第1話 お祭りとお誘い
「ほら、ユーリ。口元にソースがついているぞ」
「ん」
ボブはナプキンを持ち、赤いソースで染まったユーリの口元を拭ってやる。
ユーリはされるがまま。綺麗になると、ニッと笑みを浮かべて再び料理にありつく。平温な日常が、何よりの幸せだった。
国を出てから四度目の夏が訪れ、ユーリは八歳を迎えていた。
村人たちから暖かい眼差しと愛を受け、健やかに成長している。同世代に比べて一回り小さな身体ではあるものの、それを補うかのように人一倍、農作業や家畜の世話の手伝いに励んでいる。また言葉足らずながらもよく喋った。
一方で、ただ飯喰らいと危惧されたボブも、それに負けじと勤めに励み
「ボブさん。すまないが娘に手紙を送りたいんだ」
「ええ。分かりました」
腰に下げたカバンから紙とペンを取り出し、送り先と内容のメモをする。
備えている“読み・書き・算術”は、ごく一部の者にしか修められない。ナーブルの村だけでなく隣村などでも大いに重宝され、一日に何度も往来することも少なくなかった。
そして昨年の春より、村人たちからの依頼もあって、ユーリや村の子供たちにも教えるようになっていた。
時間は流れている。
それは、いいこともあれば、また悪いこともあるものだ。
「――ばあちゃん。大丈夫?」
バーンズばあさんの家の中。
ユーリは心配そうに、ベッドから上半身だけを起こす老婆を覗き込んだ。
「ああ。今日も調子がいいよお」
ユーリの面倒を見てくれていたバーンズばあさんは、半年ほど前に身体の不調を訴えてから、ベッドの上にいることが多くなった。
年は七十四歳。村の平均寿命が五十歳の中で、かなりの長寿だ。
痩せて皺が深くなった顔は、笑うとより濃い線を描に、用事があればあちこち出向いていた健脚も、今では杖が必要となっている。
老いを感じずにはいられないものの、ユーリが来た時だけ、それを忘れられるような気がした。
「さてユーリ。今日も続きをするよ」
「うんっ!」
バーンズばあさんは、膝の上に裁縫の道具を広げた。
針仕事に身分なしと持論を述べ、昨年よりユーリに裁縫を教えているのである。
布地に一輪の赤い花を咲かせながら、ユーリとバーンズばあさん談笑する。
その横では、ボブが代筆の仕事をする。
かけがえのない穏やかな日常の一コマ。するとそこに、力強いノックの音がした。
「おや?」
来客か。ばあさんとユーリは揃って顔を上げたが、すぐに針の手を動かし始める。大体の用件はボブへの仕事依頼なのである。
はいと返事をし、椅子から立ち上がったその時、出迎えを待たずして扉が開かれた。
「やあ、ボブっ!」
「が、ガレス伯爵!?」
これにはユーリだけでなく、バーンズばあさんまでも驚き、尻を浮かせてしまった。
開かれた扉に立つ中年の男――まるで往年の友を訪ねるかのような気さくな笑顔を浮かべるその人は、この村を治めるガレス伯爵だったのである。
本来ならば大公のはずであるのに、派閥や権力争いに興味がなく自らこの立場を望んだらしい。身分の差を感じさせない振る舞いに、ボブは傅くのを忘れてしまう。
「ミス・バーンズも元気そうだね」
「ええ。孫娘に元気を頂いておりますよ」
バーンズばあさんが言うと、ユーリはニッと伯爵に笑顔を向けた。
これには伯爵も、顔を綻ばせてしまうようだ。
「カトリーナの子も期待したいものだ」
と言って、何度も頷く。
四年の歳月をかけて磨き抜かれた男ぶり。折り目正しく羽織られた茶色の外套は、それをいっそう引き立たせていた。
伯爵は時おり、二人の様子を窺いに村を訪ねていたが、その時は必ず、供回りか村人が先に告げにきていた。本人が直接訪ねて来ることは、初めてのことである。
「ガレス伯爵。いったいどうして――?」
ボブが訊ねると、伯爵は懐から手紙を出し「朗報だぞ」と快活に述べた。
「やっとユーリの兄・ロナルド殿の居場所が掴めたのだ」
ボブは、あっ、と口を開き、傍のベッド脇に立つユーリを流し見た。
ユーリの兄はグランス国の嫡男で、国を奪われたその日、どこかに落ち延び行方知れずとなっていた。
そして、ガレスは敵国・ウィンスローを治める国王の叔父。
彼が知ったと言うことは、逆賊が支配するグランス国に知られたことになる。
「心配するな。姿が確認されたのは、グランスから北東にあるパルティーン国。表向きは傭兵団の隊長として活動しているが、実態は国王に保護される旧グランスの兵で結成された軍だ」
「では、グランスは安易に動けない、と?」
ガレスは二度頷く。「しかし厄介なのは、パルティーンではない」
「……他にどこかが参入を?」
「北のミルバール国が、不穏な動きを見せているらしい」
ボブとの間に重い空気が落ちる。
グランス国から見て、北方に位置する大国・ミルバール――。
周辺国をあっと言う間に討ち滅ぼし、領土を大きく拡大している。国王の子〈フォーレス三兄弟〉が率いる軍は有名で、“悪魔の兵団”と呼ばれるほど恐れられている。
二人が思案していると、その横から「あのう」と老婆の弱々しい声が割って入った。
「あたしゃ国同士の事情なんてものは存じませんが」
何度か戦を経験しているので、とそこで言い留まる。
分かっている、と言わんばかりに重く頷いたガレスは、
「ここより北にホート・イールの街がある。紹介状も用意してあるので、三月の間に、そこへ移る準備をして欲しい」
「え!?」
「戦になると、兵士がここに駐屯、補給地となるんだよう……」
バーンズばあさんが言うと、ガレスもそれに続いた。
「ミルバールの動きは、我々ウィンスローが牽制することになる。そうなれば兵の出入りは、いつも以上に激しくなるだろう」
王女を連れ去ったのがボブであることに気付くことも、時間の問題と言える。
そして『赤髪の少女を連れて歩く肥え太った男』との訊ねは、この上なく明確な答えをもたらすだろう。
大人の話を分かっていないユーリも、これに気付いたらしい。
目に薄らと涙を溜めて我慢するのを見たバーンズばあさんは、皺くちゃな手で引き寄せ、小さな頭を優しく撫でた。
「その年で我慢を覚えるんじゃないよ」
たちまちユーリの小さな目から大粒の涙が零れ、すすり泣き出したのである。
◇
二月後――。
二人が発つことは村中に広がり、顔を合わせるたびに惜別の情を述べ合う。
辛い現実を背負ってやって来た女の子は、村に強い存在感を与えていた。
せめて明るく見送ってやろう。村人たちが出発の日の前日、夜祭りを催してくれると告げられ、沈んでいた二人の顔が、つかの間綻んだ。
そしてその日の夜、ユーリはバーンズばあさんに仕立ててもらった祭り衣装に身を包み、嬉々として皆の前に姿を現していた。
「まあっ、ユーリちゃんも立派な村女ね」
若い村娘が言うと、周りの者たちも、うん、と大きく頷く。
上着は前開きのないゆったりとした白のもの。そこにボディスと呼ばれる胴着を巻きつける。スカートは長く、白と朱色のチェック柄が描かれた茶色のもの。そこに緑のエプロンを腰に巻き付けた恰好である。
これは芽吹く草木をイメージしているらしく、未婚の娘の恰好のようだ。
村の中央の広場にかがり火が焚かれると、どこかしこから明るい音楽が流れ始め、ユーリはたまらなくなった。
「踊ろっ、踊ろっ!」
条件反射の如く、ぱちぱちと燃えさかる火の正面に向かうと、ここで体得した“田舎踊り”を舞い始めたのである。
まずは屈めた腰に裏手首をあて、腰を左右に揺らす。
最初は女たちで踊るもので、ユーリの後を追い、若い女も並んで踊り始める。
それから全員が揃ったところで、適当な男に目を向けてパートナーに選ぶ。――のだが、ユーリにはその仕草は不要であるらしい、
「ほっほっ! この老人を誘ってくれるか!」
踊りだけで、村で一番年を召した老人を誘う。
他の村娘も続き、それぞれ意中の者や身内などを相手に選んでいた。
パートナーが揃うと、今度は正面を向かい合って、足を交互に前に差し出すようなステップを踏む。それから腰を回し、脚を軸にしてくるりと一回転。腕を組んで右回り、左回り。最後に両手を高い位置で叩いて、踊りは一区切りとなる。
「おや、次はあたしかい?」
終われば次の相手。そしてまた次の相手――ユーリは、村人全員と踊るつもりであるらしい。
どれだけ踊っても疲れた素振りを見せず、離れた所で見ていたバーンズばあさんとボブは、凄いものだ、としきりに感心していた。
「ユーリはやっぱり、踊りが好きなんだなあ……」
「そりゃあ、あの子にとっての感情表現がそれだからね。王女様であることは記憶の底に埋もれているようだけれど、生まれ備わった感性と気質は、同世代の村生まれと違うと感じているんだ」
身分の隔てなく会話する術、それが“踊り”であると言う。
「どれ、あたしもいっちょ加わってやろうかねえ」
「ば、ばあさん!? 禄に歩けないのに――!」
「あたしゃ若い頃、踊りで何十の男を惚れさせた女さ! 年なんかに負けてらんないよ!」
祭りの空気か。ユーリの踊りか。何かがバーンズばあさんを掻き立てたらしい。
老衰とは何だったのか。杖を片手に掲げながら、陽気に田舎踊りをし始める老婆の姿に、誰もが驚きに目を瞠っていた。