第3話 娼館の舞姫
「――それで、その人によくしてもらったのか」
新しい服に着替えたユーリは、小くなりながら「ごめんなさい」と申し訳なさそうに謝った。
これにボブは首を振ると、その前にしゃがみ込んで柔和な笑顔を作る。
「謝ることなんて何一つないよ、ユーリ。その人は風邪を引かないようにと身体まで拭いてくれたんだ。ちゃんとお礼は言ったんだろう?」
「うん……」
「うむ。なら大丈夫だ」
肉厚な手で頭を撫でてやると、ユーリの顔に花が咲いた。
そしてその横では、パールが顎に手をやりながら「リバーサイド出の娼婦……」と繰り返し呟き、
「そうか、マイヤか!」
大きな思いだし声をあげ、手をぽんと叩いた。
亜麻色の髪をした、くせっ毛の女だろう。目は猫のようで、ちょっとそばかすが残る。
まくし立てるような口調に、ユーリは少し顎を引きつつ、うん、と頷いた。
「ああ、やはりそうか! あれなら納得だ。世話焼きだからなあ」
うんうん、と頷くパールに、ボブは訊ねた。
「彼女が勤めるお店は、どこにあるのでしょう?」
「何だ。ボブさんも興味あるのかい? 確かにあれは中々イイ女――」
「い、いえっ、ユーリがお世話になったのでお礼を、と思いまして」
すると、パールの顔が少し引き締まり、それはダメだと首を振った。
「娼婦はあまり、仕事以外で人と拘わっちゃならねえ」
「そ、そうなんですか?」
「足抜けや諜報、金銭の授受などを疑われるんだ。ここに来たことも知られたら、折檻ものかもしれないからな」
◇
翌日、ユーリは玄関口の掃き掃除をしていた。
大きな荷箱はボブが運び出したため、広々とした空間が出来上がっている。
これなら〈田舎踊り〉も踊れるだろう。
掃除が終わったらと今から楽しみになっていると、そこに見覚えのあるローブ姿の女が現れ、ユーリの顔が強張った。
「ああ、いたいた。お嬢ちゃん――」
「来ちゃダメ!」
「え?」
「お姉さん、お尻叩かれちゃう!」
へ、と目を丸くした女・マイヤ。
両手を前に必死に押し返そうとする姿に、しばらく目をしばたたかせ、やがて意味に気付いたらしい。
「あーっはっはっはっはっはっは――な、なにを言い出すかと思えば……っ!」
突然、腹を抱えて笑い出したマイヤの姿に、ユーリはきょとんと立ち尽くしてしまう。
「き、きっとパールだね、あはははっ、お、お腹いたいっ」
「ち、違うの……?」
土間の上にしゃがみ込んだマイヤは指先で涙を拭い、立ち上がった。
余韻に肩がまだ小刻みに揺れている。
「違わなくないけどね、“折檻”てのはそれだけじゃないのさ」
ナーブル村に居たとき、まるで叱られなかったわけではない。
五歳か六歳の時、言うことを聞かずお尻を叩かれ、泣いた覚えがある。
折檻、と言えばそれしか思い浮かばず、他にも色々あると聞いても想像がつかない。
「ま、心配してくれたんだね」
「う……」
「よしよし、いい子だいい子」
赤い髪を撫でられ、ユーリは少しむず痒くなった。
お婆ちゃんのそれに近いと思ったのは、手がガサガサしているからだろうか。
「マザーも流石にこれぐらいじゃ叱らないよ。それに今日は、ちゃんとした用向きなんだかさ」
「え?」
あっ、と思い出すと慌てて近くの紙束を手に取った。
ここは配達屋。仕事を受ける判断は出来ないが、誰が訪ねてきたか、メモするように命じられている。
字が書けると分かったのだろう。マイヤは驚き、おや、と両眉を上げた。
「読み書きも出来る。こりゃ中々の逸材のようだね」
「あ、あの……」
「いや、届けて欲しいのは品物じゃなくてさ――」
すっと差し出した手、伸びた人差し指がユーリに向いていた。
◇
翌日。ボブは緊張の面持ちでユーリを抱きかかえ、裏通りを歩いていた。
昼間にも拘わらずそこは濃い影が落ち、得も言えぬ酷い汚臭漂う。ユーリは持ち上げた外套の襟首で口鼻を覆い、眉間に皺を寄せながら不機嫌に唸った。
配達屋はあまり裏道を利用しない。暗闇のあちこちから視線を感じ、ボブの不安を更に煽り立ててくる。
(本当に、大丈夫だろうか……)
マイヤが訊ねてきた理由――何とそれは、『ユーリを娼館に届けて欲しい』との依頼だったのだ。
しかし、理由を訊ねても『さる方が会いたがっている』と、言うだけ。ボブが胡散臭く思っているとそこに、パールが口添えをした。
『街の中ではナンバーワンの高級娼館だし、領主からの覚えもめでたい店だから大丈夫だと思うぜ』
ユーリもまた彼女を信頼しているので、とりあえず会うだけ会ってみようと決めたのだ。
迷路のように入り組んだ路を抜けると、突如として拓けた通りが現れる。
横一直線に伸びる道に沿って鉄柵が設けられ、そこを渡ったすぐ正面に、横に広い大きな貴族邸のような建物が構えていた。
【踊る猫】
店の名前を綴ったレリーフが、赤い木製に掲げられている。
(傍から見れば、金に困って娘を売りにきた甲斐性なしの父親かな……)
周囲の目を気にしつつ、店名を地図にあるそれと間違いがないことを確かめる。扉は見た目より重く、押すと蝶番が長い音を鳴らした。
「――おや?」
それが呼び鈴の代わりらしい。赤い絨毯が広がるロビーに踏み入ると同時に、正面のカウンターの奥から、黒いベストを着た女が現れる。
スマート、との言葉が似合う、黒いボブカットの女性。目は輪郭をハッキリ描き、キツい印象を感じさせる。
ボブを見るなり『客ではない』と見抜いたらしい。
抱え持つユーリをじろりと眺めてから、受付カウンターの上に視線を落とし、何かを確かめ始めた。
「赤髪の女の子とデ――ああ、はいはい」
訝しむ目はたちまち、来客を迎える柔和なものへと変わった。
「話は伺っています。マイヤはいま客の相手をしていますので、しばらく、そちらに掛けてお待ち下さい」
言って手を差し伸べた先は、紺色のビロードが張られた絢爛な椅子だった。
待合室なのだろうか。煌々と光るランプ明かりの中では、同じ様な椅子が壁に沿い、囲うように並べられている。等間隔で四角のテーブルが置かれ、どの調度品も高級そうなものばかりだ。
最短の端っこの椅子に腰かけるが、余した空間が落ち着かず、振る舞われた飲み物にもなかなか手につかない。――対するユーリは、ジュースをごくごくと嬉しそうに飲んでいる。これが当然と言うかのような姿に、生まれの違いを思い知らされる。
待っている間にも客はやって来て、ボブとユーリを訝りつつ店の奥に消えてゆく。
マイヤが現れたのは、四人目の背中を見送ってすぐのこと。額に汗を浮かべ、朱に染まった顔で「おまたせ」と駆け寄ってきた。
「マイヤさん、お熱あるの?」
「へ?」
見上げながら、ユーリは心配そうに訊ねた。
その意味に気付いたらしい。マイヤは、えぇっと、と返答に窮した様子で視線を泳がせる。
慌てたボブは止めさせようとしたが、マイヤは「お仕事してたんだよ」と、顔を明るくして答えたため、それを逸してしまった。
「そっか! おじさんも帰って来たら汗だくで、顔赤いし」
「あははっ、それと同じ感じ! ――多分ね」
うん、と納得させるとマイヤはボブに顔を向け、
「ちょっと、この子を借りてもいいかな?」
と、訊ねた。
店の奥へ連れてゆくつもりだ、と察し困惑してしまう。
「大丈夫だって。奥で無理やりとか、借金持ちじゃない限りしないから」
ユーリを見れば、行きたいと言った様子で頷く。
当人がそうしたいと言うのならば、それを承諾するよりほかない。
ボブは不安を残しつつ、ユーリをマイヤに預けたのだった。
◇
ほの暗い廊下を歩くユーリ。
前を歩くマイヤは、長袖のチュニックとだぼっとした薄手のパンツ一枚。
廊下は赤色の絨毯がずうっと続き、足の裏がふかふかして面白い。だけどそれはすぐに終わり、たちまち木を張った廊下へと変わった。
小さな足で踏んでも、ぎいぎい軋み沈む場所がある。たわむのを感じ、ユーリは慌てて足を戻し、別の場所を踏んだ。……しかしそこでも、大きく軋む音がした。
(どこに行くんだろう)
これまでとは違う、重い空気に息が詰まりそうになる。
窓のない廊下は更に暗く、前を歩くマイヤとの距離感が分からない。おっかなびっくり歩いているのもあって、彼女が足を止めたことに気付かないまま、どん、と大きなお尻に顔を衝突させてしまった。
「ああ、ごめんごめんっ」
明るい声が、ユーリの緊張を和らげてくれる。
額をさすっていると、マイヤは身体を屈め、
「ちょっとここで踊ってほしいのよ」
と言ってきたのだった。
「踊って……?」
何を言っているのか理解出来ず、きょろきょろと周囲を見渡す。
ただの廊下の真ん中。両隣に古ぼけた扉が一つ、二つ、それ以外なにもない。
問うような視線を向けても、マイヤは気付かないようなフリをして距離を空けた。
何なんだろう、と気になったが、踊ってもいいのなら踊るだけ。ユーリはそっと足を前に、軽くステップを踏んだ。
「――♪」
踊り出してみると、廊下の軋みもなかなか面白い。
つま先でリズムと取るように、ぎいぎい、とんとん。右足を前に、左足を後ろにくるりと回る。ジャンプしたら踏み抜きそうなので、膝を柔らかく身体を浮かせるように。
楽しくなってきた。
そう思った瞬間、どこからか人の視線を感じた。
何だとそれを探してみると、暗闇に浮かぶ白い目に気付き、小さな悲鳴をあげてしまった。
「ひ……!?」
真っ黒なスリットから、人と思われる目が二つ――初めて、扉に隙間が設けられていることを知った。
それは、驚き尻餅をついたユーリを見下ろし続け、やがて瞼を閉じた。真っ黒な闇の中に消えたようで、それがなお不気味さを醸した。
扉の向こうから衣擦れの音がしたかと思うと、僅かな静寂を挟み、小さな軋みが聞こえてきた。
「え……」
ユーリは双眸を開いた。
床板が軋むその音――何と、先ほど自身が奏でたそれと、まるで同じなのである。
しかし、
「ユーリッ、ダメ!」
前のめりに、扉に張り付こうとしたユーリを、マイヤが腰に腕を回して止めた。
しかし、ユーリは振りほどいてでも、向こうに行きたかった。板一枚隔てたそこで、見事な踊りを披露されているのである。
しかし、無理やり離されてしまう。……いや、自ら抵抗するのを止めていた。
――私は病気なのよ
扉一枚向こうから、言葉が伝わって来たのだ。
それはまるで……。
ユーリは不思議とその術を心得ているかのように、小さく踊り始めた。
――お風邪ひいてるの?
――いいえ。私の病気は治らない、やがて死に到る病なの
思わず小さな足が止まった。
――止めるな! 踊り子は何があっても、己の踊りを貫け!
叱咤にユーリは身体を震わせ、再び踊り始めた。
ステップはこれまでと同じはずなのに、気がつけば、扉の向こうから伝わる動きを真似ている。
――そう。真似をするだけでいい。私たちは我流を本流にすることが出来る存在
難しい動きだった。
腰をリズミカルに、くいくいと、全身を波打たせるように。
ただお尻を振る動きではなく、飾りがあればそれを鳴らすような動きを。
腕もまるで蛇のように、指先に到るまで火のように動かさねばならない。
だけど、心が楽しくなってくる踊りだった。
――踊りはね、楽しむことがまず大事なの
扉の向こうから、伝わってくる。
向こうの人も、踊りを楽しんでいるようだ。
――わたし、みんなが楽しんでくれるの好き
と、ユーリ。
――そうね。自分が楽しいと思うことを、人に伝えるのが踊り子なの
ユーリはその言葉に、ふと思い当たるものがあった。
――お姉さんが〈舞姫〉なの?
一瞬、踊りがブレた気がした。
しかし、足を止めることなく踊り続ける。
――それは想像に任せるわ
絡めた腕を天にかざし、ピタリと止まる。
話は終わり、と言いたげなそれに、ユーリも同じポーズを、そして大きな動きで頭を下げた。
――ありがとうございました
気がつけば、ユーリは息を切らせ汗だくになっていた。
それからすぐに、マイヤに背中を押されて来た廊下を戻り始める。少し離れた時、その部屋から『姐さん!?』と、慌てる声が聞こえた気がした。
◇
ボブは、出されたお茶と菓子をほおばっていた。
その食べっぷり・飲みっぷりに、娼館の使用人たち目を剥いている。
既に何十個目か。それを口に入れると、向こうから上機嫌なユーリの姿が見えた。
「おじさんっ」
「おお、用事は終わったか?」
うん、と満面の笑みで頷くユーリに、そうかそうかと笑みを浮かべた。
誰かに踊りを見せていたのだろう。肩からかけた手ぬぐいで顔を拭う姿に、ボブは目を細めた。
「じゃあ、帰ろうか」
と、残った茶を口に流し入れた。その時――
「おじさん。私ここで働くっ!」
ボブは、ぶっと茶を吹き出してしまった。