第2話 踊りとその対価
ミルバール領・トラムコ。
ここは元々、ベクスタと呼ばれる小国の中心街であったが、体勢猛威に飲まれて国が消滅。街だけが残った。それ以降、南のグランス国を睨む前線地としての立場を強めている。
とは言え、そこまで大きい街ではない。
西部から娼館の馬車が街に入った、との噂が口づてに広まれば、商業通りから少し離れた宿屋の主人から『そのような行為は……』と釘を刺されてしまう。
しかし、これは女たちには想定の範囲内らしく、
『ここは朝寝るだけだから』
言って、手をヒラヒラと振るだけ。
そしてその言葉通り、彼女らは滅多に宿屋には顔を出さなかった。
トラムコの街並みは、白い石積みの建物と敷きつめられた石畳、と見る目豊かな装いである。
冬から春へ。水が温む気配がしているためか、行き交う人の足もどこか軽やいで見えた。
「ユーリ。あまり根詰めてやりすぎるとダメだよ」
「うん」
宿の中では、ユーリは針仕事に打ちこんでいる。
手にしているのは、古さを残す赤い衣装。――それは生前かねてより『ユーリに授けて欲しい』と頼んでいた、喪ったミラの勝負服であった。
織匠に仕立て直してもらい、最後の仕上げだけをユーリが担う。かつてバーンズばあさんに仕込まれた針の腕は、ここで存分に振る舞われた。
そしてボブも、当時のように傍で静かに書き物をする。ホート・イールの娼館宛てに、無事にトラムコに入った旨を綴る。
やがて、ユーリの集中力が途絶え、小さく息を吐いたタイミングで、
「一区切りついたなら、タルトでも食べに行こうか? 今はボイベリーの季節。甘くて、果肉が柔らか。それがふんだんに乗っているようだ。この地域のは、特に実が大きいみたいだ」
「えっ! 行くっ、それ食べたいっ!」
顔を輝かせるユーリをおぶると、廊下を小走りで抜け、街へと繰り出した。
ユーリは果物が好きなのだが、殊にボイベリーは好物である。薄く甘いシロップを塗った生地の上に、山リンゴや桃の蜜漬け、ボイベリーをたっぷり乗せたタルトを頬ばれば、たちまち顔の皺が真ん中に、きゅっと集まった。
ボブもまた同様に。そして二人して顔を合わせ、笑みを浮かべる。
「おじさんっ、タルト美味しい!」
「うむ、これは美味いな! どうだ、もう一個食べるか?」
「え、いいの?」
「ああ。もちろんだ」
身体を前に寄せると、
「おじさんがもう一個食べたいんだ」
手を口元に立てて小声で続ける。
すると、ユーリはくすくすと笑い、同じように声を潜ませた。
「じゃあ、もう一個食べよっ」
ユーリは徐々に大人びてきているが、口の周りにシロップやベリーの果肉を付けている姿は、まだまだ子供であった。
◇
街を抜け、ユーリの兄がいるパルティーンの国に抜けるには、通行証と料金が必要となる。
どちらも得るに時間を要するため、滞在期間は未だ分からない。それでもユーリとボブは、その地の空気や実りを味わう楽しみを知っているため、苦になることなかった。
そうしている間に春が過ぎ、日差しは初夏の訪れを告げていた。
「――ここの街の連中、シブチンね」
マイヤはシトロンと呼ばれる、この地の名産品、青い柑橘の果汁を搾った水を傾け、不満げに息を吐く。
当初の予定では、この時点で通行料を確保しているはずだったと言う。
「仕方ないわよ。属国じゃなく、ミルバールの一部になったばかりなんだし」
同じ飲み物を手にしながら、娼婦仲間が窘める。
彼女らはここで身を売り、金を得ている。朝帰り、もしくは連れ込み宿で寝食しているので、街に到着してから初めて全員が顔を揃えた。
各々に疲労が滲み、ユーリは不安そうに女たちを眺めている。
それに気付いたマイヤは、ふふっと微笑んで見せた。
「安心なさいユーリ。あたしらはそんなにヤワじゃないよ」
「そうとも。その太っちょのボブさん並に、タフなんだから」
水を向けられ、ボブは恥ずかしげに頭を掻く。
「だけど、時間がかかり過ぎてるし、ボブさんとユーリの通行証を優先する方へシフトすべきかもね」
「そうね。娼婦だと知れ渡っている以上、私たちが得るのは難しいかも」
他の娼婦も同意するように頷く。
ユーリに問うような目を向けられたボブは、ここは敵国だから、と説明した。
「配達屋もよくあるんだよ。建物の配置や道、人の暮らしなどを見て回るから、どこかの探りに見られて通行証が発行されなくなるんだ」
「そうそう。あたしら娼婦は特にさ。聞いてもいないのに、ベッドの中で上機嫌でお喋りするのもいる―― 一昨日なんて『ミルバールの三王子がここに来るそうだ』なんて、ヤバイ情報入れられたんだし」
金と権力は密な関係。金を持つ男を狙う娼婦は、要人やその地の有力者と寝ることもままある。酒と女の蜜は潤滑液となり、男の舌を滑らかさせるのだ、とマイヤは言う。
きょとん、としているユーリであるが、情報は大事なものだと理解出来た。
「通行証を優先して貰えるよう、働きかけるよ」
彼女らは揃って頷き、その日の夜から、金よりも通行証発行に奔走した。
しかし、望めばまるで逆のことが起こる――重大な秘密ほど、人に明かす時の優越感が大きく、それが顕示欲の高い者であれば殊更、女にあれこれと喋ってしまう。
専らの内容は、マイヤが語った〈ミルバールの三王子の来訪〉である。
何でも武闘派の長男・次男と違い、三男はあまり外へと出たがらず、これではいかぬと兄二人が視察との名目で、周辺国を連れ回っているのだと言う。そのため、半ばお忍びである。
「恨みを持つ者がいたら、まず狙われるよなあ……」
領土となったとはいえ、納得ゆかぬ者も多くいるはず。
買い出しに出かけた道中、ばったり遭遇したマイヤから聞かされ、ボブは難しい顔で唸った。
女たちは『小遣い稼ぎに来た派遣娼婦』のまま、引き返す方向で進めている。
『二人なら路銀に困らないからさ、これでユーリの服でも買ってあげなよ。お婆ちゃんに縫ってもらったって服も、今じゃ小さくて着られなくなっているしさ。いつまでも娼館の下女のチュニックじゃ、せっかくのお姫様が台無しだ』
九つを前にしたユーリは、いつしかぐんと背が伸びていた。
しかし、と差し出された金貨袋に難色を示してしてしまう。
『しかし、マイヤさんらは何も……せめて連れ立っての食事くらい……』
ボブが言うと、マイヤは僅かに頬を染めた。
『それは帰ってからの楽しみにするよ』
足早に去って行くマイヤの背に、何か悪いことを言ったのか、と首を傾げたが答えは出ない。
しかし、先に出発の準備を進めた方がいいだろう。ボブは受け取った金を納め、ユーリの衣服を優先に、旅支度を進めるべく商いの通りへと向かった。
◇
その頃――。
ユーリは宿の中で、にんまりと笑みを浮かべていた。
「出来たっ!」
手にするのは、ミラより賜った踊り子の衣装。
赤を基調とした上衣・一枚布で胸元をクロスし、肩を隠す。下衣は膝下で裾を絞る透け布のハーレムパンツだ。股の部分が丸く大胆にくり抜かれ、それを上衣と同色の前垂れと腰布で隠す。
そして、前垂れの右隅には猫の刺繍――国を出た日、ボブに着せて貰った服に刺繍されていた猫と同じもの。ユーリはその絵を、殊に気に入っていた。
目の前に掲げてみると達成感が溢れてくる。
恩師であるミラの一番衣装だったと言うだけあり、見ているだけでも大人の気品が感じられた。
ユーリは着たくてたまらなくなった。
しかしこれは普段着にするものではない、ユーリの善と悪が諍い始める。
「……そうだっ」
試着だ。出来上がったから試着したことにしよう。
そう思うと同時に、ユーリは着ていた服を脱ぎ捨てていた。
幾度となく眺め、触り、針を通してきたものだ。複雑な着方のそれにも苦労せず、あっと言う間に赤い衣を纏う。
「はぁ……」
目線を下げて確かめたユーリは、たまらず恍惚に似た吐息を漏らした。
お腹が出て少し冷えるけれど、内側が熱いくらい火照ってくる。すべすべとして柔らかく、身体を動くたびに心地良い感触が伝わってくる。
踊りたい。
これで踊ってみたい。
これで踊ってみれば、きっとこれまでにない最高の踊りが出来るかもしれない。
ユーリは、うーん、と顎に手をやって考えた。
(ちょっとぐらいなら……いいよね?)
そう思ってからすぐ。ユーリはくすんだローブを羽織り、宿屋を出た。
そこからすぐの路地裏を目指す。建物が並ぶ裏に、ぽっかりと二メートル四方の空き地があるのを見つけ、踊りの練習ならここがいいと見つけていたのだ。
三面が建物の背に隠れ、人が通ることも少ない。空き地の真ん中に立つと、小さく息を吐いて、ローブを脱ぎ落とした。
「……」
解放感に包まれながら、そっと両腕を上げる。
そのまま腰を左右に振って、腕を内から円を描くように横に広げた。
(ミラ姐さんに、この〈艶の舞い〉を――)
この衣装を着た時、まず始めに踊ろうと決めていた。
腰の動きは激しく、小刻みに揺らしながら、時々くいっと強く叩くように持ち上げる。この踊りは腰の動き、全身のしなやかさが大事だ。
ミラより教わったことを思い出すように、ユーリは夢中になって踊った。
腰を揺らし、くるりと反転。
お客さんが正面にいるのなら、お尻を振っていることになる。
(お金と通行証かあ……)
踊りながら考えるのは、街に滞在し続ける理由であった。
本音を言えば、『手に入らなくていいのに』と思っている。
それが手に入ると、兄のいる国に向こうことになる。
そうなるとお姉さんたちの役目が終わり、お別れになってしまう。
そんなのは嫌だ。
特にマイヤ姉さんとは別れるのは嫌だ。
(だけど……)
お姉さんたちが奔走し、疲れ切ったような顔を見てからは思わないようにした。
ユーリは身体をまた正面に向け、腕を揺らし、脚を忙しく動かし続ける。
(おじさんは、ここを出たら、思う存分踊ることが出来るって言ってた……)
それを楽しみにしよう。お姉さんたちにこれ以上、大変な思いをさせたくない。
そうとなれば一日でも早く、お金と通行証と手に入れなければ。
そう思いながら、踊りの一小節部分が終えるポーズを決めたその時、
「ん?」
ふと、視界の端に何かが見えた。
唖然と口を開いたまま、棒立ちになっている黒髪の男の子がそこにいた。
「あ……っ」
「あ……っ」
双方の声が重なる。
ユーリは慌てて身体を抱くような恰好で、身をよじった。
辺りは薄暗闇になっている。しかしそれでも、ハッキリと分かるほど男の子の顔が真っ赤になっていた。ユーリの視線に気付き、男の子はハッと顔を背けた。
足下のローブを拾い上げ、慌てて被るように着ると、タイミングを見計らったかのように男の子が咳払いをした。
「こ、ここで何をされていたのですか……?」
「踊りの、練習」
素っ気ない返事になり、ユーリは少し後悔した。
言い直すことも出来ず、気まずい沈黙が落ちる。何か話さねばと思った矢先、男の子は、あの、と申し訳なさそうに口を開いた。
「す、素敵な踊りでした……」
「あ、ありがとうございます……」
小さく、それでいて折り目正しく頭を下げる。
男の子は目を逸らしながら頬を掻き、それからまた沈黙が落ちた。
どうしてだろうか。不思議と嫌な沈黙には感じなかった。
「あの……街に足止めされて、困っているのでしょうか?」
「え?」
「い、いえ、何かそのような感じがしたので……」
あっ、とユーリは手を口にやった。
考えながら踊っていたせいで、相手に伝わってしまっていたのだ。
ミラ姐さんに『こら』と叱られてしまう。
しょんぼりと肩を落としたのを見て、なるほど、と思ったのだろう。少年は腰に手をやって、白い袋を持ち上げていた。
「あ、あの、よかったらこれを役立ててください……!」
「え……!?」
「あ、兄に言われているのです。踊り子を相手にしたら、お金を払えって」
言われて、ユーリは思い出した。
(確か、シンの時も対価を貰わなきゃって……)
それでモメた――もとい、事なきを得たのだ。
なるほど、そう言うものか。
受け取ろうと近づいてゆく途中、ユーリは一つ疑問に思っていたことを訊ねることにした。
「ねぇ、“これ”って何のことか分かる?」
「え゛っ!?」
手を筒状に、小指を立てて斜めに振り動かす。
男の子の顔は更に赤くなり、あうあう、と喘ぎ始めてしまう。
じっと覗き込んで見れば、大きめの目が特徴的で、整った顔立ちをしている。狼狽する顔が合わさると『何だか可愛い』とユーリは思った。
「ぼ、僕はこれにて……!」
「あっ!」
男の子は、袋を投げ捨てるように手放し、踵を返して駆け戻ってしまった。
その速さたるや、まるで突風のよう。ちょっと、と伸ばした手は、空しく宙を掻いた。
薄暗闇の中、この恰好で追いかけるわけにゆかない。
ユーリは残された袋を拾い上げると、じゃらり、と結構な重い音がする。
流石に全部貰うわけにもゆかないけれど、置いてゆくと誰かに持ってゆかれてしまう。どうしたものかと思ったものの、ここはありがたく貰っておくことにした。
(あの男の子、誰なんだろう?)
先ほどまで踊っていたからか胸が、どっ……どっ……と音を立て続けている。




