第2話 舞姫の君臨。そしてその裏で……
ユーリはその場で合格を告げられる。
ぽっと出の者が、それもまだ若輩者がと思われるのではないか、と気を揉んだものの、踊り子たちはみな実力社会であることを理解しているのか、驚かれはしても嫉妬などの反感を買うことはなかった。
もちろん人間であるので、少なからずそのような感情は持つだろう。しかしユーリがひとたび舞えば、他の踊り子らは反感の牙を抜かれてしまう。
舞台での踊りは〈花鳥風月〉と名付けられた四種の踊りが上演されるのだが、ユーリには〈艶の舞い〉を専門に任される。つまりは〈舞姫〉の独壇場である。
しかし、何もかも順風満帆とはゆかない。
酒場であれば当然、客の相手をするのも務め。〈舞姫〉であれば客を選んであてられるものの、それでも酔っていることに変わりない。
何よりユーリにとって、人にお酌をすることなぞ初めてのこと。踊りより“作法”を覚えることの方が苦労であるらしく、周りの者たちはそちらに驚かされてしまう。
「あの子ったら、棒立ち、瓶を片手に持って注ぐんだよ」
「ま、まぁ、これまでお酌する機会とかないですからね」
ボブが寝泊まりする宿舎の中で、ファルファは笑いを添えてユーリの“仕事内容”を報告していた。
身体のこともあるので、舞台を踏むのは一連の仕事を覚えてから。おおよそ二週間後と見込んでいる。
しかしそれよりも、ボブを驚かせる衝撃の事実が告げられたのである。
(まさか、戦争が目前まで迫っているなんて……)
ミルバールは既にカトス進攻を始めている。
時期は未定。国境を越えて東に向こうことは不可能で、もしユーリの生理が来ていなければ、最悪は途中で囚われていた可能性だってあった。運良く切り抜けても、その先の村々から敵だと思われれば……。
これは神の導きか、それとも悪戯か。
ボブは深くため息を吐くと、途端、ずきりとした腹の痛みに顔をしかめた。
「――ボブ。あんた腹が悪いのかい?」
「いや、身体は丈夫なはずです。これまでの疲れが祟ったのでしょう」
「ふぅん。それにしては、身体に対して食がイマイチなようだけど」
「それは……」
「私の父も腹に違和感を覚えてね。これぐらい平気だって言ってる間にくたばっちまったんだ。配達屋がどんなものか知らないけれど、長生きしたきゃ引退を考えな」
「そう、ですね……」
ボブは眉を落とした。
結婚に縁がなかったため、祖父より続いた配達屋の看板は、自分の代で下ろすことは間違いない。
この身体だ。膝を壊して終わりだろうと思っていたが、それよりも早く内臓が悲鳴をあげた。
「ま、ユーリに関しては任せておきな。胸はまだ殆ど出てないから、幼児好きな変態でなきゃ手は出さないだろうけど、尻は大小変わりないんで多少我慢は――て、なんだいその顔は?」
「む、胸は?」
「はぁ?」
ファルファは頓狂な声をあげた。
「アンタ、それすら気付いてなかったのかい? 既に乳輪膨らんでるよ」
目眩を覚えそうであった。
裸を見たことがあるとは言えど、それは幼少期の頃だけだ。赤ちゃん返りをして、オムツ代わりの当て布をしたり、暑い日に川で水浴びをした時など。
生理もそうであるが、確実に一人の大人として成熟しようとしていることが、ボブにとって衝撃であった。
「僕の身体も老朽化するわけですね……」
「アンタら二人、いったいどんな関係なんだい……」
呆れて物も言えない様子のファルファに、ボブは苦笑して誤魔化した。
隣国のパルティーン、次期国王の妹君だと明かすのはまだ早計。今は“ワケあり親子”として時間を送るしかない、と心に決めている。
「ま、ここにどれだけいるか知らないけれど、舞台に上がる以上、私の娘として面倒見るからね」
「ええ。どうかお願いします」
深く頭を下げるボブに、ファルファは「調子狂っちまうね」と苦く、そして楽しげに笑った。
◇
ファルファの見立て通り、ユーリが初舞台を踏むのは二週間後の夜となった。
お酌などの接客は及第点であるが、踊りを優先し、多少のことは目を瞑ることにしたのだろう。
驚かされた生理は終わり、ほぼぶっつけ本番で挑むことになる。
そのため盛り立て役のバックダンサーはつけない。袖から沢山の人で賑わう客を見て、ユーリは生まれて初めて緊張というものを知った。
(皆の期待に応えなきゃ)
赤い上衣に、同色の前垂れ。薄布のハーレムパンツははかず、ファルファが用意した赤の腰布と、膝から下を覆う脚衣を身につける。
ミラより賜った衣装は、城にいるとき仕立て直している。前垂れの猫の刺繍は、遠回しに外した方が、と勧められたものの、これだけは頑として拒否した。
『さあさあ、今宵は新人を紹介するよ!』
舞台の上では、前説が場を盛り上げる。
『何とこの街ではなく、ふらりとやって来た旅人の娘。それはかの伝説の踊り子、ファルファが酒を落としたほどの逸材だ。――だから、唾をつけようとしている人は、考えた方がいいですよお』
おっかないですからね、とおどけて言うと、観客はどっと沸いた。
これには袖にいたユーリも、薄く笑ってしまう。
ファルファは踊りに対しては厳しく、檄が飛ばぬ日はないのだ。
――舞台に立ちたい奴は山ほどいるんだよ!
これが口癖だった。
踊り子の多くは『代わりなぞいくらでもいる』と罵りの意味と受け取っているが、ユーリは違った意味に感じていた。
(私たちは、チャンスが得られなかった踊り子たちの想いと人生を、背負っているんだ)
その枠は限られている。どれほど努力しても報われない者はたくさんいるのだ。
選ばれた者は、下の者の手本となり目標となり、乗り越えるべき存在とならねばならない。そのためには、舞台に立つに相応しい踊りを披露せねばならない。
これを軽んじれば舞台が腐る――ユーリはそう考えていた。
(ミラ姐さん、私、ようやく同じ舞台に)
客席から『早く見せろ』と、野次が飛び、前説の男も頃合いかと視線を袖に向けた。
その先にはユーリがおり、小さく、しかし意志をハッキリとさせた頷きを見せる。
『さあ、では登場して頂きましょう――新人のユーリです!』
ユーリはその一歩を踏み出した。
舞台は思ったより高い。一人だけのそこは思ったより孤独だ。見下ろす観客たちの目には、興味、驚愕、疑心……様々な想いが浮かんでいる。
(ミラ姐さんもこんな気持ちだったのかな)
もう後戻りは出来ない。
だが、舞台の中央に差し掛かる頃には自然と心が決まっていた。
超えるべき存在は師。
奏者とタイミングを合わせ、ピィン、と高い弦が弾かれると同時に、両手を天へとかざす。
――我が舞い、ここに
刹那。観客全員が息を呑んだ。
複数の楽器が合わさった妖艶な奏でに合わせ、ユーリは小さく、そして激しく腰を揺さぶった。するとたちまち、観客は思わず「おぉぉ……」と感嘆を洩らし、全員が一斉に前のめりになった。
魅入っている。
釘付けにしている。
そう感じると、ユーリの身体にぞわぞわとしたものが這い昇り、舞台を踏む足の指先にまで、楽しい、との感情が満ちてゆく。
――もっと、もっと踊りたい
――もっと楽しみたい
それを受けたのは奏者で、演奏がより激しくなる。
ユーリも呼応し、観客たちの身体は曲に合わせて揺れ始める。悶えに近く、ユーリは踊り子の顔を前列の男に向ければ、何とだらしない顔で床の上に膝をついた。
何をするのかと思えば、指を絡めて祈りを捧げるではないか。
いや、彼だけではない。
全員が『終わらないで欲しい』と祈るような目を、表情をしており、高い舞台か望視するユーリの心は、いつまでも激しく昂揚していた。
◇
【酒場に現れた脅威の新人・ユーリ。年は何と十三歳。なのに熟練の娼婦すら青ざめる、艶めかしい舞いを披露した】
チラシ売りらはこぞって〈ユーリの初舞台〉を取り上げた。
それは飛ぶように売れ、連日の話題を攫う。――そうとなれば、鼻の利く物書きたちを始め、流行に敏感な者たちが酒場に集う。
最初は一見だけ。所詮は踊り子だろう。
そのつもりのはずが、ひとたび見れば虜となる。それが繰り返されれば、酒場は連日人だかりが出来上がり、踊りが終われば誰もは夢に浮かされたように帰ってゆく。
またそれに追従する噂も後を絶たない。
公演を二度に増やせば、客が二倍に。死人が酒場の前を通れば、天に召されたような安らかな表情へと変える、とまで語られ、公演の時間になると酒場の前で大渋滞が起こる。
(ここに来て、覚醒した感じだなあ……)
その噂を聞くたび、ボブは感心していた。
路銀は十分にあるが、ファルファの伝手を頼って代筆の仕事させてもらっている。そこで依頼される文章の殆どが、新たな踊り子・ユーリに関するものばかりだ。
踊りもさることながら、見ただけで心奪われる美貌。それに心奪われた者も少なくない。
あれから半年。冬から春へ、そしてユーリが十四歳を迎えた初夏が過ぎ、ますます女らしさに磨きがかかっている。
しかしそれと同時に、増す不安も多い。
(お酌の相手も人を選んでるとは言え……)
酔っ払いが相手なので、尻を触ったり上衣に指をかけ、膨らみかけの乳房を覗こうとする者は当然いる。それ以外の男たちも、ユーリの着替えを覗こうとしたり、『一夜を共にした』と騙り、淫らな姿を描いた絵すら出回っている。
今ではあしらい方も慣れたもので、遠方の有力貴族まで手玉に取っているそうだ。
夜が遅いとそのまま酒場の二階・踊り子の宿舎に泊まるのだが、ボブはその度に気を揉んだ。特にここ三週間、ユーリの声すら聞いていない。
深夜。今日も戻らないのか、と息を吐いたその時、
「はぁ、疲れた……」
「ユーリ!」
久々に見るユーリの顔に、ボブは顔いっぱいに笑みを浮かべた。
「お疲れさま。仕事が大変そうだね」
「……あ、うん」
ユーリはボブを一瞥しただけで、客から貰ったであろう金銀、宝石の装飾品を机に放り投げた。
「そうか。お客さんが待つから仕方ないけど、無理だけは――」
「分かってるよ! いちいち言わないでよ!」
「そ、そうか……」
「もう寝るからっ。それと夏の大祭があるから、しばらく帰れないから!」
荒々しく言うと、ベッドにのしかかるように、そして乱暴に布団を被った。
「あ、ああ、お休み。ゆっくり休むんだよ」
ボブは優しく言葉をかけ、自身もベッドに潜り込む。ユーリからの返事はない。
ぎぃぃ、と大きく軋みをあげ、身体を丸めると途端に胸の奥と、喉にくすぐったいようなものを覚える。
「こふっ、こふっ……」
横になるユーリを起こさぬよう、小さく咳をする。
冬の半ばに体調を崩し、その時に生じた咳をまだ引きずっていた。
(もしかすると、帰ってこない理由はこれかもしれないな……)
疲れているのに、横でうるさくされては眠れないだろう。
(今度、ボイベリーの実を用意、いや差し入れてあげようか)
瞼の裏に描かれるのは、笑顔を浮かべるユーリの姿。
幼い頃から次第に大人へ――そうしている内に、意識は自然と暗闇の中に落ちていった。