第3話 驕りと後悔
言葉通り、ユーリはまた宿舎に現れなくなった。
練習を頑張っているのだろう。寂しさを覚えながらも、応援してやろうと思いながら椅子に腰掛けた。
するとその時、コンコン、とノックの音がした。
「ボブ。調子はどう――」
返事を待たず、部屋に入ってきたのはファルファだった。
年が近いのもあってか、懇意に足しげくボブの様子を見に来てくれる。いつもはニッと笑みを浮かべ、持って来た差し入れを掲げるのだが、この日に限って瞠目したまま立ちすくんでいた。
「ちょ、ちょっとアンタッ、大丈夫なのかい!」
「え?」
「え、じゃないよ! 顔色めちゃくちゃ悪いし、前に見た時よりも痩せてるじゃないのかい!?」
ボブは自身の腹を覗き込んだ。
あまり変わっていないように見えるが、確かにいつものベルト穴では拳が一つくらい入るかもしれない。
「食べなきゃ痩せるって本当ですね」
「冗談言ってる場合かい! ユーリはこれを知っているのかい!」
「い、いえ。ここ最近は会話もあまりなくて……」
まさか、とファルファは口に手をやって、しばらく思案に耽った。
その目には何か悪い予感を称え、ボブは思わず何かと訊ねてしまう。
「最近ね」
そう言って、ファルファはボブの隣に座った。
「ユーリの様子がおかしいんだよ」
「え?」
「おかしいって表現は変だね。あの年頃の娘は夜が楽しいし、仲間とのお喋りに時間を忘れる。けれど何と言うか、踊りに精細を欠いているんだよ。舞台は普段通り完璧なんだけど、それでも〈舞姫〉が伝える感情が“無”なんだ」
「無……」
「そこに自分がない。ただ舞台のために踊っているような、そんな気がしてね」
そして、彼女は手をボブの手に重ね置き、
「ボブ、どうか教えておくれ。あの子は何者なんだい」
「それは――」
ボブは一瞬口を噤んだが、もう明かしてもいいだろう、とすべてを話し始めた。
逆賊に奪われたグランス国の末娘であること。
本当の名前はミュレイア・キング・グランス。
国外へ逃がすため、共に旅に出たこと。
各地で多くの人に助けられ、そこで〈舞姫〉と出会ったこと。
やっとの思いで兄が落ち延びた国に辿り着いたこと。
次女のいる国にゆく道中、生理になってここにきたこと――。
すべての経緯を話し終えると同時に、ボブはファルファの手を取っていた。
「ファルファさん。もし僕の身に何かあれば――」
「馬鹿言うんじゃないよ」
ファルファはその手を振りほどくと、すっくと立ち上がった。
「手前の仕事は手前でケリとつける、それが男ってもんだろう。女に頼むんじゃないよ」
そうして、ふいっと入り口に身体を向け、
「アンタにしか出来ない仕事があれば、私にしか出来ない仕事もある」
乱れのない足取りで部屋を出、一人残されたボブはただ呆然と扉を眺め続けていた。
◇
その頃。酒場の踊り場の上では、剣呑な雰囲気が漂っていた。
中央には赤い衣装を着たユーリが、後ろには緑の衣装を着た四人の踊り子が扇状に並ぶ。彼女らは全員、汗だくで疲労困憊と言った様子であった。
「――いい加減にしてよ!」
ユーリが金切り声を上げた。
「何回同じところでミスするのよ!」
「そ、それは……」
踊り子たちは一斉に目を伏せた。
夏に行われる〈大祭〉に向け、ユーリはバックダンサーを置いて舞うことになった。……が、その踊りはまるで合わず、毎回誰かが小さなミスをしてしまうのだ。
最初は仕方が無いと思っていたが、それが度重なり、しかも今まで一度も成功していないことで、ユーリの怒りが爆発したのである。
「ゆ、ユーリが突っ走りすぎるのよ……」
一人がおずおずと言うと、ユーリは更に眉をつり上げた。
「どこがなのよ! みんな、これまで〈艶の舞い〉を主にしてきたんでしょ! なんで私に合わせられないのよ! 私がメインなのだから、あなたたちが合わせるべきでしょう!」
何倍にもそて、きんきんとまくし立てる。
踊り子たちは相手が年下にも拘わらず、肩を縮ませた。
するとそこに、袖から橙の一枚布を巻き付けた女・ファルファが現れ、ユーリはほっとした表情で身体を向けた。
「ファルファ姉さん、この人らを――」
しかし直後、ユーリの左頬に熱いものが走った。
パンッ、と強く乾いた音がしたと分かったのは、その直後だった。
「自分一人でデカくなった気でいるんじゃないよ!」
その叱責に、周りの者たちも縮み上がる。
勢いのまま倒れたユーリは、頬を抑えたまま、何が起こったのか分からない様子でファルファを見上げていた。
「な、何で……」
「一人で踊るなら好きに踊ればいい。けれど誰かと共に踊るには協力が必要なんだ。――自分に合わせて当然? そんな考えなら、〈大祭〉には出ず夜の客だけ相手してな!」
これにユーリは唇を引き縛り、ファルファを睨むように見据えた。
「お客さんは皆、私の踊りを見にきてくれているのよ! 私が出なかったら、楽しみにしているお客さんはどうするのよ!」
「お客さんね。今のアンタは、その客のために踊っているのかい?」
「え……?」
何を言っているのか、と思ったが、それはすぐに押しやられてしまう。
胸に“客”と言葉を投げ入れても、返事は『違う』と言う。そして胸は沈黙し、居心地の悪い空虚が出来上がる。
ここ最近、感じていた空しい感情だ。
煌びやか宝飾品を投げ込んでも、一向に埋まる気配がしない底なしの空虚。
「アンタはいったい、何のために、誰のために踊っているんだい」
「何の、ため……」
「栄華に目が曇ってんだろ。踊っている自分も、それ以外の自分も」
ファルファは言葉を詰まらせた。
じっと次の言葉を待っていると、怒りを称えた鋭い目に、薄らと涙が浮かんでいることに気付いた。
「変化にも気付いてない――傍に居た人の姿をじっと見たことがあるのかい」
「傍にって、おじさんの……?」
涙声に変わったことで瞠目しつつ、おじさんの姿を思い出す。
でっぷりと大きなお腹を揺らし、いつも沢山のご飯を食べる。
確かに最近、あまり会話していない。……嫌いになったわけではないけれど、どうしてかイライラした気持ちになって言葉を荒くしてしまう。
「あの人は病気なんだ。あれは肝を始め、あちこち悪くなっている。痩せて小さくなった身体に気付かなかったのかい!」
「えっ……!」
「あんたが踊る理由に気付くまで、店にも出さないからね」
いくよ、と踊り子を引き連れ、店の奥に戻ってゆく。
一人、舞台に残されたユーリは、ただ呆然と崩れたまま――やがて、ハッと思い出したように店を飛び出していた。
◇
ユーリは何度も転びそうになりながら走った。
店から宿屋まで、ほんの百メートル足らずなのに、遠い、と思ったのは初めてだ。
赤い衣装のまま階段を駆け上がり、目的の部屋の扉を開く。
まるで急襲するかの如く、乱暴に開くと、その正面に目を瞠ったおじさんが座っていた。
「あ、あ、ぁぁ……」
見た瞬間。ユーリはその場に、膝から崩れ落ちた。
机に置かれた木の実を弄ぶ、そのおじさんの姿を見た時、頭は『知らない人だ』と思った。
血色のよかった顔は、今は少し浅黒く。
記憶のままの笑顔は、今はどこか弱々しい。
知っているおじさんは、でっぷりと大きなお腹をしていた。――なのに、今目の前にいるおじさんは、一回り小さくなり頬がこけている。優しい雰囲気だけ、そのままに。
「おじ、さん……」
「ユーリ。いいところに来た、今さっきボイベリーが手に入ったんだよ。酸味は疲れている身体にはバッチリだ」
好きだっただろう。
言われた瞬間、ユーリの双眸に涙が噴き上がり、
「ど、どうしたんだい!?」
「うっ、えぇぇぇぇんッ」
直後、大きな声を上げて泣き出し始めてしまっていた。
まるで幼い子供のような泣き声だ。理由を言おうとするが、涙が妨げる。
「な、泣かないでおくれ」
えんえんと泣き続けるユーリであったが、突然、口の中に丸いものが放り込まれたことに気付く。
反射的にそれを口内で転がす。身体が覚えているのだろう、舌が押しつぶすと、じわりと流れてきたすっぱい汁が、口を驚かせた。
「やはり夏のボイベリーの方が美味い」
ボブも口に一粒放り込むと、ニッと唇を引き結んだ。
「大丈夫。おじさんは、何があってもユーリの傍にいるよ」
「おじ、さぁん……!」
ユーリはすがるように抱きついていた。
大きくて、お腹の中に隠されたほど、両手を目一杯広げても背中に届かなかった身体は今、指先が届きそうなほどになっていた。
自分が成長したのもあるだろう。
けれど、それはこの大きな身体のおかげなのだ。
「ご、めんな゛、さい、わだし、わたし……っ!」
「心が大人になろうとしているんだ。その不安があったんだろう」
優しく頭を撫でてくれるボブに、ユーリは再びわんわんと泣き始めた。
雰囲気は以前のままであるが、中に、ごく僅かに、死の気配が漂っていたのである。
◇
この後、ユーリはボブを連れて宿屋に戻っていた。
開店はもうすぐであるが、それを見たファルファは何も言わず、
「すまないね。今日は臨時休業だよ」
客の驚きや文句を無視し、戸板を閉じていた。
そして何ごとかと立ち尽くすボブと、赤い目に決意を宿したユーリの両方を見比べ、小さく息を吐いた。
「ようやく取り戻したようだね」
その言葉に頷くユーリは「舞台を借ります」とだけ告げ、階段を上がってゆく。
「あんたの一存で決めていいもんじゃないけどねえ」
冗談めかす口調のファルファに苦笑しながら、ユーリは舞台の中央に立つ。
何か踊るのだろうか。ボブが期待を寄せていると、ユーリは両手首の裏を腰にあてると、前屈みになって腰を揺らし始めた。
「おや、〈田舎踊り〉とは懐かしいねえ」
大昔、故郷で踊って以来だ。
そう言うと、ニッと笑顔をボブに向けた。
「アンタ、何やってんだい」
「えっ?」
「若い女の子が誘ってんだよ。恥をかかせたくないなら行ってやりな」
顎をしゃくると、ユーリも楽しそうな笑みをボブに向けていた。
ナーブル村で見ていたが、踊ったことはない。
――腰に手をやって
不安そうに階段を上がったボブに、対峙するユーリは指示を出した。
――私が出す足に合わせてみて
ユーリが右足を出せば、ボブも右足を。
それを右、左、右、左、と交わすように差し出し合ってゆくと、自然とリズムを取るように、大きな身体が跳ねていた。
――そう言えば、おじさんと踊るの初めてだね
「ああそうだな」
照れくさそうに笑うボブに、ユーリは子供のような笑みを浮かべた。
ぴょんぴょん、くるくる。踊りを知らないおじさんに教えながら、舞台の上を跳ねる。
一人で踊っていたものの、やはり〈田舎踊り〉は誰かと踊るのが一番いい。
そう思った瞬間、『あっ』と気づいた。
(私は、舞台を独り占めしようとしていたんだ……)
かつて舞踏会で反応がなかった一件が、脳裏を掠めた。
ペアで踊る〈宮廷踊り〉は、二人が息を揃えて初めて一つとなる。
それは複数人いても同じ――みなが楽しまねば、見るに堪えない一人舞台なのである。
(なんて、馬鹿なんだろう)
自分は賞賛と喝采ほしさに、他者を蔑ろに、邪険に思っていたのだ。
あまりの浅はかさに双眸が潤み、ユーリは足を止めそうになってしまう。
『踊り子は何があっても、己の踊りを貫け!』
胸の中の恩師に叱咤され、ユーリはすかさず心と顔を引き締めた。
己の踊りに集中する。いま伝えたい感情は、ただ一つだけだ。
――おじさん、ありがとうっ!
一緒に踊るおじさんは目を瞠ったが、すぐにいつもの優しい笑みで頷いてくれた。




