第1話 成長の証
奇しくも再びユーリと旅することになったボブは、胸の奥に嬉しさを漂わせつつも、若さの違いを痛感せずにはいられなかった。
「おじさん、また休憩?」
「あ、ああ、すまない……」
もう、と不満げに息を吐くユーリに、ボブは申し訳なさそうに頭を掻いた。
疲れるのが早ければ、回復するのも遅い。特に旅人泣かせの急坂なので、その足も自然と億劫になる。
「おじさん、私を抱っこしていた時の方がもっと歩いてたよ」
ユーリの言う通りであった。
これまでの半分の距離で息が上がる。旅に出てから三日、ユーリを追ってくる者がいないのは幸いであるが、本来なら倍の距離は進んでいるはずなのだ。
あまりに遅い足取りに、流石のユーリも苛立ちを隠せないらしい。足を踏み鳴らし、散策するようにうろうろし始めた。
「ユーリ、あまり遠くに行っちゃダメだぞ」
「分かってる! ちょっと用を足すだけなの!」
ああそうか、とボブは苦い笑みを浮かべ、肩をすくめた。
(これが、“難しい年頃”というやつかな)
子は成長する。旅を始め、ユーリはムッとした口ぶりを見せることが多くなったのだ。特に干渉されることを嫌い、口を出した途端に目を怒らせる。
成長の証が見えて嬉しく思う反面、どうにも接し方が分からず四苦八苦している状態だった。
(だけど、何か身体が変だな……)
ボブは自分と向き合い、ため息を吐いた。
食欲が落ちた。
食費が抑えられるのでいいとするも、食は命の糧、体力の低下はそこからきていると見て間違いない。特にこの一年、みるみると減っている。そしてそれに伴い、腹の下の方が時おり痛むようになった。
配達先でよく『歳を取りたくないものだ』とぼやく老人を見てきたが、年を取って初めてその気持ちを理解する。
虚無感にがっくりと肩を落とした、まさにその時――
「おじさん……」
弱々しい呼びかけに、ボブは慌てて振り返った。
そこにはユーリが立っていた。しかし先ほどとはうって変わって、その顔は真っ青になっている。
「ど、どうしたんだ!?」
「血が、血が出て……」
シャツの裾を握りしめるユーリを検め、ボブは大きく仰け反った。
「な……っ!」
ズボンの股部分が、真っ赤に染まっているのである。
少女の目には“死の恐怖”が浮かび、身体だけでなく唇まで青く震わせている。
約三年ぶりの旅なので、身体に異変が生じたのか。いやそれよりも、血尿となれば早く医者に診せねばならない。
「は、早く医者に行こうっ! 近くの街は……!」
ボブはユーリを抱きかかえ、じっとり湿った山道を駆け下り始めた。
ユーリは腕の中で小さく、ボブのローブを固く握り締めながら、小さくすすり泣く声を漏らしている。
◇
かつて。ユーリが五歳の頃、麻疹にかかり高熱を出したことがある。
熱冷ましの薬は村になく、二日ほど歩いた先の村まで貰いにゆかねばならない。
しかしボブは聞くなり村を飛び出し、草木生い茂る斜面を駆け、文字通り転がり落ちながら村に向かったのである。往復一日半――自身でも考えられない速さで、その時だけはロバから早馬となっていた。
それから六年。今もまた早馬となり、駆けていた。
喜ぶべきかどうか、すぐ近くはミルバール国だ。山を下ればすぐに、要塞のような高い壁に取り囲まれた街がある。
ここならば医師はいるだろう。ボブは神に祈りながら、人ただひたすら真っ直ぐ入り口に駆けた。
当然、門衛に呼び止められるのだが、
「緊急なんです! そんな暇はありません!」
と言えば、
「そ、そのようだな……!」
ボブの圧に負け、何度も頷きながら中へと促されるのだった。
街の中は勝手が分からない。しかも道行く者に声をかけても、厄介ごとはごめんだ、と目を背けて素通りしてゆくではないか。
歯がみしながら周囲を見渡すが、同じ様な白い漆喰壁が並ぶ通りは、どこに何があるかすら分からない。
「ユーリ。大丈夫だからな」
腕の中で薄っすらと汗を浮かべ、弱々しい眼をした少女に呼びかける。
とにかく行動しなければ、と駆け出そうとしたその時、
「ちょいとアンタ」
後ろから、赤いスカーフで頭を隠した女に呼び止められた。
「その子に何かあったのかい?」
橙色を下地に、艶やかな草花が咲く一枚布を身体に巻き、頭部から肩にかけて赤いスカーフのようなものを巻いている。そこから黒髪の一部と薄褐色の肌が覗く。年は四十ほどに見えた。
「こ、この子がっ、この子が血尿を出したらしく……!」
「血尿?」
女はそれを聞いて眉を上げ、青ざめ震えるユーリを覗き込んだ。
「……この子の年は?」
「じゅ、十三歳です!」
ああ、と納得の声を上げると、くくっと肩を揺らし始める。
そのような場合では、ボブは語気を強めたが、女はたまらず顔を上げて笑い転げた。
「あーっはっはっはっ、いや悪い悪い! いや、男親ってどこも大げさなもんなんだな、と思ってさ」
「お、大げさ?」
「そうさ。それは十中八九、病気じゃないよ」
ついておいで、と薄暗い影が落ちる路地へと足を進ませる。
秋風は吹き抜け、日差しよりも寒さが勝る。大丈夫か、とユーリに声をかけながら、女がノックもせず開いた扉をくぐった。
「男はここまでだ。嬢ちゃん、足ついてんなら自分の足で歩きな」
ユーリは言われ、よろよろと女の後を追った。
その後ろ姿、血が乾ききらないズボンは、ただ恐怖心を煽り立てる。
待つことしか出来ないボブは、とにかく神に祈り続けた。
◇
そして、それからしばらく。
部屋の奥から二つの影が現れた。
「待たせたね」
肩を抱かれて現れたユーリは、薄紅色のズボンに履き替えていた。
先ほどまでの悲愴感が嘘のようであるが、その表情は、何とも言えない恥ずかしさや、照れ、動揺が入り交じっているように見えた。
「あ、あの、ユーリは……」
「大丈夫だよ。ただの女へ成長する過程に入っただけだ」
「へ?」
「生理だよ、せ・い・り! ガキを孕む身体になったしょーこ!」
「へ……?」
ボブはそこで初めて、ああ、と納得し、へなへなとその場に崩れ落ちた。
「な、なんだあ……」
「ホント、無知な二人だね――ま、うちも同じだったから、文句言えないけどさ」
くくっ、と笑う女はファルファと名乗った。
生理がきた時はとユーリ確認を取るが、少女は恥ずかしそうに顔を伏せる。その姿にファルファは悪戯に微笑み、女へと変化した背中をパンパンと叩く。
彼女は表通りの酒場でウェイトレスをしていると話し、街の案内をしつつそこで食事をご馳走されることとなった。
ボブは最初、遠慮したものの、
「この街で“もてなし”を拒否したら、殺されるよ」
冗談ではない声音に、二人は顎を引きつつ申し出を受けることとなる。
◇
街はアンティブと言う。
建物は白壁が特徴的で、道には灰色の石畳が敷きつめられている。様々な荷馬車が忙しく走り続けているにも拘わらず、大きなゴミが一つも見当たらない。与える印象のまま清潔感を保つ街であった。
目指す酒場は通りに出てすぐ。
集会場か、と思ってしまったほど広く大きな建物であった。
板張りの床は綺麗に磨かれていて、ランプ灯りが木の風合いを引き立てる。酒とタバコの匂いが染みついているが、それがまた味を醸しているようだ。
しかし、ユーリの興味はまた別の方向へと向いていた。
「もしかしてあれ、踊り場?」
「お、そこに興味がいくとはお目が高いね」
ファルファは嬉しそうに手をかざした。
「百年の歴史を持つ歌と踊りの老舗酒場。この舞台に立てるのは、覚えめでたい選ばれた踊り子たちばかり。夢を見ては墓場まで。選ばれても人気が無ければ靴を脱ぐ。そんな踊り子の聖地であり戦場。それがここ〈踊り子酒場〉さ! ――この店の名前、どうにかならないのかねえ」
奥より『うるせえ!』と野太い男の声が響く。
何度も説明しているのか、ファルファの口ぶりは実に滑らかであった。
「ファルファ姉さんも、この舞台に立ってた?」
「え?」
「踊り子だった感じがする」
ファルファは驚き顔を一瞬、すぐに顔を伏せ足下を眺めた。
「足、やっちまうまではね」
ナンバーワンの座は一炊の夢であった。
そう切なげに言うと、顔を再び舞台に向ける。
「だけど、心はまだ舞台にあるよ。今は経験を活かして、後輩たちに踊りの指導をしているのさ」
「素敵……」
ユーリはうっとりと眺めながら、そう洩らした。
すると同じにおいを感じ取ったのだろうか。ユーリに目を向け、頭のてっぺんから足先まで眺めると、ほう、と感じ入る素振りを見せた。
「過保護な娘、と思っていたけれど、引き合うものがあるのかねえ」
「街の人でなければ、ここに立てないのですか?」
「お、なかなか言うじゃないか。いいや、実力と才能があれば、出どこは問わないさ」
立ってみたい、独り言のように呟くユーリに、ファルファは
「ここで軽く舞ってみな。股に入れ込んだ綿落ちるから、激しいのはダメだよ」
と、言うとユーリは思い出したのか、恥ずかしそうに肩をすくめた。
しかし、それからすぐに何を踊るのか思案する素振りを見せる。
ファルファは、「ゆっくり考えな」と言うと、店の奥から恐らく酒が入った小さなタルコップを持ってくる。
その間にユーリは踊りを決めたらしい。頃合いを見て膝を曲げ、ゆったりと動き始める。
――本当は〈艶の舞い〉を踊りたかったけれど
がちゃん、と酒場に何かが落ちる音が響き渡った。
ファルファが持っていたタルコップであり、そこから酒がゆらりと匂い立つ。
「ま、まさかこの子……」
訊ねるような目を向けられれば、ボブは頷くしかできない。
〈舞姫〉の君臨。ファルファはその瞬間、顔を破顔させていた。




