第2話 国境越え
その日。ボブは、妹の結婚式から戻ったばかりだった。
ご馳走をたらふく腹に収め、故郷・ファナティ村に帰ってきた翌日のこと、
『ボブ。次の配達はいつだい?』
近所で鍛冶屋を営んでいる者が、店を訪ねてきたのが始まりだった。
王都に住む娘に、頼まれていたフライパンを届けて欲しい、とのことである。
親子三代続く商いは村民たちの信頼厚く、六日ぶりの営業再開が口伝えに広まると、狭い店舗はあっと言う間に、荷物で埋まった。
祖父・父は俊足で、【馬よりも早い配達屋】が看板文句であったが、ボブの代になってからと言うもの【ロバよりも遅い配達屋】に書き換えられている。
それでも客が荷を任せてくれるのは、ボブの人柄・信頼によるものと言えた。
しかしこの日、彼はそれらすべてを投げ捨てることになる。
(客の荷に手をつけるなんて……)
いや、しかし、と首を振った。
今この状態、背に感じる小さな命を天秤にかけるなぞ、愚にもつかない行為だ。
(国の存亡がかかっているんだ、店が焼かれるくらいなんだ!)
運ぶのは、この国の運命。治めていた国王の娘・王女なのである。
年はまだ四歳。同年代の子に比べれば二回りほど小さく、言葉もたどたどしい。
それなのに、この子が語り紡いだ内容は、平和を信じてやまなかった己を、著しく動揺させるものだった。
――大臣がクーデターを起こし、国王と女王を屠った
聞いた時、悪い冗談だ、とボブは思った。
しかし、血相を変えたマーセの様子、四歳の子供とは思えない虚ろな目を見てもなお、それを一笑する心は持っていない。信じたくなくとも信じるほかなかった。
ボブは腹を決め、準備に取りかかった。
まず配達の荷から手頃な服を選び、王女を着替えさせる。これは織物業を営んでいる老夫婦が、孫娘のためにと縫った服だった。胸元に白い猫の刺繍がされてあり、王女はこれを大いに気に入った。
それから必要最低限の荷物だけを持ち、道中の旅商人から食糧を交換・買い込み、西へ向かって足を進め始めた。
(まずは国境越え――グランス国と関係のよくないウィンスローに入れば、そう易々と追って来られないだろう)
ボブはその図体ゆえ、馬や馬車が使えない。
しかし、すべて徒歩で配達していたおかげで、賊も知らぬ抜け道など多く熟知している。そしてその知恵を振り絞り、山越えのルートを導き出した。……のだが、これは最短でも約二十日を越える長旅となるだろう。
小さな希望は今、腕の中ですやすやと寝息をたてている。
何ごともなく超えられればいいが、と夏の到来を告げる青空を見上げ、祈るばかりであった。
◇
ここまで肥えているのは珍しいのか。
ミュレイアが起きている間は、物珍しげにボブの腹の肉感を確かめていた。
「んっ、んっ」
「ははっ、おじさんのお腹がそんなに気になるかい?」
両腕で尻を抱え持つ、抱っこの形。
王女は子供らしい笑みを浮かべると、再び粘土をこねるように揉み、叩き始める。その仕草は何とも可愛らしく、子供を持てばこんな感じなのか、と目が細まる。
胸が温かくなるのを覚えるも、この子を“我が子”と思い、またそう扱うことの畏れ多さが追いかけてくる。
「そう言えば、名前を変えなきゃな」
「?」
ミュレイアは手を止め、どうして、と言いたげな目を向けた。
「名前を聞いて、追いかけてくる可能性があるからね。せめて安全だと分かる場所まで、偽名を名乗らなきゃ」
「ぎめー?」
「あ、えぇっと……もう一つの名前。おじさんとミュレイアが旅をする間だけの名前かな」
「うんっ! おなまえ、つけよー!」
「ははっ! よし、そうとなれば、元の名前に通じた方がいいな――」
ボブはしばらく、うーん、と考える。
すると、ミュレイアも真似をして、うーん、と唸る。
「そうだ、〈ユーリ〉にしよう!」
「ゆーり?」
「そう。それが、ミュレイアの新しい名前」
ユーリと名付けられた女の子は、嬉しそうにはにかんだ。
「ゆーり、わたし、ゆーりっ!」
「ははは、気に入ったかい」
抱える腕を揺らすと、ユーリはきゃっきゃと笑った。
◇
ユーリとの旅が始まって一週間。
賊に襲われ、狼に怯えることもなく、二人は着実に前へと進んでいた。
しかし、急に始まった逃亡の旅。
やはり何かしらのトラブルはあるものだ。
「うえぇぇぇぇぇぇぇぇぇんっ」
「おお、よしよし……大丈夫、おじさんがいるからな」
夜中。静まりかえった真っ暗闇の森の中に、幼子の泣き声が響く
ある日から、ユーリが夜泣きをするようになったのである。
寝小便やお漏らし、加えて、当初は自分の手で摂っていた食事も、今では大人が与えてやらねば食べられない。まるで赤ん坊に戻ったようだった。
(子育てがこんな大変だとは思わなかったな……)
ボブは胸中、これは辛いと渋く唸る。
旅に出てから十五日目。
最初は『子供だから仕方がないな』と苦笑していたものも、連日連夜これが続けば、流石に疲れを覚えてしまうと言うもの。しかしストレスはない。
ただ一つ……食事を除いては。
「――こらっ! 食べ物を放り投げるな!」
夜が明け、遅めの朝食を摂っていた時、それは起きた。
「うっ……う、えぇぇぇぇぇぇんッ!」
「もう殆どないんだぞ!」
追ってボブが叱ると、ユーリの泣き声は更に増す。
どうやら、携行食のクッキーが気に入らないらしい。口に入れても吐き出したり、放り投げたりするのである。
普段は人の三倍の量を食べていたボブにとって、一日一食の生活は大きなストレスを与える。
突然の環境の変化に加え、子育てと言うのをまるで知らない。
わんわんと泣き止まないユーリに、ボブはがくりとうなだれる。
「頼むから困らせないでくれよ……」
「や゛だぁっ、パンや゛ぁだあ゛ー……っ!」
初めて挫折を覚え、肩を落としたまま空を見上げる。
あとどれだけ、続くのだろうか。
青々とした枝葉が茂る挟空を眺めていた、その時――
「ん?」
すぐ頭上の枝に目が留まった。
黒い木の実をつけ、重みでたわんでいる。
ボブは立ち上がり、むんずと掴みたぐり寄せると、
「おおっ、やはりボイベリーだ!」
ギザギザの葉に、黒く小さな粒が沢山くっついている。
ユーリは泣くのを止めて、ぐずぐずと鼻を鳴らしながらボブを見つめた。
ボブは気付かず、その横で実を一つ摘まみ、口に放り込んだ。
舌に乗せた時の皮のほのかな甘み、押しつぶしたら滲み出る酸味、そして後から甘みが追いかけてくる。――ボブの垂れ目が、きゅっと細まった。
「んんーっ、この味この味っ! ボイベリーは春、夏は酸っぱすぎるって言うけれど、やっぱ夏のこの酸味が一番美味いと思うね!」
放り込んでは頷くボブに、ユーリの身体が動いていた。
「あ」
頬に涙の筋を残しながら、口を開いておねだり。
「ん? ユーリも食べたいのか?」
口を開いたまま頷くユーリに、そうかそうか、と笑みを浮かべる。
そして一粒、粒口の中に落としてやった。
口がもごもごと、小さく波打ったその直後、
「――んぎゅっ!?」
「はははっ、ユーリにはまだ酸っぱすぎるか」
瞠った幼い目に新たな潤いを与えながら、くっと呑み込む。
もっと甘い果実のを、とボブが周囲を探し始めたその横で、
「あ」
ユーリは再び口を開き、ねだっていた。
「もしかして、気に入ったのか?」
「あんっ」
「そうかそうか! ユーリもこの味が分かるか!」
目を細め、口を開いたまま頷く姿に、嬉しくなったボブはもう一粒放り込んだ。
「んんーっ、ゆっぱー……いっ」
口を窄める姿が愛らしく、本人もまたそれが楽しいようだ。
二人は不満を忘れ、自然の恵みを口に、ずっと笑い合っていた。