陳列棚の方へと向かっていった。
なんか妙に勘が鋭いんだよなぁ。
今回の件については奥さんである志恵さんから聞いているんだろうけど、これまでにも何度か、悩み事をしながら仕事をしていたときに声をかけられたことがあって。口数の少ない店長から急に声をかけられるとビックリする。
とりあえず、考え事は中断。仕事に集中しよう。
ちなみに、その「例の件」について。
先日、渋井家で夕飯をいただき(度々、一緒に食べているけれど)、帰り支度をしていたときに、志恵さんが「ちょっと相談があるんだけど」と、私を引き留めた。
「山ちゃんって、彼氏いるの?」
「いないですけど、どうしたんですか?」
「突然なんだけど、総一のお嫁さんにならない?」
「……へっ?」
「山ちゃんと総一、お似合いだと思うのよねー」
ん? んんっ?
突然の志恵さんの発言に、私の頭がついていけなかった。
「山ちゃん、うちに欲しいのよ」
「バイトならまだ辞める気は無いですよ?」
「そうじゃなくってぇ。ほら、総一もいい歳じゃない?」
「はぁ……」
「だから、山ちゃんと結婚したらどうかなぁ? って」
えへっ、と笑いながら言う志恵さんは可愛らしかったけど……、それとこれとは話は別! 笑いごとじゃない!
「なかなか、お嫁さん探しっていうのも大変でねぇ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! なんで私なんです? というか、私にはまだ結婚は早いと思いますし、歳の差だって……」
「結婚に早いも遅いもないわよぉ。歳の差だって関係ないと思うし。私と総治さんだって十歳近い歳の差なのよ? それに山ちゃんみたいなイイ子、そうそう見つからないし、総一にはもったいないぐらい」
そんなに買い被られても困る。私のどこを見て「イイ子」なんて思ったんだろう。もったいないって思うなら見逃してください。
「そ、そのことは本人に……」
「聞いてみたわよ。でもはぐらかされちゃってねぇ。そうだ! 今度、二人で食事でも行ってきなさいな」
本人に言っちゃったかぁ……。気まずくなりそー。
「まぁ、また考えてみますんで」
「よろしくね」
笑顔で私を見送ってくれた志恵さんに、私は苦笑いで応えることしかできなかった。
ということで、さっきの話が出たわけです。
案外、総一さんとは気まずくもならずに普通に仕事をしている。互いにその話は無かったことのように振る舞っているからか。
志恵さんから……、母としての視点からすれば、息子には早く結婚してもらいたいんだろうな。総一さんは今年で三十三歳だったか。店長が「総一は僕が三十路のときに生まれた子なんだ」と言っていたから、店長も今年で六十三歳ということになる。「歳も歳だし、そろそろ引き継ぎの準備でもするかね」とも言っていた。店長の隠居生活も間近に迫っているということか。
そうなると、総治さん(現・店長)がまだまだ動けるとしても、次期店長の総一さんのために人では確保しておきたいところなのかな? そこで、手近にいる私に手が伸びていた、といったところだろう。人員確保とはいえ、私にそこまでの価値があるとは思えないのだけれど。
総一さんのことが嫌いというわけじゃない。でも、好きとも違う。
「もらい手があるうちに嫁に行っとけー」
という父の言葉を思い出した。一人っ子である娘をそんなに早く追い出したいの? と怒った記憶が甦る。父なりの心配ではあったのだろうけれど。その言葉に反抗しているわけではないけれど、〝結婚〟の意味が私にはわからない。わかるまでは結婚なんてしないかもしれない。
というか、別に私じゃなくてもいいんじゃない? 本音はこれかな。
今日も仕事が終わって、店の隣に止めておいた原動付き自転車に跨る。ヘルメットをかぶり、家へ……ではなく、街中へ向かった。
とりあえず本屋で立ち読み。時間をつぶしてからファミレスへ。今日はこれから友人と会う予定なのだ。家に帰っても特にやることも無いし、大概、誰かに連絡をとって遊んだり出掛けたりする。仕事に勤しんでいる友人もいれば学業に励んでいる友人もいるし、はたまたフリーターやニートもいる。誰かしら、時間が合う人がいるだろうと思って、いつもいろんな人と連絡を取っている。
今回は、小学校と中学校で仲の良かった友達と会うことにした。
「よう! 久しぶり! ……って、アンちゃん、だよな?」
「そうですよぉ。アンちゃんでーす。竜ちゃん、おひさしー」
私の顔を見て驚いた彼は、
「おっ、お前、昔はそんなキャラじゃなかっただろ!?」
と大きな声で私に問い詰めた。
「あ、そっか。竜ちゃんは中学までの私しか知らないもんね。高校デビューを果たした私は、それまでの私とは違うのだよー」
「そ、そうなのか」
腑に落ちない、といった様子の彼は、渋々今の私をなんとか私として飲み込んでくれたみたいだ。
「てゆーか、竜ちゃんもなに、その頭? 金髪のソフトモヒカンなんて、それこそ昔の竜ちゃんからは程遠いよぉ」
あははっ、と笑う私に、彼は苦笑いをこちらに向ける。
「俺だってなぁ、色々あったんだよ。まぁいいや。とりあえず中に入って話そうぜ」
そう言われて二人でお店に入った。
竜ちゃんとは小学校、中学校と仲良しでよく遊び回っていた仲。私はそんな彼に釣られて、男子の中でやんちゃしていた。だけど、その「やんちゃ」というのも度が過ぎていたようで、他の男の子を泣かしてしまうこともしばしば。小学生の頃ならまだしも、中学生になってもそんな出来事が多発。
その結果、私に付けられたアダ名は「ヤンキー」。私の名前が「山野美諳妃」ということで、短縮+アルファ(―)でこのアダ名になった。気を遣ってくれた人達は「山ちゃん」とか「アンちゃん」って呼んでくれてるけども。ただちょっと、「アンちゃん」というのもそこら辺の「兄ちゃん」みたいに聞こえなくもないからなぁ……という感じ。老後になって「ビアンキさん」と呼ばれるのも恥ずかしいし、「ヤンキー」なんてアダ名にはなるしで散々。親は何を思って「美諳妃」なんて名前にしたのか。最近流行りの〝キラキラネーム〟とか〝DQNネーム〟というカテゴリに属すのだと思うけれど、そんな属性は要らない。洋楽好きの両親は「外国人っぽい名前にしたかった」とか言ってたっけ。
そんなこんなで、自分の名前についてはあまり語りたくない。
それは竜ちゃんにとってもそうらしい。
彼の本名は「蛇尾竜三」。中学生の頃、周りからは「蛇に竜に、なんか怖い」とか言われてたっけ。確かに口調もキツいし目も釣り目で鋭くて、初対面の人が見たら「睨まれている」と思うかもしれない。それこそ「蛇に睨まれた蛙」の如く固まってしまうかも。
授業態度もあまり良くはなかった竜ちゃんだけど、担任の女の先生はそんな竜ちゃんに対して優しかった。周りから名前のことを言われた竜ちゃんに、「名前の響き、〝竜頭蛇尾〟の逆みたいでいいじゃない。後々に勢いづいていくんだと思うな」なんて言って、その場を収めてくれたっけ。その後、それまでよりかは落ち着いてきた竜ちゃんの変化を見て、私は心の中で先生に感謝した。
彼は中学校を卒業した後、高校へは行かずに就職した。いわゆる〝ガテン系〟の世界へと足を踏み入れたわけで、現在も建築作業員として働いている。
久しぶりに竜ちゃんと話すなぁ、なんて思いながら会話をしてるけど、思い出話になって恥ずかしくもなる。
小学生の頃のことはあまり覚えていないのだけれど、彼が言うには、私は男子に負けず劣らずの強気と体力を持っていたらしい。負けず嫌いの悪ガキだったという。
中学生の頃のことはよく覚えている。あまりよくない思い出が多いから。良いことはすぐ忘れるのに、悪いことはしっかり覚えている。なんでだろう。
私はそれなりに「イイ子」として中学校での生活を送っていた(と思う)。けど、強気なところは変わらず、男勝りの私に近寄ろうとする人はあまりいなかった。竜ちゃんを含む数人以外は。先生受けも良かった。成績も常に上位をキープし、役員としての仕事もしっかりこなす。それがまた、周囲の(特に女子の)癪に障ったようだ。中学生。思春期。異性に敏感なお年頃。男子は女子に、女子は男子に話しかけられずにいる中、私だけは飄々と男子の中に混ざって遊んでいた。そして数人の男子は私にまとわりついてきていて、他の女子は私に羨望の眼差しを向けていた。ただ、「まとわりついてきた」人達というのが、態度が大きく頭の悪い(いろんな意味で)、竜ちゃんみたいな男子達だった。私は同類と思われたらしくて近寄られ、結果、彼等の面倒を見るハメになった。勉強を教えたり一緒に遊んだり、ただそれだけのことをしていただけなのに、女子に因縁をつけられ始めた。けれど、勘違いもいいところ。男子は誰も私のことを〝女子〟として認識してはいないのだから。互いに〝異性〟という意識をせずに、ただの友達として接していただけ。好きな人ができないどころか、女子と対立したり裏で「ヤンキー」って揶揄されてたり、踏んだり蹴ったりだった。
そんなことを気にも留めず、男子は未だに私に関わってくるわけなんだけど、竜ちゃんがその代表格。
彼とは中学校卒業以来、顔を合わせていなかったのだけれど、いわゆるSNSで再び繋がった。インターネットってすごいなぁと思う。パソコンやケータイも、いろんな機能があって暇潰しにはもってこいって感じだし。
さて。それからはわりと頻繁に竜ちゃんと連絡を取り合っていたのだけれど、実際に会うことがなかったので「久しぶりに会おう」という話になって今に至ったわけです。
仕事後には飲みに連れ出されたり遊びに行ったりするという多忙な彼との再会までには時間がかかった。「私はわりと暇してるから、竜ちゃんの空いてるときで」と言って連絡を待っていた。
そして本日、中学校以来の再会。
「お前さぁ、高校デビューって言ったって、方向を間違えただろ」
「やっぱり?」
それは自分でも少しは思ってたんだけど。
「私だってさぁ、本当はもっと〝可愛らしい女の子〟って感じで、華々しくデビューする予定だったんだよ? でも、やっぱり性格って直せないものなのね。昔の性格のまま、化粧を頑張って学校に行ったところで、不良にしか見られなかったもん。あはっ」
「お前、高校でなにやってたんだよ……」
「え? 勉強?」
「今のアンちゃんを見る限り、そうは見えないけどな」
「ひどーい。私、これでも成績はトップクラスだったんだよぉ?」
「自分で言うな。ますます信じられん。まぁ確かに中学んときも頭良かったみたいだし、あながち嘘ってわけじゃあないんだろうけど」
「私、嘘なんてつかないもーん」
「小学校の頃を思い出してみろ」
呆れながら言う竜ちゃん。そして私は頑張って思い出す。……嘘、ねぇ。
「……思い出せない」
「あんなことしといてか?」
「どんなこと?」
「〝かくれんぼ〟しようって言って、探すのをやめてそのまま帰るとか」
「それは嘘じゃなくて、忘れちゃっただけじゃない?」
「○○ちゃんが俺のこと好きだとかってアンちゃんに言われたから、俺がその子に告白したらフラれたとか」
「それは友達としてって意味」
「……」
「……」
他にもあるような空気感を出していた竜ちゃん。でも、言うのを諦めたっぽい。
「もういいや。じゃあさ、高校で勉強以外にはなにしてた?」
「んー。高校じゃあ部活も特にやってなかったから、遊び回ったり話し込んだりして時間を潰してたかなぁ」
「色恋沙汰は?」
「竜ちゃん……、言い方がおっさん臭いよ?」
「うるせぇよ!」
「彼氏とかさー、私にできると思う?」
「思わん」
「即答かいっ! ……まぁ、そうなんだけど」
「まずさぁ、自分より男らしい女と付き合いたいと思わねーもん」
「えぇー。そういう人もいるかもしんないじゃん。それに、これでも昔よりは中身も女らしくなったと思うんだけど」
「そんなん話してみりゃあ、女子力が無いのなんてすぐバレるわ」
「そうかなー? てゆーか、私は束縛されるのとか嫌だし女らしさを求められても困る。自由に生きたいもん」
「なら自由に生きろ」
「生きてる!」
「うるせぇ!」
激しい突っ込み合いは程々にしておかないと、そろそろまともに会話をする体力すら無くなりそう。竜ちゃんとは昔もこんなノリツッコミばっかりだったなぁ。あの頃は疲れ知らずで、いつまででも続けていれそうな気がしてたのに。歳をとるって怖い。
「はぁ。んで、アンちゃんは今、やりたいこととか無いのか?」
「んー。今は特に無いかなぁ。そのときに〝やりたい!〟って思ったことがやりたいなぁ」
「曖昧すぎる……」
「いいの! 私は気分で気ままに生きるんだから! ふふっ」
いろんな話をした。と言っても時間は限られているわけで、そんなには色々と話をすることはできなかったけれど。
それに、竜ちゃんの話も聞くには聞いたけれど、メインは私の話だった。「なんか面白いこと無いかなぁ?」と無茶振りをする私に、「そんなん自分で探せや! 俺のほうが聞きたいわ」と突っ込まれたり、上げ足を取られたりで、会話も進むようで進まない。
結論。お互い、今のところは特に面白い出来事は無いみたい。
ご飯を食べて、たわいもない話をして。まぁそれでも、なんだかんだ楽しい時間だった。
「また会おうな」
竜ちゃんはそう言って、颯爽と姿を消した。この後も何か予定が入っているらしい。まぁ、元気のあることで。
また会おう、と言われても、忙しい彼の予定次第なんだけれど。次はいつになることやら。
後日。私はバイトが終わった後、暇潰しをしてから幼馴染みの家に行った。
「へー。竜ちゃんに会ったんだ。元気そうだった?」
「元気も元気。相変わらずのお馬鹿さんっぷりだったよ」
私は瑠流にそう報告した。
「今度は瑠流も一緒に竜ちゃんと遊ぼうよ」
「そうだねぇ。久しぶりに会ってみたいかも」
「てゆーか、たまには外出しなさい」
幼馴染みの神凪瑠流。眼鏡をかけた、ちょっとポッチャリな女の子。彼女は長い髪を頭の後ろの少し横目に結っている。その髪は、首の横をつたって胸のあたり……を通過して、お腹のあたりにまで届きそうな長さだ。
彼女とは小学校から高校までずっと一緒だった。クラスは違うこともあったけれど。中学校では彼女と一緒に美術部に入った。絵を描くことが好きな瑠流は、今でも時間があれば絵を描いている。それから、無類の二次元好き。つまりは漫画やアニメ。彼女の部屋にはイケメンキャラのポスターが貼ってあったり、フィギュアや様々なグッズが並べられていたりで、ここだけ異世界のように飾り付けられている。本やDVDもいっぱいある。
「そうそう。竜ちゃんも彼女ができないんだってさ」
「あー。彼は遊び人っぽいもんねぇ。アンちゃんもだけど」
「私は見た目だけだよっ!」
「そうね。中身は意外と乙女だもんね」
意外って言うな。
「もう、二人が付き合っちゃえば?」
「あー。無理無理。互いに相手を恋愛対象として見れないんだもん」
「だよねー。知ってる」
「知ってるなら聞かないで」
瑠流の家にはちょくちょく来る。こんな感じで話をしたり、二人で静かに漫画を読んだり、一緒にDVDを観たり。神凪家の家族と一緒にご飯を食べるときもある。彼女とはそんな仲だ。
「瑠流はどうなの?」
「え? 仕事は普通だよ」
「じゃなくて。彼氏とかの話だって」
「ふふっ。そんなの、アンちゃんはわかってるでしょ?」
「変わらず、か……」
瑠流は小さい頃から漫画が大好きだった。好き過ぎて「三次元(現実)の男には興味無い」と言うほどまでに。今でもそれは変わらないみたいだ。
「ま、仕事が順調ならそれでいいけどさ」
「アンちゃんはバイト先ではどうなの?」
「そう、それ! ちょっと聞いてよ!」
私は興奮気味に瑠流に話をした。店長の奥さんに、息子さんとの結婚を勧められたことを。
そうしたら……、賛成されてしまった。
「いいじゃん。別に、その人のことが嫌いってわけじゃないんでしょ?」
「そうだけど……。逆に好きってわけでもないし。それに相手が私のことを好きなわけでもないだろうし」
「それ、本人に聞いた?」
「聞けるわけないじゃん!」
「あはは。そうだよねー。じゃあ私がアンちゃんの代わりに聞いてあげるよ」
「やめてっ!」
そんな冗談を言われ、からかわれつつも私は瑠流にこう言った。
「じゃあさ、今度バイト先に来てみてよ。一度も来たこと無いでしょ?」
「そういえばそうだねー。わかった。行って品定めしてあげるよ」
「総一さんは商品じゃないんだけど……。まぁいいや。でもやっぱりあの人は私には合わないと思うんだよねぇ。瑠流の目にはどう見えるかわかんないけどさ」
私は瑠流の暇な日を聞いて、私のバイトの時間帯と合う日時を伝えた。「もし私が休憩中とかで店内にいなかったら、山野さんはいますか? って聞けば大丈夫だから」とも言って。
瑠流は「行ってみるね」なんて言っていたけれど、きっと彼女は来ない。なにせ彼女は二次元に夢中なのだから。
……と思っていた矢先に瑠流が現れた。
「やっほー。アンちゃん、来たよー」
「まさか、本当に来るなんて」
「なにさ。来てよって言ったのはアンちゃんなのに」
「それはそうだけど……」
「今日はねー、読む漫画も観るアニメも無くなっちゃったから来てみたんだぁ」
そう言いながら、彼女は商品陳列棚を眺め始めた。「いろんな物があるんだねー」と、一人で興味深げに見て回っている。
当初の目的を忘れてるね、この子。
そのとき、丁度いいタイミングで総一さんが出てきた。
「おや、噂の山ちゃんのお友達かい?」
私の友達が来るかもしれない、ということは事前に総一さんに話してあった。
「あっ、はい。おーい、瑠流―」
私は瑠流を呼ぶ。すると彼女は、棚の間からヒョコっと顔を出して歩み寄ってきた。眼鏡をかけてはいるものの、彼女は本当に目が悪いので、近くに来ないと総一さんの顔も確認できないだろう。
「総一さん。私の友達の神凪瑠流です。小学校から高校まで同じ学校に通ってました。中学のときは同じ美術部。今は書店に勤めてます。瑠流、この人は総一さん。店長の息子さんね」
瑠流には総一さんの話をしていない体で、白々しく紹介をした。ほー、この人が。という感じで総一さんを見つめる瑠流。そう。見つめていたのだが。
「……」
「……」
いつまで見つめ合うの! そして、なぜに無言!?
「……」
ついでに私も無言になってみた。さぞかし異様な風景だろう。
え? なに、この空気。
「あのぉ……」
耐えきれず、声を洩らす私。
「えっ!? 山ちゃん、なに!?」
「ん!? アンちゃん、どうしたの!?」
二人が同時に驚きの反応を見せた。
……もしかして、これは。
いわゆる〝一目惚れ〟というやつだろうか? しかも互いに。
「瑠流は気になる物でもあった? 私さ、ちょっとトイレに行ってきたいんだけど。総一さん、すいませんけど神凪さんの相手してもらってもいいですか?」
「あ、あぁ。もちろん」
動揺しすぎでしょ。それは瑠流もだけど。そわそわとしていて落ち着きが無い。明らかに真っ赤な顔の二人を後に、私は休憩室へと向かった。こんなこともあるんだなぁ、なんて思いながら。
「あら? 山ちゃん、どうしたの?」
「表の二人が面白いことになったので、トイレに行く振りをして席を外しました」
小さな声でそう言うと、志恵さんはテレビ画面に目を向けた。店内に設置されている防犯用のビデオカメラで店内の様子がわかるようになっている。二人の様子が映っている映像を見て、志恵さんは私に聞いてきた。
「この二人は知り合いなの?」
「いえ。今会ったばかりです。あの子、私の幼馴染みなんですけど、今日初めてこのお店に来ました」
「そうなの? 初対面の女の子に、あんなに必死に話しかける総一の姿なんて初めて見たわ」
ふふっ、と笑う志恵さんに釣られて私も笑った。
「でも、私はやっぱり山ちゃんがいいわねぇ」
「あの、でもそれは総一さんの気持ちもありますし」
「あぁ。ごめんなさいね。そういう意味じゃないのよ。私の勝手な思いなんだけれど、私の老後は山ちゃんに面倒を見てもらいたいの」
「え? でもそれなら、こうやってこのお店でバイトしてれば志恵さんとも話できるし」
「だけど、いつかはアルバイトを辞めて、どこかの会社に勤めることになるでしょう?」
「それは……」
考えていなかった。
今が良ければそれで良い。そんな考えで過ごしてきた私は、先のことまで視野に入れていなかった。
幸い、私の両親は公務員で、お金の心配は無いと油断していたということもあるのだけれど。周りにチヤホヤされて。
「アンちゃんの家はいいなぁ。両親とも公務員なんでしょ? 将来、安泰じゃん」
なんて言われることもあって、高校生ながらに、いや、高校生だからこそかもしれないのだけれど、内心傷ついていたときもあった。だけど、それに慣れてしまって余裕ができすぎちゃったんだと思う。
父は消防士で母は高校教諭。お金や将来のことは親任せ。両親も今のところは私のことについて何も言ってこないから、フリーターでもいいかなぁなんて思ってた。
でも確かに、ゆくゆくは自分がちゃんと働かなきゃいけない。志恵さんの言葉で改めて思い知らされることになった。
瑠流と総一さんが出会って、およそ一ヵ月後の話。
二人は結婚を前提に付き合うことになったらしい。渋井家の皆さんも喜んでいた。
私も嬉しい……はずなんだけれど、どこか、心の底から喜べない自分がいた。私がここでアルバイトを続けていたら、渋井家と瑠流の邪魔になってしまうのではないかと心配(不安?)になったのだ。
店長の件も、総治さんから総一さんへ、順調に引継ぎが進んでいるとのこと。瑠流も結婚したら、このお店の経営に協力していきたいと意気込んでいた。
ますます気まずくなるばかり。
そんなときだった。
私の周囲で不幸が続いたのは。
竜ちゃんと瑠流と三人でご飯でも行きたいなぁと思って、彼に連絡をしたのだけれど返事が返ってこない。その後も全く連絡が取れなかったので、竜ちゃんと仲が良かった友達に聞いてみた。すると、彼はこう言った。
「竜三は、死んだよ」
と。ちょうど四月一日の会話だった。エイプリルフールとはいえ、なんて酷い嘘を吐くんだと、私は怒った。しかし、電話越しに鼻をすすりながら話をする友達にそれ以上は聞くことができなかった。
別の友達に電話をしても同じ答えだった。まさか、本当に竜ちゃんが。死んだ? 信じられない。詳しく聞くと、高所作業中に足を滑らせて転落したらしい。
友達を疑うわけではないけれど、事の真意を確かめるべく、私は瑠流と一緒に蛇尾家へと向かった。
竜ちゃんの家のインターホンを押すと、玄関のドアから彼のお母さんが出てきた。やつれた表情の彼のお母さんには、「あの、竜三君に会いに……」としか言えなかった。最後まで言えず、言葉を濁していると、「どうぞ。会ってやって」と言って家の中へと迎え入れてくれた。
本当に信じられなかった。
仏壇と竜ちゃんの遺影。
嘘でしょ? 本当にもう、この世にいないの? 彼のことだから、どこかへ遊びに出かけていてそのうち平気な顔で戻ってくるよ。
悲しみは無い。だって、実感できないんだもん。
でも、体は正直だった。涙が流れていた。瑠流の目にも涙が溜まっていた。彼女も私と同じく、彼の死を実感できずにいるのだと思う。特に、彼女の場合は、中学校以来会っていないのだから、この現実を受け止めることも難しいんじゃないだろうか。
一言も発すること無く、私は仏壇の前の座布団の上に正座し、線香を立てた。そして手を合わせて冥福を祈る。次に瑠流も。線香の煙がモクモクと上がっていく。
竜ちゃんはもう、この世にいないんだ。そう言い聞かせている自分に腹が立った。友達が死んでしまったという現実を認めたくなかったんだと思う。それに悔しさもあった。〝竜頭蛇尾〟の逆みたいに、これから勢いづいていくところじゃなかったの? ねぇ、先生。蛇尾竜三君は勢いづくかもしれない、その前に逝ってしまいましたよ?
再び涙が溢れ出す。声は上げなかったけれど。
蛇尾家を出るとき、竜ちゃんのお母さんに深く一礼して帰路についた。帰りは二人、しばらく無言で歩いていた。
「竜ちゃん、まだまだやりたいこといっぱいあったんじゃないかな」
口火を切ったのは瑠流だった。
「久しぶりに会ったのが遺影でなんて。……悲しすぎるよ。竜ちゃんに話したいこともいっぱいあったのに」
そうだよね。瑠流は、話したいことも聞きたいことも、いっぱいあったんだろうな。
「三人で仲良く遊んでた小学校時代が懐かしいな。私、あの頃はよくアンちゃんに無理やり外に連れ出されたっけ」
「そうだった? 竜ちゃんが連れてきたんじゃなかったっけ?」
「そんなときもあったけど……。まぁ、二人に振り回されてた思い出が強いよ」
瑠流は苦笑いを浮かべて言った。
「でも、アンちゃんと竜ちゃんのおかげで、周りのみんなとも馴染めたと思うんだ。ほら、私、昔からインドア気質だったじゃん?」
「そうだったねぇ。それでも瑠流は、竜ちゃんとは漫画の話しで盛り上がってた思い出があるよ」
「まぁ二次元に関しては、少年漫画でも少女漫画でも、オールマイティだったから」
「あとは……。中学のとき、やたらと美術室に入り浸ってなかった?」
「あったあった! 私達がデッサンしてるとき、彫刻の隣で同じポーズとってて! あれは笑ったなぁ。先生が来たらすぐ帰ってったりしてね」
「そうそう! なんか、ホント自由なヤツーって思ったよぉ。部活は……一応、剣道部って言ってたよね? でも、幽霊部員でほとんど部活に行ってなかったとか」
「そうだったかも。あのときは美術部内で、アンちゃんと竜ちゃんが付き合ってるんじゃないかって、噂になってたんだよ?」
「えっ! なにそれ!? 私、知らなかった!」
「そりゃあ、本人には言わないでしょうよ」
過去の話に華が咲いた。
……あぁ。竜ちゃんともこうやって三人で思い出話、したかったなぁ。
「でも……、その竜ちゃんも、もういないんだね……。アンちゃんはいいなぁ。死んじゃう前に、久しぶりに会えて」
「よかったけど、よくないよ。あれが最後だったなんてさ……」
「……ごめん」
「こっちこそ」
再び沈黙し、家の近くまで無言で歩いた。
瑠流の家が目前になったとき、今度は私から話しかける。
「〝明日は我が身〟じゃないけど、悔いの残らない人生を歩みたいね」
「うん。私達は私達で、竜ちゃんの分までしっかり生きようよ」
「しっかり……。そうだ。落ち込んでる場合じゃない。竜ちゃんに〝凹んでんじゃねぇよ〟とかって怒られちゃうかも。それか逆に、〝俺のせいで悲しませちまった〟とか思うかな? 意外に優しい奴だし」
「意外どころか、彼は優しい人だったと思うよ。不器用なだけで」
優しい人だった。瑠流が言った、「だった」という過去形に違和感を覚えた。彼女はもう、彼の死を納得しているのかな? 私はまだ飲み込めずにいる。
「まぁ、まずは瑠流に幸せになってもらわなきゃ」
「私のことよりも、アンちゃんの幸せを願ってると思うな」
「あぁ、そうかも。〝早く彼氏つくれや〟なんて言ってね」
ふふっ、と二人で笑った。やっと笑顔を出すことができた。
竜ちゃんは天国からみんなのこと見てるのかな?
その数日後。
私のお父さんが死んだ。
仕事中の出来事。火事の現場にいた消防士のお父さんは、炎に包まれた家の中の人を助けるべく、火の中へ飛び込んだという。そして、崩れた家の下敷きになってお父さんは死んだ。その家の中にいた人も救えずに。
「勇敢な消防士だった」
周りの人はそう言っていたけれど、別に勇敢じゃなくてもよかったのに。勇敢じゃなければ、お父さんだけでも死なずに済んだかもしれないから。
お母さんは夜通し泣き続けた。
私は泣くことが出来なかった。
お父さんの仕事柄、あまり顔を合わせて話をすることもなくて、私はほとんど関わることがなかった。だから、親近感も沸いて来なくて、悲しみもあまり感じなかった。なんて薄情な娘なんだろう、と我ながら思った。葬儀などに関しては、お母さんが色々と手続きをしてくれ、私は軽く手伝うことぐらい。職場の人や親戚の人達、多くの人達が訪れ、すごく騒がしかった。
嵐のような日々が過ぎ、お母さんも少しずつ落ち着いてきたみたい。今では頑張って仕事にも行っている。
私は……、特に何も変わらない。でも、お父さんが亡くなってから「私もそろそろちゃんとしなきゃ」などと思い始めた。
そして、不幸はまだ続いた。
『渋井リサイクルショップ』の店長、渋井総治さんが亡くなった。用事のために車で外出していたとき、交通事故に巻き込まれたのだという。
ここまで立て続けに身近な人が亡くなっていくなんて、私は死神なんじゃないかと思わされる。
「まだ死ぬには早すぎた」
周りの人達はそう言った。私もそう思う。
バイトに行っても、あの可愛らしい店長はもういない。お店の雰囲気もどことなく暗い。そんな中、志恵さんは人一倍明るく振る舞っていた。志恵さんが一番辛い思いをしているはずなのに。
店長が亡くなったと聞いて駆けつけたときもそうだった。酷く悲しみ、泣きじゃくっていた私に、
「総治さんは、山ちゃんのそんな顔は見たくないって思ってるわよ。そんなに悲しんでいたら、総治さんも安心して成仏できないわ」
と言って微笑んだ。
なんで笑顔でいられるの? 一番泣きたいのは志恵さんでしょう? 強い女性の強さを垣間見た気がする。
「若者の力をこんなところで使っては駄目よ。自分のために、今を生きる大切な人のために、いざというときに使いなさい」
この悲しみの力を、優しさや明るさの力に変える。それが、総治さんに恩返しをできなかった今の私にとっての、第一の試練なのかもしれない。私達だっていつかは死ぬ。それまでに、誰かのために何かをしたい。そんな思いを抱えながらアルバイトを続けた。
変わらぬ日々を過ごしていたつもりだった。〝つもり〟。それは、見る人が見ればわかるらしい。
「あの……」
「はいっ! なんでしょう!」
元気に返事をする私に、お客さんは言った。
「なんか最近、雰囲気が変わりましたね」
「え?」
そのお客さんをよく見ると、以前このお店に来て、私に怯えながら問いかけてきた男の人だった。変わらず痩せ気味だなぁ。なんて思っていたら、私の頭上から(背が高いから見下ろす形になって)低い声で私に聞く。
「なにか、こう、頑張り過ぎというか、無理してるのかなって」
続きが出て来なかったのか、その男性は口を噤んだ。代わりに私が言葉を繋げる。
「いやぁー。ここのところ不幸続きでして。ちょっと疲れてたのかな? あ、でも私は病気とかなにも無くて、至って元気ですから。ご心配無く!」
満面の笑みを作って話した私に対して、
「僕で良ければ、話を聞きますよ」
なんて、男性は言った。その言葉を聞いた途端、私の目から涙が零れ落ちた。
「えっ!? あの、すみません! 僕が余計なことを……」
「ちっ、違いますよ! 別にお客さんのせいじゃないんで!」
さっと服の袖で涙を拭き、再び話しかけようと思ったとき、総一さんが顔を出した。
「どうしたの? なにかあった? 大きな声がしたけど……」
「いえ、なんでもないです! 私が商品を落としちゃいそうになったところをこちらのお客さんに助けていただいて」
てへっ、と照れ笑い(もちろん作った笑み)を総一さんに向けて、「すいません、お騒がせしてしまって」と謝った。
「そう? それならいいんだけど。でも山ちゃん、顔が赤いよ? 熱でもある?」
「熱なんて無いですよぉ。大丈夫ですっ!」
「大事に越したことはない。今日はここで上がっていいよ」
「いえ、でも……」
「また明日から元気にやってもらいたいしさ」
総一さんのその優しさにまた涙が溢れそうになったけど、そこはなんとか我慢した。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて上がらせてもらいます。すみません、お先に失礼します」
総一さんとお客さんにペコッと頭を下げ、そそくさとバックルーム(兼、休憩室)へ。すると、一気に涙が溢れ出した。情緒不安定か、私は。
その様子を志恵さんに目撃されてしまった。だけど、志恵さんはそのことについては触れないでくれた。
「お疲れ様。今日はゆっくり休んでね。私もお店に出るし、大丈夫だから」
「はい、すいません。ありがとうございます」
私はタイムカードを押して、早急にお店を出た。
もうっ! なんなのよ、あのお客!
そう思って駐車場への道を歩いていたら、そのお客さんと見事に鉢合わせしてしまった。
「あっ……」
「ん?」
目を真っ赤に腫らした顔を見られてしまった。オマケに化粧も落ちているこの顔を。
「君は……」
「えーと、さっきは失礼しました! 心配してくれてありがとうございます。じゃっ!」
そう言って逃げようと歩みを進めたとき、その男性は私の腕を掴んでいた。
「なっ、なんですか?」
「いや、その、君のことが気になっていて。さっきは、話を聞きますよ、なんて言いましたけど、訂正します」
私の腕を掴んでいた手を離し、改まった態度で男性は言った。
「あなたの話を聞かせてください」
その人は「平田周」と名乗った。
私は名前言うのが恥ずかしかったので、「山野です」としか言わなかったけど。すると、
「あなたのことは存じています。ネームプレートに名字だけですが、名前が書かれていましたから」
と、微笑んで彼は言った。
「山野さん、立ち話もなんですし、どこか近くの飲食店にでも行ってお話しませんか?」
「……いい、ですけど」
なぜこの人は、明らかに年下であろう私に対して敬語を使うのだろう? と疑問に思ったのだけれど、それ以前に、なぜここまで私のことを気にかけてくれるのか不思議に思った。
私のことを話すのはいいんだけど、早くお店でメイクを直したい。
近場の喫茶店で話をすることにした。お店に着くなり私は化粧室(お手洗い)でささっとメイクを直す。そして、平田さんの待つ席に着いた。
席に着くなり、彼は「すみませんでした」と言った。なんのことかわからなかった私は首を傾げる。詳しく聞いてみると、私のことを外見で判断してしまっていたことについてのようだ。そんなこと、思っているだけなら黙っていればバレないのに。律儀というかなんというか。なんて馬鹿正直な人なんだろう。見た目だけで判断されることなんて当たり前。私はそう思っているし、それを承知の上でこんな格好をしている。
彼は語った。私のインパクトが強かったことを。
初めて来店したとき、茶髪にピアス、化粧もバッチリ(どころか派手なメイク)で、きっと不良上がりなのだろうと決めてかかっていたらしい。そう思いながらも、年下であるそんな私に勇気を振り絞って問いかけたという。すると、意外にも優しく、丁寧に対応してくれたことに驚いたと、彼は言った。それからは、尊敬の眼差しで私のことを見ていたのだとか。まったく、大袈裟な。
私としては通常運転というか、いつも通りの接客をしていただけなので、なんとも思っていなかった。それが平田さんにとっては、これまでに感じたことのない衝撃だったらしい。そして、私に謝ってきたのだ。改めて彼は、「山野さんのことを外見だけで判断してしまって、すみませんでした」と謝罪する。
その話を聞いて、私は久しぶりに大笑いした。平田さんはそんな私を不思議そうに見ていたけど、私からすれば平田さんが不思議な人に見えてならない。
そんな〝平田周〟という目の前にいる男性に、今まで私が溜め込んできた気持ちを吐き出してみたくもなった。
「あの、山野さんのことに興味がある、というと変かもしれませんが、なんというか……その、気になるんです。なんだか心配になって」
彼はかなりの口下手(恥ずかしがり屋?)のようで、上手く説明できずにいる。というか、それ以前の問題を解決しよう。
「そのー。平田さんのほうが明らかに年上ですし、敬語は使わなくていいですよ。そもそも、平田さんはおいくつなんですか?」
まずは敬語のせいで固くなってしまっていけないな、と思って年齢を明らかにさせようとした。
「僕ですか? 僕は二十八歳です。山野さんはおいくつですか?」
こらこら。女性に年齢を軽々しく聞くもんじゃないよ。なんて思いながらも、私は答えた。
「私は今、二十一歳ですけど」
「えっ!? 二十一!?」
……何歳に見られてたんだろう。
「あ、すいません。山野さんは僕と同じぐらいか年上だと思ってて。あまりにしっかりしていて、大人びて見えたものですから」
喜んでいいのか悲しむべきか。そこまで思っていることを正直に言うなんて、どこまで単純なんだ、この人は。少しは女性に対して気を遣いなさいよ。とりあえず、彼のアラサー予想に関して思ったのは、彼の眼鏡を叩き割って分析してやりたい、ということだ。化粧もわりと厚めにしてるからわかりづらいかもしれないけれど。それでも、ねぇ?
「そんなに大人びた感じします? というか結構、歳が離れてるんですね。それなら尚のこと敬語はやめてくださいよー。私、敬語を使うのは好きなんですけど、使われるのは苦手なので」
「そ、そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて」
そう言って、平田さんは「ゴホン」と咳払いをした。
「山野さんは……」
「山ちゃんでいいですよ」
「あ……。や、山ちゃんは、最近なにかあったの?」
そう聞かれて、私は最近身の回りで起こったことについて話し始めた。友人の死。父親の死。店長の死。次々と起こった不幸に、私はどうしたらいいのかわからなくなっていたこと。誰かに相談したくとも、皆がそれぞれ何かを抱えていて、誰にも話をすることができずに一人で溜め込み、爆発寸前になっていたこと。自分自身の思いや感情。元気でいたいという体と不安定な心が共存する、心身の不一致。ちょっとしたことで揺らぐ気持ち。
とめどなく話し続けた。溜まっていた感情を吐き出した。
親しくもない間柄だからこそなのか、平田さんにはいろんなことを話すことができた。彼が聞き上手なのか、話すことが苦手だからはわからないけれど、彼は静かに、しっかりと目を見て私の話を聞いてくれた。
一通り話し終えた私は、喉が渇いてしまって水を一気に飲み干した。そして再び口を開く。
「人なんて、いつ死んじゃうかわからないですもんね。私だって、明日死んじゃう可能性がゼロではないでしょうし」
「ま、まぁ、それはそうかもしれないけれど……」
「もしかしたら、お母さんだって……。って、そんなこと言ってたらキリがないですよね。あははっ」
軽く笑う私の反応に困ったように、平田さんは黙り込んでいる。
「両親が公務員だからって、油断してたんですよ、私。自分を甘やかしてたと思うんです。このままでいいんじゃないかって。でも、これを機に、この先のことを考えていけたらなぁ、なんて思ってもいるんですけど」
好き勝手に自分の気持ちを言いまくる私。それを変わらず静かに聞いている平田さん。けれど彼は、次の言葉に大きく反応した。
「私、まだバイト先に恩返ししてないんです」
「え? それは、どういうこと?」
「高校を卒業して、仕事にも就かなくてフラフラしてた私を、こんなチャラい私を雇ってくれて。だからお店にはすごく感謝してて。でも、どうしたら恩返しできるかなって、ずっと考えてるんです。ただ、店長にはもう、恩返し、できないですけど……」
店長のことを思い返すと、涙が込み上げてくる。
「奥さんの志恵さんは〝山ちゃんには居てほしい〟って言ってるけど、私がいたら店長の息子さんと彼女……友達の邪魔をしちゃうんじゃないかって。だったら、今のバイトを辞めて、別の仕事に……と思ってるんですけど、このお店のためになることだったらなんでもやりたいって思ってるし、貢献したいっていう気持ちがあって。それに、他に特にやりたいと思うことも無いし、私を雇ってくれる会社なんかあるのかっていう不安もあって」
正直な気持ちを出し切った。親しくもない、よく知りもしない人にこんなに話をしていいものなのか、と思ったけれど、そんな心配以上に「溜まった思いを吐き出したい」という気持ちが強かった。その気持ちを叶えて、思いを出し切った私は無言になる。
二人で黙り込んでしまい、沈黙が続く。その沈黙を破ったのは平田さんだった。
「山ちゃん、ジュースのおかわりはどう?」
「いえ、私は結構です」
「そう? じゃあ……」
平田さんは「すいませーん」と、店員さんを呼んだ。コーヒーのおかわりを頼み、他にもなにかボソボソと話していた。注文を終え、こちらを向いた彼は、私に向かって聞いてきた。
「それで、山ちゃんの言う〝恩返し〟っていうのは、どんなことを指すのかな?」
「えーと……、なんか、こう、そこにいる人達のためになることをするとか、できることをやってあげたい、というか……」
うんうん、と頷きながら話を聞いていた平田さんは、私の言葉が切れたとき、代わりに口を開いた。
「そうなると、山ちゃんは十分に〝恩返し〟ができているんじゃないかな?」
「へ?」
「だって、かれこれ二、三年ぐらい、お店に従事してきたわけだろう? お店にとってはだいぶ助かったんじゃないかな?」
「でっ、でも……」
「少し、冷たく言ってしまうとね」
平田さんの声が、別人のように、はっきりと太い、強さを帯びた声になった。
「お店には雇う人と雇われる人がいる。雇われている人は働いた分の対価、つまりは給与を受け取っている。働いた分についてはそれでチャラになるわけだ。ギブ・アンド・テイク。持ちつ持たれつ、ってね。でも、それ以前にあのお店では従業員不足でアルバイトを探していたわけだろう? そこに君が現れた。ということは、その時点でお店としては山ちゃんに助けられていて、お店側から〝山ちゃんに恩返しをしたい〟と思うパターンも有り得るわけだ。君がお店に恩返しをしたいと思うようにね。意識的にだろうが、無意識にだろうが、〝恩〟っていうものは、いつでもどこでも、いたるところに存在するものなんだよ。だから、〝恩〟ということに縛られる必要も無いと思うんだ。優しい君には辛いことかもしれないけれど、これを機に自分の先のことを考えてみたらどうだろう?」
驚いた。こんなにしっかりと話せる人だったんだ。初めて平田さんを見たときは「頼りなさそうな人だなぁ」なんて思っていたんだけれど。
「なんて、これは僕自身の考えじゃなくて受け売りなんだけどね。あと、これは僕が思ったことなんだけど、お店の人達も、山ちゃんの幸せを願ってると思う。だからもっと、自分自身のことを中心に考えてもいいんじゃないかな?」
微笑む平田さんを見たら、再び涙が出そうになった。私、こんなに泣くキャラじゃなかったのに。いつから涙腺が壊れちゃったんだろう。なんなの、この人。調子が狂う。良さ気なこと言って女の子を泣かせてばっかりで。いや、泣きそうだけど、まだ泣いてない。そんなに泣き顔を見せて弱味を握らせてたまるものか。
丁度そのとき、店員さんがやってきた。コーヒー……とケーキを持って。あぁ。ボソボソと言っていたのはこのことだったのか。甘い物が好きなんだなぁ。と思ったら、ケーキを私の前に差し出した。
「なんかね、ここのオススメのケーキらしいよ。あっ、大丈夫。今日は僕が奢るから」
「えっ? それはちょっと、申し訳ないというかなんというか……」
「じゃあ、代わりと言っちゃあなんだけど、その……。また、ご飯にでも、付き合ってくれます……か?」
おいおい。また敬語に戻ってるって。恥ずかしそうに言う彼を見て、私もなんだか少し恥ずかしくなったけど、
「いいですよ」
と軽い気持ちで返事をした。「よっしゃ!」と喜んだ平田さんは、携帯電話を取り出して「連絡先、教えてもらってもいいかな?」と遠慮気味に私に聞く。私は承諾し、連絡先を交換した。
それから、ちょっと疑問に思ったことを平田さんに聞いてみた。
「さっき、〝受け売り〟がなんとかって言ってましたけど、誰からの受け売りなんですか? それに平田さんって、なんのお仕事してるんです?」
「僕は介護の仕事をしてるんだ。これでも介護福祉士でね。で、お世話させてもらってるおじいさんが僕に言ってくれたんだよ。〝世の中、持ちつ持たれつだよ〟って。僕もちょっと落ち込んでたときがあって……。仕事に私事を持ち込んじゃいけないとは思ってたんだけど、そのおじいさんにはわかっちゃったみたいで」
私の様子の変化に気づいた平田さんみたい。そう思って、私は思ったことをその瞬間に……、いや、思う前に反射的に言葉を発していた。
「どうやったら介護福祉士になれるんですか?」
「え?」
急な発言に驚く平田さん。言った本人である私も驚いたけど。
「あっ、急にすいません。私、平田さんみたいになりたいです。人を支えられる、助けることができる、そんな人に」
「い、いや。僕はそんな、目標にされるような人間じゃないというか……」
「私は平田さんに助けられました」
私は「いただきます」と言って、ケーキを口にする。「うん、美味しい」と、微笑みながら話を続けた。
「平田さんが私を助けてくれたように、私も誰かを助けたい。誰かの役に立ちたいんです」
「いや、そんな。僕はちょっと話を聞いたぐらいで……」
「その〝ちょっと〟が大事なんです!」
私は声を荒げた。平田さんはビクッと体を縮ませる。
「あ。大声出してすいません。それに、〝ちょっと〟なんかじゃないですね。かなり話を聞いてもらっちゃいました。とにかく、私が言いたいのはですね……、おほん。平田さんは勇気を出して私に話しかけてくれました。それで私は助けられて、勇気までもらいました」
「は、はい」
怯えながら私を見る平田さんは、まるで躾をされている子犬のようだ、と思った。
「そんな平田さんに、私は尊敬の念を抱きました。そして、尊敬する人のようになりたいと思って、同じ職業に就きたいと思いました。それは、おかしなことでしょうか?」
「い、いえ、おかしくない、と、思います……」
「では平田さん。時間があるときでいいので、介護職のなんたるかを私に教えていただけませんか?」
「なんたるか?」
「はい、なんたるか。介護職とは何か。仕事の内容や資格の取り方、その仕組み。仕事に就くために必要なことなど、です」
「ま、まぁ、互いの都合が合うときで良ければ……」
「ありがとうございます! よろしくお願いします!」
私は勢いよく頭を下げ、それからケーキの残りを貪った。平田さんはポカンと口を半開きに、私のそのようすを眺めていた。
その後、私なりに色々と調べて、お母さんにも相談した。すると、「あなたのやりたいようにやってみなさい」と言ってくれた。お母さんも高校教諭という仕事柄、帰りが遅い。亡くなったお父さんと同じく、普段はあまり顔を合わせることがなかった。久しぶりに見たお母さんの顔は、良い色とは言えない顔色になっていた。そして、以前に比べて、だいぶ痩せてしまっている。
そういえば、亡くなる前のお父さんの顔色や形は、どんな感じだっただろう? 思い出せない。家の中で擦れ違うことはあっても、まともに顔を見たことが無かった気がする。話もロクにしなかった。本当に、親不孝な娘だ。そう思われても仕方ない生活を、私は送ってきてしまった。お父さんとはもう、話をすることはできない。そう思ったら、死を知ったときや葬儀のときには表れることの無かった感情が込み上げてきた。お父さんは、何を考えながら生活して、私のことはどう思っていたんだろう? 今ではもう、知ることはできない。もっといろんなことを話してみたかった。あぁ。これが〝後悔〟というものなのか。お父さんが死んでしまったことを、今さら実感した。悲しみや苦しさをこの身に、この心に感じている。
このことを竜ちゃんに話したくなった。話して楽になりたかった。中学生だった頃を思い出すと、私はだいぶ彼に救われていたように思う。話しやすくて明るかった竜ちゃん。彼は、暗くなりがちな私の話を親身になって聞いてくれ、話し方も上手で面白い話題を出してきては、私を明るい気分にさせてくれた。だけど、そんな竜ちゃんも、もうこの世にいない。常に明るいイメージの彼だったけど、彼自身は、仕事とか家族とか、自分の人生についてどう考えていたんだろう? なにか抱えてることとかあったのかな? 思えば、彼は私の話を聞いてくれてばかりだったかも。私ももっと、彼の話を聞いてあげれば良かった。聞いてみたかった。それも、もう叶わない。
瑠流も、将来の旦那になるであろう人の父親が亡くなってしまったのだ。きっと、私の気持ちを聞くどころではない。むしろ、聞いてあげなきゃ。志恵さんや総一さんに対してもそう。そして、みんな悲しみを乗り越えようと、次に進もうと頑張っている。だから、私も頑張らないと。
亡くなってしまった人には、もうなにもしてあげることはできない。せめて、残された人達へなにかをしてあげたい。話を聞くだけでもなんでもいいから。でも、それとは別に、私は私自身の人生を歩んでいかなきゃいけない。今が決断のときだ。
こんなときに、こういった話をするのは気が引けるけれど、このタイミングを逃したら、もう次は無い気がする。正直キツい。それは、身内が亡くなったばかりのみんなもそうだと思うけれど。でも、今しかない。そう思った。
私は志恵さんと総一さんに話をした。
「私、ここのアルバイトを辞めようと思います」
急な発言に、総一さんは驚いていたが、志恵さんは微動だにせず、静かに私を見つめていた。
「まずは車の免許を取ろうと思うので、それまではここでのバイトを続けさせてもらえればと……」
介護の仕事をしたいから、ということは告げず、理由としては「やりたいことができたので」と、申し訳ない気持ちで二人に言った。
尊敬する人がしている仕事に心を奪われた。だから介護福祉士を目指す、ということだけど、他にも理由はある。介護関係の仕事をしていれば、ゆくゆくはお世話になった人や関係のある人の面倒を見ることができるかもしれないと思ったし、他のいろんな人達にも、明るさや元気を分けてあげることができるかもしれないと思ったから。
そのためにはまず、自動車運転免許の取得。これは今や、就職するにあたって必須と言っていい資格だ。交通の便が良い場所に住まない限りは。
そして、平田さんのように介護福祉士になるためには、実務経験を積んで実務者研修というものを受ける。介護福祉士の試験を受けるために必要な実務経験というのは、介護福祉関係の施設に三年以上務めること。そしてやっと、国家資格である介護福祉士の試験を受けることができる。しかも試験というのも、国家試験だけあって相当難しいらしい。合格率は……何パーセントだっけ? とにかく、半端な気持ちではまず受からないみたいだ。それでも私は挑戦してみたい。
……というわけで、バイトを辞める決断に至った。私が「辞めたい」と言えば、「NO」とは言えないまでも、渋々承知してくれるかなぁなんて思っていたけど、志恵さんは渋々どころか笑顔で言った。
「やりたいことが見つかって良かったわね」
にこり、と微笑みながら言う志恵さんに、私はなんとも言えない複雑な気持ちになった。なんで辞めていく人に向かって、笑顔でいられるのだろう?
「あの……、すいません」
「いやねぇ。なんで謝るのよ。私達、山ちゃんには随分と助けてきてもらったからねぇ。山ちゃんのやりたいことには全力で応援するわ」
一方、総一さんは残念そうな表情で言う。
「そうだね。山ちゃんがいなくなっちゃうのは寂しいけど、僕も応援するよ。あとは、僕と母さんと瑠流と、三人で頑張っていくから」
それはそれで複雑な気持ちだなぁ。と内心、苦笑いでいた。
「ここのバイトを辞めても、ちょくちょく顔を出しに来ますから。とりあえず、あと二ヵ月ぐらいですかね。免許取得まで、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げると、二人も「こちらこそ」と言って、この話についてはここで一区切りとなった。
バイトを辞めることについては、瑠流にも報告した。それから、「渋井リサイクルショップをよろしくね」とも。
「アンちゃんがあのお店を辞めるってことは、やりたいことっていうの、相当本気なんだね。文句一つ言わないで楽しそうに働いてたみたいだから、ずっとあそこでバイトを続けてくものだと思ってたよ」
瑠流と総一さんの邪魔をしたくもないしね、とは冗談でも言えない。変に気を遣わせたくないから。
「本気だよー。本気も本気。〝本気〟と書いて〝マジ〟と読む、ってぐらい本気っす! あはっ」
「アンちゃんはそんな話し方するから、いつも他の人に本気で言ってるように思われないんだよ? 自覚してる?」
「してるしてるー」
ケラケラと笑いながら言う私に、瑠流は溜息をついた。
「まぁいけどさ。っていうか、アンちゃんが見つけた〝やりたいこと〟ってなに?」
「んー、それはねぇ……。ヒ・ミ・ツ☆」
「なんでー?」
「人というのは誰しも秘密を抱えて生きているものなのだよ」
「なんで悟り口調!?」
「まぁまぁ。冗談はさておいて。瑠流だって総一さんに言ったの? コレのこと」
私は瑠流の部屋を見回しながら言った。漫画やアニメのグッズがいっぱいのこの部屋を。……前よりも増えてないか?
「もちろん言ったさぁ。いくら一目惚れとはいえ、相手の趣味を理解してくれないような人と付き合おうとは思わないもん」
「なるほどねぇ」
さすが瑠流。ブレないなぁ。
「まぁ、私のことについては後々話すよ。いろいろと落ち着いたらね」
「えー。ずるーい」
口を尖らせた彼女を見て、私はふふっと笑い、「じゃあまたお店でね」と言って彼女の部屋を出て、玄関を後にした。
瑠流はすでに、これまで勤めていた書店を辞め、『渋井リサイクルショップ』の手伝いを始めている。そんな彼女に、介護職の話やら平田さんのことやらを話したら、瞬く間にみんなに広まることだろう。そして、仕事中に彼のことについて問いただされるのは明白である。話題の焦点は、私と平田さんの関係について当てられてしまう。そう考え、面倒なことを避けるべく、私は瑠流にも言わなかった。今のところ、私のことについて色々と知っているのは私のお母さんだけ、ということになる。
そして、平田さんの様子はというと。
彼も仕事が忙しいらしく、あまり私の面倒を見ることができないでいた。それは仕方ない。自分のことは第一だもの。それでもし、自分のことをほったらかしにして私の面倒を見ようものなら、私はきっと彼との関係を断っていると思う。自分のことさえしっかりできない人が、他の人の気持ちを考えることなんてできない、と私は思うから。そのため、自分なりにできることをやっていこうと思い、一人でなんとか努力している。まぁ、まずは車の勉強から、なんだけど。
彼は彼で〝ケアマネージャー(介護支援専門員)〟(略称・ケアマネ)という公的資格を取ろうとしているらしく、自身の勉強も忙しいみたい。それでも、私の新たな勤務先となる予定の介護福祉施設を紹介してくれた。丁度人手不足だったらしい。なんてタイミングだろう。平田さんが勤めている職場とは違う勤務地で少し心細かったけど、紹介してもらえただけでも幸運なことで感謝すべきこと。
運転免許の取得後は、『渋井リサイクルショップ』でのアルバイトを辞め、その介護福祉施設で働くことになる。
数年後。
髪を短くして黒く染め直し、ピアスも外して化粧も薄目に控えた私は、介護福祉施設で働きながら資格取得のための勉強に励んでいる。介護福祉士の受験資格を得た私だったけれど、これまでに二回落ちている。心が折れそうだった。でも、そのぐらい難しい試験なんだとやっと実感し、この国家試験に合格した平田さんを改めて尊敬するに至った。そして、「次こそは合格してやる!」と意気込んでいるところである。
平田さんはというと……、なんと! ケアマネの資格を取得していた! 私には黙っているつもりだったらしいけど、口を滑らせた彼の言葉を私は聞き逃さなかった。普段、無口でいる平田さんは、そういう報告もしない。私の話を聞くばかり。聞き手に回る彼に、調子よく話をする私も自分のことばかり話してしまう。きっと、私と彼を足して二で割ったら丁度いいんじゃないかな。
私のグチや渋井家の近況を聞かされたり、私の母の話をされたり、よくもまぁずっと黙って聞いていられるものだなぁと逆に感心する。平田さんは基本的に人の話を聞いてばかりいる。あまり自分から話し出そうとはしない。仕事柄そうなってしまったのかなぁとも思ったけれど、根本的に彼はおとなしい性質なんだろうな。私も仕事で聞き手に回ることが多くなって、いろんな利用者さんと関わって、いろんな出来事があって……、ストレスが溜まることもある。それを誰かに聞いてもらいたい(グチりたい)と思って、その聞き手に任命された残念な人というのが、平田周というその人だ。
でも時々、彼の話も聞いてみたくなる。お父さんが亡くなってから思った後悔が、ふと甦るから。どんなことを感じながら、なにを考えて生活しているのか。お父さんとはあまり話をしなくて、思いを知ることができなかった。それがあってか、親しい人に関して「知りたい」と思うことが多くなった。だから、普段でもできるだけ聞き手に回るように努めている。
その点、瑠流は思ったことをはっきりと言うタイプだから、色々と知ることができる。渋井家の内情についても。
彼女は「神凪瑠流」から「渋井瑠流」へと名字が変わった。つまり、総一さんと結婚したということなのだけれど、私はこれまでも度々、渋井家にお世話になっていたので(お茶をしたり一緒にご飯を食べたり)渋井家に行くのも自然だし、瑠流にはあまり気を遣わないで一緒にいれる間柄なので、渋井家に瑠流が加わったことに関しては意外にも、なんの違和感も感じなかった。むしろ、二人が結婚する前のほうが気を遣っていたぐらい。だから、今でも頻繁に渋井家に顔を出す。居心地が良くて、ついつい。そのときには必ず、仏壇に線香をあげる。総治さんに近況報告をするために。
家に帰っても同じことをする。お父さんにも報告を、と。生前はほとんど会話が無かった。話をすることも、話を聞くことも。だからせめて、今は私の話を聞いてもらおうと、仏壇を前に、お父さんに話しかける。心の中で。その日その日にあったことや感じたことを。
お母さんとは、顔を合わせたときにはなにかしら話をするようになった。いわゆる女子トークもする。好みの男性のタイプといった男関係の話から化粧品や服飾の話などなど。話してみると案外面白くて、お母さんと顔を合わせることが楽しみになっていた。
また、他の友達とも顔を合わせる機会が増えた。
竜ちゃんの命日に蛇尾家へ線香をあげに行ったら、小学校や中学校の頃の友達と再会し、毎年、竜ちゃんの命日には親しい間柄の友人と集まることになったのだった。ある年の命日には中学校のときの担任の先生も蛇尾家に訪れ、先生と鉢合わせた私は涙した。そして「ごめんなさい」と謝った。先生のせいではないのに、「竜ちゃんは後々、勢いづいていくんじゃなかったの?」と、心の中で先生を責めていたことについて。先生のことを一時的とは言え、恨んでしまったことを先生に話し、私は先生に頭を下げた。すると先生は、「私こそごめんなさい」と一言。そして私を抱きしめた。互いに、他にはなにも言わなかった。
帰り際、私は先生に「いつか同窓会やるんで来てくださいね」と、やるかどうかもわからないことをテキトーに言ってしまった。また会いたい、と思ったから。その言葉を聞いた、その場にいた他の友達が「いいじゃん。やろうぜ」などと言って便乗してきた。きっと、来年あたりには開催されるんじゃないかなぁ、なんて私は思っている。竜ちゃんが再び引き合わせてくれたこの出会いを、私は大切にしたい。
他にも、自分の仕事のことや勉強のこともあったりでバタバタしていたから、平田さんからの連絡も久しぶりのように思えた。ケアマネの研修も終わって、少しは落ち着いてきたらしい。「ご飯にでも行きませんか?」という連絡が来て、私は即座にOKした。感謝の意も述べたいし、近況報告もしたいし。それに、平田さん自身の話も聞きたいと思ったから。
「久しぶりですね」
「そ、そうだね」
第一声でわかった。彼は緊張している。
とある飲食店で、私達は久しぶりに顔を合わせた。そわそわと落ち着きの無い様子の平田さんを傍目に、私はメニュー表を手に取って注文する料理を決める。
「平田さんは決まりましたか?」
「あ、ごめん。まだ……」
「ゆっくりでいいですよ」
私はそう言って笑った。平田さんは余計に焦っている。
なんか不思議な人なんだよなぁ。消極的なのか積極的なのか、しっかりしているのかいないのか、なんだかよくわからない。それに、イマイチなにを考えているのか読めないし。
そんなことを考えながら彼の様子を観察していたら、メニューを決めたらしく、「呼んでいいかな?」と私に聞いてきた。「大丈夫ですよ」と言うと、平田さんははっきりとした口調で店員さんを呼び、注文を伝える。そして、店員さんが去っていくと、彼は再び落ち着きのない様子に戻った。
「あっ、あの、どうかな、最近。仕事のほうとか」
「すこぶる順調です。と言いたいところなんですけど、そうでもなくって。色々とストレスも溜まりますし。まぁ、それはどこの職場でもそうなのかもしれないですけれど。あっ。でも、いろんな人の話が聞けるのは興味深くていいですね。人生の先輩の話を聞くと参考になりますし、考え方も様々で、いろんな人がいるなー、って見てると面白いですし。それでも……正直言うと、中にはやたらと上から目線で話しかけてくる人もいて、イラッとすることもありますけどね。そこは、上手く聞き流せるように頑張りたいところでもあります」
笑いながら話す私の顔をじっと見つめる平田さんは、微笑んで言う。
「山ちゃんは前向きなんだね」
「そうでもないですよぉ。後ろ向きなときは、とことん後ろを向きますし。二回目の試験に落ちたときなんかはとことん凹みましたねー。あっ! そうだ! 平田さん、なんで正直に私に言ってくれなかったんですか!」
「えっ? な、なにを?」
「ケアマネの試験に受かったことですよ!」
「そっ、それは……」
言いたくない理由でもあるのかな? そうだとしたら逆に、なんとしてでも聞きたい気分になる。弱々しくて可愛らしい男の子(年上だし見た目は全然可愛くないけど、中身が年下っぽい)をいじめたい衝動に駆られた。
「話してくれないなら、もう連絡は取りませんよ?」
「いや、それは困る……」
「じゃあ、いろんな仕事がある中から、介護職を選んだ理由はなんなんですか?」
「えっと……」
これもダメか。一体どういう質問だったら答えてくれるんだろう?
「わかりました。じゃあ、平田さんの休日の過ごし方について話しましょう」
「な、なんで!?」
「平田さんのことが知りたいからです」
そう言うと、彼の顔が真っ赤になった。
あれ? 私、なんか変なこと聞いた?
「えーと。なんか平田さんって、不思議な人と言いますか。なんだか興味深いんですよね。なにを考えてるかわからないというか。わりと無口だからかもしれないですけど。それに、いつも私が話してばっかだから、今度は平田さんの聞き手に回ろうと思いまして」
「いっ、いいよ。山ちゃん、話したいことがいっぱいあるんでしょ? 僕は聞くほうが好きだから、どんどん話してよ」
「えぇー。それって、私の情報ばっかりだだ漏れじゃないですかぁ。不公平ですよぉ。ひどーい」
棒読みで冗談で言ったのに、彼は酷く落ち込んだ。
「……まぁ、話したくないなら別にいいですけど」
そうフォローするしかなかった。
結局、食事中は私のグチや試験対策、そして雑談などをしていた。また私の話ばっかり。どうやったら、平田さんの心の内を暴くことができるんだろう?
そんなことを考えていたら、平田さんが珍しく口を開いた。
「あの……。山ちゃんに聞きたいことがあるん、ですけど」
だからなんで敬語? もう癖になっちゃってるのかな? 仕方ない。今回は聞き流してあげよう。
「なんですか?」
「山ちゃんの、下の名前は、なんていうの?」
ビクビクしながらのカタコト。川柳みたい。
思わず吹き出してしまった。
「ぶはっ! あははっ! なんで知りたいんですかぁ?」
「いや、なんとなく……。バイトしてたときのネームプレート、名字しか書いてなかったなぁと思って」
「そこまで私に興味持ってくれるの、平田さんぐらいですよ。本当に変な人ですねぇ」
笑いが止まらず、私は落ち着くまで言葉を発することができなかった。なにがそこまで面白いんだろう? と言いたげな表情の彼は、私の笑いが止むのを静かに待っていた。よく躾けられた犬みたいだなぁと思って、さらに笑った。
しばらくして、まともに話せるようになった私は、またもやイタズラ心に火がついた。
「じゃあ、さっきの私の質問に答えてくれたら教えてあげます」
「え?」
「答えてくれないなら、教えません」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら待つ私。平田さんは渋々口を開いた。
「わ、わかった。答えるよ。……えっと、質問の内容はなんだっけ?」
そんなに無理してまで知りたいの? たかだか私の名前のためだけに。なんか、可哀想になってきちゃったなぁ。
「質問は三つ。一つ目は、ケアマネの試験に受かったことをなんで教えてくれなかったのか。二つ目は、介護職を選んだ理由。最後の三つ目は、平田さんの趣味について。以上です」
事務的な口調で淡々と説明した。すると彼は、大きく空気を吸い込んで大きく息を吐いた。そこまで覚悟がいることなの? また笑いそうになってしまったけど、ここはなんとか堪えた。あまりにも真面目な表情だったから。
「僕、確かにケアマネの試験には受かったし、研修も終わって正式にケアマネージャーになれたわけだけど、なんというか、実感が湧かなくて……。もう少し、気持ちに整理がついて、自信もついてきたら山ちゃんに報告しようと思ってたんだけど」
「不覚にも口を滑らせてしまった、と」
「……はい」
私の相槌に、なぜか申し訳なさそうに返事をする。別にそのぐらいのことなら軽く言ってくれても怒らないのに。むしろ、受かったときに一緒に喜びたかったなぁ。
「じゃあ二つ目」
「はい。えっと、僕は昔からおばあちゃんっ子で。そ、その、大好きなおばあちゃんが介護施設で面倒をみてもらってて……。だから僕も介護士になりたいと思った……。それだけです」
なんというか、面接試験みたいな雰囲気になってしまっている。
「〝それだけ〟って言い方をするものでもないですよ。立派な理由じゃないですか。大好きな人のためにやりたいことに向かって進んできたなんて。やっぱり、私が尊敬する人なだけあります」
「だ、だから、僕はそんな、尊敬されるような人間じゃ……」
平田さんはそう言うけれど、私は本当に尊敬している。そうじゃなきゃ、あんなに良い雰囲気のバイト先を辞めてまで、平田さんと同じ職業に就きたい、なんて思わないって。
「それじゃ、最後です。趣味というか……まぁ、休日の過ごし方みたいなことでいいですけど」
「休日は、意味も無くふらっと外に出かけたり、家の中でゴロゴロしたりで。好きなことっていうのも、これといって特には……。あ、でも音楽を聴くのは好きかな。主に洋楽なんだけど」
洋楽かぁ。顔に合わないなぁ、なんて思ってしまった。でも、私のお母さんとは話が合いそう。
なんて考えていたら、平田さんが口を開いた。
「次、山ちゃんの番だよ」
あー。しまったぁ……。本当は下の名前なんて言いたくないんだけどなぁ。でも、平田さんは律儀にも全部の質問に答えてくれたんだから、私もちゃんと答えなきゃだよね。
「私の名前……、〝美諳妃〟って言います」
「びあんき?」
「美しいの〝美〟に、ごんべんに音で〝諳〟。それに、王妃の〝妃〟。〝きさき〟とも読みますけど。その三つの漢字を並べて〝美諳妃〟です」
「……」
あーあ。黙っちゃったよー。引くよねー、こんなキラキラネームを聞いたらさ。平田さん、笑いを堪えてるんだろうなぁ。やっぱり言わなきゃよかった。
「……素敵だ」
「へ?」
「もしかして、お母さん、洋楽好き?」
「は、はい。お父さんも好きでしたけど」
「そうなんだ! ビアンキっていう歌手がいてさ、僕、その人の歌がすごく好きなんだよ! すごいなぁ。好きな歌手の名前と好きな人の名前が一緒だなんて」
生き生きして語るなぁ。ていうか、両親は外国人っぽい名前にしたかっただけで、ビアンキという人の歌が好きかどうかまでは、私は知らないけれど……、って。
「んっ?」
「あっ……」
好きな人、って言いましたよね?
「えっと、今……」
「ごっ、ごめん! なんでもないから! 言い間違い? そう! 言い間違いだ! 僕なんかに好かれても気分悪くなるだけだもんね。はははっ」
おーい。全然フォローできてないぞー。
「あー……。私は別に、気分悪くないですよ。むしろ良いくらいです」
微笑みながら言う私の顔を見た平田さんは、赤らんでいた顔色をさらに赤くした。
「こっ……」
「こ?」
「声……。山ちゃんの声を初めて聞いたときから、君のことが気になって。優しいというか、安らぐというか。そんな感じのする声だって思ったんだ。見た目は怖いな、なんて思っちゃってたけど、話してみたら良い人なんだなって思って。それから、僕……、山ちゃんのことが好きになってた」
「……」
私は黙って、平田さんの話に耳を傾けていた。
「なんか、僕って〝声フェチ〟? なのかな? あ、気持ち悪く思わせちゃったらごめん。でも、やっぱり、山ちゃんの声は良い声だなぁと思ってて。それに、僕の声を褒めてくれたとき、すごく嬉しかったんだ。ま、まぁ、接客業としての胡麻擂りだとは思うんだけれど」
「私、胡麻なんか擂りません」
「ご、ごめん」
「というか、そんなに何度も謝らないでください。私が責めてるみたいで申し訳ない気持ちになります」
「ご……、おほん。……わかりました」
だから、敬語はやめなさいっての。
「私は、平田さんの低くて渋い声が素敵だなぁと思いました。それをそのまま素直に言っただけです。確かに接客上、多少盛るところはあるかもしれませんけど、本当に心にも思っていないことは口にしませんから」
はっきりと強い口調で言った。ちょっと強すぎたかな? と心配になったけれど、平田さんは落ち込んではいないようで安心した。
「ありがとう」
「いえ」
「山ちゃん」
「はい?」
「僕と付き合ってください」
「いいですよ」
「え?」
私の躊躇無い、流れ作業とも言える答え方に、平田さんは面を食らったようだった。そして、もう一度聞き直す。
「……付き合って、くれるの?」
「はい」
「僕なんかでいいの? もっとちゃんと考えた方が……」
「私は〝いいですよ〟と言っているんです。何か不満でもあるんですか?」
「い、いや。だけど、僕がどんな人間だとか、まだよく知らないことも多いだろうし、見定める期間が必要なんじゃないかな、とか思って……」
「そんな期間は要りません。大丈夫です。嫌いになったら別れますから」
「そ、そう……」
「それに、これはチャンスなので」
「チャンス?」
「はい」
私は平田さんに説明した。
常々、平田さんのことをもっと知りたい、と思っていたことを。それから、平田さんのことが好きなのかもしれないと思い始めていたことも。
きっと、彼が告白してこなかったとしても、私が告白していたんじゃないかなぁと思う。
「というわけで、平田さんのこと、色々と教えてくださいね。それから……」
姿勢を正し、改まって言う。
「今までありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げた。
「こ、こちらこそ」
彼も慌てて頭を下げる。そして、同時に頭を上げると目が合った。
「ふふっ」
「ははっ」
恥ずかしいやらなにやら。よくわからない笑いが込み上げてきた。
「私、本当に感謝してるんです。あのとき声をかけてくれて、話を聞いてくれたこととか、介護職について教えてくれたこと。それに就職先の施設まで紹介してくれて。いわゆる〝白馬の王子様が現れた〟ってやつかと思いました。あ、すいません、盛り過ぎました。そこまでカッコイイものではなかったです」
「そうだね」
「あの……。冗談に真顔で相槌を打つのやめてください」
「いやぁ、確かに僕はカッコ良くはないからさ」
冗談の通じない変な人。それでも私の救世主。
「いえいえ、平田さんはイケメンですよ。言うなれば、〝イケてるメンタル〟というところですが」
「素敵な(カッコイイ)顔」という意味合いでの「イケメン」ではなく、「素敵な精神力」という意味で、私は言った。本当にそう思うから。だって、私みたいなのを好きになるなんて、よっぽどの精神力の持ち主だろうって。
「んー。どっちにしても僕は〝イケメン〟ではないと思うんだけど……。メンタルだって、言うなら〝豆腐メンタル〟だと思うよ」
豆腐のように崩れやすい精神力。うん、見た目はそうかも。
「あ。山ちゃんに聞いておいてほしいことがあるんだけど」
平田さんが自分から言いたいこと言うなんて珍しい。もちろん聞きます。聞かせてください。
「実は僕、ゆくゆくは独立して、自分の会社を立ち上げたいなぁ、なんて考えてるんだ。でも、やり方もわからないし、これからもっともっと勉強しなきゃだろうし、できるかどうかもわからないんだけど……。それでも一応、〝将来の夢〟って言っていいのかな? そのこと、山ちゃんには知っておいてもらいたくて。それに、もしできることなら、君に協力してもらいたいなぁなんて思ってさ」
また一つ、平田さんの意外な一面を発見。
洋楽好きだったり、実は野心家だったり、知れば知るほど不思議で魅力的な人だなぁと思った。意外性の塊だ。
「もちろん、そのときには協力するわ。いえ、協力させてください、周さん」
平田さんを下の名で呼んでみた。目をパチクリさせている。そして徐々に顔が赤くなる。こういう変化も面白くて好きだなぁ。
久しぶりに『渋井リサイクルショップ』に顔を出した。周さんと一緒に。
「いらっしゃいませー……って、アンちゃん!」
「いらっしゃいましたよー」
瑠流の挨拶に挨拶返しをした。
「おや。山ちゃん、いらっしゃい」
「お久しぶりです、総一さん」
総一さんにも挨拶をし、私は早速この度のことを報告した。周さんと付き合い始めたことを。
「それはそれは!」
「アンちゃん、おめでとう!」
まるで、結婚でも決まったみたいなノリの二人に、周さんは恥ずかしそうに挨拶をした。「平田周です」とだけ言って、丁寧なお辞儀をする。彼らしいといえば彼らしい挨拶だった。
「今後とも、私達をよろしくね。って、志恵さんは?」
「あぁ。父さんのところだよ」
私の言葉に総一さんが答えた。
「そうですか。じゃあそっちに挨拶してきますね」
また来ます、と言って手を振る。私達は、お店の隣に建っている、渋井家の実家へと足を運んだ。
インターホンを押すと、玄関のドアから志恵さんが顔を出した。
「あら、山ちゃん? 久しぶりじゃないの」
変わらぬ笑みを浮かべる志恵さんに、
「志恵さんと総治さんに挨拶に来ました」
と言い、その後に付け加えた。
「あ、私、この人と付き合い始めたんです」
と。
「まぁまぁ。それは総治さんも喜ぶわ。どうぞ、上がってちょうだい」
家の中に入るとき、周さんは志恵さんの近くに寄って「平田周と言います」と言ってお辞儀をした。志恵さんは嬉しそうに、「平田さんね。山ちゃんをよろしくね」と言っていた。なんだか恥ずかしいけど嬉しいかも。
仏間に入り、総治さんの遺影を見つめる。もう何度もここへは来ているはずなのに、どうしても目が潤んでくる。そのとき、周さんが私の手を握った。すると、安心感に包まれ、溢れそうになった涙が引っ込んだ。私も周さんの手を強く握り、それから手の力を抜いて、握っていた手を離す。
仏壇の前に進んで、座布団の上に正座する。経机の上に置いてある線香を一本手に取り、隣に置いてあったマッチで火をつける。線香についた火を消すと、モクモクと煙が上がった。その線香を香炉に挿し、今度は撥を手に取り、それで鈴を叩く。撥を経机の上に戻し、静かに手を合わせて目を閉じる。コーン……という小気味いい音が鳴り響く中、生前お世話になった元店長、総一さんのお父さんであり、志恵さんの夫である渋井総治さんに近況報告をした。口には出さず、心の内で。
まずは「この人と付き合い始めましたよ」と。それから、仕事や私生活についても簡単に報告。最後に、「温かく見守っていてくださいね」と告げて、目を開けた。
立ち上がると周さんが「僕もいいですか?」と志恵さんに尋ねていた。「もちろんよ」と嬉しそうに志恵さんは言う。
周さんが仏壇に向かっている間、志恵さんがコソコソと私に話しかけてきた。
「なかなか良さそうな人じゃないの」
「はい。とても良い人です」
私はニコッと笑って言った。
「山ちゃんが幸せそうでなによりよ。きっと総治さんも喜んでいるわ。私もすごく嬉しいもの」
ふふっ、と笑う志恵さんに釣られて私も笑った。
本当に、こんなに幸せでいいのかなぁ? なんて思ったけど、自分達だけが幸せを感じているわけじゃなく、志恵さん達の幸せにも繋がっているのなら、素直に喜んでいいんじゃないかな、と思った。
周さんがお参りを終え、私達は帰り支度をし、玄関へと向かった。
「今度来たときはお茶でもしていってね。色々とお話も聞きたいし」
「もちろんですよ」
「平田さん、あなたも一緒にね」
「え? 僕ですか?」
「えぇ。山ちゃんとのこと、ゆっくり聞かせてもらいたいし」
意地悪そうに言う志恵さんに、周さんは頭が上がらない模様。実際の頭の位置的には周さんのほうがかなり上なのだけれど。志恵さんは彼の顔を見上げて「二人で幸せになるのよ」と言い、私達を送り出した。
「志恵さん、またね!」
私は元気よく手を振って、遠くから大きな声で挨拶をした。もう、涙まみれの顔は見せないよ。
その後、周さんは私の家にも寄って、お父さんの位牌が置かれている仏壇にもお参りをしてくれた。お母さんもいたので、三人でお茶を飲みつつ話をした。
予想はしていたけれど、周さんとお母さんは洋楽の話で盛り上がっていた。楽しそうに話をしている二人。私は置いてきぼり。つまらん。そんな雰囲気を察したのか、彼は「また今度、おすすめの曲を貸すよ」と話しかけてくれた。空気の読める、優しい人だなぁと思い、私の「好き」という気持ちがさらに大きく膨らんだ。
お父さんが生きていたら、どんな反応をしてたかな? 私はきっと、お父さんに自慢していたと思う。「私にだって、こんなに良いもらい手がいるんだよ」なんて言って。
「それにしてもあんた、よくこんなイイ男の子を捕まえたもんだねぇ。私は、一生彼氏ができないもんだと思ってたよ」
「ちょっ……、お母さん! 可愛い一人娘に対してなんてこと言うのよ! まぁ、私もそう思ってたけど……」
「でしょ?」
フォローは無いのか。本当に高校の先生なのだろうか、この人は。それ以前に、私の母親だということを自覚してほしい。
「一人娘?」
ここで周さんが口を開いた。
「あれ? 周君は聞いてなかった? この子、一人っ子なのよ。兄弟がいなかったからか、そのぶん友達とは仲良くって。夜中まで遊び歩いてたりしてたのよ?」
「お母さん! 余計なこと言わないでよ!」
あぁもう、恥ずかしい!
「友達と仲良くて、羨ましい限りです。僕なんて、あまり仲の良い友達がいなかったもので……。あぁ、今もいないんですけど」
苦笑いを浮かべる彼に、お母さんは聞く。
「じゃあ、この子とは逆に、家族との仲はいいの?」
「あ、はい。僕は三兄弟の末っ子なんですけど、家族のみんなによく可愛がってもらいました。今でも仲はいいです」
「へぇ」
「ねぇ。昔の話を引き出さないでくれる?」
最近ではお母さんとも仲良くやってるじゃないのよ。
なにを言い出すかわからない性格の母と、誰か他の人と一緒にいるとヒヤヒヤする。……って、そう思っている時点で嫌な予感しかしない。
「周君の家は、賑やかそうでいいわねぇ。ところでさ、あなた、婿に来ない?」
「えっ?」
「はっ!?」
二人で驚いた。嫌な予感が的中した。
「いやぁ。近い将来、介護が必要になったら都合がいいじゃない?」
「ちょっと、なに馬鹿なこと言ってるのよ。いざとなったら私が面倒見てあげるし、そもそもお母さんなんて介護いらずな感じじゃない」
「あらあら、か弱いお母さんに対して冷たいことを言う子ねぇ。私だってあと何年かしたら六十歳よ? 赤いちゃんちゃんこ間近なのよ? 少しは私を労わりなさいな」
「どこがか弱いのよ。こんなに達者なら労わる必要ないでしょう?」
「じゃあやっぱり周君に頼むしかないわね。それに、若い男の子に面倒見てもらえたら幸せじゃない?」
「お母さん。それ、セクハラ」
「あの、僕、もう三十歳越えてるんですけど……」
「十分若いわよぉ。美諳妃、あなたは小さいことを気にしすぎ」
違う。お母さんの器が大きすぎるんだ。
「それに、この家も二人きりだと寂しいじゃない。あぁ、家を出ちゃえば一人になるのか」
珍しく、お母さんが寂しそうな表情を見せた。そして、周さんの方を向いて語り始める。
「この子の祖父も祖母も、つまりは旦那の父と母なんだけど、早くして亡くなってしまってね。それに、子どもはこの子一人で、旦那も死んじゃって。旦那と私で家を買ったはいいけど、今じゃあ、無駄に広く感じるだけで落ち着かないのよ。だから、周君が婿に来て、一緒に住んでくれたら嬉しいなぁと思って」
「……」
「……ちょっと。その話は周さんにとっては重いんじゃない?」
周さんは黙り込んでしまい、お母さんは話を続ける。
「もちろん、無理にとは言わないわよ。それに、あなた達のメリットにもなると思うの」
「メリット?」
「そう。周君はケアマネージャーなんだって?」
「え、えぇ」
「で、将来的には独立を目指している、と」
「はい」
「じゃあ。この家を使ったらいいわ」
「えっ?」
何を言っているんだ、この母は。
「この家、わりと広いでしょう? リフォームすれば介護施設にでも使えると思うんだけれど。だって、独立って言ったって、先立つ物が無ければ難しいんじゃない? だから、この家を好きに使ったらいいわ」
「そ、そんなことしたら、お母さんはどうするのよ?」
「私はそこらへんのアパートでも借りて住むこともできるだろうし、その頃には私も生きてるかわからないしねぇ」
「お母さん!」
私は怒鳴った。久しぶりに、お母さんに対して本気で怒った。
「本当に……馬鹿なこと、言わないでよ」
怒りながら、泣きそうにもなった。お父さんに続いてお母さんまで。そんなことは考えたくもない。ましてや、おじいちゃん、おばあちゃんに関しては思い出すら無いのに。私に残された家族は一人。お母さんだけ。
「あの……。僕が言うのもあれですけど」
周さんは、お母さんの顔を睨みつけるように見て、強い口調で言った。
「冗談でも、そんなことは言わないでください」
周さんが怒っているのを、私は初めて見た。声を荒げているわけでも、表情が険しくなっているわけでもないのだけれど、目が、声が、空気が、怒りに満ちていた。
「美諳妃さんは、お父さんや友達、親身になってくれた人の死を悲しんできたばかりです。そこで、たった一人の家族であるお母さんがそんなことを口にしてどうするんですか。これ以上、今は、彼女のことを苦しませないでください」
「……周、さん」
お母さんが黙った。
二人で睨み合っているようにも見える。
嫌だ。せっかく楽しく話していたのに、喧嘩なんて。やめて。
二人をなだめる声をかけたくても、声が出なかった。泣くのを堪えることに必死で。声を出したら、きっと涙まで出てしまう。
「ふっ」
お母さんの口から声が漏れた。
「ふふっ……。あはっ、あはははっ!」
笑い方が変だ。おかしい。お母さんが、壊れた?
「気に入った! 周君! あなた、いいわ! これは是が非でも美諳妃の婿に欲しい!」
一体どうした? 周さんも驚いて、ポカンと口を開いている。
「これでもしあなたが、娘の気持ちを察しないような発言をしていたら、付き合うことも反対していたわ。ましてや結婚なんてね。一人娘だもの。可愛いに決まってるじゃない。誰にもあげたくないぐらいよ」
試してた、ってこと?
「周君にならいいわ。娘を渡しても。婿でなくても、嫁に出してもいい」
満面の笑みを浮かべて満足したように言うお母さんを見て、私は複雑な気持ちでいた。周さんを試したことには腹が立ったけど、私のことを心配してくれていたことには嬉しかったから。
「あぁ! 美諳妃! 泣かないで! ホントごめん!」
泣かないで? あぁ。結局泣いてたんだ、私。
「もう……、お母さんなんて、嫌いよ」
「だから、ごめんってば!」
慌てるお母さんと涙を止めようと必死な私。そして、私の背中を優しくさすってくれている周さん。
なんかもう、めちゃくちゃだ。
「周さん、ごめんね。うちのお母さん、変な人なんだ」
泣き顔だけど、笑みを見せて声をかけた。
「変なんかじゃないよ。優しいお母さんじゃないか」
「まぁ。周君、ありがとう」
「お母さんは黙ってて」
私はまだお母さんに対して怒っていた。周さんを試したことに対してもだけど、大切なお母さんが「生きてるかわからない」なんて言葉を発したことに対して。しばらくは許してあげないんだから。
「あの……」
彼は、お母さんの方を向いて話をした。
「ゆくゆくは結婚の話も出るかとは思いますが、そのときには〝婿〟の件も踏まえてお話させてください」
「えっ?」
「周さん!?」
「美諳妃さんも、お母さんも、二人とも優しい人ですし、お二人がお互いに思い合っていることもわかりました。だから、お二人を引き裂くことなく、悲しい思いをさせることなく、みんなで幸せになる方向で考えさせていただきたいので」
「周さん! マジレスしなくていいから! お母さんはテキトーなこと言ってるだけだから!」
「ねぇ、マジレスってなに?」
「お母さんは生徒にでも聞いて。っていうか国語の先生でしょ? ネット用語とか若者言葉の理解にも努めてよ」
「イマドキの子が使う日本語は難しいのよねぇ。もはや日本語じゃない気がしてくるわ。っていうか、あんたももうそろそろ若者言葉から離れたら?」
マジレス(マジなレスポンス。つまりは真面目な返答)をした当人は、私達の言い合いを見て笑っていた。
「いやぁ、良かったです。仲の良いお二人を見ることができて」
「どこがっ!?」
たまに、本気でその眼鏡を割って分析したくなる。見当違いの見解をすることが度々ある彼の眼鏡を。……まぁ、今回はあながち見当違いでもないけれど。
「じゃあ、僕はそろそろ……」
周さんはそう言って、お母さんに「また、ゆっくり話をしに来ます」と挨拶をした。ところが、軽く会釈をして椅子から腰を上げる彼に、お母さんは、
「えぇー。もう帰っちゃうのー?」
なんて言って、彼を困らせる。
「はいはい。また連れてくるから」
私はそう言って、お母さんを抑えて彼を玄関まで連れて行く。そのまま外まで見送りに出た。「周君、またね」と玄関のドアの隙間から顔を覗かせるお母さんに「もうっ! いいからっ!」と言って頭を押し込んで、ドアを閉めた。
「君の家って、なんか面白いね」
彼は笑いを堪えながら私に言った。……もう。恥ずかしいところ見られちゃったなぁ。
「最近、前より酷くなってるのよ。なんか、親子っていうより友達感覚ね。まぁ、私も〝お母さん〟っていうより〝一人の女性〟っていう感じで見てるような気はしてるけど……」
はぁ、と溜息を吐く私の頭に、周さんはポンっと手を乗せた。
「楽しそうでなによりだよ」
彼は笑みを浮かべ、私の頭上に乗せていた手をそのまま後頭部に回し、私の頭を支えつつ顔を近づけてきた。私は彼の顔から目が離せなかった。
あぁ。意外と鼻筋が通ってるんだなぁ。鼻も高い。だからあんまり眼鏡がずり落ちてこないのか。眼鏡の位置を直してるとこ、そんなに見たことないし。っていうか、意外にまつ毛が多いし長い。マスカラ要らずじゃない。羨ましい。それに……、綺麗な目。眼鏡を外したら、案外カッコイイんじゃない?
そんなことを考えていた。
気がつくと、私の唇に彼の唇が触れていた。思いの外、柔らかい唇だった。一体どこまで意外性があるんだ、この人は。
彼は、すっと顔を離し、手も離す。
もう少し、彼を感じていたかったなぁ。もっと包まれていたい。でも、ここじゃあ人目もあるだろうし我慢しなきゃ、と自制する。
そんなことを思っていた自分に気がついて(我に返って)、一気に恥ずかしさが押し寄せてきた。その上、彼が、
「続きはまた今度ね」
なんてことを言うものだから、かぁっと顔が熱くなる。多分、化粧をしていなかったら真っ赤な顔が丸見えで、もっと恥ずかしい思いをしていたと思う。そうでなくても、恥ずかしがっていることがバレバレのようで、彼は笑いを堪えて肩を震わせていた。
「うっ、うるさい! さっさと帰りなさいよ!」
照れ隠しに怒る私を気にも留めず、彼は言った。
「またね、美諳妃」
なんの躊躇いも無く、さらりと私の名前を言う周さんはかっこよかった。
ばいばい、と手を振る彼に、私も手を振って応えたけれど、驚いていて声が出なかっただけ。手を振ることしかできなかっただけ。その間に、彼は去っていった。
男の人に対して、ここまで馬鹿になれるとは思ってもみなかった。ここまで夢中になったことは初めて。恥ずかしく思うけれど、誇りにも思う。彼に見合う、立派な女性になれるように努めよう。
……竜ちゃん。私、やっと彼氏ができたよ。ちゃんと女性扱いしてくれる、紳士的な男の人。ちょっと変な人だけど。今度、竜ちゃんのところにも報告しに行くね。
人は、支え合って生きていける。誰かを支えることもできるけれど、まずは、自分が誰かに支えられているからこそ、誰かを支えてあげることができるんだ。
周さんと付き合い始めてから、そんなことを思った。そして、「支えたい」と思うから、自分も頑張って生きていくことができる。誰かを支えたい。私にとって、その「誰か」というのは、施設の利用者さんだったり、お母さんだったり。もちろん、周さんも。逆に、そういった人達に「支えられてるなぁ」と感じるときもあるけれど。それに、渋井家のみなさんには随分と助けられてきた。力をもらった。その力を次の人達へと繋げていこう。
誰かからもらって、誰かに渡して。その繰り返しが「人生」であり、その一人一人の人生の集合体が「人間社会」というものなのかな、と私なりの解釈をした。
さて、これからの私の人生、私の周囲の人間社会はどう転がっていくのかなぁ。