第6話 思わせぶりな態度が招いたもの……
ボブが働く〈パールの配達屋〉の中では、ささやかな祝いがされていた。
間違いが多いけど早く届けられる、ネズミの配達人。
遅いけど大荷物を運べて確実な、ロバの配達人。
一長一短の配達人が話題となり、この日、一日の最高売り上げを十年ぶりに更新したのだった。
二人の前には大きな手羽が二本。炭鉢の上に置かれ、滴り落ちた油が炙られじゅうじゅうと、堪らなく美味しそうな音と香りをはじけさせている。
「そう言えば、そこの〈ダワー・ハスン〉のせがれ。娼館の若娘に心抜かれたらしいな」
恋の病に効く薬はないようだ、と楽しげに言った。
「若娘……?」
「あのユーリちゃんだよ。魔性の笑みを向けられ、熱に浮かされたようになってんだと」
「な、何だってえ!?」
父親・ハスン曰く――薬代を受け取らずに帰ってきた息子を叱ったのだが、ずっと上の空。
どうしたのかと聞いても『踊りで自己紹介された』と言うだけ。その子が金を支払いに店に現れた時、彼女の佇まいに父親は懼れすら抱いた、と話す。
「読みと算盤が出来るほどの教養の高さ。そしてあの気品は、元々どこかの姫君ではないか――ってな。賢そうな子だと思っていたけれど、いやはや」
「それは僕が教えたのですが……」
大げさに腕を組むパールの前で、ボブは危機感を抱いた。
もしその噂をユーリの故郷・グランスを知る者が聞けば、察するのではないか。
「しっかし、踊りで自己紹介出来るの二人目か? あの娼館、何か呼ぶものがあるのかねえ」
「〈舞姫〉と呼ばれる人ですよね」
「ああ。ごく一部の金持ちしか抱けない、極上の娼婦だったらしくてなあ」
心に吐息を吹きかけられて、正気を保ってられる者はいない。
それはいつしか〈舞姫〉と呼ばれるようになり、滅多に姿を現さないことから『本当に存在するのか』と疑われる、幻の存在になっていた言う。
「だけど、ある日から本当に姿を見せず、もしかしたら〈黒腐病〉にかかったんじゃないか、て噂が流れてなあ……」
「こ、〈黒腐病〉!?」
ボブは驚愕し、思わず声が裏返った。
身体を腐らせてゆく不治の病。主に衛生環境が悪い場所、特に娼婦にかかることが多いことから、〈ふしだら病〉や〈天罰病〉と揶揄される。
感染者はまるで生ける屍の如く、肉が腐り落ちる苦痛を味わい続けねばならない。
触れただけで感染すると言われ、人知れず地中に埋められることも少なくなかった。
「前の領主がそれで死んだんだけどさ、発症が知られる前、〈舞姫〉を抱いたとか吹聴し回っていたらしくてさあ……」
「まさか……! な、何かそれが裏付けることが?」
「元より存在があやふやだし、娼館は『入るは生娘、出てゆくは棺桶』なことが多いんだが――あそこは、やたらと領主からの待遇がいいんだ」
正面に対峙するボブの肝が冷える。
領主からの覚えがいい。類稀なる〈舞姫〉に黒腐病を感染させたとなれば、かなりの痛み処となるだろう。
そのような者がユーリの側に、いや……
「娼館がお嬢ちゃんを預かりたがったのは、誰かが〈舞姫〉の素質を知っていたからかもなぁ」
「やはり、そう思いますよね」
もしやガレス伯爵は、最初からユーリを引き合わせるために。
いやそれよりも。〈舞姫〉の復活が話題となれば、人から人へ、その容姿などこと細かに知れ渡るに違いない。
(一度、確かめに行かねば)
ボブは焼き上がった手羽をあっという間に平らげると、すっくと立ち上がっていた。
◇
以前は遠く感じたその場所も、道が分かればほんの近くであった。
ボブが訪ねるとそこは、高級娼館かと思えないほど大きく賑わっていた。
「〈舞姫〉が復活だって?」
「生まれ変わったって、本当か?」
などと、受付に詰め寄る者が殆どである。
見せろ見せろ、出せや出せや。女を買えばその内に見かけるかもと、娼婦たちはフル回転で男の接待を続けているようだ。
それを掻き分け「あの……」とボブが訊ねれば、受付にいた黒髪の女・アイリーンが、あっと口を開いて店の奥に消えた。
そして彼女と入れ替わるように、ぬっと大柄な女が姿を現す。
「これはこれは。私がこの娼館の主・マザー・シンクでございますさ」
「あなたが――ユーリの面倒を見て頂き、ありがとうございます。少しお尋ねしたいことが」
ボブが言い終わるよりも前に、マザー・シンクはぶ厚い顎肉をしゃくった。
彼女が出てきた店の奥。赤を基調とした煌びやかな調度品が並ぶ部屋であった。いかにも高級な毛皮が敷かれたソファーの上に、丸々と太った猫が一匹、どっしりと伏せたまま来訪者を見つめている。
ボブはその横にちょこんと座ると、猫は伏せたまま尾をムチのようにしならせた。
太った男女と猫一匹。息が詰まりそうな中、マザー・シンクがいよいよ用件を切り出す。
「ここに来られた理由は知っているさ」
ユーリのことだろう、と目を向けられ、ボブは小さく頷いた。
「さる方より頼まれたのさ。あの子に〈舞姫〉のすべてを注いで欲しいとね」
「やはり……」
ユーリが〈舞姫〉として昇華できるよう、ガレス伯爵が手を回してくれたのだろう。
そう得心すると、マザー・シンクは気鬱なため息を吐いた。
「黙っていたこと、強引に引き離したことを謝るさ」
「いえ」
ボブは首を振った。
「店の様子からユーリを見世物にしようとしないことが伝わってきました。驚きはしたものの、やはりここに預けてよかったと思っております」
これにマザー・シンクの顔が綻んだ。
受付では知らぬ存ぜぬ、娼婦たちはそれを誤魔化すように働いている。庇護されていると一目で分かり、ボブは逆に安心したのである。
「私はあの子を見た時、ミラより化けると確信したさ」
「ミラ……?」
「初代〈舞姫〉さ。あの子が店に来たのは十七歳。十九で踊りの才があると分かり、そこから踊りを仕込み、二十四歳で舞台を踏んだのさ。――だけど始まりが遅かった」
月下美人は一夜のみ美しい花を咲かせる。
ミラもまたそれと同様、“国の宝”とまで呼ばれるまでに到るも、才能の開花から僅か三年、不治の病を患ってしまう。
相手はやはり当時の領主。自らの手でそれを喪わせてしまうことを恐れ、口止めするかのように、これ以上とない支援を娼館に与えた。そのお陰でホート・イールで一番まで上り詰められた。
マザー・シンクはそう語った。
「後を継いだ息子は、“父の失態”で終わらせたいだろうさ」
ボブはすぐに意味を理解していた。
――ユーリを第二の〈舞姫〉に仕立て上げれば、支援が切れなくなる
しかしそれと同時に、あることが頭に浮かび上がった。
「そのミラと言う〈舞姫〉は、もしかして……」
「もう、長くないさ……」
あの子から力を貰って立ち上がっているけれど、いつ膝をついてもおかしくない状態。この冬越えられても、夏までは無理であろう。
ミラもまたそれを察しているらしい。踊りの基礎が出来、表情まで作れるようになった。そろそろ役目を終えたい、と吐露している。そう語るマザー・シンクの顔は、重く沈んでいた。
つかの間の沈黙の後、マザー・シンクは話題を変えるべく「そういえば」とボブの顔を覗き込んだ。
「あんたは運び屋だってさ?」
「ええ。〈パールの配達屋〉で厄介になっています」
「なら、こっちに移ってはどうさ? 娼館も何かと運ぶものが多い。ユーリ目当ての客も増えているしさ」
女ばかりでは守るのにも限界がある。
その申し出を断る理由がないボブは、「そうさせてください」と、二つ返事で受け入れていた。
◇
ボブは翌日から〈パールの配達屋・臨時支店〉として娼館に身を置いた。
何の相談もなく決めたことを申し訳なく、時間を見つけてパールの下へ謝罪に向かったものの、当人は気持ちのいい笑顔で『いいってことよ!』と親指を立てて見せるだけ。
それもそのはず。“出張所”として構えているため、すべての儲けは彼の店のものとなるのだ。更にこの〈踊る猫〉の娼館のみならず、〈ランス通り〉を初めとした一帯の配達を引き受けるので、激励はあっても文句を言う理由が何一つない。
ボブは縦にも横にも大きな身体に驚かれつつ、周りの期待に応えられるよう真摯に働き続けた。
「ボブさん。いつも大荷物背負ってるけど、重くないのかい……?」
身体よりも幅広のリュックを背負うボブに、マイヤは驚き顔で訊ねる。
その姿は通りでも有名となり、限界はどこまでかと計ろうとする者まで現れるほどだ。
ボブは、大丈夫、とリュックを小さく揺すった。
「ええ。リュック底が抜けそうな物、これより大きな物は荷車を使う、との基準にしてあるので」
「はえー、それで」
元より力があるため、重いと感じるものは少ない。
マイヤは感心したように、ボブの身体を興味しげしげと眺めた。
「ボブさんみたいな人がいるとなると、デブへの見方も変えなきゃいけないね」
「ははは……」
苦笑しながら店を出ようとしたその時、開店を待たずして入る中年男とばったり対面する。
白いターバンに同色の装束。真冬にそぐわぬ真っ黒な日焼け肌をし、口元には立派な黒髭が生えていた。
男はどけとばかりに下唇を突き出すも、
「すみません……」
ボブの身体は横向けても幅を取ってしまう。男は仕方なく、鼻を鳴らしながら脇を抜けるしかなかった。
しかし今度は、マイヤが「まだ店は開けていないよ」と男を停止させようとしたその時、
『――ああ、いいのさ』
店の奥からマザー・シンクが姿を現し、そのまま腰低く男を店の奥へと促した。
「誰なんだろうね。マザーがあんな丁寧に応対するの、初めて見たよ」
「慇懃だったし、有力者とか?」
「いやー? 見たことないね。服装はこの辺りを取り仕切る部族っぽいけど、どっかの若族長かな」
二人が首を傾げ合うのを知らず、そこにバケツを持ったユーリがやって来た。
娼婦たちの部屋着である薄いピンクのチュニック姿、櫛で削られた髪を後ろで束ねている。
ボブの姿を確かめるなり、顔いっぱいの笑みを浮かべた。
「おじさんっ、これからお仕事?」
「ああそうさ。ユーリは今日、踊りの稽古日だったかな?」
「うんっ!」
今お仕事が終わったの、と今にも踊り出しそうな様子で答える。
「そうかそうかっ」
ボブは何度も頷き、頭を撫でてやった。
そろそろ出発しなければ。ボブは別れを惜しむユーリに謝りながら、再び玄関を向いたまさにその時、ぶつからんとする勢いで店に飛び込んで来る者の姿があった。
「あ――!」
金髪のくりっとした目が可愛らしい少年だった。
走ってきたのか汗だくで、ユーリを見るなりその場に立ち尽くしてしまう。
「シン。どうしたの?」
「あっ! そ、その……」
少年の顔に朱が増した。
もしやこの子が、とボブが思ったすぐのこと――シンは肩からかけたカバンからを開き、中から重そうな金貨袋を取り出すと、それをユーリに向けて突き出していたのである。
「ゆ、ゆゆ、ユーリさんを、買わせてください……!」
その瞬間、全員がその場で喫驚してしまっていた。