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第4話 女の表情

「わ、ネバネバー」

「わーっ!? それ素手で触っちゃダメーっ!?」


 マイヤの大きな声が娼館に響く。

 横にはが座り、水の冷たさを厭わずじゃぶじゃぶと手ぬぐいを洗っている。

 これは女が口腔で受け止めた男の精を吐き出し、また秘所を拭うもの。そのため、手ぬぐいにはそれが、べったりと付着していた。マイヤが差し出した革手袋をはめると、ユーリはまた楽しそうに洗いものを再開する。

 娼館の下女として働き始めて一週間。揃いのチュニックシャツもすっかり板についていた。


 ――わたし、ここで働きたいっ!


 そう願い出た時、ボブは反対しようとしたものの、


 ――〈舞姫〉からもっと踊りを教わりたい


 その想いを察してくれたのか、長い時間をかけて思案し、やがて、承諾したのだった。

 しかし娼館での暮らしは、ユーリが知らないことだらけだった。

 まず、教育係りに任命されたマイヤを始め、先輩となる娼婦たちを“姉”と呼ぶ。伴って、言葉使いも変えねばならない。主な仕事は掃除洗濯などの雑用であるが、これはナーブル村での経験が活かせているので問題なかった。ただ、未だに踊りを学ぶことはできていない。


「まさか、マザーが気に入っちゃうなんてねえ」

「マザー?」

「マザー・シンクよ。ここのでっかいヌシ」


 あっ、とユーリは思い出し、たまらず肩を揺らして笑いを堪える。

 その人は、おじさんに茶髪のかつらを被せたような人で、『でっかいヌシ』との言葉通りなのだ。


『なんとまあ、可愛らしい子さ!』


 見るなり頬ずり、ぎゅうっと苦しくなるくらい抱きしめ、頭を撫で続ける。

 見た目は派手で怖いおばさんだけど、おじさんと似て大きな身体は暖かい。

 第一印象はすぐに覆り、優しい人だ、とユーリは感じていた。


「マイヤさ――マイヤ姉さん、今日はミラ姐さんは?」

「休んでるよ。元々あまり起きてられない人なんだ」

「え?」

「病気ってことは聞いているだろう。ミラ姐のは〈黒膚病〉と呼ばれる感染症。黒い斑紋が浮かんだら最後、たちまち身体を腐らせ、死に至らしめる不治の病なんだよ……」


 マイヤは手ぬぐいを絞った恰好のまま、顔を俯かせ、とつとつ話し始めた。

 病に冒されたのは五年前、冬のある朝のこと。踊りの準備をしていたミラは、突然、病人を収容する隔離棟に駆け込んだと言う。


「それっきり、ミラ姐は出てこなくなった。昌盛を極めた娼館はあっという間に寂として、“天賦の舞”と称えられた語りも今や誰も口にしない。ミラ姐が踊らなくなった途端、みな記憶から消しちまった」

「ひどい……」

「栄華なんてそんなものさ」


 だけど、とマイヤは声に力を戻す。


「芸事は虹の如く――悔し涙を流す私に、扉の向こうで舞ってくれたんだ。ここに来たばっかで、知らない男に好き放題されて、鬱としてた私に『仲間を頼りなさい』とアドバイスまでくれた。瞼を閉じたら今でも思い出せる、その舞いのおかげで、私は今もここで働けているんだ」


 ユーリは子供ながらに嫉妬を覚えていた。

 あの舞いは、まさに極上と呼ぶに相応しいもの。間近に感じられたことが、羨ましかった。


「ユーリが働くことを伝えた時ね、ミラ姐が一番喜んでくれたんだよ」

「え……?」

「もうあまり喋れないのに、生きる気力が沸いてきた、って喋ってくれたんだ」

「生きる、気力……」

「人を魅了するのがミラ姐の踊りだったけれど、あんたのは、人に力を与えるものなんだろうね」


 ぐすっと鼻を鳴らすマイヤ。

 嫉妬したことが恥ずかしい。

 それを隠すため、大きく深呼吸。


 ――私の踊りは、人に力を与えるもの


 心の中でゆっくりと反芻すると、その言葉が身体中に染みこんでゆく気がした。


「私もさ、こんな仕事でも人を元気にさせているのかなって思うと、ちょっと誇らしくなるよ」


 照れくさそうにマイヤは鼻先を掻いた。

 もっと与えたい、もっと誰かの力になりたい。

 ユーリの心が燃え立ち始めたその時、廊下の向こうからマイヤを呼ぶ声がした。


『マイヤー、“お世話”入ったわよーっ! 七番の部屋ーっ!』

「はーい! ――ユーリ、悪いけど後をは頼むわね」


 洗った物を床の上に置いて、よっと立ち上がったマイヤを、ユーリは呼び止めた。


「私もお世話したいっ!」

「あんたはまだ早いわよっ!?」


 娼館とは何か、未だにそれを理解していないユーリなのである――。


 ◇


 三週間も働けば、子供でも娼館がどのような場所か分かるもの。

 とは言え、ここの女たちがみな必死に、“男女の情”について説いたからなのだが。


「自分に子供が出来たら、完璧に説明できる気がするわ……」

「私もよ……。男と交わるのが、凄い尊い行為にも感じてきてる……」


 娼婦たちは椅子の上でぐったりとしていた。

 子供の知識欲。ユーリの『何で、何で』に付き合わされたのだ。そしてそれも、この娼館で行われる“行為”について――大人同士であれば容易い説明も、無垢な心を持つ子供の前では難題で、誰もが必死に言葉を探し続けた。

 当のユーリが理解出来たのか定かではないが、更に身が入った仕事をするようになったのを見て、女たちは“苦労した甲斐”なるものを感じていた。


 一方で。ユーリは毎日、くるくると働いている。

 それに伴い、待合室にも姿を現す回数が増えたのだが――


「ユーリ。あんた、誰にでもいい顔してちゃダメよ。特に男たちにはね」


 この娼館には街でも珍しい、湯を張るタイプの風呂を設けている。

 真冬のある夜。ユーリとマイヤは熱めの湯に浸かり、冷えた身体を温めていた。


「ふぇ? どうして?」

「こら、言葉」

「あ……えっと、どうしてですか?」


 分からないと言った表情のユーリ。

 マイヤは小さく息を吐いた。


「あんたはまだ気付いてないかもしれないけれど、やはり身分の違いってのを感じさせるのよ」


 そう言って、湯の中に沈む“女の子”の身体を眺めた。

 まだ八歳。胸も体毛も備わっていない無垢な身体だ。――しかし女たちの勘は、今に男を魅了してやまない身体になる、と告げていた。

 そしてそれは、決して勘違いなどではない。

 子供らしい丸みのある顔に、所作に、“美”の片鱗を覗かせつつあるのだ。


「よく分からな――分からないです」

「目ざとい男たちはもう気付いている。私たちも策を講じているけど、あんたも自衛を心がけなさい」


 後数年で分かるようになるわ。

 マイヤは言うと、ざばと湯船から立ち上がった。

 滑らかで大きな曲線を滑り落ちる水滴は、ランプ灯りを受けてキラキラと光る。

 ユーリはそれと自分の身体を見比べ、どこか羨ましく感じていた。


 ◇


 風呂は手間がかかるため、ここ〈踊る猫〉の娼婦でも頻繁に入ることは出来ず、週に一度入れたらいい方である。……が、ユーリだけは三日に一度、自身で準備をすることを条件に入浴することが許されていた。


「――ミラ姐さん。今日もありがとうございました」


 隔離病棟のとある扉の前。

 ユーリは肩で息をしながら、深々と頭を下げた。

 時間の作り方を覚えることが条件だったのだろうか。ある日から、三日に一度、ミラより踊りの稽古をつけてもらえるようになったのである。

 向こうからの返事はなく、代わりに辛そうにベッドが軋む音だけがする。ユーリは心配をそこに残しながら、静かに本館に戻ってゆく。


(でも、今日は上手く踊れたな)


 ミラにも『上手くなったわね』と褒めてもらえたのだ。

 いつもなら風邪を引かないよう、これからお風呂に入るのだが、せっかく掴みかけた感覚を逃したくはない。今ならまだお客さんもないだろう。そう思って待合室へと向ったものの


「おや、ユーリ」


 短い黒髪が特徴的な受付・アイリーンが意外そうに片眉を上げた。

 考えは甘かったようだ。彼女が立つカウンターの前に一人、見慣れない金髪の男の子がいたのである。年はユーリより少し上か、おじさんのような大きなカバンを背負っていた。

 気付いた男の子は反射的に会釈をしたが、ユーリを見るなり目を大きく瞠った。


「……?」


 あまりにじっと見られているので、ユーリも困惑してしまう。

 直立不動のままピクリと動かないため、アイリーンが「見とれてないで挨拶しな」と声をかけた。


「あ、ああっ! こ、こんにちはっ、今日は父のか、代わりに来させていたただきましたっ、薬屋のし、シンと言いますっ!」


 よろしくおねがいします、と舌をもつれさせながら挨拶をする男の子。

 ユーリは、なるほど、と頷くと、その場でくるりと一回転。

 後ろで束ねた赤い髪、チュニックの裾をひらめかせ。

 最後に裾を摘まみ上げ、左足の後ろに右足を交差させながら、頭をすっと下げる。


 ――初めまして、ユーリと申します


 一度やってみようと考えていた、貴族令嬢の挨拶を組み合わせた踊り。

 シンはこれに、えっ、と口を開いたまま、再び固まってしまう。


(やっぱり、これだけじゃ伝わらないのかな?)


 自分らしさを出そうと思ったのだけど。

 ユーリは取り繕ったように、笑みを浮かべながら小首を傾げた。

 すると、シンはやっと我に返ったようなのだが――


「よ、よろしく……!」


 ぶっきらぼうに言い、びゅんと娼館から出て行ってしまう。


「あれ?」


 残されたユーリは、アイリーンに訊ねるよう目を向けるのだが、彼女は顔を引き結ぶだけ。

 しかし厚い唇の両端が上がっている。


「あんたは悪い女だねえ」


 言葉の意味が分からないユーリは、やはり悪いことをしたのだ、とオロオロ慌てふためくだけであった。

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