第8話 継承
初雪が舞ったのは、それから数日後のこと。
積もるのかと期待に胸躍らせたユーリであったが、ここホート・イール一帯は滅多に積もらないと知り、がっくりと肩を落とす。
シンがユーリを“購入”しようとした事件は、『踊り子にチップを渡そうとした』ことで落着し、改めて一家から謝罪を受けて片付いた。――はずであった。
「ボブさん、ボブさんっ!」
年末を迎えたある日、ボブは店の裏でゴミ捨て用の穴を頼まれた時である。血相を変え、娼館に駆け込むパールの姿があった。
遠出の身恰好をし、背には配達する荷物が乗せられている。
「い、いったいどうしたのですか!」
「た、たた、大変だ!」
息も絶え絶えに、焦りで肝心な言葉が出てこないようだ。
何ごとかとマイヤたちも現れ、深呼吸をして息を整えてから再び口を開いた。
「ユーリちゃんの故郷は、グランス国だったよなっ?」
「え、ええ」
パールにも改めてユーリの事情を伝えている。
グランスの名が告げられボブは、まさか、と背中に冷たいものを感じた。
「さっち、その兵と鉢合わせしたんだよ! 山の向こうにも兵士が待ち構えているらしくてさ、慌てて引き返してきたんだ!」
ネズミの配達屋。間違いが多く、ちょこまか忙しないことで有名だ。追い越された兵士は訝しんだが、知る者が事情を話してくれたため、事なきを得て戻ってこられたと言う。
どうしてグランスの兵が来たのか。
その理由・目的は想像に難くない。〈舞姫〉の存在ことユーリの容姿が、外に漏れたのだとボブは直感した。
「へ、兵士はどこまで?」
「今はタブリズの山を下り始めた頃だろう」
それは、ボブとユーリが降りてきた山である。
距離があるため、逃げることは出来そうだ。
「ユーリを――」
言いかけ、口を噤んだ。
視線の先・廊下の向こうより大柄の女性が姿を現したのだ。
「ボブさん。私の部屋へ」
今はそれどころでは。
そう思ったが、彼女の眼差しから目的を感じ、黙って従っていた。
◇
ボブが部屋に入ると、床下が口を広げていた。
すぐに察し、そこに身を投じたものの、もう一人やって来るであろうと思っていた者が来ないまま、蓋が閉じられようとした。
自分だけなのか? 間際、訊ねるような目でマザー・シンクを見る。
「大丈夫。あの子もちゃんと隠してあるさ」
その言葉だけが頼りであった。
真っ暗な床下の中。そこは以外にも広く、身体を入れ替えるほどの余裕がある。
大柄なマザー・シンク用のシェルターだろうか、などと考える余裕が、まだあった。
しかしそれから一刻ほど。受付の方から物々しい声が聞こえ、ボブは身をぐっと縮ませた。
『何だいあんたら! 鎧を着て来たってサービスはないよ!』
マイヤの啖呵。
『――ここに、グランス国・第三王女が匿われていると聞いたぞ!』
『ぐら? 何だいそりゃあ? 確かにうちの女たちはみなお姫様だけどさ』
『しらばっくれるな!』
おい、と呼びかける声がし、マイヤが止め入ろうとする声が続く。
自然なやり取りで、なかなか役者だな。とボブは思った。
しかし兵士たちに命令が下るや、一斉に家捜しが始まったようだ。他の女たちも集まり、ロビーでは怒声と罵りが飛び交った。
『ここに配達用のカバンがありました!』
『やはり――近くにデブが居るはずだ!』
『おいっ、そりゃあ俺んだぞ! 人のモンに手つけんじゃねえ!』
パールがすかさず口を入れる。
先に打ち合わせしていたのだろうか。何も違和感を抱かせないやり取りに、兵士たちに疑心が生まれたことが伝わってきた。
『デブだ! デブがいるはずだ!』
指示を出す兵士にも、やや焦りの色が滲んでいるようだ。
するとそこに半ば呆れ口で、
『あらまあ。そんなに喧々しなくても、会わせてやりますさ』
『何?』
『デブを探しているんでしょう? 部屋にいますさ』
ボブは双眸を開いていた。
こちらに、と言われ足音が近づいてくる。
飛び出し、逃げるにも時間がない。暗闇の中でうずくまる様は、まさに袋のネズミ。しかし己は猫の窮鼠すら噛めない、万事休すの状態である。
『ほら、これでさ――』
すぐ近くでマザー・シンクの声がし、ボブはいっそう身を固くした。
『? いないではないか』
『いるではありませんか。ほら、そこにさ』
『猫ではないか。ただ太った――』
『デブを探していたのでさ?』
兵士が驚く声がする。『おのれ、謀ったな!』
『何を仰いますのさ。あの猫の名は〈デブ〉、界隈でも『人より贅沢な猫』として有名な高級猫でさ。貴方様はそれを探していたんでしょう?』
ボブは目を瞠っていた。
真上で『ナー』と鳴いた猫は、まさかそのような名前だったのか。
兵士も同じことを思ったに違いない。
歯噛みした声を残し、廊下を忌々しく踏み鳴らしながら、店の奥に消えてゆくのが分かった。
(よもや、猫に救われるとは……)
きっとその猫と同じ体勢でいるかと思うと、ボブは少し情けなくなってしまう。
◇
一方。ユーリは真っ暗な部屋の中、ベッドの上に寝かされていた。
『悪い人が来るの』
言い聞かすように、隔離棟の二階・奥の一室につれて来られた。
お姉さんに命じられるまま着替えたけれど、顔は目抜きされた覆面、身体は厚手のシャツ、指先・足先は手袋とソックスで隠す――これに布団を被ると、頭がくらくらしそうなほど暑い。
『じっと天井を見つめていればいいわ』
姉さんに頬を揉まれ、そして部屋を出た。
真っ暗でよく分からないけれど、炭粉のようなものを塗られたのかもしれない。触ってみると、指先にさらさらとしたものが感じられた。
それからどれだけ時間が経っただろう。
ユーリは布団を持ち上げ、空気を送り込んだその時、扉の向こう、棟の向こうがにわかに騒がしくなったことに気づいた。
ここはいけません、と悲鳴のような声がする。
(怖い……)
ユーリは布団の中で丸くなり、耳を塞ぐ。
扉の向こうでは『赤髪の幼子がいるはずだ!』と怒声がしている。
――大丈夫よ
え、と身体を起こした。
真っ暗な部屋の中に、ベッドが軋む。
――あなたはそこで、じっとしていなさい
ミラ姐さんだ。
ユーリは嬉しくなって布団を跳ね上げた。
しかし直後、ユーリは首を傾げた。
(あれ?)
ミラがいるのは三階である。
ここは二階……なのに、廊下を渡り、本館・娼館側の二つ向こうの部屋に気配がするのだ。
――最後に見せてあげる
直後、その部屋を叩く音がした。
『おいっ! ここが怪しいぞ!』
『お止め下さいっ! そこは――きゃあっ!?』
ばん、と鈍い音。
ユーリはベッドから飛び出し、扉に張り付いた。小さなスリットがあり、そこから廊下を覗くことができる。
見えたのは、頬を抑えうずくまるお姉さん・カーラと、ミラ姐さんがいるであろう、部屋の扉を叩く鎧姿。もう一人、後ろに同じ者がいる。
あっ、とユーリは口を押さえた。
(あの人たち私の、国の……!)
鳥が描かれた茶色の胴鎧。紛れもなくグランス国の兵装だ、と記憶が告げる。
そしてそれは、我が身に起こったことを思い出させ、ユーリは眼を震わせた。
――大丈夫。すべてを思い出し、それを炎にくべなさい
ミラ姐さんに言われた直後、突然、その部屋の扉が開いた。
頭巾に顔を隠す覆面。目ぬきされた箇所以外、すべてを隠す恰好だ。ユーリは『私と同じ格好だ』とまず思う。
そして背が高く、頭巾から零れ出た赤い髪に、口を開いたまま固まってしまった。
「こんな所まで来てくれるなんて」
掠れて弱々しいが、芯の通った凛とした声だった。
病人とは思えないほど、しゃなりと色っぽく身をよじる。甘い仕草で寄りかかれると、兵士は顔をしかめながらも、だらしなく鼻を伸ばしてしまっていた。
「あ、赤髪ではあるが、お前は大人――ま、まぁ、その顔を見せてみろ」
言うと、ミラは手袋を外し、覆面をまくり上げる。
兵士は瞬間、「ぎゃあっ!?」と情けない悲鳴を発した。ミラを突き飛ばし、反対側の扉によりかかりながら、わなわなと震えた。
「か、顔が腐った……ま、まま、まさかお前……!」
「ええ。ここは〈黒膚病〉にかかった女が収容される区画――嬉しいわあ、こんな女でも抱きに来てくれるなんて。久しぶりだからサービスしちゃおうかしら」
「ふ、触れられっ、触れられ――うわあああっ!?」
寄りかかった扉が開かれたのだろう。
兵士は壁に呑み込まれるように倒れると、悲鳴を上げ続けて手足をばたつかせた。
同じ病を患ったお姉さんが、兵士の顔を撫でたりしているのだ、とユーリは直感した。顔を押さえながら、這々の体で這うように出てきた兵士は、仲間に助けを求め手を伸ばした。
「お、女どもが――っ、ね、熱湯をっ! 早く熱湯をォォォっ!」
「――こ、来ないでっ、来ないでくださいぃ!?」
仲間の兵士は剣を抜き、切っ先を突きつける。
しかし、助けを求める方は足を止めない。助けを求める仲間の手が寸前まで、兵士は顔を引きつらせ、半狂乱に剣を振り上げた。鮮血が高くまで噴き上がった。
(血……)
赤い飛沫が、封じていた記憶の扉を叩く。
仲間を斬った兵士はがたがたと震え、狂ったように顔を歪めている。
次はお前だ。そう言わんばかりに、ミラが前に歩み出た。
(いけない)
ユーリが声をあげようとしたが、もう遅かった。
狂乱した兵士の剣が、悲鳴のような叫びと共に振られていたのである。
悲鳴も何も無い。鈍い音がし、師の上半身が、剣が振り抜かれた方向に傾いた。
ユーリは目の前の出来事が信じられなかった。
汚れたチュニックシャツには、太く赤黒い筋が走っている。
反転した所で踏み留まり、相手に背を向ける。ミラは覆面を脱ぎ棄て、ユーリのいる部屋を見つめた。
(みら、姐さん……)
師は微笑んでいた。斬られたことが、まるで嘘であるかのように。
踏み留まった足を踏ん張り、真っ直ぐ伸ばす。そして両手を真っ直ぐ天にかざし、黒染まった顔を仰いだ。
――これが〈艶の舞い〉の最後の締めよ
それは〈舞姫〉の最後の舞い、そして最後の授業であった。